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【ヒデコ日記⑨】 思い出の田原市

facebookで、ヒデコ(母、でぶ)のことを「ヒデコ日記」というタイトルでたまに書いている。ヒデコにまつわるコラムも電子書籍で書いたことがある。その原稿を時系列もバラバラながら、ここに少しずつアップて残していこうと思う。ヒデコがこの世を去った時、思い出すために。

「波乱爆笑」に大久保香代子さんが出て故郷の愛知県田原市のことを話していた。大久保さんをテレビで見るたびに、ヒデコ(母、でぶ)のことを思い出す。というのもヒデコは愛知県豊橋出身なのだが、ヒデコの母(僕にとって母方の祖母)の実家は大久保さんと同じ田原市なので。

豊橋の南、渥美半島にある田原市。幼い頃、何度か両親に連れられ田原(当時は田原町だった)で遊んだことがある。電照菊とプリンスメロンの栽培が盛んなところで、祖母の実家も周りの農家もだいたいプリンスメロンや菊を栽培していた。遊びに行くと山のようにプリンスメロンが出るので、食べすぎて気持ち悪くなり大嫌いになったことがある。

ヒデコは田原が好きなようで、ことあるごとに田原のことや、田原の親戚のことをよく話す。ヒデコの祖母(僕にとっての曽祖母)は100歳を過ぎても元気でよくしゃべり、「ヒデコの次男(僕のこと)は早稲田に行っただら?」と、一度聞いたことをよく覚えていたそうだ。ヒデコはそれが嬉しそう。自慢のひ孫になれてよかったし、それも親孝行だな。田原にはその昔、渡辺崋山という画家がいて、田原にある博物館に行くと天井まで絵が飾ってあって見事だと何度も聞かされた。

そんな田原周辺のことが気になっていたら、あるとき、ラジオか雑誌で、多分、キッチュ(松尾貴史)さんだったと思うのだが、田原の近くにある旅館「角上楼」のことを絶賛していて、両親を連れて、うちの家族と泊まりに行った。

渥美半島の先端近くの漁港で栄えた福江という町で江戸時代から続く旅籠で、とても素敵な宿だった。そんな旅行ドライブついでに両親が若い頃デートしたという場所、伊良湖岬へも立ち寄った。海が見下ろせる絶景で、ヒデコと正幸は昔を懐かしんでいるようだった。

そんな時、ヒデコが急にあることを思い出して道案内を始めた。以前、番組でもお世話になった黒田さんという当時「なだ万ニューオータニ」料理長だった方が、田原のお寺出身と以前ヒデコに話したら、よく知ってるお寺なんだという。そのことを思い出し向かった。ヒデコは、ちょっとでも地元でつながりがあると、まるで友達や親戚のように馴れ馴れしくて図々しい。その時も、さも知り合いかのようにお寺にズカズカ入っていき、出て来てくれた黒田さんの実家の方と親しげに話していた。「さっき買ったみかんをあげたら喜んでくれたに」と車に戻ってきて、僕も挨拶させられた。

「波乱爆笑」で大久保さんが言ってたが、お母さんがドケチらしい。スーパーのレジのところにあるビニール袋を、タダだからと何枚も余分に持ち帰って来たり。それ、ヒデコもよくやる。ヒデコもドケチでがめつい。

静岡や愛知あたりでは、家を建てるときの棟上げ式で、餅をまくのだが、本来、親戚や近所の知り合いが集まって、家主に餅がまかれ、それをみんなで楽しく拾って、おめでとうと言って帰る。だがヒデコは、たまたま通りがかりの見知らぬ場所で棟上げ式(建て前とか、餅まきと呼んでいた)らしきものが始まりそうな雰囲気見つけると「あれ、餅まきするだら? 行くか」と見知らぬ人の家の餅まきなのに、勝手に参加し、大量な餅を拾ってニヤニヤしてる。「なんでそんなに拾えたの?」と聞くと、「お母さんはね、こうやって前かけ(エプロン)んとこにこうやって入れてくだよ。そうするとどんどん拾えるだに。あんたも今度やってみな」と、ヒデコ式の餅拾いテクを嬉しそうにヨダレを垂らしながら語る。

ちなみに大久保さんのお母さんの名前は奇しくもヒデコ。しかも漢字も同じ「秀子」だったのは何か運命を感じる。
(2019年9月8日facebookより)

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