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長編トラベルミステリー小説「夏の旅」。2.浮気の発覚

五月下旬、梅雨の走りのような雨が降り続いていた。良子は二階にある自分の部屋から、雨に濡れる下の庭のアジサイの花を眺めていた。
その時、ドアをノックする音が聞こえ、お手伝いの佐藤さんが入ってきた。佐藤さんは今年三十歳になる女性である。だが、今日の佐藤さんは普段と違いどことなくぎこちない感じがする。
「奥様、くに様がお呼びです。応接間に来て欲しいとのことです・・・」
また、あの変な姑が自分をいじめる口実を見つけたのだろうと良子は思った。
「わかったわ・・」
そう答えて部屋を出ていった。

吹き抜けの階段を一階に降り、玄関の近くにある広くて豪華な応接間の中に入ると、そこには義父、姑それから夫の勝邦が険しい表情をしてソファーに腰掛けていた。良子が応接間に入るや否やお手伝いの佐藤さんはバタリとドアを閉めガチャリと鍵をかけた。
姑が怒りに満ちた声で良子に命じた。
「良子さん!そこに掛けなさい!」
「はい・・・」
良子は姑の命令に従いすぐに腰掛けた。
姑は、脇に置いた大きな封筒を取り上げた。その封筒の「機動調査・谷川探偵」という文字に良子は息が止まった。姑はその封筒から一枚の写真を取り出し良子の前に置いた。
良子は「あっ!」と息を呑んだ。その写真は、三月に弘樹と水戸・偕楽園に行ったおり、崖下の階段でころびかけた良子を弘樹がしっかりと抱き締めた写真だった。あの、黒いベレー帽の男はやはり興信所の調査員だったのだ。良子の浮気が発覚したのだ。
夫の勝邦は良子をなじった。
「おまえ、なかなかやるじゃないか・・・」
良子はただ黙っていた。もう何の申し開きもできない。
「ふん、可愛い顔をして、本当はこんな性悪女だったとはな。知らなかったぜ。・・・おい!何とか言ってみろ!」
良子はただうつむいて泣きたい表情で黙っていた。
姑は良子の悪行の数々を上げ、良子を皮肉たっぷりにいたぶり始めた。
「実はね、良子さん・・・。私たち、去年の夏頃から、あなたの様子がおかしいと気づき始めたの。それで、今年二月に信用組合従業員の身元調査で昵懇にしている谷川探偵という興信所にあなたの調査を依頼したの。あなたの浮気の相手もわかってるわ。八重洲銀行虎ノ門支店の石山弘樹という人ね。この人はあなたと同じ高校の同級生ということも調べがついているわ」
良子はこの一言一言に心臓を突き刺される思いだった。
「私たち、随分あなたに良くしてあげたのに、こんな裏切りってないでしょ・・・。あなた何とも思わないの?」
良子は素直に謝った。
「ごめんなさい」
姑は良子をたしなめた。
「世の中には謝って済む問題と、済まない問題があるわ。あなたは瀬田の家に泥を塗ったのよ」
義父はこれに勢いを得た。
「息子は慈母信用組合の副理事長という社会的地位にある。その妻が浮気をしていたなどということが世間に知れ渡ったら大変なことになる」
姑は意地悪そうな口調で良子に問いかけた。
「それで、良子さん。これからどうするの?」
良子は、しばらく考えた上で勇気を持ってこう言った。
「勝邦さんとは離婚したいんです」
姑は「なるほどね・・・」と意地の悪い薄笑いを浮かべた。
勝邦はあたかも猫が鼠をいたぶるように良子に嫌がらせの言葉を浴びせかけた。
「まあ、それはいいとして・・・まず、その石山弘樹という奴からは慰謝料を貰わないといけないな。その額は十億円・・」
「十億円!」
良子はその金額にわなわなと震えた。
「近々、損害賠償訴訟を起こしてやると弁護士と話はついている」
勝邦は、さらに続けた。
「この石山弘樹というのは八重洲銀行虎ノ門支店のヒラ行員だそうじゃないか。実はな、俺は八重洲銀行頭取の高橋勲頭取とはつき合いがあるんだ。今度高橋頭取に会ったらそれとなく『八重洲銀行虎ノ門支店のヒラ行員に石山弘樹というとんでもない奴がいます』と言ってやる。そうすれば、あの非常に厳格なことで知られる高橋頭取のことだ、ただでは済まないだろうな。減点主義人事、失敗を許さない銀行という組織で『人妻と浮気をした』なんて評判が立てば、一生ヒラ行員のままだ。いや、銀行を追い払われるかもしれない。いいか!お前は離婚しても相手は十億円の借金を払えない破産者でしかも一生ヒラの行員だ!これが瀬田家に泥を塗ったお前とその石山という男への報復だ!俺の妻に手を出した奴はこうなるんだ!」
良子は夫の勢いに若干驚いたが、良子は思った。それにしても何て身勝手な夫なのだろう。自分は外に私に隠れて何人もの女を囲っているのだろうが、その代わり妻は男とつき合うことは駄目だというのだ。

