それを すてるなんて とんでもない!

「六二二の法則」というものがあるらしい。

小学六年生、中学二年生、高校二年生。
それぞれの時期にハマったり影響を受けたりした物事は、その後の人生に大きな影響を与えるという法則らしい。
なんとなくどこかで聞いたことはあったが、最近読み返したとある本にこのことが記されており、自分の場合はなんだろう、と考えてみることにした。

はじめに小学六年生、西暦で言えばちょうど2000年である。
ミレニアムイヤーに世間が沸き立つ中、学活の授業で「インターネットで調べ物をしよう」というカリキュラムがあった。
テーマは自由。そしてそれを複数枚プリントして一つの資料としてまとめ、発表するというものだった。

学校にまだ十台ほどしかなかったパソコンをひとクラス四十人弱いる生徒が交代で使い、
当時、初めて触れるYahoo!JAPANの検索ボックスに思い思いの言葉を打ち込んでいった。
ある程度は真面目なテーマを取り扱わなければならなかったのだが、この段階でまだ生徒は、自分の好きなテレビ番組や人気キャラクターのホームページを調べていても許されていた記憶がある。
まずは「ネットで調べ物をする」という行為に慣れさせようという教師側の目論見もあったのだろうか。

ちなみに自分は当時の最新作ゲーム「ゼルダの伝説 ムジュラの仮面」の公式サイトに足を運び、その流れで任天堂の公式ホームページを見漁っていた記憶がある。生まれて初めてのネットサーフィンだった。
なんと今でも「ムジュラの仮面」のサイトが閲覧可能という衝撃の事実が、これを書いている時に発覚するのだが、今年いっぱいで終わってしまうFlash Playerがふんだんに使われているので
来年にはこの思い出ともおさらばしなければならないというのが何とも残念である。二十年という時の重みを感じる。

そう、初めてインターネットに触れたのが小学六年生。冒頭の法則でいうところの「六」の部分に該当する。
実際にパソコンとネット回線が家にやってくるのは翌年の話だが、この授業内において僕は初めてネットの海の上を揺蕩っていたのだ。
なかなかテーマが決まらず、締め切りからの追い上げに四苦八苦することになるのだが、
お察しの通り、テーマが決まらなかったのではなく、ネットでの調べ物が楽しすぎてテーマをわざと決めていなかっただけなのである。
終盤、あまりにも電光石火で資料をまとめ上げたため、もはや授業で何のテーマを発表したのかはもう覚えていない。
それでも上述したように、任天堂のホームページをネットサーフィンしていた記憶だけは残っているあたり、
「ネットに初めて触れた」という部分がいかに衝撃的であったかの証左にはなり得ているであろう。


時代を進めて中学二年生。真ん中の「二」にあたる部分。この時にハマったのがズバリ言えば「ラジオ」なのであるが、
これは以前に記事を三つ分にも分けてそこに没入するきっかけを記しているので、ここではさすがに省略する。


更に時は流れ、高校二年生。最後の「二」の部分。
先に答えを言ってしまうと「『オタク』へと人生の舵を切る」が正解なのだが、ここには大きな葛藤があった。
なぜならこの趣味は深くハマろうとするのにはとても度胸のいるジャンルだったからだ。
今でこそ、ちょっとしたサブカルチャーのひとつとして定着しつつあるが、ほんの十五年前。このオタクという言葉が放つ色は今とは大きく異なっていた。

現代において、オタクという趣味を持つ子供たちが世間にとってリアルにどう受け取られているのかは当事者ではないので完全に理解することは難しいが、
自分より少し下の世代の弟は、小学校の運動会で「涼宮ハルヒの憂鬱」の楽曲である「ハレ晴レユカイ」をバックにダンスするクラスがあったことや、
同じくらいの世代の今の友人たちと話してみると、学校の教室でクラスメートとアニメの話をすることが、決して恥ずべきことではないといった話も聞いたことがある。

