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#59 教職を志すことへの不安

いろいろな高校を訪ねて、教師向け、あるいは生徒向けの「学び」に関する講演をすることがある。

「なぜ学びが必要なのか」ということを言語化して伝えても、受け取り方はさまざまだ。
学びの本質的なことや普遍的なことはあるにせよ、学校や地域、生徒の実態に応じた「学びのあり方」を伝えなければならないと考えている。

「なぜ学ぶのか」
「どう学ぶのか」
「何ができるようになるのか」

文科省は新学習指導要領を告示してから、この5、6年で十分語り尽くしたと考えているのだろうか。
そして教育現場と思いを共有していると考えているのだろうか。

高校を訪ねた際、校長先生や教頭先生をはじめ各教科の先生たちと情報交換するようにしている。

普通科高校の場合だと、抱えている課題は授業(学習)の延長線上にある大学受験を無視して探究的な学習に時間を割いているわけにはいかない、というのが本音だ。

「学びのあり方を探究するのも探究学習じゃないですか?」と言ってみるものの、我ながら具体性に乏しいなと思っている。
それを考えるのが教師の仕事だ(そう言うと冷たすぎるか・・・・・)

引き続き、高校との関係性を構築しながら支援していく心づもりはある。

2025年度入学者の大学入試は(共通テストも大学個別の入試も)大きく変わる。
すでに受験産業は傾向を分析し、出題内容を予測しながら準備を進めている。

おおよそ試験と名の付くものには傾向と対策があり、攻略した者勝ちという現実がある。

コンピテンシーベース教育の重要性が説かれている。

入試問題が非認知能力の「思考力・判断力・表現力」を問う作問であったとしても、認知能力(IQをはじめとする知識)が不可欠なだけに、従来型のコンテンツベースの教育をしっかりやらなければならない。

しかも、家庭の経済格差が子どもの経験格差を生み、さらに学力格差につながっている現実がある。

家庭や学校にできないことを行政がどれだけ支援してくれているのかという問題があり、自治体によって格差もある。

現場の苦労は推して知るべし。
探究的な学びの重要性はわかっているものの、一般的な教科学習とのバランスをどうはかったらよいのかわからないという。

学校全体で進めたいが賛否両論あるなかで妥協点を見出し中途半端な取り組みにならざるをえない。
妥協の産物とはそういうものだ。

亀の歩み、カタツムリの前進でも、未来を見据えて取り組んで奮闘している学校もある。

どこの学校も、探究学習の発表会やプレゼンテーション大会が盛んである。

私が生徒たちに講評していることは、「発表はゴールではない」ということ。

そこには大切な思考のプロセスがある。
いくら非認知能力の大切さを説いても、「見えない力」はなかなか可視化できない。

それでも、子どもたちは「協働的な学び」を通じて、その楽しさや困難さに気付くのである。

やがて社会へ出たとき、協働は覚悟や志から始まることを知るのである。

嫌な人とでも一緒に仕事をしなければならない場面はいくらでもある。
なぜなら、金を貰っているからだ。
対価とは、嫌なこと、面倒なことも請け負うことに対する報酬である。

いい組織か、悪い組織かは、リーダーの資質の問題だ。

教職課程の各科目で「学校教育が抱える問題」を講義していて気付いたことは、教職を志す学生たちが抱える不安が予想外に大きいことだ。

「学校のブラック労働は依然として変わらない」
「個別最適な学習と言いながら、学力差がどんどんひろがっている」
・・・・など。

口を開けば「自分がそこへ身を投じて、ちゃんと働けるのだろうか?」という不安だ。

未来の子どもたちを支える人材の育成を考え続けているうちに前期の授業が終わった。

考え続けよう。