コロッケとわたし

茹でてつぶしたジャガイモとひき肉をつなぎ、形を整えてから、小麦粉・溶き卵・パン粉をつけて揚げた料理。皿の上に盛り付ける際は、千切りキャベツを添えることが多い。

小学生の頃、掃除の時間になると手洗い場担当は たわしを使っていた。頑固な汚れをこすりながら、そのたわしを なんとなく、コロッケだ、と思ったりした。大きさ、あのふくらみ具合、ざらざらした手触り。あれはコロッケに近い形状だ。これを千切りキャベツの横に添えて誰かに提供すれば、誤ってかじりついてしまうのかな、そんな妄想をしたこともあった。

最近はお肉屋さんやスーパーの総菜コーナー以外でも、コンビニなどで手軽にコロッケを購入することができる。大学時代、わたしはよく食パンにコロッケを挟み、コロッケサンドウィッチを作り昼食を済ませたこともあった。袋に入った千切りキャベツも一緒に購入し、これも同様に挟む。コンビニの店員はコロッケと一緒にソースまで付けてくれるのだから、余ったキャベツはこれまた余りのソースを垂らし、袋のまま箸を突っ込みサラダとして食べる。貧乏学生時代が懐かしい。いや、今でもこのサンドウィッチが好きなのは変わっていないが、、、

昔付き合っていた異性で、コロッケが好きではないというのがいた。どうやら、あの口の中でモサモサする食感が気に入らないらしい。当時の若いわたしにとっては、好きなひとがわたしの好きなコロッケを好きでないなんて、、とかなりショックを受けたことを覚えている。このような、ちょっとした嗜好の対立は、おそらく長く付き合っていれば頻繁に起こりうることであろう。しかし、当時のわたしは、そんなことあり得ない、コロッケを好きなわたしごと愛してよ、ついでにコロッケのことも愛してよ。と、わけのわからぬ理論を心の内に展開していた。もちろん、言ってはいないけど。

旅先に行くと、「○○牛使用コロッケ」などの文字が高々と掲げられた出店(でみせ)をよく見かける。熱々のコロッケを紙の袋に入れてくれ、そのまま食べながら散策することができる。いわゆる食べ歩きグルメだ。高校時代、親友と一緒に鎌倉に出かけたことがあった。旅も終盤に差し掛かったところ、わたしたちは鎌倉駅周辺にある“小町通り”と言ばれるエリアを、何の目的もなしにだらだらと歩き続けていた。疲れもピークに達しているころ。隣の彼女が、あることに気づく。「やばい、旅行に来たのに歩いてばかりで、お土産もその土地らしい食べ物も全然楽しめてない」そう言い、これまでの旅先で味わったものを指で数え始めた。すると確かに、今旅行での“鎌倉”らしいものというと、前日の昼食に江の島で食べた「生しらす丼」のみ。どうしてそのようなことになったのか、今では全く記憶にないが、兎角、彼女の言う通り、わたしたちはお土産一つも購入せず、ひたすらに神社仏閣ばかりを散策しまくっていた。見たいものをリストに挙げて制覇しておけば、満足いく旅ができるに違いない、と、そう思ったのかもしれない。その思いが空回りし、「生しらす丼」のみ、という結果をもたらしたのであった。空の色も暮れ時に差し迫り、帰る予定の時刻まであとわずか。わたしたちはさらにひたすら歩き、鎌倉らしいものを探して廻る。そうして、やっとの思いで行き着いたのがご当地コロッケであった。歩き回った末のコロッケは、口の中がモサモサしていて、「おいしいんだけど、今じゃないんだよなぁ」といったところでしょうか。次に旅をするときは、あらかじめご当地コロッケがどこで食べられるのか、調査をしてから散策したいものだ。これは冗談だけど、、

コロッケ漫談、これにて終了。
次回は「メンチカツのふしぎ」だよ

バイバーイ!

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