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「100時間のゲームをプレイする」ことはできないが「ゲームを100時間プレイする」ことができたのはなぜか

ここ数年、超大作のゲームと聞くと尻込みするようになってしまいました。
クリアするのに100時間くらいかかる作品はよほどのことがなければプレイすることはないと思います。
理由はシンプルに時間・気力・体力がなくなってきたからです。



いつの頃からか気になるゲームがあったときにはまず「〇〇(タイトル) クリア時間」と検索してから購入するかを判断するようになりました。
理想は小規模なインディーなど3~5時間くらいで終わるゲームで、休日に一気にプレイしてエンディングを見てしまいたいと思うようになっていたのです。
実際、おととし2022年についてはその方針で数多くのゲームをクリアしました。



ところが2023年の秋に『ファッションドリーマー』(Switch)というゲームと出会い、最終的には100時間以上プレイするほど夢中になりました。
ひとつのゲームをこんなに長時間プレイし続けたということにわたし自身驚いたのですが、その時に頭をかすめたのが、
「これだけゲームに割ける時間があったのなら、どんな大作タイトルだってクリアできたんじゃないだろうか」という考えです。
世間で大作と言われているゲームもおそらく100時間あればクリアできたでしょう。
ですが、「それはちょっと違うな」とすぐに思い直しました。



クリアするのに100時間かかるゲームと、わたしが100時間プレイしたゲームとでは根本的な部分が違っているのだと思います。



100時間かかるゲームはクリアするのに欠かせない要素だけで100時間が構成されていて、中身がぎっしり詰まっている印象があります。
RPGで考えるとマップ探索・ストーリーイベント・ダンジョン攻略・レベル上げ・ボス戦などがそれにあたり、エンディングを見るために最短でクリアするのに100時間かかると想像してみてください。
そういったゲームをプレイするあたってはそれなりの心構えが必要になると思います。
もちろんプレイ時間の確保も必須でしょう。



そして反対に、わたしが100時間プレイしたゲームについてですが、『ファッションドリーマー』は特殊なゲームなので代わりに同じRPGで例をあげてみます。
たとえばメインクエストは30時間でクリアできるゲームがあるとします。
そこで必須ではないがレベルをカンストさせたいという理由でバトルを繰り返したり、
サブクエをコンプリートしたり、フォトモードに熱中したりといった横道の要素を楽しんだ結果プレイ時間が100時間を超えてしまったというのが近い感覚です。



要するに「やらなくていいことをあえてやった結果、プレイ時間が100時間を超えた」ということです。
ゲーム側が要求していないことをプレイヤーが自らの意思で行うという点がポイントで、充実した時間であると同時にそこにはある種の「余裕」が生まれているとわたしは考えています。
自分で決めた目標を達成するのでそこまで苦でもありませんし、
そもそもやらなくてもいいことなので、気楽に始められますし、いつやめても構いません。
余裕のある時にちょっとだけ遊ぶことだってできます。
そういった心構えなので、ゲームをプレイするハードルもかなり下がります。
少しずつプレイ時間を積み重ねていった結果が100時間になった。
わたしが久しぶりにゲームを長時間遊べたのはそういう理由でした。


もちろんまだわたしにもAAAなどの大作ゲームを思い切り遊びたいという気持ちはあります。
正直時間なんて気にせず何時間でもプレイして、大ボリュームの重厚なストーリーに思い切り浸って楽しみたいです。
ただ、最初にも述べたように昔よりも時間・気力・体力がなくなってきてしまったというシビアな現実を前に方向転換をせざるを得なくなりました。
これからもマイペースにゆるく遊んでいける、もしくは短時間でクリアできるゲームを優先的に選び取っていくことになるでしょう。


ですが、いつの日かすべてを後回しにしてでも遊びたくなる、そんなとびきり面白いゲームに出会えるという希望だけは捨てずにいこうと思います。
おそらくわたしはこの先もずっと、たとえゲームをプレイしない時期があったとしても心はゲーマーであり続けるでしょう。
最高のゲームを遊ぶことはゲーマーにとってなによりも幸せなことです。
その喜びを何歳になってもかみしめていきたいと思っています。