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ひとは、もしかしたら変われるのかもしれない

今年の4月に、保育園のクラスがひとつ上がった娘。(現在2歳5か月)

これまでの乳児クラスには問題なく通えていたのに、進級した途端、なかなか園に行けなくなってしまった。

新しい環境だもんね。そのうち慣れるかなぁと思い、しばらく何とか行ってもらっていたのだけど、8月になってもまだ行きたがらない。

さすがに4ヶ月も経ってくると、親としては心配になってくる。

朝、保育園に行くために自転車に乗ると、娘からは笑顔が消える。あからさまに落ち込んで、一生懸命気持ちを整理して堪えている姿を見るのは、こちらの精神にも堪えるものがあった。

毎朝こんな思いをするなら、いっそ保育園やめるか…。フリーランス夫婦共働き、なんとか力を合わせれば、育児しつつも最低限の仕事をすることもできる。いや…無理か。でも、寝る時間を削ればなんとか…。うーむ。

と、夫婦ともに悩みが深まる一方だったので、いつも子育て相談に乗ってもらっている深津高子さんに相談に。

(↑高子さんが国分寺のカフェスローで行っている、モンテッソーリ教育に関心のある人とお喋りするオンラインの集い、おすすめです)

今回、高子さんにはざっと下記のように相談。

▶進級してから保育園を嫌がるようになったこと
▶その期間が長くなってきたこと
▶うちでは元気はつらつなのに、どうも保育園では元気なく消極的に過ごしている様子であること
▶もしかしたら保育園が、娘には合っていないのかもしれないこと

すると、高子さんから返ってきた言葉は下記のようなもの。これは、僕にとっては思いもよらない話だった。

「Uちゃんには、まだ発揮してない力があると思う」

…発揮していない力。なんだろう、それ。

だって娘は、僕から見るととても順調に育っている。言葉の発達は目覚ましいし、手先の器用さも日に日に増している。運動能力だって向上の一途だ。これくらい力を発揮してくれればもう十分じゃないかしら。そう思っていた。

でも、高子さんが言っていたのは、そうした表面上に現れる力ではなく、内面の話だった。

まず、これをしてみれば? とアドバイスしてもらったのが、家事のお手伝い。

ご飯を食べる時に、食器を運んでもらう。お箸やスプーンを机に揃えて置く。確かに、そういうお仕事なら、いまの娘(2歳5か月)でも出来る。

机になにかこぼしたら自分でふくとか、食べたあとは食器を片付けるとか、そういうことを通して、娘に家族の一員としてお仕事をしてもらう。

または、夫婦で会話をしている時に、娘がそれを嫌がったら、「今はお父さんとお母さんで大事な話をしているから、5分待っててね」とちゃんと伝える。親にも事情があって、全ての時間を娘に集中することはできないんだと分かってもらう。(ただし、そう約束したらその5分後には必ず娘とちゃんと話すこと。約束を果たすのは大事)

そうしたことをしていくうちに、家族のなかで「お客さんとしての自分」ではなく「家族の一員としての自分」という面が出てくる。すると、親が忙しくて遊んでくれない時には、自分で工夫して楽しいことを見つけてみようという気持ちが出てくるはず。

「きっとUちゃんは家が楽しすぎるんだと思う。高級旅館みたいなサービスを受けてるわけだから」

とも言われて、これにはハッとさせられた。

僕は、娘に気持ちを集中するのはいいことだと思っていて、娘がなにか言えばすぐに反応してあげよう、娘が遊びたがったらすぐに遊ぼうと心がけていた。だけど、確かにそういう環境に慣れてしまうと、保育園のようにたくさんの友達がいて、大人からの関心が自分だけに集中しない場で過ごすことは難しくなる。

娘が日々たのしく過ごせるようにと毎日努めていたつもりが、かえって娘を大変にさせてしまっていたのかもしれない。

「家事のお手伝いのお仕事なんてちょっとしたことに思えるけど、そういうちょっとしたことで、子どもって劇的に変わることがあるから。」という高子さんの言葉を信じ、うちでも早速、娘にもできる仕事をしてもらうようにした。

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▲棚から食器を取りだしやすいように踏み台を用意したり、

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▲娘が使いやすい大きさのお盆を用意するなどして、娘にも家のお仕事をしてもらう。(こういうの整えるのは、パートナーがとても上手)

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▲洗濯物も畳んでもらう。

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▲独特の畳み方で、任務完了。

そして僕の方も態度を改めてみる。娘が遊びをせがんできても、その時の自分の状況をちゃんと説明する。「いま歯磨きしてるから、終わるまで待ってて」みたいに。

それで、です。

それで、どうなったかと言うと、娘、なんと劇的に変わったんです。なんか劇的に変わりすぎて、上に書いたことが効いたのか気まぐれなのか、なんなのかまるで分からないんだけど、とにかく劇的に変わったことだけは確か。

高子さんに相談に行ってから4日後には保育園に前向きに行くようになり、家でも一人で遊ぶようになった(←しかも楽しそう)。

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一昨日なんて、庭でシソの葉っぱを切ってもらっている間に、僕は夏野菜の片付けをすることまでできてしまった。これまでなら、娘がシソを切る遊びをしているときは、僕もそばについていてずっと見ていないといけなかったのに。

