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なぜ大阪人は大阪文化を自ら矮小化するのか(2013年記)

この時期、個人的には恒例となっているのだが、某大学のスクーリングで大阪にいる。いつのまにか阿倍野にとてつもなく大きなビルが建っていて、そして相変わらず、東京よりも更にむし暑い。

たまに大阪に来ると、大阪的なるものについて考えてしまう。

スポーツニッポン

さて、先週、東京新聞にコメントを寄せた。テーマは阪神の例の決めポーズについて。某テレビ番組で掛布氏があのポーズを非難したことをキッカケとして、その是非がちょっとした論争を呼んでいるのだという。私も、あまり好きではなかったので、否定的なコメントを寄せた。

東京新聞

それに対して、私のツイッターにいくつかリプライが送られてきた。決めポーズに対して賛成7割(主に阪神ファンより)、反対3割くらいで、予想された結果である。ただ、ここでは、これについては書かない。

実は、気になるリプライがあったのだ。「東京のマスコミが決めポーズを批判している」→「大阪には東京とは異なる独自の文化があるんだ」→「この決めポーズも大阪人は喜んでいるんだ。だから、いいじゃないか」という文脈の意見。

このような、「大阪人が、東京との比較意識を非常に強く持ち、東京に対する大阪の特殊性を必要以上に肯定する」という傾向が、この10年ぐらいの間に、非常に高まってきた、高まり過ぎたと思うのだ。

私は東大阪市出身で、そして大阪を離れて20数年経っている。だから逆に、大阪に住み続けているよりも、大阪人の変化に関して敏感だと自負する。

「大阪の家には必ずタコ焼き器がある」「大阪のオバちゃんはヒョウ柄を着ている」「大阪人はピストルを撃つ真似をされると殺されたフリをする」。

『探偵!ナイトスクープ』あたりがキッカケとなり、こういう東京(に代表される他地域)から見た大阪の特殊性を、大阪人自身が、これ見よがしに面白がり、誇らしげに喧伝する気運。『秘密のケンミンSHOW』などが、その気運に、さらに拍車をかけている。

その結果、多面的で奥行きの深かった大阪文化が、とても粗雑でゲスで薄っぺらい一面に矮小化されていく、いや、大阪人がわざわざ自分で矮小化しているようにみえるのだ。

少なくとも、阪神の決めポーズの首謀者である西岡剛は、大阪弁で言う「いちびり」で、つっこまれることが前提の人(マリーンズファンとして私はよく知っているつもり)。東京が批判したからといって、大阪の人が盲目的に擁護するのはとても不自然だ。

と、まぁ、ここまで書いてなんだが、実は、阪神の決めポーズの件、私はさして重要な問題であるとは思っていない。もっと気にしているのは、このような「大阪文化の矮小化」の行き着く先に、やしきたかじん的なるもの、橋下徹的なるものがあるような気がしてしようがないことなのだが。

「そんなん、なんか、めっちゃ田舎くさないか?」

大阪人、そして大阪文化はもっと多面的で、雑多で、個性的であってほしい。そして、東京から何か言われたときに、こう返せばいい。

「その大阪って、どの大阪? 摂津? 河内? 和泉?」

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