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長編トラベルミステリー小説「夏の旅」。13.慈母信用組合の最期。

七月二十七日。当日の朝刊は、鹿児島の女、宮崎治子の逮捕を報じた。

「慈母信用組合、副理事長殺害の犯人が逮捕!犯人は副理事長の愛人。別れ話のもつれから殺害したと自供。
六月十五日夕刻、上野公園で殺害された瀬田勝邦さん(三九)殺害の容疑者として、上野署は鹿児島県鹿児島市に住む内縁の妻、宮崎治子容疑者(二九)に任意同行を求め取り調べを行なっていたが、二十五日瀬田勝邦さん殺害を自供したため殺人及び銃刀法違反の容疑で逮捕した。勝邦さんから別れ話を持ちかけられ、これに腹を立てたのが殺害の動機」

各新聞は、瀬田勝邦を殺したのが、勝邦が囲っていた愛人であることをでかでかと載せた。雑誌、週刊誌は、囲っていた横浜、京都の女の話も匿名で載せ、社会的信用が第一の金融機関の副理事長の乱行ぶりに世間は騒然となった。
さらに、慈母信用組合の不良債権問題が一部で囁かれるようになった。京都と鹿児島の不動産融資に失敗して多額の不良債権を抱えているというのだ。慈母信用組合の経営不安説が囁かれ、一部の支店で預金の引き出しが頻繁に行なわれるような事態も起きるに至った。

八月十三日。暑い日だった。その日東京八重洲にある八重洲銀行本店三十二階建てのビルの二十五階にある広い閑静な頭取室では、八重洲銀行頭取、高橋勲氏が大きなデスクで、慈母信用組合理事長の瀬田豊が来るのを待っていた。外には皇居の緑がよく見える。遠くに新宿の高層ビルが望める。晴れたいい日だった。高橋頭取は冷房の効いた頭取室の広いデスクから立ち上がり、この景色を眺めた。高橋頭取は頭のすっかり禿げ上がった、やや顔の長いウマずらの老経営者だった。どことなく慣れた感じの愛嬌たっぷりの人柄で多くの人々に愛されていた。インタホンから「慈母信用組合理事長の瀬田豊さんが来られました」という秘書の女性の声がした。高橋頭取はインタホンのボタンを押した。

