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#161 読書日記30 葉っぱのフレディ いのちの旅

『葉っぱのフレディ いのちの旅 』 レオ・バスカーリア作

24年前、母の葬儀で曹洞宗のお坊さんからいただいた絵本だ。
3人の息子たちがこの絵本の読み聞かせを覚えているかどうかは分からない。

人はいつか死を迎える。

生きてきたことをどう捉え、死にゆくことをどう受け止めたらよいのだろう。

還暦を過ぎると、他者の冥福を祈るつど、なんとなく自分の死をぼんやりと考えることがある。

著者のレオ・バスカーリアは哲学者でありクリスチャンである。

死生観は宗教によって人によって表現方法は微妙に異なるかもしれないが、根っこの部分では同じような気がする。

以前、noteで「生活」と「終活」という言葉を使った。

生死は表裏一体のものだけれど、平穏に過ごしていると死を意識することはあまりない。

私に残されている時間は、これまで生活してきた時間よりも圧倒的に少なく、ある意味、終活へ向かい始めているともいえる。

私の仕事は幕府お抱えの武士ではないから「武士道といふは死ぬことと見つけたり」(『葉隠はがくれ』)など考えるわけもなく、平和な中で生活を送っている。

戦国の世では滅私奉公を前提に、我が身を捨てる覚悟をもっていれば、“ 我が身大事 ” の利己的な心から解放され、勇気とやり甲斐をもって利他的な役目を果たすことができるとされ、結果的に、自分自身を活かすことにつながり「これ活私奉公なり」とされていた。

そんな境地に至るのはなかなか難しい。

組織のリーダーだった頃は、そういう志と覚悟もあったが、やはり自分を第一に大切にしたいという思いが常に心を占める。


◼️メメント・モリ

メメント・モリとは「死ぬことを忘れるな」「死を想え」といった意味のラテン語だそうだ。

言葉の起源は古代ローマにまで遡り、当時は戒めとして用いられていたそうだ。

戦に勝利した将軍が、凱旋パレードで兵士たちに「メメント・モリ!」と言わせ、今日が勝利でも明日はどうなるか分からないということを胸に刻ませていたとされていた言葉だ。

その後キリスト教が広まるにつれ、過ぎ去っていく現世に固執しすぎてはいけない心がまえとして中世のヨーロッパに広まっていったという。

現代なら「死を意識することで今を大切に生きることができる」ということになるだろうか。

仏教にも通ずるところがある。

めぐる季節の中でやがて散りゆく葉っぱのフレディ。

枯れ葉として散ったフレディは仲間と共に土に還り肥料となり、木を育て、新たな命を芽吹かせる。

私たちの命と魂もそうしてリレーされてゆく。