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あの日の思い出、思い

13年前の地震。
記憶も曖昧だけど文字にしてみたいと思います。

学校の部活が午前で終わりで、合宿用に健康診断を受けた後に帰宅。
3月11日14時46分。帰宅してゆっくりしていたら今までにない強い揺れ。これまで震度4までしか出逢ってこなかったところの震度5強。
弟の部屋の本棚は倒れ、一部の食器は割れました。余震のたびに妹とテーブルの下に身を隠した覚えがあります。
帰る時間がもっと遅ければ学校に泊まることになっていた。ある種タイミングがよかったのかもしれません。

会社勤めの父は、幸いにも歩いて帰宅することができました。
日常は変わり、毎日流れるのは決まったACのCM。
卒業式は在校生は参列できない、いつもと違う春休み。

加えて福島の原発事故の報道。
福島のいわき市に住んでいた80を超えた祖父・80近い祖母は、叔母の助言で東京に命からがら帰ってきました。それも親切なタクシー運転手さんに福島から送ってもらい。
祖父母の家は海から数百メートル単位の近さだったため、家は浸水したと聞きました。母のアルバムをはじめ、家から持ち出せなかったものも多い。
地震の数年前に田舎に引っ越し、地震をきっかけに戻ってきた祖父母。無事に戻ってこられたのは幸いでしたが、色々あって婿養子となった祖父は先祖のお墓を東京に移した時にどんな気持ちだったのでしょうか。 きっと悲しいような寂しいような、悔しいような。色々な感情が入り混じっていたのではないかと思います。
亡くなった祖父はいつの間にか、砂浜の砂紋を撮るのにはまっていました。地震の後に海に行くことはおそらくなかったはず。果たして海にどのような思いを抱いていたのでしょうか。

地震の8年後、いわき市を訪れました。
自分の見知った場所は少しでも元気になっているのか?祖父母の家があった場所はどうなったのか?
ぱっと見の街は以前訪れた時と大きく違う、ということはない。違和感のようなものはない。
駅から祖父母の家の跡地に向かう。スマホ片手ですがどうにか着くことができました。
広かった祖父母の家はお宿に変わっていました。家がなくなり寂し気持ちと、後に物件が入っていたのを喜ぶべきなのか。

地震は恨もうと憎もうと何にもならないけど、「もし地震が起こってなければあった日常、いま」を思うと少しやるせない気持ちになる。

母が何かできないかと考え、行ったのが自分・弟のランドセルを被災地に送ること。
6年お世話になってきた「思い出の品」を送るのは少し残念だったけど、手紙をこっそり忍ばせて送りました。
自分にできることは小さい・少ないですが、地震を忘れずにいること。やるなら数円の募金など、小さくてもやってみること。
地震を忘れない、何か自分にできることをやろうとする気持ちは大事にしたいものです。

#東日本大震災

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