「僕の部屋に通せ」

しばらくすると、良子の義父である瀬田豊が、秘書課長に案内されて高橋頭取の前に現れた。高橋頭取に挨拶しようとした豊を押しとどめて、部屋の応接のソファーに座るように促した。瀬田豊は思った。この頭取室に呼ばれて今までろくなことはなかった。一体今日は何だろう?そう心配しながら冷や汗をハンカチで拭き、恐る恐る今日の用件を聞いた。
「今日は何のご用でしょうか?」
高橋頭取は答えた。
「実は、昨日、大蔵省の蒲生次官と会ってね。『慈母信用組合をよろしく』ということだった」
この一言に義父は心臓がひっくり返るほど驚愕した。
「それは、慈母信用組合を八重洲銀行が吸収合併するということですか?!」
「もちろんだよ。君は今期限りで引退。後任は僕がよく考えておくよ」
「しかし、慈母信用組合は前三月期の決算では九億円の税引き後利益を出している。なぜ経営責任を取らなければいけないんですか?」
この義父の抵抗に、高橋頭取はフーッとため息をついた。
「ところで、一週間前に検査が入っただろう。結果は聞かれたかな?」
「いえ、まだです」
「私は、昨日聞いた。何でも、不良債権として償却がすぐに必要な債権が一千億円あるそうじゃないか・・本当かね・・これ?」
「景気が回復して、土地の価格が元に戻れば回収可能な債権です」
「君、馬鹿も休み休み言って欲しいな。そんなことがあるわけないだろう。とにかく、大蔵省の蒲生さんがこうだと言ったら、こうなんだ。君も往生際が悪いな。この一千億円を費用として償却すれば慈母信用組合は完全な債務超過じゃないか。こんな勝手なことをやっておいて責任を取らない。こんなことは経営人として絶対に許されない。たとえば、ここに資料がある。・・君!ちょっとあれ持ってきてくれ」
高橋頭取は、秘書課長から封筒を受け取ると中身を取り出して話を始めた。
「まず、京都市の地下鉄今出川駅前に三十階建ての高層ホテルを建築するために平成元年に取得した土地の購入に係る貸付金が三百億円。現在も一部住民が立ち退きを拒否して事業が頓挫している。これは本当かね?」
義父はこの指摘に青ざめながら答えた。
「しかし、まだ何とかなります」
「何とか・・どうするつもりかね?ここで具体的に説明して貰おうじゃないか」
「それは・・・」
義父は言葉に詰まった。
「とにかく、この物件については社会的な非難が集中しているそうじゃないか。京都市仏教会、市民団体が京都の都市景観を破壊する高層ホテルだということで強力に反対しているそうじゃないか。京都の都市景観は日本人の貴重な財産だよ。それを破壊する反社会的な融資をやれば失敗するに決まっている。君は何を考えているのかね」
高橋頭取はもう一つの書類を取り出した。
「それから、鹿児島県霧島のゴルフ場に係る融資が四百億円。平成二年に土地を取得したが、百ヘクタールの土地のうち八十ヘクタールが霧島屋久国立公園に指定されている。その指定の解除に努力するも見通しは立たず。鹿児島県鹿児島市にあるディベロッパー『池々開発』は二年前に倒産。これどうするの?」
義父はただ黙っていた。高橋頭取はなかば苛立ちをおさえながら義父をたしなめた。
「君、霧島屋久国立公園というのは後世に伝えるべき貴重な自然の造形じゃないか。それをゴルフ場になんかして一体どうしようというんだ。とにかく君は経営人の社会的責任を一体どう考えているのかね?こんな勝手なことをしておいて責任を取らないなんて、そんな馬鹿なことがあるか。こんな信用組合の経営引き受けを依頼された僕こそいい迷惑だ。とにかく明日にでも八重洲銀行から人をやるから協力してくれ。よろしく頼むよ」
義父は唇を一文字に結び、手を震わせながら下をうつむいていた。しかし、意を決すると部屋を出て行った。高橋頭取は、義父を見送ると、隣の秘書課長に話しかけた。
「それにしても、この京都と鹿児島の件、一体誰が見てたんだ?」
秘書課長は答えた。
「去年、退任した堀取締役です」
高橋頭取は頭を掻いた。
「あの堀の馬鹿か!またあいつか!どうしようもないな」
この一言に秘書課長は笑みを浮かべた。
「とにかく、あいつは悪いことばかりやりやがって、バブル時代には『八重洲銀行はどうして不動産投資をもっと積極的にやらないのか』とかなんとか言って、無茶苦茶な融資を始めやがった。それで偶然うまくいくと『高橋さんは時代を見る目がありませんねえ、こんな人に八重洲銀行を任せておいて大丈夫ですかねえ』なんて噂を行内にばらまきやがって、どうしようもない奴だった。このあいだバブル崩壊の責任を追及して辞めさせたが、とんでもない奴だった。俺が堀のような馬鹿を押さえたおかげで八重洲銀行はバブル崩壊の影響を受けずに済んだ。しかし、あの慈母信用組合を合併なんてたまらんぜ。適当に理由をつけて断るつもりだが、厄介な話を持ち込みやがって。とにかく、八重洲から人をやって慈母信用組合を徹底的に調べろ。女を囲う金を組合の費用から捻出するような無茶をやった会社だ。調べればいろいろボロが出てくる筈だ。来年、瀬田の奴を追い払ったら、場合によっては背任で訴えてやれ。そう指示しておけ」
秘書課長はこの高橋頭取の指示を必死にメモ書きしていた。秘書課長はメモが終ると「かしこまりました」と答えて部屋を出ていこうとした。その時、高橋頭取は秘書課長を呼び止めた。
「ああ、そうだ。君。あの石山弘樹とかいう行員はどうした?」
「確か先月末で懲戒解雇しましたが・・」
高橋頭取はけげんそうな表情を浮かべた。
「懲戒解雇?なぜ?理由は何だ?」
「当行の信用失墜行為、それから無断欠勤」
「まあ、いいじゃないか。結局、本人は何も悪いことをしていなかったんだろ。許してやれ」
「そうですか」
「そうだ。あいつは今の若いのには珍しい。白ナマズみたいな偏差値優等生より、人の女房を力ずくで奪い取って、警察のご厄介になるくらいの人間しか、これからの時代役に立たない。だいたい失敗したらもう敗者復活は認めない。そんなことでは駄目だ。どでかい失敗をした奴こそ、これからの時代本当に役に立つ。そつなく大過なくなんて奴はいらない。それから、この石山弘樹とかいう奴。今度の人事異動で俺の元によこせ。面白そうな奴だから俺がしごいてやる。君の方から俺の名前を出さないで、人事部に『石山弘樹はどうして解雇なのか?』と問い合わせろ。支店レベルの管理者の腹ではこいつは使えない。
まあ、とにかく最近のバンカーの質の悪さにはまいるな。銀行というのは顧客から大切な預金を預かって運用しているんだ。我々も融資という活動を通じて社会に貢献しているんだから、金が儲かれば何をやっても許される。そういう考えではいずれ顧客の信用を失う。融資というのはバンカーにとって神聖な行為だよ。それを穢すようなことをしてはいかん。瀬田なんてまさにバンカーの面汚しだ。じゃあ頼んだよ」
秘書課長は半ば笑いをこらえながら「かしこまりました」と言って部屋を出ていった。

