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#179 子どもを呪う言葉・救う言葉

昨日、教育心理に関する講義をした。

事例を紹介すればするほど、教職を志しているが学生たちは不安になり「果たして自分に教師は勤まるのだろうか?」とビビリ始めている。

私は学生たちに本音を伝えた。

「恐れることはない。
誰しも最初から知識や技術があるわけじゃない。
経験を積み重ねていくしかないんだよ。
そんなことより、チンパンジーのような私に大学教授は勤まるのだろうか?そのことのほうが、よっぽど深刻かつ重要な喫緊の課題だろ」


高校勤務時に、いろいろとお世話になった臨床心理士の先生がいる。

警察、家裁、少年院等に関係する青少犯罪・成人犯罪の心理分析やカウンセリングをされていたのだが、現在の中心は大学教授として講義と講演会、各種事件に関する取材の対応・・・・と、超多忙な方なので、しばらく合っていない。

彼と話していて子どもの「育ち」の重要性を痛感したことがあった。

高校に勤務していた頃、犯罪や素人には手の付けにくい複雑で困難な事案は、専門家へ繋げることが多かった。

そういう場合、学校・教師にできることは少ないけれど、未然防止として様々な働きかけはできる。

問題がこじれる前にやっておくべきことはいろいろある。

子どもたちへの「言葉がけ」だ。

いかに質の高い、純度の高い言葉、心に響く言葉で伝えるか。

そうした知識や技術を教師間で共有するだけでなく、PTAや地域にも呼びかけて、できるだけ多くの方々に知ってもらおうと思い、PTA主催にして私や外部講師による講演会をやったことがあった。

『子どもを呪う言葉・救う言葉』の序章には、
「よかれと思って」は親の自己満足と書かれている。

「親」という語を「教師」「校長」や「社長」「上司」などに置き換えてもいいのではないかと思う。

親や第三者が思う「よかれ」は必ずしもいいとは限らない。

身近にいる人は、距離が近い分、近視眼的になりがちだ。

自分の成功体験を押しつける場合もある。

経験は重要だが、他者に当てはめたとき再現性に乏し場合がある。

人間の中に潜んでいる確証バイアスは、PCやスマホのようにキャッシュとしてどんどん溜まっていき、時間経過とともに陳腐化してく。

しかも、人間は自分にとって都合のいい情報ばかりを無意識的に集めてしまうものだ。

自分の足下を冷静に見つめることが必要になる。

「頑張って」の言葉で意欲が減退する子もいる。
「勉強しなさい」が信頼関係を破壊し、言われれば言われるほどやりたくなくなることがある。
「競争に負けたら終わり」ではない。すべでは失敗や負けがスタートだ。

子どもとしっかり向き合っているかどうかだろう。

とことん向き合うことができるのは親・養育者だ。

学校の先生に預けっぱなしという場合もある。
でも、最後の砦は親・養育者だ。

講演会の際、シングルマザーの方から意見をいただいたことがある。

「私は働きづめで子どもと対話する時間が持てません。
学校の先生を信頼しお任せするしかないのですが・・・・」

「もちろん一日の多くの時間は学校にいますから私たち教師は責任を持つ必要があります。
ご家庭で2、3分の会話はできますよね?
ほんの一言だっていいんです。
そこに「ぬくもり」や「こころ」があればいいんじゃないですか?」

そこの息子、なかなか手がかかり、やんちゃばかりして “ ヤバイ奴 ” という扱いをされてきたけれど、今や社会人として立派に働き、いいお嫁さんをもらい、子煩悩かつお母さん孝行もしている。

久々にお母さんにお会いしたとき、
「お母さん、あん時はよく頑張ったよね~」と言ったら、
「先生のお陰です!」と。

「いやいや、お母さんが踏ん張ったから、僕も踏ん張れたんだよ。
こちらこそ感謝だって!」