司馬遼太郎作品中の女性

司馬遼太郎は女性をアイテム的に使うなぁ、と思う。

と、友だちに言った。

司馬遼太郎の作品で、女性が単独で主人公のものは、ぱっと思いつかない。

作品の中で、都合の良いときに、何かの役割を持って登場する。

随分たくさん、司馬遼太郎を読んだ。司馬遼太郎を読まなければ、私は日本史を大学で勉強し、ライフワークにしようと思わなかったし、京都に来たいとも思わなかったし、医学史をやろうなんて思わなかった。『燃えよ剣』なんて暗記するほど読んだ。ほか、『新選組血風録』『花神』『人斬り以蔵』『殉死』『最後の将軍』『幕末』『鬼謀の人』『酔って候』『功名が辻』かなぁ、購入して何度も読んだのは。ほぼ幕末ものばかり。

ただし、幕末ものでも、『竜馬がゆく』は挫折した。長すぎた。そして、汚すぎる竜馬に私はつきあいきれなかった。次々と増えていく人間関係を把握しきれなかった。汚すぎる竜馬に嫌気が差した私は、倒幕派から佐幕派へと寝返り、不潔なところなど何一つ(女癖以外)ない(ように見える)土方歳三へと傾倒していく。

土方歳三は、相当な女たらしだ。そもそも、物語の始まりから、女を抱く話なのだ。いったい、何人と関係を持っているのか。数え切れない。名前すらない女もたくさん出てくる。江戸時代の性愛というのは何となく知っているし、現在とまるで感覚が違うことも分かっている。でも。でも。でも。最後までお雪さんとそういう関係にならないでほしかった。お医者さんの娘と淡い恋をしただけ、という沖田総司の清らかなこと。

竜馬は、高校生の時に読んだのだけれど、引いた。好きな人のところに、なぜ夜這いする?合意を!合意をとってからでお願いします!!

司馬遼太郎作品に出てくる主人公系は、とにかく出会った女とは関係を持たなければならない法則でもあるのかと思ってしまう。「据え膳食わぬは男の恥」って、何かのマンガで、土方歳三が言ってた。

そして、そうなんだと思う。

女は、何かをもたらす。たとえば、情報。たとえば、ピンチからの脱出。たとえば、心情の変化。

土方歳三には、女を通じて情報が集まる(女を通じて情報が漏れる場合も)。女というのは、家以外の組織に所属しない。ある意味、フリーな存在。だから、組織に所属する男が入手できない情報を持っている。その情報を渡すのは、スタバでお茶しながら、とか、鴨川で並んで座って、というのは無理だから、布団の中で話すしかない。女と接さない沖田総司には情報が集まらない。結果、土方のストーリーにはメリハリのついた展開が期待できるけれど、沖田は「剣強い」「斬った」「勝った」「子どもと遊んだ」「ちょっぴり好き」「お菓子おいしい」の中で、ぐるぐる回り続けるしかない(だから、結核という要素が沖田には必要で、そして土方との対比要素の際立ちが必要)。

『花神』の村田蔵六にとっては、シーボルトの娘・イネは、蘭学を物語る、蘭学の象徴。イネがいなければ、話の展開は全く面白くない。

司馬作品の中のほとんどの女性たちに、私は腹が立つ。主体性のない人ばかり。登場人物に何かを与え、身体を与えるために登場している。イネは多少自己主張するけれど、結局いつもあの火吹き達磨の村田蔵六のことを好きなだけの人だ。しかも、プラトニックな意味ではなく。救いなのは、主人公達がイケメン(例外有)で、お金をちゃんと持っていて、「据え膳」をちゃんと「食」って女側に恥をかかせないことだ。だから、土方にはあまり腹が立っていない、実は。

ただ、母親や姉などの年上の女性は、主人公に安定をもたらす。竜馬のお姉さんの乙女さんとか。性的な要素を排した人たち。

司馬作品で、男達の設定は史実や資料に基づくしかない。でも、女達の設定は、どうにでもなる。だから、何かの役割を女達は負わせられる。ちょっと色っぽい場面を入れておかねば、なんている調整も兼ねて。

という、考察。