見出し画像

#21 悪しき心を賢しく省みず

高校在職時、退職を迎える年度の最後の学校だよりに書いた原稿を引っ張り出してみた。

コロナ禍に見舞われる前年度。

高校教師として、校長として最後の修学旅行だった。

京都市内巡視中に立ち寄った「お西さん」(浄土真宗・西本願寺)のイベントで説法を聞く機会を得て、思うところあって書いたものだ。

■悪しき心を賢しく省みず

あしきこころをさかしくかえりみず。

親鸞聖人の教えです。

人は悩み苦しみ、心が追い詰められると自分で思ってもいなかった振る舞いをしてしまうことがあります。

「ダメな自分」「ダメな親」「ダメな教師」と自分を責めることがあります。
原因を他者に転嫁することもあります。

そんなことが何度もありました。

冷静さを欠く反省や憎悪に満ちた批判へ向かうと心が貧しくなります。
心が寂しくなります。

反省は大切ですが、何事も過ぎると良いものは生まれません。

「小賢(こざか)しく独善的な反省などするな」
「自分の(後ろ向きな)心を捨てよ」と、親鸞は言っているのでしょう。

「ありのままの自分」を受け入れたうえで、前向きで真っ直ぐな心持ちでありたいですよね。

でも、それが難しいから私たちは悩み苦しむのでしょう。

私はこれまでに「自ら問いを立てよ。自分と向き合え」と何度も話してきました。

しかし、それが過剰になると自分の心を追い詰めてしまうことがあるのだと思い至りました。

私は決して信心深い人間ではありません。
悟りを開いたわけでもありません。

昔を思い出して、親鸞の言葉が腑に落ちたのです。

■私の小さくて大きな物語

人との交わりが極端に苦手な子どもでした。
大人と接すると声が一切出せなかったのです。

「こんな自分でごめんなさい」と責める日々が幼少期から小学校4年生まで続きました。

5年生の時に出会った担任の先生の言葉に救われました。

「今は話せなくてもいいよ。読書に親しめ」

人生の転換点でした。

文学には人の生き方が描かれています。

どんな人にも、自分ならではの物語があります。

退職して新たな道を歩み出そうとしている今、恩をいただいた方の言葉の重みを改めて噛みしめています。

50年の時を経て、恩師の言葉と親鸞の言葉が線として繋がりました。

「今は話せなくていいよ」

「悪しき心をさかしく省みず」

自分の物語に新たな意味が加わりました。

「こうあるべき」と理想を描いても、なかなかそうなれない自分がいます。

小さなことに悩み、自分の度量の狭さに嫌気がさすこともあります。

本校のピアサポート研修は「弱さが絆」がキーワードのひとつになっています。

本当の自分は、うずくまってしまうような弱さや痛みの中に息づいているのかもしれません。

それでいいのです。

さかしく省みないことです。

大丈夫、人は変われます。