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#41 読書日記06 なぜ生徒は学校が好きじゃないのだろう 

ダニエル・ウイリンガム著
『Why don't students like school?』
なぜ生徒は学校が好きでないのだろう

翻訳本を見つけられなかったので、原書を借りたチンパンジーの私は翻訳にひどく難儀し、辞書や翻訳エンジンを使いながら一行一行をたどたどしく読んでいる最中だ。

day by day,step by step
little by little,bit by bit

なぜ生徒たちは学校が好きではないのか。

きわめてシンプルな問いだ。

学校が楽しくて好きだという子たちがいる一方で、学校はそれほど好きじゃないという子もいる。
どこの国も一緒だ。

私は教職を志す学生たちに対して「“勉強”というものを、読んで字の如く、“勉めることを強いられる”と捉えていないだろうか?」と問いかけている。

児童・生徒も学生も、そして教師たちも乗り越えようとしている壁であることは間違いない。

“選択的不登校”が増えている現在、オルタナティブ・スクールへ進もうとする動きもあるが、そこですらドロップアウトする子もいる。

素晴らしい制度の学校へ行ったとしても(完璧な学校などないと思うのだが)、教育活動の本丸は「学ぶこと」である。

教科・科目も、特別活動も、すべて“意味ある学び”としてカリキュラムが編成されている。

文科省が提唱する興味・関心や発達段階に応じた「個別最適な学び」は、そう簡単に実現できることではない。

児童・生徒数を1クラス10~20人程度にして教師2人体制にするなら別だ。

生徒指導や教育相談、部活動、分掌業務、その他諸々の対応も含めて考えれば負担が大きい。

しかも、特定の個人に仕事が偏り、仕事が個人芸化、属人化してく。


生涯にわたって「学ぶ」ことを人生のテーマに据えるなら、「意味ある学びの場」「好きと言える学びの場」の確保は、すべての人々にとって共通の課題といえるだろう。

ウイリンガム(心理学博士)は、学校教育を否定しているわけではない。

彼自身、生徒たちは積極的に学校を嫌っているわけではないと述べている。

学校や勉強のどこに「嫌い」にさせる要素が潜んでいるのだろう。

多くの教師は、期待することを諦めて子どもたちを突き放したり、手抜きしているわけではない。

「なぜ学ぶのか」「なぜ学ばなければならないのか」という根源的な問いを立て、「わかる授業」「楽しい授業」に腐心している。

しかし、そこで何かモヤっとした物足りなさを感じているのは確かだ。

どう頑張っても、無関心や無気力な生徒は一定割合で存在する。

勉強に熱心な高偏差校の生徒ですら、成績で序列化された途端、下位層の生徒は勉強とは異なる居場所を探す。

そこが心地よい居場所として機能し、人間として成長できるならよいと思う。

では、学校というところは、そういう場にはなり得ないのか?