数日後、慈母信用組合の合併を八重洲銀行が検討しているというニュースが流れた。

田園調布にある瀬田の家では、良子が、新居となるアパートに引っ越す準備をしていた。良子は家財道具をトラックに積み終ると、がらんどうになった二階の部屋に座った。思えば、この家に嫁いで六年。いろいろ嫌な思い出ばかりだったが、いざ出てくとなると寂しいものだ。しばらく物思いにふけっていたが、良子は意を決すると、姑のくにのところに別れの挨拶に行った。
良子が一階のくにの居間の前に来ると、部屋の中で三人のお手伝いさんたちが、くにと言い合いをしていた。
佐藤さんが切り出した。
「あの、私たち、実はここをもう辞めたいんです」
姑は辛い表情を浮かべて答えた。
「そうかい・・・」
「それで今日は退職金の相談に来たんです。やはり四カ月分はいただかないと。もう、御主人様も慈母信用組合を辞められるそうですね」
姑はこの一言に返事に詰まった。佐藤さんはこう言った。
「とにかく私たち、もうこの家で働くのは嫌なんです」
そう言い残してお手伝いさんたちは部屋を出ていった。良子は、くにの前に行くと、きちんと正座して手をついて「長い間、お世話になりました・・」と言った。
「そう・・もう行ってしまうのかい」
「ええ」
「この家も寂しくなるねえ・・・」
良子を事あるごとにいじめてきた姑であったが、その寂しそうな表情に良子は一種の憐れみを感じた。この姑と義父の人生はもう終わりなのだ。義父は慈母信用組合という事業を失い、くには自らの一人息子を失った。そして、その嫁であった自分も、二度とこの家に帰ってくることはないだろう。
良子は家の前に止まっているトラックの助手席に乗り込むと瀬田の家を後にした。

上野署の磯田部長刑事が、夏のお盆のある日、警視庁の吉田警部補のデスクを訪れた。石山弘樹から良子との結婚式の招待状を預かってきたというのだ。吉田警部補は、受け取った招待状の入った封筒を開け、中の招待状を見た。
「ほう、軽井沢記念教会。十一月三日。文化の日。軽井沢というのは、あの長野県の軽井沢?」
「そうです」
「えらい遠くで式を挙げるんだね。時間がかかるな」
「そんなことはないです。十月に長野新幹線が開業しますから。東京から四十分とかいうことです」
「あっ、そうか。なるほどね」
「良子さんの希望で地味な結婚式にして欲しいとのことだそうです。披露宴も二十人くらいしか呼ばないそうです。最近の若い人はこんなものなんですかね」
「そうだね・・それでその席で我々が事件の概要を説明するわけだな」
「そうです・・ところで、これは別の件なんですが、ちょっと質問が」
吉田警部補は少し険しい表情になった。
「何か?」
「その、新聞や週刊誌が鹿児島の女のことを知ったのは分かりますが、しかし、ホシではない京都の女や横浜の女の居場所までどうしてわかったんですか?」
「つまり、磯田さんは、我々が慈母信用組合の捜査不協力の仕返しとして雑誌や週刊誌に横浜や京都の女の件をリークしたというのかね。そのような捜査機密を外部に漏らすということは断じてやらない」
「そうですか・・」
吉田警部補は語気を荒げて答えたが、こう付け加えた。
「ただ、こういうことはあるかもしれない」
「といいますと?」
「たとえば、木俣課長や三井警部が記者会見で記者団と話しをしていて、ついポロリとその話をしてしまうとか、あるいは記者会見場を退席する時に、たまたまその二人の愛人の住所氏名と電話番号を書いたメモを机の上に置き忘れるということはあり得るだろうね。
それを新聞記者が見つけてメモるとか、あるいはカメラで写真を撮って新聞社に帰ってネガを引き伸ばすとか、そういうことはできるだろう。そうすれば、本人と会う手掛かりは掴めるだろうね。もっともそれはそういう可能性があるというだけの話であって、事実を言っているわけではない。そのことを忘れて貰っては困る」

この吉田警部補の話に磯田部長刑事はお腹を抱えて笑っていた。慈母信用組合を門前払いにされた木俣課長や三井警部ならやるかもしれない。石山と良子の浮気を写真週刊誌に書き立てさせ、自分のところに「捜査機密を漏らした」と苦情を言った瀬田の姑。この件では上野署の捜査員はみんな頭にきていたからな。

これを聞き、磯田部長刑事は吉田警部補の元を辞した。

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