もしもたったひとつだけ願いがかなうなら①―村上春樹「バースデイ・ガール」

中学3年生の国語の教科書(教育出版)に、村上春樹「バースデイ・ガール」が掲載されている。授業をした。

もとは、『バースデイ・ストーリーズ』(中央公論新社、2002)。村上春樹が誕生日にまつわる短編を集めた本。そこに、村上春樹が書き下ろしたのが、この作品。

二十歳の誕生日。数日前に、高校時代から交際しているボーイフレンドとけんかをし、別れの決定的な予感がある。そして、同僚の体調不良により、アルバイトに入らなければならなくなった。その日は、土砂降りの雨。「彼女」のアルバイト先のイタリアンレストランのオーナーは、毎日20時に、フロア・マネージャーにチキン料理を自分の部屋まで運ばせる。フロア・マネージャーが腹痛で倒れ、「彼女」が、チキン料理の夕食をオーナーのところまで届けることになる。オーナーは不思議な老人。その日が「彼女」の二十歳の誕生日だと知ったオーナーは「ひとつだけ願いを叶えてあげよう」と言う。

授業は、村上春樹の紹介と、文体論、構造論だけ教えた。「教える」ことができるのは、それぐらいしかない。

生徒に問いかけたのは、「あなたなら、何を願う?」ということ。

二十歳の誕生日には、特別感が漂う。その日からお酒を飲んでいい、というだけでも、「大人」の仲間入りだ。

私の、二十歳の誕生日は、さんざんだった。私は、一浪の末、大学受験に失敗していた。私の誕生日は、国立大学受験の日。なぜ落ちた?という問いがぐるぐると頭の中を回る。まじめに勉強をして、模試ではB判定を確実にたたき出していた。でも、センター試験も二次試験も、まったく眠れないままに受けた。立って歩いているのが不思議なぐらいの体調で受験した。後期試験に数学がないという理由で文学部にしたのがまずかったのか、やっぱり第一志望の教育学部を受験すればよかったのか、と、ぐるぐると考え続けていた。

大学受験に失敗した私に、家族や親戚は冷たかった。とくに母親とは口がきけなくなった。いつもいつも責められていた。ほんとうは地元の医学部に行けと言われており、医学部でなければせめて理系、どうしても文系なら経済学部か法学部、と言われていたのに、私は親の期待をすべて裏切って人文系を選んだ。歴史と教育学と文学と心理学と哲学を京都で勉強したかった。

浪人生のときの秋に、父親の病気が発覚した。癌。ステージ4。入退院を繰り返し、家の中はどんよりと暗かった。

父方の祖父が亡くなり、父方の祖母の体調も悪く、入院をするようになっていた。

私は、とりあえず進学した大学に、片道二時間以上をかけて通った。下宿をするという考えはなかった。お金がなかったし、出してもらう価値もないと感じていた。そして何よりも、父と父方の祖母を放っておくわけにはいかなかった。母方の祖母の家の手伝いに、私の両親が行けなくなったため、私が手伝いに行くしかなかった。

成人式は、祝える雰囲気ではなかった。振り袖を買ってあげようかという提案を親はしなかった。それとも、強がってこちらから「いらない」と言ったか。成人式そのものには出席しなかったけれど、中学高校の成人式同窓会には出席した。振り袖から着替えて出席した子もいた。でも、たいていの子は、振り袖を着ていた。母親から受け継いだものを着ていた子もいたし、呉服屋さんに行って自分のものを作った子もいた。レンタルの子もいた。妹から借りたワンピースを着ていた私は、みじめだった。

振り袖の代わりに、ということだったのか、真珠のネックレスを買ってもらった。このネックレスは、ずっと、冠婚葬祭いつでも使えている。よい買い物をしてもらったと思っている。でも、そのときの私は、いつまでも使える真珠のネックレスより、一度しか着ないかもしれない振り袖がよかったのだ。とくに、あとから、母親が振り袖を持っていたことを知り、従姉妹や妹がその振り袖を着たときには、悔しかった。その振り袖を、私が、成人式で着たかった。

女子校育ちだった私は、共学に行けば彼氏がすぐにできるものだと思っていた。でも、そういうものでもなかった。教員免許を取りたかったので、授業を多く取った。やっぱり自分の好きな学部を選んだため、授業は楽しかった。級友とも、話が合った。でも、何か物足りなさや手応えのなさを感じ続けていた。受験した大学への未練と、家の状況が理由で、こんなはずじゃない、とずっと考えていた。

そんな私の、二十歳の誕生日。

今思えば、受験に落ちてもすぐに切り替えて自分で家を明るくすればよかったし、振り袖を着たいと自分から主張すればよかったし、大学ももっと楽しめばよかった。でも、当時の私は、自分が、みじめでみじめでしかたがなかったのだ。

そのときの私の前に、「たったひとつだけ、願いを叶えてあげる」と言う不思議なおじいさんが現れたなら、私はなんと言っただろう?

お父さんの病気を治して?祖母の病気を治して?祖父を生き返らせて?そんなことは願わない気がする。生きる、死ぬ、ということに逆らってはいけない気がする。

家の雰囲気をなんとかして?私が家族とふつうにおしゃべりできるようにしてほしい?――いや、受験の失敗がなくても、そんなに仲がよかったとは思えない。

第一志望の大学に合格させて欲しかった?でも、私は、進学した先で、教員免許も司書教諭免許も取れたし、友達に恵まれたし、十分に楽しかった。そして、その大学を卒業した後、第一志望の大学に行き直した。文学部ではなく、教育学部。教育学部でよかった。教育学部が私には合っていた。だから、これでよかったのだと思う。

振り袖が着たかった。と、そのときの私なら、言うと思う。成人のお祝いの、振り袖を着させてください。お金で、その願いは叶うものだ。親に頼めば、なんとかなったものだ。でも、二十歳の私は、それを言うことができなかった。

第一志望だった大学の学部卒業式で、振り袖を着られなかった憂さは晴らした。デパートで、高い振り袖を借りた。「レンタルっぽくないのがいい」という基準で柄を選んだ。でも、やっぱり、二十歳の成人のときに着たかった、とは、いつまでもぐちぐちと思う。

「バースデイ・ガール」で、主人公の「彼女」がオーナーに何を願ったのかは、書かれていない。わからない。私は、無理にその答えを見つけようとも思わないし、ましてや、生徒に正解っぽいことを語ろうとも思わない。

本文から読み取れるのは、「美人になりたいとか、賢くなりたいとか、お金持ちになりたいとか、そういう二十歳の女の子が考えそうなこと」ではないことだということ。そういう欲望が「彼女」にはないわけではないけれど、そうなったときの自分が想像できないし、もてあましてしまうかもしれない、と言う。

二十歳からかなりの時間が経った「彼女」には、まだその願いが叶えられたのかどうかわからない。その願いには、時間が重要な役割を果たすらしい。彼女には、三歳年上の公認会計士の夫がいて、二人の子どもがいて、ドイツ車があって、テニスに通っていて、アイリッシュセーター犬がいて、という生活がある。「人間というのは、どこまでいっても自分以外にはなれないものだ」という言葉に「彼女」はほほえむ。この二十歳の思い出を語る相手の「僕」には、その願いが何だったのかを結局言わない。そして、「あなたはもう願ってしまったのよ」と言う。

彼女の願いは何だったのだろう。

もし、私が、成人式で振り袖を着ることができていたら、二十歳の誕生日のみじめさはかなり軽減されていただろう。でも、それはそれで、必要だったことだとも思うのだ。

つづく