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#61 ティーチングスキル①

■ 最適な指示

先日、3年生の学生から「模擬授業を行うので見てください」と頼まれた。

「暑い中、大変だろうに・・・・」と気の毒に思って(自分のことを第一に心配して)足を運んだら、エアコンの効いた快適な教室での実施だった。

学生の授業は拙いながらも、ある意味、初々しくて新鮮で、必死さが伝わってくる。

最後に「指導助言をお願いします」と言われて困った。
私自身、指導・助言できるほどの力量があるのかどうか怪しい。

むしろ、参観した学生たち(仮想高校生)にとって「わかりやすい説明」だったのかどうか。

感想を述べさせたら、友人同士だから遠慮無く、手厳しい意見が飛び交う。

ここで私がダメ押しみたいに、厳しく批評をするよりも、「こうしたらいいんじゃない?」とヒントを与えた。

その後は、ワークショップをするよう勧め、それがなかなか面白かった。

「わかってもらうは武器になる」というキーワードで自由に意見を述べてもらった。

学生たちの頭の中には「理想の授業」がある。
でも、実践してみると、あれもこれもと盛り込みすぎて、生徒も教師もオーバーフロー状態に陥る。

学習のポイントの絞り込み方から時間配分までを身体に刻み込むには、経験を重ねるしかない。

教師にはいろんな仕事がある。
「授業」が本丸。

学級担任や教科担任は、日々生徒たちと向き合いながら設定したゴールを目指す。

対象とする集団や個人を観察し、身に付けさせるべきことを見極めながら教材を作成し、PDCAサイクルで実践するのみ。

指導の効果について、クラスに大きなばらつきが生じないよう、生徒の成績や個別の事情を考慮したクラス編成の最適化・平均化を考える。
それでもクラス間格差は生じる。

酷な話だが、1時間1時間の授業は、教師の力量にかかっていると言っても過言ではない。

そこで青年教師は悩むのである。

「どうしてこのクラスは落ち着きがないのだろう」
「学習意欲が低いのは何故だろう」
「まとまりに欠ける集団だなあ」
「あの子をその気にさせるにはどうしたらいいんだ?」と、あれこれ考え、いろいろと試みる。

教師にとって重要な資質のひとつにあげられるのは場面に応じた「最適な指導」「最適な指示」を出すことだろう。

最終的には、指示がなくとも主体的・能動的に動く生徒を育てること。

集団を望む方向へ導くためには、教師が生徒一人ひとりの心に影響を与える存在でなければならない。

それがやがて集団の力をも育てることになる。
その視点が欠けていると、学習指導も生徒指導も、ひいては学級経営も苦労することになる。

もっといえば、一人の教師の振る舞い方の善し悪しが、学年運営や学校運営に影響を及ぼすことになる。

教師間の協働も不可欠な要素だ。

実際のところ、教授法に関する専門書や指導書には、「こうすればよい」といったことが書かれている。

そのとおりにやって上手くいくこともあれば上手くいかないこともある。
原因はいろいろある。

指示の出し方が思いつきだけで一貫性がないのは致命的だ。
場当たり的な指導ではなく、「この先生は一貫した信念に基づいて指導している」と思われなければならない。

そんなことは指導書には書かれていない・・・・

■指示に従順な人間を育てるのか?

「指示待ち人間(指示待ち族)」という嫌な表現がある。

常に教師の指示どおりに動くことを繰り返していると、生徒は本当に指示待ち人間になる。

お利口さんであるとか、まじめであるという言い方もできるが、それでは実社会で通用しない。

私も教師なり立ての頃は通用しない典型的な若造だった。

指示どおりに動いてくれたら、余計なことに神経をすり減らすこともなくホッとする。
上手くいくと気持ちがいい。
しかし、それが本当に上手くいっているかどうかは後になってわかる。

上手くいかない時は、強権を発動して屈服させるという荒っぽい指導をする教師もいる。

教師なり立ての頃の私は、典型的な体育会系の威圧堂々(威風堂々ではない(^^ゞ)の教師だった。

大きな声で威圧し、何とかその場を収める。
ところが、それを繰り返しているうちに、自分には指導力があると勘違いして満足に浸る。

何をやっても上手くいかないと、言い訳が多くなる。
私は授業の腕を上げるよりも、言い訳の腕を上げていたのかもしれない。

「あの子が悪い(自分は悪くない)」
「家庭教育の問題だ(学校の責任ではない)」
「言って分からないヤツは、力ずくで従わせればいい」と。

しかし、真の教育はその壁を越えたところにある。

■目標は「自立」

学校では「指導が入った」という言葉がよく使われる。

本当に指導が入ったのか(効果があったのか)、それとも表面的・一時的なものなのか見極めは難しい。

一斉指導を展開していると、一人の生徒に対して複数の指導法を試みるだけの時間はない。

少人数クラスや能力別クラス編成でもしない限り、「全体最適」の授業を展開せざるをえない。

ポートフォリオ評価やルーブリック評価が提唱され、なおかつGIGAスクール(1人1台端末)で小中高校が全国一斉に動き出しているが、肝心の個別最適なデジタル教材は末端のすべてに行き渡っているわけではない。

結果的に、教師が司令塔になり「指示」を出すことになる。

ベテランになると、気になることがあれこれと目に付き、つい指示事項が増えてしまう。
しかし、四六時中あれもこれもと指示を出し続けていては身が持たない。

理想は、教師からの「指示」を減らすことだ。
指示されなくても、いい意味で「忖度」して、学習者自らが動き出すことだ。 

そんな話をして、「ではまた明日!」と模擬授業を終えた。