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師匠!瞑想ってなんでしょうか?

私のグルは、静かにそこに座している。グルはグル業を営んでいるわけではなく、私が個人的にそう思って、密かに慕っているのである。私の心から尊敬し、お慕い申しあげる師匠でありますので、滅多にお目にかかる事も無く、くだらない質問で師匠の時間を浪費してはイカンと心としております。

また、師匠の個人的な事には全く関心が無いので、細かい個人的な事は知らないのでございます。日々精進しつつ、師匠から連絡があれば、喜んでお目にかかり、その時に何か質問があればしてみる、というような、そんな感じであります。

あまり詳しくは記憶してないが、師匠との会話はマメに記録しているので、ここにも記録してみるざます。

これは師匠との出会いの頃の会話。瞑想って、なんでございましょう?というおおざっぱな質問に、師匠は柔らかな笑みをたたえ、静かに、かつ、パワフルに確信を持って語ってくれたのでございます。

師匠!瞑想って、なんでございましょうか?

Meditation英語の瞑想という言葉は、具体的な意味を何も言っていないことを理解しなければなりません。ここに目を閉じて座っている人がいたら、その人は瞑想していると考えますね。
 
しかし、あなたが言ったように、ここに座って独り言を自分自身に言っているかもしれません。 考え事をしているかもしれないし、瞑想をしているかもしれない。
 ひょっとしたら、その人はジャパと呼ばれるマントラを唱えているかもしれません。タパと呼ばれる、体内に熱を発生させる方法をとっているかもしれません。
或いはその人は、ダーラ・ディヤーナサマディ・サムヤマをやっているかもしれませんね。
  
内的な次元に対しては、英語では説明できないことが非常にたくさんあります。英語は物質的に技術的に説明するには、とても優れています。もちろん、とても優れた言語です。
 しかし、英語は内なる体験の説明となると、人間の体験の様々な次元を表現するのに十分な言葉の語彙がありません。英語という言葉で瞑想を語ると、説明不足が起こります。
 
瞑想は非常に一般的なもので、そして瞑想と言う言葉自体は具体的なことは何も言っていません。 もし私たちが、カルナータカ地方の言葉を理解するならば、瞑想という言葉をディヤーナやダーナとして理解するでしょう。
 
カルナータカ州、カンナダ語ではディヤーナです。タミルナドゥ州に行くと、タミル語でアナムという名前になります。もし、あなたが言っているのがディアナやディヤーナであれば、その意味は下記です。
 
あなたがここに座っていると、同時にあなたの体はここにあります。
しかし、あなたのマインドは外にあります。あなたという存在は、どこか別のところにあります。つまり、あなたとあなたの身体の間には少し距離があるのです。あなたとあなたのマインドの間には、少しの距離があると理解して下さい。
 
一度、あなたとあなたの体の間に少し距離があある事を知ります。すると、突然、すべてがクリアになるのです。あなたが複雑だと思っていることは、とてもとてもシンプルなことなのです。
 あなたが瞑想と呼ぶこの次元は、本質的には。このマインドと体にある僅かな距離なのです。
 
例えば。あなたは交通渋滞に巻き込まれたとします。渋滞に巻き込まれると、ストレスを感じる事が、多々、ありますね。
一方で、交通渋滞の最中に、あなたが小さな飛行機か気球、熱気球などで空に飛び立ったと仮定して想像してみて下さい。交通渋滞がどれほどひどいものであっても、空から見下ろす下界の交通渋滞は、とても素敵に見えます。特に夜であれば、連続した車のライトが生き生きと見える事でしょう。
 
 空から見下ろす場合、特に交通が大渋滞しているときは、とてもいい感じです。車の流れが果てしなく1本の線のように続いている事でしょう。
飛行機や気球から渋滞を見たことがありますか?とても良い眺めです。でも、車を運転して、或いは、車に乗って渋滞の中でに巻き込まれてみると、全然違いますね。特に約束の時間や待ち合わせがあったりすると、イライラしない人は少ないかと思います。
渋滞の最中に、割り込まれたりすると、テンションがMaxになり、怒りのクラクションで抗議する人も多い様な気がします。
 