一体これは何なのだろうか。と思っている。

高子さんの言っていた「Uちゃんには、まだ発揮してない力があると思う」の発揮していなかった力が、こんなにも一気に出てきたのだろうか。だとすれば、娘って本当にすごい(高子さんもすごい)。こんな可能性があったのか、娘に。

この力に出合えたことに僕はいまとても感動している。

多分、「自分に出来る」ということは、娘の自信にも繋がっていて、昨日はなんとトイレ3連続成功の偉業を達成。夜寝る時も「お父さん、フロス終わったら絵本読んでー」と、父の就寝準備を先読みして指示出しをしてきたほどだ。

一時は保育園との相性もあるかもしれないと、転園まで考えていたが、むしろ今いる環境で、娘自身がどのように今の状況を乗り越えることができるのか。成長のチャンスだと捉えて、このまま通わせてみようと思っている。

***

(もうちょっと続きます)

最近、パートナーが『こどものみかた 春夏秋冬』(柴田愛子 著、福音館)という本を買ってきた。

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これがまぁ、とっても良い本で。

内容自体は、保育園の日々を綴ったエッセイなので、子どもの発達に関する理屈や、保育の理論が書かれたものではないのに、なぜか読んでいるだけで、子どもというのがどういう存在なのかが見えてくる、そんな不思議な魅力がつまった本。

笑っちゃうエピソードもあるし、泣きそうになるものもあって、子どもと過ごす日々は本当に豊かだなぁと、読む度に素敵な気持ちになるので、これまたおすすめです。

そのなかに、お母さんとはよく話すのに、園では一言もしゃべらない子どもの話がある(「園の顔、家の顔」という題のエッセイ)。

著者の柴田愛子さんがすごいのは、園ではしゃべらない女の子に対して、どうしてそうなのかを考察するのではなく、それを

理由ははっきりとはわかりません。ともかく、本人が「しゃべらないことにする」と決めているのでしょう。

と、そのまま受け止めるところ。そして、このあとが素晴らしい。

でも数か月後、ひろこちゃんはついしゃべってしまいました。それからはおしゃべり上手なひろこちゃんになりました。

エッセイなので、全文読まないとちょっと感覚が伝わらないかもしれないけど、僕はこれ読んだ時に、あぁなるほど。そういうことかも。と思いました。

〇〇ということにしている。

これって、子どもに限らず、大人の僕だってそうなんだよなぁ。

たとえば、家族と過ごしている時の自分と、仕事をしている時の自分は違う。

家では「特に気を使わないふざけた自分」でいるけど、仕事してる時は「迷惑をかけないように思慮をめぐらす自分」になる。

そこで、「それ、なんでそうしてるの?」ともし聞かれたら、なんとも返す言葉が見つからない。だって、本当は仕事をしているときも、「特に気を使わないふざけた自分」でいたっていいのだから。

つまりこれって、なんとなく、自分で「そういうことにしている」だけなのよね。

もし仕事してる時に、興が乗ってきて、ついふざけちゃったとする。そしたら、それからは仕事してる時もふざけた自分が出てくるようになるかもしれない。

Aさんといる時の自分はよく喋るけど、Bさんといる時の自分は話をよく聞く自分だったりして、自分が過ごす場所によって、僕の中身は、それぞれに応じた自分に変わる。そして、どの自分も確かに自分自身だ。

なので、娘はもしかしたら、「保育園に行きたくない自分」っていうのをこの数か月、ただしていたということなのかもしれない。進級時に不安が生じたのは確かだと思うけど、その先は、進級時に不安だった自分がずっと娘のなかに居座り続けていて、ちがう自分を出すきっかけが無かっただけなのかもしれない。

それが、自分で家事をしたり、親と違う関係性を築いたりするなかで、「あっ、この自分でもいけるんだ」というきっかけになったのではないかという気はする。というか、僕のなかでは、多分そうなんじゃないか。と思っている。

生まれもった性格というのはやっぱりあるだろうけど、娘のなかにある違う娘もどんどん引き出してあげたいなと思う。いろんな自分を試して、居心地のいい自分、納得感のある自分が見つかるといいね。と今は思っている。

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最後に、これは蛇足なんだけれども、これ、もしかして。と思っていることがある。

僕は、人ってなかなか変わらないって思ってたんだけど、もしかしたら、人ってけっこう簡単に変わるのかもしれない。他人が他人を変えるって話ではなくて、自分が自分を変えるという意味で。

自分のなかには色んな自分がいる。いる環境によってその自分は異なるし、もしかしたら大人になった今でさえ、自分の知らなかった自分がいるかもしれない。

現に、娘を迎えたことで、僕は自分自身が本当に大きく変わったと思う。まぁ、これに関しては、変わらざるを得なかったという表現の方が近いかなと思うけど。

僕は、いつでも変わることができるのだ。明日からでも、いや、1秒後にでも、僕が勝手にパッと違う自分を表に出せば、僕は変わるのだ。

本当に、娘に学ぶことばかりの毎日です。

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