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【真実】「べき」を無くせば、機嫌は直る
究極的には、コレなんじゃないかと最近つくづく思うのです。
■なぜ僕たちは機嫌が悪いのか
全くもぅ嫌になっちゃうけど・・・僕たちはいつだって機嫌が悪い。
対象は様々で、他人だったり自分だったり、あるいはどうしようもない自然現象だったりする。
特に自分に向けられている時、つまり自己嫌悪に対して何とも言えぬ嫌な感情を抱く人は多いのではないかと思う。
かく言う自分自身も、自己嫌悪に陥っている時がとても苦手だ。
で、
この機嫌の悪さって実はあるロジックに基づいているだけなんだな、というのを最近凄く痛感している。
”多くの場合”とかではなく、”ほぼ全ての場合”と言い切っていい。
それは他ならない。「べき」という感情である。
■不機嫌のロジック
シンプルに「不機嫌」とは、思い通りにいかなかった時に発生する。
で、
この思い通りに行っているかどうかの判断は、誰かが決めている訳でもなく、よくよく考えると自分自身が決めているから驚く。
つまり、自分自身がこうあるべき、と勝手にラインを作って勝手にジャッジし、それが思い通りにいかない場合に不機嫌になっている。
つまりは僕たちは、自分自身で不機嫌の原因を作って自分自身が不機嫌になって、自分自身に嫌悪感を抱いているのである。
全くもって呆れるというか、恐ろしい話である。
■恐ろしき「べき」
この、「べき」という考えは実に恐ろしい。
冷静に考えると、何の権限があってそう思っているんだ!と突っ込みたくなるが、実のところ多くの人がこの考えを持っている。
例えば、
「子供は親(自分)の忠告を聞くべき」
「自分はあの人より仕事で評価されるべき」
「私はあの人より私生活が充実しているべき」
「明日の旅行は晴れるべき」
上記はいずれもそうならなかった場合に不機嫌になるのは容易に想像できるだろう。
特に、「私はあの人より私生活が充実しているべき」なんてのは恐ろしく、自分よがりでとても理不尽だが、実際のところ声にしないまでも多くの人がそんな感情を抱えているのではなかろうか。もちろん自分自身も含めて。
その証拠に”隣の芝は青い”という諺が何百年もの間、廃れることなく受け継がれてきた。
逆に、だ。
こんな風に考えたらどうだろう。
「子供が親(自分)の忠告を聞くどうかは子供の自由」
「自分はあの人より仕事が出来るかどうかは私には関係ない」
「私は私の私生活が充実していればそれでいい」
「明日の旅行はたとえ雨でもそれはそれできっと楽しい」
不思議なことに一気に機嫌が良くなった。
■キーワードは無関心
例えば、「子供が親(自分)の忠告を聞くどうかは子供の自由である」なんてのは、そんな無関心で良いものか!と否定の意見が聞こえてきそうだけど、これについては断言してもいい。
このくらい無関心でちょうどいい。
そもそも子供に対する親の干渉なんて百害あって一利なし、とまでは言わないが害の方が多い。法と理性に関する教育以外は好きにやってもらった方がよっぽど立派に成長する。
「うちの子はいい学校に入って立派になるべき」なんて考えは、立派な大人を育てているようで、実は最悪な「べき」だと思う。
「べき」を捨てると、一瞬「無関心」な自分に不安になる。でも結局はそのぐらいがいいのでは?と思うし、それで機嫌がいいならこんなに良い話は無い。
■競争するけど、競争しない
資本主義は競争することで発展してきた。でも個人で捉えた場合、得てして競争は不機嫌の原因となって生産性を下げたりする。
とても矛盾しているけど、森を見るか木を見るかでここの判別が出来ればすごく良いのではないかと思う。とても難しいけど。
そもそも、
自分が良ければ基本的には幸せじゃないか。なのに、どうしてわざわざ誰かと比べるんだろう。そして、そんなことまでして不機嫌になるのはなぜろう。
不機嫌な時は間違いなく、自分自身の中で何らかの「べき」を作ってしまっている。
一度冷静に立ち返って、この「べき」を排除する行動をとれば、僕たちはいつだって機嫌がいい。きっとそうにちがいない。
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