このように、渋滞の中にいるのは、非常に苦痛です。しかし、それは一つの側面です。例えば、空から渋滞を見下ろすように、そこに距離があれば、まったく別の問題です。先ほどの気球の喩のように、です。問題、ここでは交通渋滞を例えにしましたが、問題と思う事から距離を取れば、全く違ったものに見えるのです。問題の中に入ってしまうと、文字通り、問題に気分を左右され、コントロールされてしまいます。これが日常では、自動的に反応として毎瞬に起こっているわけです。それをストレスと呼び、このストレスは大きな疾病の原因になったりもするのは、良く知られた事です。
 
例えば、この惑星は丸いのですが、一部の人々は平らだと思っています。
地球は平べったいのを信じるグループが存在し、ずっと議論していました。科学の進歩が一目瞭然でなければ、私たちは未だに言い争い続けたことでしょう。
しかし、私たちは空を飛び始め、地上をはっきりと見る事ができるようになりました。地球は丸かったのです。 それから、私たちは月に行って立ち、地球を見ました。やはり地球は丸いのです。もう議論の余地はありません。

これが、距離を考える事であり、あなたの心と体に必要なことなのです。
 
少し距離を置くと 。
突然、すべてが素晴らしく透明になります。これは実に簡単なことなのですが、人は何千年も生きていますが、自分自身の 思考や感情の扱い方を知らないのです。
 もし、人類が自分の思考をどのように扱うかを知らないまま何千年も経過して来たとしたら、私達はいったい、いつ学のでしょうか?あなたは一体どうやって今まで生きてきたのでしょうか。
単なる偶然で活きて来たのでしょうか?私にはわかりません。
 
あなたが偶然に任せて生きていれば、不安は当たり前になります。 それ以外に選択肢はないでしょう。
仮に、たまたま、バイクや車の運転の仕方がわからなかったとしましょう、例えば、偶然に不安なことが起こり始めたとしますよね。スピードが速くなったら 怖くなりませんか?スピードが非常に速くなったら、恐怖に襲われませんか?
しかし、あなたが運転する方法を知っていて、速く運転する事も知っていた場合には。速いスピードは良い事かも知れません。スピードをワクワクと楽しめるでしょう。これは、 いわば、あなたのマインドと身体の関係と同じです。
 
なぜなら、不安が発生するのは、あなたが問題そのものに、巻き込まれてしまうからです。それについては、何も考えていないんです。これはとても複雑な小さな距離に見えますが、その通りなのです。これはある意味、瞑想の意味する事です。
ですから、あなたがその小さな距離を作れば、突然、すべてがクリアになります。とても複雑に見えることは、ただ単純なことなのです。
 
瞑想は行為ではなく結果
あなたは瞑想を何かの行為だと考えていますね。瞑想は行為ではなく、結果なのです。もし、自分自身の身体、知性、感情、エネルギーをある方法で養えば、瞑想は結果、クオリティ、質として起こるでしょう。
 人々は分単位の瞑想をしています。人々は時間が経つと確実におかしくなります。正しい方法を学ばないと、瞑想の真似事が大きな心の問題になる事があります。
あなたが無理やりに、意に反してマインドで何かをしようとすると、心に刺さりますから。
 
あなたが授かった時、タイミングというものは、はとても大切なことです。
この人間のメカニズムは、この地球上で最も洗練された機械なのです。
 
あなたは取扱説明書を読んだことがありますか?では、どのように使うのですか? ただ偶然に使ってみるのですか?
この偶然に任せるという間違いをしないためのいくつかのヒントがあります。
 
