見出し画像

トートバッグいっぱいの呪いを。6.

 また暑い1日が始まった。外への用事は午前中に済ませるのがいい。何しろこの暑さだ、少しでも気温の低い時間に片付けるに限る。
 太陽は情け容赦なくこの街を隅々まで照らし、日陰を探してうろつく僕を焼こうと躍起になっていた。

 自転車に乗って、図書館で借りた本を返しに行ったあと、僕は学校の校庭の裏道を走った。学校には近寄りたくもなかったけれど、あまりの暑さについ近道を選んでしまったのだ。
 みんなは授業中。誰かに見つかることもないだろう。すぐに通り過ぎてしまえばいい。

 学校に近づくに連れて、騒がしい声が風に乗って聞こえてきた。鼓動が速くなる。やっぱり学校は嫌いだ。
 その時、プールの方から鋭いホイッスルの音がした。
 飛び込みの水音。
 みんなの騒ぐ声。
 塩素の匂い。
 去年の夏は僕もここで泳いでいた。プールの底で揺らぐ光の網や、ゴーグルをしたまま見上げた空の輝きが、胸の中でよみがえる。わざと激しいバタ足をして水を掛け合うクラスメイトたち。水かけ集中攻撃をされたりもしたけれど、水の中の僕はわりと平気だった。ただ、あんなに笑った夏の時間は偽物だったのだ。

 自転車を降りて、朝顔の蔓が絡まる金網に手をかけて体ごと寄りかかり、目線の先のプールの眩しさに目を細めた。
 水飛沫の音を聞くうちに、僕の頭の中は塩素臭いプールの水で満たされていった。


 体を動かそうとすると透明な抵抗を受けた。手足が重い。
 いつのにか僕は水着を履いて頭にゴーグルを乗せ、人の渦がつくり出すプールの波に揺られていた。
「たすけて!」
 誰かが叫んでいる。
 耳に届いたわけじゃない。
 沈黙のSOSが僕を呼んだのだ。
 叫びは水の底から聞こえる。
 僕はゴーグルをはめて水中に潜ってみた。

 日に焼けた長い手脚がめちゃくちゃに水を掻いていて、そこだけ白い空気の泡で霞んでいた。
 水面を目指して暴れるほどに、ますます沈んでゆく人の姿があった。苦しげにもがく横顔がちらりと見えた。
 キムラだ。
 キムラが溺れている。
 ゴーグル越しにキムラと目が合った。キムラは目を剥いて僕を見た。
「カ・イ」
 キムラの口から大量の空気の泡が漏れる。キムラの体の中の最後の空気が水面へ昇ってゆく。
 なんで。
 なんでなんでなんで。
 キムラの目はそう言っていた。
 なんでかなんて、知るかよ。
 考えるより先に僕の体は勝手に動いて、キムラの真下に潜り込んだ。
 細いけれど筋肉質なキムラの体は、浮力のある水の中でも言うことをきかない。なんとかしてプールサイドに上げなければ。

 硬く力んだキムラの尻を、ぐっと持ち上げる。その時大人の手が陸からキムラを掴んだ。体育の山田先生だ。先生がキムラを引っ張り上げた瞬間、キムラは安心したのか、水の中から押し上げる僕の顔面に向かっておならをした。
 嘘だろ。
 思わず手を離して咳き込んだ。
 山田先生はキムラを抱えてプールサイドのテント下に寝かせた。
 仰向けのキムラは胸を激しく上下させて息をしている。
 生きている。
 山田先生がキムラの耳元で大声で呼びかける。    
 救急車のサイレンの音が近づいてくる。
 クラスメイトたちは、青い顔をしてプールサイドに立ち尽くしていた。

 キムラが運び出されると、止まっていた時間がようやく動き出したように、皆、更衣室へぽつりぽつりと去っていった。僕はひとり、プールのなかに取り残されていた。
 誰もいない。
 ただひとり、半井さんだけが僕を見ていた。
 水着姿の半井さんが僕を手招きした。
「キムラくんのこと、助けにきたんだ」
「そんなつもりじゃないよ。気づいたらここにいた」
 学校へ行くのをやめた僕が、どうしてプールにいたのか自分でもわからない。
「なんで僕はここにいるんだろう」
 半井さんはしばらく口ごもっていたけれど、やがて、少し申し訳なさそうな顔をして言った。
「あんた、実は死んでるんだよ」
「僕が死んでる?何言ってるの」
「塚田カイは水の事故で死んだの。ひと月前の水曜日に」
 半井さんは珍しく同情するような眼差しで、優しく僕に語りかけた。
「私には死んだ人が見えるの。でも他の人には今のあんたは見えてない。オーケー?理解できる?」
 半井さんは不思議色の目で僕をじっと見つめた。僕はどぎまぎして、慌ててゴーグルを装着した。
 僕は死んでいる?

(7.へ続く)↓

この記事が参加している募集

文章を書いて生きていきたい。 ✳︎ 紙媒体の本を創りたい。という目標があります。