だが、義父はそう思わなかった。これから信用組合を経営するであろう息子、勝邦のことを考え良子にこう申し渡した。
「とにかく、離婚はあいならん・・・」
「そんな・・・」
その一言に良子はかすかな希望を打ち砕かれた。
「いいか。慈母信用組合の副理事長が妻と離婚したとなれば、世間はどう思う。あそこの信用組合の理事長は家庭すらも満足に治めることができないのか?家庭すらも満足に治めることができないのであれば、それ以上に大きな組織をまとめられるわけがない。そう世間に見られることになる。これはまずい。たとえ、もう勝邦と良子さんの間に何の愛情もないにせよ、夫婦という外形や世間体は慈母信用組合の存続のため維持しなくてはならない。だから、離婚は許さない」
良子はこれに反論した。
「そんな・・そんな馬鹿なことってあるんですか・・・」
義父は答えた。
「ある」
姑が立ち上がり「佐藤さん来て!」と応接の外に呼びかけると、三人のお手伝いさんが良子を取り押さえた。
「何をするんです!」
良子は必死に抵抗した。
勝邦は良子に申し渡した。

「お前は、自分の部屋に監禁だ!俺の部屋に来ること以外まかりならん!」

抵抗する良子は、二階の自分の部屋に放り込まれ、外から鍵をかけられた。良子は一人泣いた。

良子が家に監禁されて半月が流れた。六月十五日の土曜日。その日は未明から凄まじい雨が降っていた。日本の南海上に停滞する梅雨前線に、はるか南方海上の季節外れの台風四号の湿った南風が吹き込み、その影響で前線の活動が活発化していたのだ。午後四時、テレビの気象情報では午後二時から午後三時までの一時間に小田原で四十五ミリ。横浜で三十五ミリ。房総半島館山で五十五ミリの大雨となり、現在JRは内房線の君津・館山間で運転を見合わせているという。現在小田原から横浜にかけて強い雨雲があり、東の方向に移動しており、現在東京都、神奈川県、千葉県全域に大雨洪水警報が出ているとのことである。

午後四時頃、良子は気晴らしに一階にある夫の部屋に行くことにした。部屋を出ると、お手伝いの佐藤さんが後をついてきた。外出はもちろんのこと、手紙も書けないし電話もかけられない。夫の部屋に入ると佐藤さんはガチャリと鍵をかけた。

夫の部屋にはよく整理されたマホガニーの机があった。その机で、しばらく小説を読んでいた。外の雨脚はバタバタと激しく、大粒の雨が地面に叩きつけられていた。一階の夫の部屋の窓を開けると開く。このあいだ、この窓を抜け出して、六メートル先の、庭を散歩するための下履きの入った下駄箱からサンダルを取り出し、裏口から抜けられないかと試して見た。裏口の塀にある出口は内部からは出られるが、閉まると外からは開かない。そこで、庭の隅にあるロープを外に出しておけば、帰りは、このロープを塀沿いの大きな松の木の枝に懸けて塀を乗り越えて戻ればいい。そんなことをこのあいだ思いついた。

それにしても弘樹の心はどんなものだろう?・・・毎週土曜日の午後六時に京浜東北線蒲田駅の改札で待ち合わせていた。だが、もう三回も振っている。弘樹は苦悩しているに違いない。そうして、自分から弘樹の心が離れて行ってしまわないか?彼の前に私より素敵な女性が現れて、彼の心が離れていかないか?そう思うといたたまれない気持ちになった。なんとか彼と連絡が取れないか・・・。そうだ、近くのコンビニエンスストアの電話で彼と連絡できないだろうか?そうだ、さっきの案を実行してみよう。そして十億円の損害賠償訴訟の件を弘樹さんに早く知らせなければ・・・。