どんな組織でもそうだが、上手くいかない事象が、たとえどんなに些細なことであっても、それがストレッサーとなり、やがて焦燥感や虚無感に苛まれることがある。

「費用対効果」という言葉はあまり使いたくないが、教育はカネも時間もかかるし、カネを出す親は成果を期待する。

しかし、カネも時間も費やした割に成果が上がらないことが、そこかしこにある。

教師は、よい授業をしようとして入念な準備をする。

そのために費やした時間、労力は計り知れない。

手応えのある成果がないと教師はフラストレーションがたまる。

ウイリンガム博士は、「そもそも人間の脳は思考するために設計されていない」という衝撃的かつ挑発的な表現を用いている。

よく読めば、「自然に任せたままではダメ」ということを言いたいのだということは分かる。

そんなことはチンパンジーの私でも理解できる。

ウイリンガム博士が述べているように、人間は「考えたがらない生き物」ではあるが、「考えることができる生き物」でもあると理解したい。

そこが、私たち人間と他の種とを明確に線引きできる属性であるはずだ。

考えるためには知識が必要だが、知識獲得には努力が求められる。
努力には相応のエンジンと燃料が必要になる。

エネルギーをどのように消費するかは、動機やゴールの設定によって異なってくる。

「考える」という営みは相応のエネルギーを要する。

考えようとしても、資源が不足していたり枯渇していると何も生み出せない。

怠惰なわけではない。

自分のもてる資源との関係で、考えが先へ進まないという現象が起こるのだ。

人間の頭脳は、自分の脳内の、直ぐにアクセスできる知識だけを利用したいのである。

そして、その知識に従って行動しようとする。

それが自然な行動だとも言える。

情報不足のまま考えると、誤った判断をする確率が高くなる。

情報を「教養」という言葉に置き換えてもいいだろう。

教養不足で成果が見通しにくい状況で行動することは不利益につながる可能性がある。

「やってみなければ分からないじゃないか」と言われても、
「じゃあ、あなたは私の失敗の責任を取ってくれるのか?」
と無意識の防御装置が作動する。

失敗を避けることは本能であり強固な動機となる。

努力は限りある資源だ。

もっと厳密に言えば、搭載している努力するエンジン、頑張るエンジンの大きさ分しか出力できないということだ。

そうなると、「この大きさのエンジンで最大限やってみよう」という選択肢がある一方で、「このエンジンでは努力しない(できない)」という選択肢もあるということになる。

ある行動が「合理的・功利的である」と判断して行動に移し、成功を収める人は一定割合でいる。

そういう学習者は、小さなことを積み上げていけばゴールに到達できる、ということを経験的に身の内側に刻み込んでいる。

習慣化、ルーティーン化する術を持っているのでエンジンの排気量を少しずつ大きくし、獲得する燃料も徐々に増やしてきたのだろう。

ウイリンガム博士の論はまだ読み切れていないが、別な著書が出版されているので探そうと思う。

私は英語が得意じゃないので、アバウトに雰囲気だけで翻訳し、核心的な部分を正確に意訳できず難儀している。

おおよそ次のような意味になるのではないかと思う。

(1)本来、私たちの頭は思考することに向いていない(思考を回避 する方へ流れる)。

(2)頭脳を意識的に使用する思考は、神経を酷使して疲れる割には不確実な成果しか得られない。

(3)意図的・意識的な思考は、うまく交流・調整しなければならない現実生活の中では、行動を制限したり操作不能に陥る。 

(4)私たちの頭脳は経験や記憶をあてにしており、経験の再現や成功者の行動を模倣する道をたどろうとする。

(5)私たちの関心は、自己の学習で得た経験と予備的知識のある範囲のものに限られている。

(6)私たちは、目前の努力を払うことと、おそらく達成できるであろうこととの間で見通しが持てるまでは、思考活動に労力を投入しようとは思わない。

私たちが物事を「考える」とき、大きく影響を受けている要因とは?

それは作業記憶(本を読んだり人から話を聞くなどして外から得た情報)の整理・比較等が、それほど多くは処理できないということ。

並の学習者の場合、学ぶことへの自信や確信が欠如していると、成功の筋書きは困難なものとなる。

他人を模倣して上手くいかないと、「もうムリ!」と思ってしまう。

学習することに自信の持てない(成功体験や成就感を得た経験がない)者にとって、「達成できるかもしれない」し「達成できないかもしれない」という不確実な活動は、知的労働を投入すべきかどうか迷う要素となる。

学習者がこれまでに得たことや知っていることと、教師が「新たに知ってもらいたい」「深く思考してほしい」と考えていることとの間に、大きな隔たりがあることを学習者が強く意識してしまうと、せっかく湧き出てきた好奇心に蓋をしてしまいかねない。

学校の教師は、個別指導よりも複数の生徒と向き合うことが圧倒的に多い。

多くの生徒の意識は、考えることにではなく、考えることから逃れようという方に意識が向きがちである。

簡単に言えば、「できれば考えたくないだよなあ・・・・先生、早く答えを教えてください!」となる。

これまでの教育は、そういう空気が教室内に充満していたということだ。

軸足が「考える」ことではなく「答えを覚える」ことに置かれていたと言っていいだろう。

入学者選抜の学力検査から各種検定試験、難関の国家試験に至るまで・・・・

生徒が思考できないわけではない。

「学校的な学び方」は、多くの生徒にとって不自然なやり方であり、楽しくないものだったということではないだろうか。

だからと言って、そこを突き抜けて、もっと複雑なレベルに上げて思考をさせたら、生徒は熱心に取り組むかといえば、そうはならないだろう。

やはり、手順を踏むべきだ。

「考える」ということは多様な心理的現象が起こることを考慮しなければならない。

現実の授業では、「思考しない(考えるのは無駄。考えることをやめる)」と意思決定する子が多いのだから、そこを何とかしなければならない。

遭遇したことのない問題を考えたり、持っている知識を超えるレベルの問題と向き合うのは面倒である。

学校という空間で学ぶときに期待されることと、家庭や日常生活で期待されることとは、性質の異なる厄介なものなのかもしれない。

しかし、私たちは日々大小様々なことを考えて意思決定しなければならない。

社会へ出れば、深い思考の連続である。

「なぜ学ぶのか」「どのように学ぶのか」という問いについて、教師自身が哲学を持たなければ、思考停止となり、ひたすら「学べ!学ぶことは大事なんだ、とにかく覚えろ!!」と連呼し、「でも、生徒は学ぼうとしないんだよね」とボヤきながら給料をもらうだけの仕事になってしまう。

さて、どうしたもんかな。

学生諸君、共に学ぼう。