「あいさつ禁止」

 ブログ整理中。2016年11月のある日のブログ。ここでは小さいころからの疑問が、改めて書き綴られている…。

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 新聞を読んでいたら、面白い記事を見つけた。

 「マンション内あいさつ禁止」

 あるマンションの住民総会において、マンション内での挨拶を禁止することが決定されたらしく、そのことに関してTwitterなどで議論が起きているというものだ。

 『知らない人にあいさつされたら逃げるように教えているので、マンション内ではあいさつをしないように総会で決めてください』

 という提案が住民総会で出され、それが決定されたという。これはある意味すごい。

 挨拶などの声かけは防犯上の効果もあるのに…という挨拶の効果についても議論はさておき、ここはひとつ純粋に「挨拶」というものについて考えてみたいと思った。

 まず私の個人的な経験から。

 小さい頃の私にとって非常に嫌だったことの一つは、学校では挨拶を強制される、ということであった。

 教師たちはとにかく挨拶の重要性をことあるごとに唱え、挨拶をするよういろいろな場面で「指導」する。私はこれが嫌で、単なる強制でしかないと感じていた。

 学校を一歩出ると、子供も大人も挨拶しなかったりする。あるいはお店などでは、店員はきっちり挨拶する。でもその同じ店員が、仕事を終えて外に出るとさっき自分が挨拶した客のことなど全く無視している。なぜなら「挨拶」は店員にとって仕事の一部だからするのであって、人と人との基本的なコミュニケーションの一部としてやっているわけではないからだ。等々の光景を見るにつけ、「挨拶」というもの自体に疑問を感じ、これはいったい何なのかと考えるようになる。欺瞞ではないか、と感じるのだ。

 この点、初めて海外旅行に出たときに、新たな発見があった。誰もが気軽に挨拶しているという実に単純な事実だ。

 強制はされない。「挨拶しなさい」と学校で厳しく教えられている様子もなく、子供も大人も、ごく自然に街中で挨拶している。彼らにとって挨拶とは、仕事の一部だからやるとか誰かに強制されるからやるとかではなくて、人と人との基本的なコミュニケーションの一部だからやっているだけなのである。いわば、強制されなくても人として当たり前のことをしているというだけのことである。

 もちろん外国にもよるのだろうが、私が接した外国の人々はきわめて自然な感じだったので、明らかに日本の風潮とは異なっており、挨拶というものについて改めて深く考えるようになった。

 なぜ強制もされないのに自然に挨拶しているのか、その理由は単純で、挨拶したほうがお互いに気持ちがいいからだ。

 挨拶しないで黙っていたりすると、お互い気持ちが悪い。居心地が悪い。ひとこと挨拶すれば、こうした不快感はすぐに解消される。だから、誰かと会えばすぐに挨拶する。

 それだけのことだと思うのだが、日本ではそれだけのことでは済ますことができないようだ。

 挨拶するよう学校では教えられ、挨拶しないと叱られ、挨拶すると今度は挨拶の仕方が悪いという理由で叱られ、でも学校や職場以外の場面では、挨拶したのに返事がないから不愉快だということになったり、知らない人に挨拶されたら逃げなさいと子供に教えるようになぜかなったりしているというのだから、ややこしい。

 そもそも、子供に挨拶すること自体が不審なのではなく、挨拶でまず声かけた後に、何かおかしなことを問いかけたりすることが不審なのではないだろうか。しかし、「挨拶されたら逃げなさい」ということになるらしい。

 さらに私が面白いと思うのは、「挨拶しなさい」とか「挨拶は禁止」とか、そういうものをいちいちルールにしたがる、ということだろうか。

 するとかしないとか、別にルール化しなくてもいいんじゃないか。

 「こういう決まりがあるからやってるんだ」と、自分のやり方に大義名分を与えたり正当化したいがためにいちいちルール化しているように思える。こういう考え方も、日本ではよく見かけると感じる。自分が正しいと思うなら、ルールになっていようがいまいが別に構わないではないか。

 誰かと会えばすぐに挨拶する。ただこれだけのことが、できないんだなぁ。

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