その時、ピーッ、ピーッ、ピーッ、ピーッという携帯電話の発信音が聞こえてきた。それは、夫、勝邦の背広が入っているクロークから、あたかも地獄の底から亡者の泣くような声のように思えた。急に雨脚が強くなり、窓の外のコンクリートを激しく打った。良子がクロークに近づくと、その発信音は途絶えた。

良子は再び夫の机に座ると、小説に熱中した。ところが、しばらくすると再び、ピーッ、ピーッ、ピーッ、ピーッという発信音が静かに聞こえてきた。良子はクロークを開け、その発信音のするダブルの背広を見つけ、ポケットをまさぐった。そして、一台の小型の黒い携帯電話を見つけ取り出した。その携帯電話を取り出したところで、再び発信音は途絶えた。

良子はその携帯電話を手にしながら考えた。そうだ!これを使って弘樹さんに連絡が取れる。良子はその携帯電話を使い、どうしたら良いかを考えていた。弘樹の家の電話番号は暗記している。

良子は試しに携帯電話で177の気象情報を聞いてみた。177とボタンを押すと、「東京地方、今夜は雨。強く降るでしょう。現在東京地方に大雨洪水警報が出ています・・・・」と気象情報の合成音声が流れてきた。良子はこの結果にすっかり満足した。電話を切ると今度は横浜にある弘樹の家に電話をかけようとした。ところが、突然、携帯電話がピーッ、ピーッ、ピーッという発信音を出し始めた。良子は受信のボタンを押した。「もしもし瀬田ですが」と言おうとした時、女の元気な声が聞こえてきた。
「勝邦さん!驚かないでね!私ね、今、東京にいるの!東京へ出て来たの!」
「あの・・・私、瀬田の家内ですけど」
「えっ!」
相手の驚き方は尋常でなかった。まるで心臓が止まった。そんな感じの、あたかも死に際の人間が呻くような、深い地獄の闇に包まれた声だった。さっきの元気さは全く消えうせ、震える声で良子に尋ねた。
「あの・その携帯電話!いつものように・・そう・・私専用の携帯として使っていないの。今日、勝邦さんはその携帯を持っていないの!?」
それは、あたかも崖っぷちに追い込まれた、悲鳴に近い叫びだった。
「そうですけど・・あなたは誰?」
良子が問いかけると携帯電話はプツリと切れた。
良子は呆れてしまった。「私専用の携帯・・」愛人との浮気のためにわざわざ携帯電話を一台買い込んで背広のポケットに持ち歩いていたのだ。たまたま今日は持っていくのを忘れたのだろう。

良子はドアのところに人の気配がないのを確かめ、携帯電話で弘樹の家に電話をかけた。
「もしもし、弘樹さん、良子です」
弘樹はこの声に、あたかも地獄で仏様に会ったような声で答えた。
「良子さん・・・本当に良子さん?」
「そうよ」
「一体・・・一体・・・どうしてたの?この三週間、蒲田駅にいなかったじゃない。君から何の便りもなくて僕は死ぬ思いだった。思い切って、自分の心臓がはり裂けてしまえば良いと思っていた。どうして連絡してくれなかったの?」
「ごめんなさい・・・実は・・実は浮気がばれて家に監禁されて連絡が取れなかったの」
「ほんと・・」
「詳しいことは、会ってから話すわ。今日会ってくれない?」
「いい。何としても会うよ」
「今日は東急目蒲線の『鵜の木』の駅に傘を余計に一本持って六時に来て。お願い」
「なぜ」
「とにかく・・わかって」
「わかった・・必ず行くよ」

良子は夫の部屋のドアの内側から鍵をかけると外へ飛び出す決心をした。その時、ハッとよい考えが浮かんだ。この携帯電話の請求書はないだろうか?そうすれば、どこから電話がかかってきたかがわかる。そうして、こちらから夫の不倫を興信所に調べてもらい、離婚の材料にすればいいはずだ。良子は夫の机の中をごそごそと探し始めた。良子はしばらくして、その携帯電話、NTTドコモの四月の請求書を書類の中から探し出した。その携帯電話の通話先を見て驚いた。横浜、京都それから鹿児島・・・三人・・・良子は絶句した。横浜なら浮気の相手としても適当だが、京都に鹿児島というのには驚いた。しかも、通話先の電話番号が請求書にきちんと載っている。ようし、それならこちらも興信所を使って夫の浮気を炙り出してやろう。良子はその請求書をポケットに入れると、窓を開けて凄まじい雨の中をずぶ濡れになりながら外に飛び出した。

