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音楽は作り手より聴き手の方が偉い(シリーズ「50歳から評論家になる方法」-1)

と書くと、若干挑発的な響きになりますが、こういうことを言いたくなるくらい、音楽業界は作り手(=音楽家)主導の業界だと思うのです。厳密に言えば「作り手とその取り巻き」主導とでもいいましょうか。

映画業界を横から見ていて羨ましいのは、まだ健全な批評の土壌があるように見えること。称賛の声、否定の声がぶつかりあって響きあっている感じがする。優秀な評論家もいて、しっかりとした文章を書いたり話したりしている。

対して、音楽業界、特に私がコミットしている大衆音楽の方面では、まず作り手の言葉、そして、その言葉をふわっと増幅させるライターの言葉だけが浮遊していて、批評の土壌が決定的に貧困な感じがするのです。

いや、ここは大事なところなので、丁寧に説明すれば、しっかりとした音楽評論家はいるのです。案外たくさん。ただ惜しいのは、そういう方々の多くが、知識偏重・マニア主義になっていること。「俺、こんなの知ってるんだぜ、持っているんだぜ」論調になっていることなのですが。

結果、こちらが「批評」めいた言い回しをするだけで、しばしば、いきなり噛みつかれたりします。噛みつかれる方々(往々にして批評対象となった音楽家のファン)にすれば、「つべこべ言わず、●●様の音をありがたく聴けよ」ということなのでしょう。

白状すれば、実は私、音楽家というだけでリスペクトしてしまいます。よくあんなパフォーマンスが出来るな、と。あんなに声が出て、そんなに指が早くって、こんなに素晴らしい歌詞が書けるなんて――。

でもだからこそ、聴く側も、主体的にパフォーマンスしなければならないと思うのです。その音楽に触発された、でもその音楽に従属しない、自立的で独創的なパフォーマンスを。

とりわけ音楽について、話して・書いて、わずかでも金銭的見返りを手にする側(に立ちたい)ならば(このあたり「提灯記事」を日々書いている/書かされている若いライターに向けています。めげずにがんばってください)。

要するに、聴き手も歌わなければいけない。作り手より聴き手の方が偉い、は言い過ぎとしても、作り手と聴き手の対等ガチンコの勝負に持ちこんでやる――「音楽評論家」という古めかしいレッテルに私がこだわるのも、こういう気分に理由があるのです。

そんなことを考えて『ザ・カセットテープ・ミュージック』をやってきましたし、bayfm『9の音粋』月曜日もやっています。私の「歌い方」は、やや屈折しているかもですが。

また、来たる10月は、新刊2曲を「歌います」。よろしくお願いします。


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