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評論家にはマニアしかなれないのか(シリーズ「50歳から評論家になる方法」-3)

昔は私も、ことさらにマニアぶったものでした。「ビートル・マニア」「ナイアガラ・マニア」「野球音楽マニア」などなど。

「あるジャンルについてとても詳しい」という顔付きをすることは、名を上げるために、ある程度は有効な手段です。とりあえずの領地を確保するという意味で。

ただ一旦領地を確保すると、当たり前のことですが「上には上がいる」ということを痛感するのです。

私が最近、マニアぶるのを極力差し控えるのは、自分のような「えせマニア」ではなく、正真正銘、ちょっと異常なほどのマニア御大がいることを、重々知っているから。

加えて――ここからが今回の本論なのですが――メディアで何かについて書いたり話したりする「評論」を志す上で、マニアであることが必要十分条件ではないと考えています。

もちろん、ある一定のマニアックな知識は必要条件でしょう。しかし「何でも知っている、何でも持っている」という、コトとモノのコレクター、言わば「横」「幅」のマニアックさだけでは物足りないのです。

言いたいことは、まず1つ目として「縦」「深さ」のマニアックさが必要ということ。

分かりやすく言えば、筒美京平の全音源を知っている・持っていることよりも(筒美京平自身ですら全作品を知らない・持っていないはず)、その中のたった1曲、例えば、郷ひろみ『恋の弱味』の沼に、どっぷりと浸かったことがあるかどうかが重要なのです。

目測ですが、「横マニアック」の方は最近一気に増えたのですが(ネットは「横」方向の情報を加速度的に広げます)、その方々の「縦マニアック」の度合は、むしろ昔より弱いような気がするのですが、どうでしょう。

続いて、どっぷり沼に浸かって、「横」だけでなく「縦」の距離も取ったとして、2つ目に重要なことは、沼に浸かった感想をどう表現するかこそが勝負だということ。

分かりやすい平易な日本語での表現を心掛けるのは大前提(とさらっと書きましたが、これが実に難しい。この問題はまた後日)。加えて、ここは具体的に音楽評論で言えば、「音楽(業界)用語」をいかに減らすかというチャレンジをするべきです。

例えば「グルーヴ」。これは、実は私も多用する言葉ですが、でも危険っちゃあ危険。音楽に興味のない人の多くは「グループ」と誤読するようなマイナーな言葉なのですから(細かい話をすれば、「ヴ」という文字を使うのは個人的に趣味ではないのですが「グループ」という誤読を防ぐために私は「グルーヴ」と表記します)。

「キース・ムーンのグルーヴィなドラムスに乗って、ピート・タウンゼンドのエモーショナルなギターソロが冴え渡るコンセプチュアルな1曲」――分かります。分かりますが、あまり開かれた表現とは言えないですよね。

あと、「分かりやすさ」に向けて、クロスカルチャーな表現を心掛けたいとも思っています。つまり「音楽の話だからこそ、音楽以外で表現して、音楽ファン以外にも開いてやる」という考え方。

「グルーヴ」話を続ければ、例えば、シーナ&ザ・ロケッツ『レモンティー』(81年)における川嶋一秀の見事なドラムスを「軽快なグルーヴ」と表現したいのであれば、今だったら「まるでオリックス・山本由伸のピッチングのようなドラムス」と付け加えれば、野球ファンにもピンとくる。もしかしたらオリックス・ファンが『レモンティー』を聴いてくれるかもしれない。

まとめると、「評論家はマニアしかなれないのか」に対する回答として、単に知っている・持っているというマニアックさだけではなく、どっぷりと沼に浸かる「深さ」や、分かりやすくクロスカルチャーな「表現方法」にもマニアックになるべきだと考えるのです。

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