家の近くの鵜の木駅で、良子は頭から足先までずぶ濡れになり、寒さに震えながら弘樹を待った。17時35分の目黒行電車で駅に降り、改札を抜けた弘樹は、雨に濡れて震えている良子を見つけ驚いた。家の中で着ている普段着の安物の白いワンピース。はだしに粗末なサンダルをはいている。その様子に弘樹はたまらなくなって、震える良子を抱き締めた。
良子は弘樹にささやいた。
「お金がないの・・みんな姑たちに取られてしまって・・」
「そう・・」
「夫や姑たちが言ってたわ。あなたに十億円の慰謝料を請求するんだって。それから、八重洲銀行の頭取に悪口を吹き込んでやる。そうすれば、あなたを潰せると・・」
「そうか・・ついにそうなったか・・」
「私、もう何もいらない。あなたさえいれば、それでいいの」
「もう、こうなれば、どこか外国にでも逃げよう。アメリカか香港か、そこで何か商売を始めれば何とかなる」
「私たち・・死ねばいいのよ。そうすれば、地獄の底で二人一緒にいられるわ」
そう言って良子は涙ぐんだ。

二人は切符を買うと鵜の木駅の人のぱらぱらとしかいない東急線のホームにしばらく立って蒲田方面の電車を待っていた。凄まじい豪雨がホーム先の線路に落ち、夕闇が迫っていた。

しばらくすると東京方面から蒲田行きの電車が到着した。二人は何人かの乗客と黙って乗り込んだ。ドアが閉まると電車は発車した。二人は、ドアの近くに黙って立っていた。
弘樹は呟いた。
「十億円の損害賠償か・・・」
走っている電車の窓にバタバタという凄まじい音を立てて雨が叩きつけている。
「でも、僕は嬉しいよ。君とつき合うことが十億円の値打ちのあることだなんて・・・思い切って払ってやりたいと思うよ・・・でもそんな金はない」
この言葉を良子は黙って聞いていた。良子は弘樹に尋ねた。
「今日は・・どこに行くの?」
「どこへ行こうか?こんな雨の日だから、外を歩くというわけにはいかないな・・・そうだ、映画でも見ようよ。そうすれば、雨を避けて何時間か一緒にいられる」
「そう・・なんて映画?」
「京浜東北線蒲田駅前のテイク24という映画館で、今話題の『ランダム・ハーベスト』という映画を見よう」
「そう・・・」
二人は、しばらく言葉を失った。良子が心配そうに弘樹に話しかけた。
「私たち・・これからどうなるの?」
「どうなるんだろう・・・」
「もう別れた方が・・」
「そんなこと言っては駄目だよ。一緒になるという気持ちを持たないと・・」
「そうね・・私もあんな家で、これからお姑さんが死ぬまで二十年も三十年もあの小言に耐えて、浮気ばかりしている夫のもとで、まるで寄生虫のように暮らしていくなんて耐えられない」
「そう・・」
弘樹は考えた。もう日本のような国で生きて行くのはまっぴらごめんだ。どこかアメリカか香港のような国に良子と一緒に渡って新しい生活を始めた方がいいかもしれない。
二人はふっと顔を見合わせ、しばらく黙り込んだ。弘樹には良子と別れ別れになるということは考えられなかった。
二人はテイク24という映画館で「ランダム・ハーベスト」という映画を見た。良子はその映画を弘樹と見ながら、弘樹の肩に頭をつけて、時おり目頭を押さえながら泣いていた。

