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#73 伝える力

教職を志す学生達が自主的にやっている模擬授業を覗きにいくことがある。

「元高校教師のオッサン(私)が教室にやって来たぞ!」というだけで、教室内に緊張が走り、学生たちは途端にカチンコチンに固まる。

いつも学生達に言っている。
「君たちはプロ教師じゃないんだから、できなくて当たり前」

よりよい授業を展開できるように向上心を持つことは大事だが、生身の中学生や高校生を相手に模擬授業をやっているわけではない。

順序立てて説明しているつもりが、生徒にさっぱり伝わらない。
そんなことはいくらでもある。

大学生がやる模擬授業は、仲間の大学生を中学生や高校生に見立ててやっているので、リアルな授業とはならない。

中学生や高校生になりきって質問しているつもりでも、いちいち大人目線であったり、知識が豊富な分、必要以上に高度な領域に踏み込んだ質問をするなど現実的でなかったりする。

また、自身が教材研究したことを全部出し切ろうとして授業そのものが尻切れトンボで終わったりもする。

自分の力量を過信して溺れてしまうことだってある。

私ですら大学生相手に悪戦苦闘することがある。
強いて言えば、焦ったりうろたえたりすることなく、授業内で修正する余裕があるというだけだ。

「伝える」と「伝わる」は違うよと言っている自分自身、学校が違えばやり方を変えていたし、クラスが違えば異なるアプローチで授業を組み替えたりしなければならないことも多かった。

試行錯誤を繰り返す30数年を送ってきた。

伝えたいことを一言で言えるだろうか。
伝わらない話をしていないだろうか。
伝わらない文章をかいていないだろうか。
結局、何が言いたいかわからない説明になっていないだろうか。

授業は「コミュニケーション」である。

学習者の知識にアクセスして現状を知り、不足を補ったり、新しい知識を授けたり、最後は一人でも自立的・自律的に学ぶ姿勢を育てることだろう。

双方向のコミュニケーションなしには成立し得ないことばかりだ。

学生の論文を読むときも、私自身の論文を読み直すときも、可能な限り第三者的な批判の眼差しをもって読むようにしている。

冷却期間を置いて読み直してみると、大体において独りよがりであったり、権威や定説の押し付けであったりするわけだが、冷静な目で推敲すれば、相当にテコ入れしなければならないことに気付く。

ChatGPTのお陰でそういう作業もより効率が上がっていくのだろう。

「どうして、伝えただけでは伝わらないんだろう?」

学生「ボクの伝え方が下手なんだと思います」

「じゃあ、どこをどう改善したら“伝わる”が実現できるんだろう?
私や君に足りていないものは何だろう?」

学生「いえ、先生のお話は伝わっていると思います」

「いや、私自身、未完の状態だと思っているよ。
伝え方に正解はないと思う。
なぜなら、クラスが違えば学習者の構成も変わり、一人ひとりに個性があるから、そこで悪戦苦闘するんだよ。
正解はないけど、伝え方には原理原則がある。
それを君たちにつかみ取ってほしいんだ」

授業の始まりに学習の目的と目標を明確にしておくことや、複雑なことは図式化したりグラフィックレコーディングの手法が効果を発揮することもある。

終了時には必ず授業評価(授業展開の反省と学習者の理解度確認など)を確実に行うなど、基本中の基本を経験的に積み重ねるしかない。

試練は続く。