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#285 子どもと一緒に「好き」を見つける - ヒト、コトとの出逢い体験 -

■七歳までは夢の中

子どもの頃に「好き」を見つけることは後々生きてくるのだと実感している。

好きだけでは飯を食っていけない現実もあるけれど、好きは行動の源泉であることは確かだ。

七・五・三でお参りするのは「七歳までは神の子」という考え方に基づいているそうだが、神の手を離れる八歳以降の子育ては、親だけでなく他人様の手も借りながら育てていくことになる。

三つ子の魂百までという言葉があるが、幼少期の育ちはその後の人生に様々な影響をもたらすと言われている。

しかし、親にとっては毎日が悩ましいことの連続だ。
何が正解かなんてわからない。

シュタイナー教育をはじめ、さざまな教育法が世界各地で実践と研究の歴史を重ねウェルビーイングをめざしている。

我が家の息子たちは「好き」が多かった。
可能な限り子どもの「好き」を応援するよう努めてきた。
子どもの好きを邪魔してしまい後悔・反省したこともある。

泥んこ遊びが好き、絵本が好き、スポーツが好き、昆虫が好き、釣りが好き、電子回路が好き、天体観測が好き、マンガが好き、ゲームが好き、文学が好き、ピアノが好き、ギターが好き、ドラムが好き、手品が好き、お笑いが好き・・・・・・

小学生の頃『ジュニアサイエンス大図鑑』を読むことに没頭し宇宙に深い興味を抱いていた三男は航空宇宙工学専攻に進んだ。

どこへ行って何がやりたいのか、動機を明確にした者は強い。

東大では航空機の設計、軌道計算、飛行操縦のシミュレーションをしたり、航空事故のデータを解析する生活を送っていたので、てっきり宇宙産業の世界に飛び立つものだとばかり思っていた。
o(o|o)/ シュワッチ!

人生、どこでどうなるか分からないものだ。
違う世界があることに気付き、別な可能性と「好き」が見えたという。

DXやDSの力を買われ、数値計算やデータ解析が必要な仕事をしている。
それもまた社会のため、人類のためになるのだろう。

子は親とは別人格。
最適解を探し出すのは子ども自身。

振り返ると、息子たちが手当たり次第にのめり込んだ「好き」は、「」でしかなかったものが、人との出会いを通じてとしてつながり、それがとなり立体となり、飯が食える大人に成長した。

でも、この先どうなるかわからないVUCAの時代。

私たちは限られた時間(寿命)の中で生きているので、いくら長期的展望といっても職業人生は長くて50~60年程度だろうか。

何百年も先のことなんて考えも及ばない。

いくらグローバリズムで世界中を飛び回るといっても、宇宙規模で考えたら人間の活動範囲なんて点(微粒子)でしかない。

目の前の小さな小さな「点」のことですら確実に予測できないことがそこらじゅうにある。

未来を考える際、私たちは、現在の「技術力が及ぶ範囲」「目に見える範囲」「想定内のこと」にフォーカスして判断することが多い。

統計に基づき経年変化を捉えて微分し、確率を割り出すなど、表現できるものや想像可能な範囲にしか目がいっていない。

過去のデータに基づき、これ以上の地震も津波も起こらないと想定した結果、いろんな事態に陥っている。

今の教育は、見えることを科学的に分析して論理的に理解しましょうということになっている。

見えるもの以外の多くのことは証明できない限り、非科学的な扱いになっている。

最も身近な命も心も、モノやコトも、まだ見えていないことが多い。

私たちは上っ面しか見ていないのかもしれない。

見えないことの本質の部分をつかむため、理解するためにどうすればよいのだろう。

様々なジャンルに、見えない「匠の技」として息づいているものがある。

そこに携わっている人は、見えないものを見ようと努力している。

人知が及ばないことに対しても想像力を働かせている。

徹底的に自分の五官(五感)を駆使して、見て、聞いて、触れて、舐めて、嗅いで、見えない匠の技を修練し修得している匠がいる。
一方では、それを科学で証明しようと研究している匠もいる。

翻って、子どもたち、若者たちの中に眠っている様々な可能性を見える形で引き出すためにも、私たち大人が想像力を働かせて、心の目を凝らす必要があるのではないだろうか。

人との出逢いとコト体験に感謝すると共に、受けた恩を次世代に恩送りすることが年寄りの役目だと思っている。