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私が望む事、を分解してみると?

 好きな事をしようよ!というちょっとした圧

師匠。毎日早朝の勤行の際、夜明け前ですが、に私は東の方、朝陽が出る方面に行きます。その頃、木の下を通ると、大変威勢の良い鳥の合唱が聞こえます。唄う、というより、勢いよくおしゃべりをしている感じです。

 最近、良く目にする言葉に、「自分が本当に好きな事をしよう。」というのがあります。なかなかに深い言葉です。私は自分で選択したという責任は負っていますが、好きな事を選んだかというと、そんな事は無いです。
 仕事は、好きな事ではなく、出来る事を選択したし、パートナーな好きな人では無く、条件を好きになっていました。
 好き、というのは確かに大事で、好きだから、という理由だけで、ヨガの学びも、毎朝の勤行も継続しています。どこが好き、と考えた事は無いですが、この二つはセットになっているのと、何事にも代え難い爽快感を与えてくれます。それで続いているのかも知れません。

自分が何を望んでいるか分からないです。
 「私は自分が何を望んでいるのか分かりません、」と良く耳にします。しかし、自分が何を望んでいるのか分からない境地に達した時、あなたは無欲の状態に達しているのと言えます。
  自分が、本当に何がしたいのかわからないとき、ある意味でそれは、「わからないという事」の最初の段階にあなたが到達したという事です。
 
 そして、そこには、「わからないという事」を知る事の終わりの、最初の段階と言えます。あなたは、何を望んでいるのか、分からないのです。
  なぜなら、あなたはそれについて考えたことがないか、或いは、表面的にしか考えていないかったから、分からない、答えが見つからないのです。そして、誰かに、好きな事に関して考える事を強制されて、自分の好きな事に関して考えるようになり、「ああ、私はこれが好きなんだ。」と考えます。
 

石器時代の武器、と思う

 あれもいいな、これもいいな。他の事も良いかも知れない、と思うのは、中間段階です。そして、あなたはその先に進みます。
 あなたは、最終的に自分が本当に欲しいものはこれなのか、と考えたときに、「いや、これではない。」と思うのです。
  あなたは、少しの間はそれで満足できるかもしれませんが、それを鼻にかけることはないだでしょう。しかし、それはあなたが本当に望んだものではありません。
 
 なぜ、あなたは、あなた自身が何を望んでいるのかがわからないのでしょうか?
それには、二つの理由が考えられます。
  まず第一に考えられる事は、あなたは既にそれを持っているという事です。既に持っているのですから、探しても見つかりません。また、既に生活の一部になり、それに関して好きだ、苦手だという事さえ考えていないのかも知れません。
 二番目に考えられる事は、自分自身を知らないという事です。なぜなら、あなたは決して自分を知る事ができないからです。神性は決してそれ自身を対象にはできません。
  
 知識は、ナイフがナイフ自体を切れないように、火がそれ自体で燃えないように、光がその光自体で照らされない、ようなものです。 
 それは常にそれ自身に対する果てしない謎なのです。
私は知らない、この「私は知らない」は精神の無限の内部で発せられます。

私は、知らない。
 この問いの回答を得るためには、まずは、「わたし」という事は何か、という確信を持たなければなりません。次に、「知る」という事は何か、を確認しておく必要があります。
 
 私とは何か、という偉大過ぎて退屈な問いの答えは、あるような無いようものです。問い自体が間違っているという事も考えた方が良いです。
 「わたし」は私が思っているようなものではなく、実態はわからない、というのが実情に近いかも知れません。
 また、知る、という事は何ぞや? 知る事ができたか、そうでないかは、「誰が決めるの?」というモンダイもありますね。おそらく「わたしが決める」のでしょうが、わたし、って何?という振出しに戻ってしまいます。

写真がイマイチ。ルーブル美術館の展示品

 師匠は、考えてもムダな事をじっと考えると、空腹感が減るのでイイ、と教えてくれました。

 わたし、に関しては「意識」と大きく関係してくるので、おおごと、ですね。世界にわたし以上の大ごとはなく、瞑想は、その世界で最もおおごとな「わたし」を捨てろ、絶ち切れ、離れろ、とか言いますね。
 うーん。

確かに空腹を忘れます。

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