50首連作「ホログラム」作歌過程全部見せマラソン――5日目(12〜13首目)

文フリで買うべきものがあればコメントで教えてください。

全部見せ(12首目〜13首目)

崇高な計画として仰向けのあなたが宙に描く夏薔薇

12首目。

「王」というお題から作っている。

「王」のイメージから「崇高」という語を導いたのは想像できるが、メモがほとんど残っていない。

崇高な計画として〜あなたが宙に描く

いきなりこの書きつけに飛ぶのだが、すでに3句、そして5句の一部以外は完成している。

「仰向けの」をどう導いたかについては、全く記憶がない。

「夏薔薇」は堂園昌彦さんを強く意識している。

堂園さんと言えば薔薇、というイメージがあるのだけど、ほかの人に聞くとあまり分かってもらえない。

太陽が冬のプールに注ぐとき座って待っていたこんな薔薇
堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』

この歌のイメージが強いのだと思うけど、

美しさのことを言えって冬の日の輝く針を差し出している
堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』

この「針」もどことなく薔薇っぽい。

「崇高な」が出てきた時点で、なんとなく堂園さんのイメージを持っていたのではないだろうか。
『やがて秋茄子へと到る』には、どことなく崇高な気配が漂っているように思うので。

そういうイメージがあったから、堂園さんっぽいモチーフを選択したのだろう。

海のことすっかり忘れてわたしたちを滅ぼすものの色を数えた

13首目。

「すっかり」というお題から作った。
これはメモに試行錯誤の様子がよく残っているので、スクリーンショットを貼ろう。

「すっかり」という語は割と「忘れる」と相性がいいので、そこは素直にそれを選んだのだろう。
「海」がどこから出てきたのかは記憶にない。

「滅ぼす」は私の海に対するイメージがなんとなく滲んでいる。
海辺に育ち、実家が津波の浸水予想地域にあるので、海というものが常にそばに不気味に存在しているものであるという把握をしているのだ。

次に3句「人間を」を「わたしたちを」に変更している。これはふたつの意味で成功していると思う。

まず、「わたしたち」が主語になることで、連作の登場人物が不必要に拡大せずに済んでいる。
「ホログラム」は徹頭徹尾「わたし」と「あなた」との閉じた人間関係についての連作であり、そのように調整すべきものだ。

次に、「わたしたち」を含む字余りについて。

「わたしたちを」は3句であるのでこれは字余りだが、私はこの字余りが好きだ。
これだけではなく、

もう一度約束をする わたしたちの棘にはどうしても意味がある
鈴木えて「けもののたまご」『Q短歌会機関誌第四号
雪橇があかるいようにわたしたちへのフォビアは速く軽く来ること
鈴木えて「言葉を継ぐ
自分の字が好きになれないわたしたちがぎこちなく送り合うラブレター
鈴木えて「ホログラム

ここまでくると手癖だが、「わたしたち」に助詞をつけて字余りさせることが多いと分かる。

字余りには、やはり「溢れ出ている」という感じがある。
「わたしたちを」の字余りにより「わたし」という「我」がむわっとするほどの濃密さで出るのが、私が「わたしたち」を含む字余りを好む理由なのだと思う。

少々の手直しののち、「色を考えた」から「色を数えた」に変更してこの歌は完成している。

「色を数える」というコロケーションはかなり好きだ。
色というものはグラデーションで存在しているから、切り分けて数えることなどできない。何もかもを言語で掬いとることはできない、ということに、ゾクゾクする。

言語が我々の思考を規定するとか、言語が世界を分節化するとか言うけれど、言語で捉え切れないものがある。

数種類しか色の名称を持たない言語の話者は、その数種類の色しか見分けることができないわけではない。
こういう例が持ち出されるとき、色と言語は緊張関係に陥る。

言語というものが、我々の知を規定する絶対者でありながら、世界のカオスの前にあまりにも無力であること。

それが好きだから、「色を数える」というコロケーションを持ち出した。

感想

秋の文フリでは本を出したいです。

日曜日はQ短歌会のブース(タ-06)をよろしくお願いします。
先ほど引用した「けもののたまご」が載っている機関誌第四号も買えるので。

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