どうすればいいのでしょうか?そうです。人々を破滅させたのは、これらの些細なことです。その理由としては、スピリチュアルなプロセスが馬鹿げたサーカスになったからでしょう。 
私は意識して言っているのです。多くの瞑想はあたかもサーカスになっているのです。 なぜなら、誰もがそれをやろうとしているからです。あちらの街角で、こちらの街角で、彼らはギータを教えようとします。
 
クリシュナは何年もタイミングを待っていました。アルジュナとクリシュナ、あなたにはアルジュナを良く知っていますね。アルジュナとクリシュナはとても親密でした。彼らはお互いのことをとてもよく知っています。
 しかしクリシュナは、アルジュナの心が押しつぶされそうな極限状態になる最後の瞬間まで、教えるタイミングを待っていたのです。
 クリシュナは、その瞬間を待って、教えを授けました。

でも、いろんな流行の人達は、何の状況も作らずにあちこちの街角でそれを、ギータを読んでいます。誰もそれが一体何なのか知らないのです。聞いてみると、単に言葉、言葉、言葉の羅列のみです。何も心が共鳴するものは、ありません。
 
突然、あなたはすべてをシャットダウンして耳を傾けなければならないことに気づきます。なぜなら、それはとてもシンプルだからです。それは複雑ではないために、あなたはそれを理解していません。聞き逃してしまうのです。
 
しかし、そのシンプルさが、人間の知性にとっては問題なのです。もしあなたが理解しようとするならば、知性を通して考えることになります。人間は複雑なものを理解することによって、最も単純なものを理解することができるのです。私はいつも、最も単純なことを伝えています。でも、あなたがたはいろいろなことを深く考え込んでいます。最も単純なことをとても難しく、ややこしくひねり廻しているかのようです。
 
実際は、それはとてもシンプルなことです。
あなたという生命の誕生はあなたが誘導したことではありませんし、あなたの死もあなたが計画したことではありません。ただ、起こることなのです。生も死も、どちらもその間に起こります。あなたはただ、自然と結ばれていればいいのです。それだけです。あなたは自分を産む必要はありませんし、自分を殺す必要もありません。 
生も死も、どちらも自然に起こることです。

あなたはここで何をしているのですか?すべては、起こっているのです。あなた自身が惑星を回転させ、昼と夜を作る必要は全くありません。ただ、全ては起きています。 
あなたはあれこれする必要はありません。ただあなたがここにいるために、すべてがただ起こっているのです。ありがたく受け取り、味わってみようではありませんか。
 
あらゆるものと同調して、生命の恵みを受け取りましょう。そんな簡単な事が、人間には大混乱を引き起こします。
なぜなら、彼らはすべてを知的に見ているからです。私が「知的に」と言ったのは、あなたの知性の本質がそうだからです。
 
あなたは、鋭い知性と鈍い知性のどちらを望みますか?
あなたは選択しなければなりません。あなたがどちらを選んでも、私は今、あなたを祝福するつもりです。
 本質的に、あなたは鋭い知性を求めているのです。それはつまり、刃物のようなものです。ナイフのようなものです。鋭ければ鋭いほどいい。鈍いナイフはいらない、とあなたは思っています。あなたは鋭いナイフが欲しいのです。鋭くなければ、ナイフではないと思っているからです。
 
さて、このナイフはあなたが人生で唯一持っている道具としましょう。あなたは、何事にもナイフを使います。服を縫うにも、この鋭いナイフを使います。そのようにして縫った服は、穴だらけでぼろぼろです。
 
もしあなたがナイフで洋服を縫うと、大きなほころろびが残りますよね?
結局のところ、それだけのことなんです、あなたが人生でしている事は、そういう事なのです。あなたは、ほころびを残しているだけです。それこそ、ぼろぼろになったままにしておくだけです。あなたが、全てにナイフを使用するのが原因です。

では、瞑想をしてみましょう。ただ、座って下さい。

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