……そう、自分の世代ではそういったことは一切できず、ひと度この趣味を持っていることが知られれば、確実に大多数の人間と一定以上の距離が置かれてしまうことは確実であった。
それくらい、オタクへのイメージは最悪であった。

この部分には、三十年ほど前に発生した事件の犯人がオタク趣味であったこと。そしてそれが事件発生の原因なのではと報道され、世間に強い偏見が生まれてしまったゆえ、という背景がある。
因果関係を誤認とする説も多数挙がっているが、問題なのは事実がどうあれ結果的に、そして現実にオタク趣味を持つ人間が長らく奇異の目を向けられていたというところにある。
自分自身にもいつの頃からかそういった認識がありつつも、うっかり深夜アニメを視聴しドハマリしてしまっていた。
アニメオタク的な自我が芽生え、それをひた隠しにしながら高校二年生を迎えることとなった。

同じ時期、ベストセラーを記録した恋愛小説「電車男」がドラマ化を果たした結果、いわゆる「アキバ系オタク」という存在がその時代に大きくフォーカスされ、認知されることとなる。
これがオタクにとって肯定的な意味での影響力を与えるのはもう少し先のことであるが、この作品をきっかけに「脱オタク」という言葉が生まれた。
現在では「ファッションやコミュニケーション能力を一般的なレベルに調整するための方策」を指す言葉らしい(Wikipedia調べ)のだが、当時のイメージは少々違っていた。
「脱オタク」するのがアニメオタクだったとするなら、収集しているアニメ作品の記録媒体やマンガ、ゲーム、そしてその関連グッズなんかも処分し、自分はそんな趣味なんてハナから持ち合わせていませんよ、と周囲に安心して接してもらうための手段だった。

「健全に生きたいなら、オタクは治さなきゃダメだよね」

そんな雰囲気が、ある程度は蔓延していたように思う。

その単語の存在を知ったことにより、当時の自分の心は大きく揺れ動いていた。
そうか、確かにこの趣味を捨ててしまえば、これから先では誰にも何にも怯えることなく、まっとうな人生を謳歌できるのではないか、と。
しかし同時に「好き」であることが「罪」であるとは、どうしても考えられないという部分もあった。
当時の周りとの人付き合いを苦手としていたのは事実だが、それは持ち合わせている趣味の問題ではなく、あくまで自分自身に内包されている根っこの部分の性格によるところが大きく、いわゆる「それとこれとは別問題」というやつだ。
まぁ、当時はそこまでくっきりとした因数分解による証明ができてはいなかったが、なんとなくの肌感覚で「この趣味を捨てることに意味はあるのだろうか?」という疑問はたしかに持ち合わせていた。

同時に、自分のオタクは絶対に治らないという妙な確信もあった。なぜなら、オタクというものは決して「病気」などではなく、もっと自分の魂の部分に深く根ざされた楔のような何かだからだと、当時の自分は考えていた。
いかにも未成年の学生らしい、虚飾にまみれた表現だが。

何はともあれ、こうして「六二二の法則」における最後の「二」の部分で自分の趣味に向けて思いっきり傾倒していこうと腹をくくったのであった。
当時の単なるワガママ少年のヘタクソなアドリブポリシーだったかもしれないが、あの時に捨てないでいてくれたため、今なお楽しく趣味を継続できている。
そのきっかけとなったというのであれば、それはあの時の自分のおかげであると言える。世間の目も、そんなに冷たくなくなってきているし。

自分の表現が恥ずかしいことに変わりはないけど、どちらかといえばこれは感謝すべきことなのかもしれない。
そんなことを思いながら、今日も「六二二」の段階で受け取った趣味を謳歌して生きている。

以上、「六二二を振り返る」はずが「昔のオタクといわれるものを通じて、今となっては特に意味もなにもない薄手のサイズ感だけが大きい主張を振り返る」になってしまった回顧録でした。昔話多いな、この人の記事。