ぼくは何者だったのか考えてみた⑨

大学時代って、想像してたのとちょっと違ったんだよね。
日芸(日大の芸術学部)に入れたのはよかった。とは、思ってる。
同級生には「宮藤官九郎」「テツandトモ」もいる世代。
このあたりはぼくが語るまでも無い大活躍だよね。
面白いひとが集まっていたもんだ。その意味では刺激的だったけど。

冒頭から話が逸れているのは御愛嬌。
気付けば時代は“平成”になっていて。
平成とともに始まったぼくのめちゃくちゃな大学生活は、
女の子と音楽とバイトに明け暮れて、
ロクに勉強もしていないような“模範的な”大学生だった。
だけど、本当はそうじゃなかった。
ちゃんと、「芸術系」ならではの「技術」や「知識」を身につけたかった。

きっと教授や大学のシステムとしてはきちんとされているんだと、
いまになれば思う。わかる、というか。いろんなルールも。
ただ当時は支払う学費に対して、
受け取れる内容、サービスと言っても良いか。
それが見合っていないような気がしていたんだよね。
よく言えばぼくが貪欲過ぎたのかもしれない。
実際はルールに則ってきちんと学べば良かったのかも、しれない。

けど、どうしても納得出来ないいくつかの事象(大学のルール)が原因で、
(もちろんぼくの自分勝手な解釈なんだけど)
もともとあった間違った正義感を振りかざして、
授業に出ずにバイトばっかりになっていくんだ。

要は、
学費を払っているにも関わらず求めている知識・技術が得られない、
教えて欲しいことが教えてもらえない(と思い込んでいる)くらいなら、
バイト料(つまりお金)を頂けて、
教えてもらえる(しかも厳しめ)現場の方が良いってね。

音楽業界に少なからず憧れも抱きつつ、
その入口がわからないから、「芸術系」の4年制に通って、
ある意味では時間稼ぎをしたかったのかもしれないよね。よくある話。

バイトはね、
昼間「ぴあ」でライター修行。
夜は放送が始まったばかりの「WOWOW」の技術アシスタント。
放送マスタールームでオンエアのテープの掛け替えや調整。
衛生信号の監視。

いわくある「ぴあ」でのバイト経験は、とても有意義だったなぁ。
そして「WOWOW」のエピソードも面白いので、ちょっとまた書くね。

大学に話を戻します。
一応、予備校時代にわちゃわちゃしていたアイドル同人誌メンバーの
何人かと音楽活動を再開したこともあって、
大学でもバンドを組んでみたりは、した。サークル。

軽音楽部とフォークソング研究会っていうのがあって、
ぼくはフォー研(って呼んでたか?違うか…怪しい記憶。)に。
フォークといっても軽音とあまり変わらなくて、
普通にロックバンドとかたくさんあったよ。
きっと昔からの伝統でそういう名前なんだと思います。
軽音に入らなかったのは、こっちは割とパンク色が強かった印象で。
ただ音楽的な志向というかイメージで、たまたまそうだっただけね。

あぁ、冒頭に挙げていた「宮藤」くんは、軽音に居た。
ちなみに放送学科のクラスも一緒だったんだ。
この2サークルは意外と仲良くて、こんなぼくだって軽音にも友人は居た。

フォークの方にも才人が居て、のちにバンドでメジャーデビューして
いまや音楽プロデューサー、作曲家、ギタリストとして大活躍する
「久保田光太郎」とも知り合うんだ。
彼は在学中にバークリーかなぁ、
ロスに音楽留学に旅立っちゃうんじゃなかったかな。

まぁ、そんなわけで、周りにすごい人たちがたくさんいて。
そんな中、ぼくはロクに授業にも出ず、
なんとなくサークル活動には参加しつつも、バイトばっかり。
しかも、サークルで知り合ったRちゃんとお付き合いさせてもらいつつ、
放蕩生活に拍車がかかってしまうことになる。
ここでは多くを語りませんが、
Rちゃんとの短い大学生活はぼくと彼女のその後の人生を左右することに。
いまは言い尽くせない喜びと悲しみと後悔。
あのときはありがとう、ごめんなさい。

ここでは(noteでの)本題ではないので…
この話はぼくの心の中に置いておきます。

大学でのバンドは「江古田ROCKS」って名前で。
ハノイのパロディ。名前だけでハノイロックスはやってないんだけど。
これはこれで好きなメンバーだったんだ。
ボーカルのナオちゃんはよく覚えてるな。
メタリカ好きのベーシスト、メタリカって呼んでた。元気かな。
ほかにキーボードのきれいな女の子ちゃんと賢いタイプのドラマーくん。
ライブもやったな。
HEARTのAloneや、DEEP PURPLEのHighway Starとか、浜田麻里さんとか。
ぼくのヘタクソなギターはこのときも健在。
いまでもヤな夢見るときは「江古田ROCKS」でのライブで、
機材がなくて焦るとか、ライブで失敗する場面を繰り返してる。。。
余程のことだな、これは。

でね。ぼくがそもそも大学生活自体に積極的じゃない上に、
Rちゃんと過ごす時間が多くなったり、
なんならバイトを昼夜やってて学校にも行かなくなるしで、
あのバンドがどうなって終わったのかも定かじゃない。
大学生活自体を突然終わらせたんだから、そりゃそうか。

きっと迷惑ばかり掛けたんだろう…。
大学の仲間もいまではほとんど居ないのが、ぼくの間違いだった。
人間関係の築き方、正直いうと結局いまでもよくわからないからなぁ。

いまでもたまに会う人のひとりは、フォークの仲間で。
もうひとりは軽音の友達。
彼らとの関係は、実は「大学のあと」に改めて紡がれる不思議。

音楽活動は、そんなわけで、
大学でのサークルと、かつてのバンド仲間との曲作りくらい。
楽しかったけど、この頃は既に自分で音楽家になるなんて…
そんな大それたことは言えなくなっていたんだろうな。
練習もしない、生意気なだけの、努力も研究もしない、エエカッコシィ。
大学にちゃんと通う、ということすら出来ない。

どうも振り返ると、
中学時代からこじらせていた人間関係や友達作りのヘタさ加減は、
この時期に開花してしまう。よくない…。後悔しているわけではないけど。

高校では誰一人友達として成立していない上で、
せっかく培ってきた大学時代の友達とも“疎遠になる根本的な理由”が
少しだけ自覚できた時期だとは思っている。

それでも、音楽(制作)に明け暮れ、
ライブに通ったりすることは相変わらずで。

バイトも、音楽業界の入口を探すために決めたわけだし。
授業受けているヒマはナイ。←

馴染まない大学、実態の無いあやふやな暮らしを続ける中、
時は2年も3年も経ってしまって。
それまでの目的無きバンド活動や、
どうしようもない怠惰な生活を一変させるような出来事が起こるんだ。

忘れもしない、1992年の2月14日だったと思う。
だったと思う…っていや忘れてないか?

この日をキッカケにぼくの意識と生活は怒涛の変化を余儀なくされる。
出来事そのものは割愛しますが、要は大学を辞めるキッカケになるんだ。

キッカケでしかないんだけれど、
この日を境にバイト先での動き方も変わってくる。
働き方じゃないよ、動き方。

そこから半年ちょっと。平成になって初めての夏に。
いよいよ大学中退の決意と突然の社会人デビューを迎える。

これまで活動してきた、そして関わって来てくれたみんなとの、
不思議な御縁がうねりだしていくんだよ。

突然訪れた、意識と生活の変化。
少しは真っ当に生きていけるようになるのか。
この時はそうなると信じてはいたんだけどね。

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