#42 選んだ道を正解にしたい
今週は新入生と在学生向けのガイダンス週間だった。
いくつかの説明会で同じ話を何度もした。
新入生には、私がチンパンジーであることを悟られないよう十分配慮して丁寧に平易に話したつもりだ。
そうじゃないと、私自身、何を言っているかわからなくなるからだ。
「ことば合わせ=こころ合わせ」をするために、可能な限り横文字(外来語)は使わないようにしている。
そうしないと、コンセンサスが得られず、学生も物事のプライオリティに戸惑い、インセンティブもモチベーションも生まれないことになるので、場面に応じてフレキシブルに・・・・
いや、なに言ってるかわかんないな。
とにかく、私の正体(チンパンジー)については、2~4年生たちへ口止めしておけば完璧だ。
サル知恵をバカにしてはいけない。
ガイダンス終了後、教職課程の学生が相談に乗ってほしいと言ってきた。
ちょうど私も学生に相談したいところだった。
どうやったら素晴らしい講義ができるか聞いてみたかったのだ。
悩みの波長が合っているじゃないか。
教職課程や教員採用試験の勉強が手に付かなくて悩んでいるという。
やればやるほど、できないことが多いことに気付いて自信を失いかけているようだ。
私は、そもそも自信など持ち合わせていない人間なので、失うものがない。
それだけは自信をもって言える。
「勉強」「試験」と名のつくものには、正しい学び方や攻略法がある。
勉強や試験に関しては、失敗と挫折の専門家である私が言うのだから間違いない。
科目を履修して、なおかつ単位を修得するためには、どうしたって難解なことや覚えなければいけないことがある。
さらに、思考を巡らせ解を導き出さなければならないことの連続だ。
また、「試験対応能力(テクニック)は学力と別物だ!」と主張しても、入試だろうが資格試験・昇任試験だろうが、基準点を取らないことには次なる目標(目的達成の道しるべ)を設定できないし、目的(ゴール)にたどり着けない。
前回触れた人間の脳や認知構造についてしっかり理解する必要がある。
私も「思考の誤作動」はしょっちゅう起きている。
戦術・戦略を明確にするためには、言語化・可視化することが重要になる。
試験対策なら、データを収集し分析し、出題の傾向と対策について論理的に戦略を練るよう思考する(頭を使う)。
未知の事柄に対して筋道を立てて推測し、論理的に妥当な結論を導き出す力が必要になる。
いま正に求められている力じゃないだろうか。
それを学校の教師や塾・予備校の講師にすべてを委ねるのではなく、受験者自らがそれをやればいいということにならないだろうか。
教員採用試験はほとんどの自治体がマークシート方式で、5肢択一式と多肢選択式で占められている。
実際の試験では、それらしい説明文や混乱を招く選択肢がちりばめられているが、正しい知識と推論する力を駆使すれば正解を得ることができる。
「教育」は、何かを成し遂げようとする確率を高める行為だとも言える。
正しい勉強法や、やってはいけない勉強法をしっかりと押さえて取り組めばいい。
言うは易し、行うは難し。
件の学生とは、2年ほど授業や課外講座で付き合ってきたので、本来的に力があることは分かっている。
人間的にも誠実だし、伸びしろは十分にある。
きっと、私よりもいい教師になると信じている。
学習環境の整備の仕方に問題があること、習慣・ルーティーンにも問題があることを指摘した。
時間がないことを言い訳にせず、「時間はつくるもの」ということを自覚する必要がある。
チンパンジーなんぞに指摘されたくないと思っているかもしれない。
私は大学生に手取り足取り、具体的に指示を出したり教えるつもりはない。
ヒントを得たら自分で考え、模索し、試行し、自分のやり方を確立してくれるよう、ちょっと背中を押すだけだ。
人生は「選択」の連続だ。
私の人生は失敗の連続だ。
それでも成功の精度は高まった‥‥と思いたい。
効果が上がらないから諦めるとか、志を捨てて別な道へ進むと判断するのは早計である。
多くの場合、それぞれの中に宿っている可能性が、誰かの手によって眠らされたり、潰されたりしていることが多いと感じる。
眠っているなら起こせばいい!
つぶれているなら叩いて成形するか膨らませるかして修復すればいい。
自分が選んだものを「正解」にするのが人生じゃないかと再度話した。
「自分の選択」を積み上げることで自分の人生が形成されていくと考えてほしいのである。
メモを取っていた学生が顔を上げ、私の目を見つめながら「おおー!センセー、たまにはいい話しますね」という表情をした。
私だって、いつもふざけている訳ではない。
つい口を滑らせていいことを言うことだってある。
私は、可能な限り個々の特性を見極めるよう努めている。
若いうちは、悶々としながら「ほんとうの自分とは?」と考えながら自分らしさを求めようとする。
「自分探しの旅」は少年期にやっておくべきであって、ある程度オトナになったら、自分を探すよりも「自分をつくる」と考えればいいと思うのだ。
第三者の私にできることは、彼が「外部志向型」か「内部志向型」かという見立てをすることである。
最近の学生は、総じて外部志向型ではないかと感じている。
いや、これは日本人の特質なのかもしれない。
そういう意味では若い頃の私もそうだったかもしれない。
グローバル(地球規模)でインクルーシブ(包摂的)な時代だ。
こんなところで日の丸を背負う必要はない。
外部志向型とは、自分の外側にある要素に影響を受けて、生活が外的要因によってコントロールされている状態をいう。
これに慣らされると、重要な意思決定をする場面で外部の力や他者の意見に左右され、主体性が希薄になっていく。
うまく作用すればいいけれど、うまくいかないと、原因や責任を外(他者)へ求める傾向が強く現れる。
その逆が内部志向型ということになる。
内部志向型は、自分の失敗や物事が上手くいかない原因の多くは自分の責任だということを認識する力がある。
立ち直る能力も他人任せではなく、自分の中に見出そうとする。
しかし、これがベストかというと必ずしもそうではない。
内部型は理想的に思えるが、その意志や個性の強さゆえ、ときに独善、偏狭、他者への共感・感受性の欠如、不寛容、異なる属性の排除・・・・といった行動傾向が現れてくる。
「デキる人ほど、デキない人のことがわからない」というのに似ているかもしれない。
しまいには「なんでできないんだよ!」とキレて攻撃的になる。
高校でクラス担任をしていた頃は、保護者面談があったので、どんな子育ての「物語」を紡いできたかをよく聞き出したりもした。
子育てに絶対解はないが、やってはいけないことはあると考えている。
本来、子ども自身が選択、意思決定しなければならない場面で、親が決めてしまうということがある。
失敗させたくない「親心」
「子どもがすべき“経験”を親が肩代わりしていませんか?」と問うことが何度もあった。
自ら発した問いは、当然、自分の子育てにも跳ね返ってきた。
思い出すと胸が痛くなることもある。
でも、失敗を失敗で終わらせないために、親として選んだ道を「正解」にする努力をしてきた。
当然、妻の力が大きかった。
子の「育て直し」、親の「育ち直し」があったからこそ今があるのだろう。
私は3人の息子たちに育てられたようなものだ。
そう気付いたのは、歳を重ね、高校教師も終盤に入ってからだった。
あんなことや、こんなことがあったからこそ今がある。
そう、「#21 悪しき心を賢しく省みず」だ。