午後九時すぎ、良子を鵜の木駅前に送った弘樹はお別れの挨拶をした。
「こんな時間になって大丈夫?」
「なんとか・・・取り繕うわ。また嘘を言って・・」
その一言に弘樹の胸は痛んだ。弘樹はこう言った。
「もう、こんな日本のような国は見捨ててアメリカか香港に行って二人で暮らそう。そこで、僕は必死になって働いて君を幸せにするよ」
「そう・・もう私何もいらない。あなたさえいればそれでいいの。じゃあ、約束通り六月二十五日の午後六時に私はあの家を逃げ出すわ。必ずここにいてね」
「わかっている」
そう言うと、弘樹は良子を固く抱き締めた。

良子は弘樹の持ってきた傘をさして鵜の木駅から歩いて十分ほどの自宅に帰っていった。その時、警ら中のパトカーが、一人で深夜雨の中を歩く良子の後ろ姿を見つけた。警官たちは話しあった。
「こんな夜遅く、このあたりを女性が一人で歩くのは危ないな・・」
「そうだな・・」
パトカーはしばらく良子の後を追った。良子は自分の家の塀の前にあったロープを見つけると、塀の上の松の木の枝にロープをかけ塀を登ろうとした。警官たちは驚いた。何と女性の窃盗常習者だ!警官たちはそう勘違いした。パトカーを素早く発進させると良子のところに止めて、赤いパトライトを点滅させ「ウーッ」というサイレン短く鳴らし、警官が良子に呼びかけた。
「あんた、ここで何してるの?」
良子は自分の後ろにいつのまにか警官とパトカーがいることに驚いた。良子は答えた。
「家に戻ろうと思って・・・」
「家に戻る・・・家の人だったらどうして玄関から入らないの?」
「裏口が閉まっていて・・・」
「そんな馬鹿な・・・本当にこの家の人?」
「そうです・・」
「名前は?」
「瀬田良子と言います」
「それなら、我々をこの家の玄関に案内してください・・」
「わかりました」
良子はそう答えると警官たちを裏口から三十メートル離れた玄関に案内した。良子は玄関のインターホンを警官たちに示した。警官たちはその立派な門構えの格子戸のある玄関に驚いた。表札には確かに「瀬田」とある。警官はインターホンのボタンを押すとこう言った。
「夜分恐れ入ります」
お手伝いの佐藤さんの声がした。
「何でしょうか?」
その時良子はインターホンに向かって叫んだ。
「佐藤さん!良子です!」
「奥様!」
その一言に警官たちは驚いた。警官がインターホンに向かって呼びかけた。
「あの、この家の方を保護したのですが少し事情をお話し願えませんか?」
「わかっております。今、門の戸のオートロックを外しましたので、格子戸を開けてそのままお入り下さい」
警官が門の格子戸を開けると開いた。そのまま進んで邸宅玄関のドアを開け中に入ると、お手伝いの佐藤さんと姑のくにがあっけに取られた表情で、玄関の良子と警官たちを見ていた。警官は尋ねた。
「失礼ですが、この良子さんはこの家の方ですか?」
姑は困惑して答えた。
「そうです」
警官は呆れてしまった。冗談じゃない。自分たちは忙しいのだ。いい歳をして自分の家の塀を乗り越えるなんて馬鹿なことは止めにして欲しい。その時姑は、この場をいかに取り繕うかを考えていたが、残酷な取り繕い方を考えた。
「実は・・ここだけの話にしてもらいたいんですけど・・」
「はあ・・」
「実はその人、心の病なんです。だから家に閉じ込めておいたんですけど逃げ出してしまって・・」
警官たちは姑の答えに得心した。そうか、心の病なのか・・それならこの奇矯な行動も説明がつく。この一言を聞いて良子はわなわなと体をうち震わせた。警官たちは納得しその場を辞すことにした。
「そうですか・・わかりました。それではくれぐれもご注意願ます」
警官たちがドアを閉めて出ていくと、くには怒りに任せて玄関に置いてあったスリッパをお手伝いの佐藤さんに力任せに投げつけた。
「何をやってるの!あれほど注意して見ていなさいと言ったのに!」
佐藤さんは床に手をついて謝った。
「申し訳ございません!大奥様!お許しください!」
姑は怒り狂って佐藤さんをなじった。
「とにかく今回は大目に見るけど、今度失敗したら首にするからね!佐藤さん!代わりはいくらでもいるのよ!そのことを忘れないでね!」
そう、佐藤さんに言い放つと、くには自分の部屋に戻っていった。良子は床に手をついて震えている佐藤さんに声をかけ、謝った。

「私のために・・ごめんなさい」

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