古事記と超古代史


自家本刊行 1983年7月10日
復刻版

古事記と超古代史


■古事記の真義

■古代祭杞の原点

■失われた歴史の真相

■古今融合の宇宙構造論

奥野環 著
自家本刊行 1983年7月 10日
復刻版

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はしがき

本書は様々なもののかけ橋の書である。

一世紀以上前から有史を逆上る過去にムー・レムリア・アトランティスといった高度な文明の存在したことが論じられ、様々に議論をかもしてきた。しかし、我々の時代との間に起こった変災が大規模なものであったせいか、決定的な確証が未だ得られていない。

またそのような、超古代文明の名残りともみられる古代思想は非常に多くの優れた面を持ちながら、現代科学の不合理性排除の考え方により光が当てられることなく今日に至っている。古代思想の長所は、それが累々とした過去の教訓を土台にし、個、集合、そして全体世界の目的が何であるかを明らかにしていることであり、それに接する人は大きな世界の有り方を知り役割意識の復活を感じるにちがいない。

しかし、そのような考え方が封ぜられて久しく、現在ほど科学万能の名のもとに自然界に対して横暴がおこなわれる時代もない。 一方で物質的豊かさをもたらしているように見える反面、物知り顔をした知識情報の洪水と精神的虚無による心的不安の増大や日々刻々の自然破壊を生むという半疾病時代を現出した。これらのことは、神を中心に万物がトップ・ダウンされてくるという古代的物の観方や全てが役割を以て生かしめられているという古代的認識の復活により改善していくはずのものである。本来であれば、古代思想は科学の凡そ半分を占めて、現代科学と車の両輪のようにして協調発展させていかねばならないものであったであろう。

こう書くと、類書の多い中のやや異色の現代文明批判の書かと思われるかも知れないがそうではない。本書の目的は、古代思想がいかに合理的であったかを示すと共に、古今融合のアイデァを提供していくことにある。

そのために、日本の代表的古文献・古事記をもとに失われた超古代文明史を解明し、古代思想の源流を探ることを第一主眼とする。その過程で非常に多くの未解明の古代的謎に解答が与えられることと思う。

だがもし読者が保守的な考古学的解釈を期待されるなら、あてはずれになろう。弊書も若干のガイダンスを一章を使ってお知らせするが、少なくともかつて超古代文明の音信に触れ、それにロマンを抱いた人、それも多少の予備知識のある人向けの書になっている。

古事記は御存知のとおり、上。中・下の三巻から成り、ギリシャ神話風に言えば、神話時代、英雄伝説時代、史実といった分類になる。今回の本題は上つ巻神話解読の結果から有史以前の時代の驚異的な真相に接近できたことに端を発する。それは、今の時代を除いて凡そ二時代の文明の興亡と再生に関する物語であり、これが真実であった場合、古代人の物の考え方に強く反映していることは間違いないと考えられた。

その実、古代の文献、伝承、宗教からえられる世界観には滅亡と再生の根強い記憶、理想的古代への憧景などが含まれているのを窺い知ることができる。そこで本書の場合、古代の思想を新らしい側から逆上って考えていくという今までの方法ではなくて、全く逆説的に起源の側から解き明かしていくというュニークな方法が可能となつているのである。

第二の主眼として、古代思想のうち、特に科学観の側面について信憑性の簿いものでは決して無いことを示すために、現代物理学を立場として古代科学観の本質を穿つ、宇宙構造モデル概念を提案しようと考えている。古代思想はかなり先進した超古代文明のあったことを考えれば確かなものと考えても良いと思うが、そればかりでは空想論的でありすぎる。このため、ややもすれば宙に浮きそうな、古代思想の繋留線として掲げるつもりである。

またこれは、古代と現代の科学の融合を図るという壮大な夢を胎んだ一つの試案にもなつている。その結果、超古代文明・古代思想・古今融合の宇宙モデルが一つの連繋をもって説明できたと感じるのであるが、元より表現力乏しい拙筆のことゆえ、旨く理解願えれば幸いである。また、古今融合の思想的動き、あるいはその研究の一助になればこれに勝る光栄は無い。

本書の構成は、一章から三章までを超古代史と古代思想の解明にあて、四章において宇宙構造モデル概念を述べていくことにしている。


目次


はしがき

第一章 古事記の知識の起源

一、古事記の神話は理想的古代の真実を伝える
二、理想的古代の起源をたどる
三、神話は真実を語る
四、失われた超古代に起因する理想
五、大異変が高文明を壊滅させた
六、模範的なムーロア文明
七、新嘗祭と神体山信仰の原点
八、古事記の知識は時代間の破局をみてきた者の記録か
九、知識は皇室が古代中東から日本に持ち来たした
十、皇室は超古代より連綿として続く賢者の系譜か
十一、古代皇室は情報工学的手法を先んじて使っていた(上古史への新たな仮説一)
十二、知識保全プロジェクトの衰退(上古史への新たな仮説二)
十三、大化の改新は古代的皇道の撤廃にあつた(上古史への新たな仮説三)十四、古事記編纂の動機(古事記は古代皇道の墓誌である)
十五、まとめ

第二章 古事記上つ巻解釈

一、古事記上つ巻の概要
二、古事記解釈の基礎原理
三、古事記上つ巻の解釈
(一) 天地のはじめ 超宇宙、宇宙開びゃく論
(二) 島々の生成 地球創成、大陸生成論
(三)神々の生成 人類文明史、全盛から衰退まで
(四)黄泉の国 人類文明史、破局の詳細
(五)身楔 地上の浄化
(六)誓約 自然の猛威と科学力
(七)天の岩戸 地球上を襲った大変災と建て直しの記録
(八)穀物の種 次時代への知的遺産の引継ぎ
(九)八俣の大蛇 異変の後遺症、火山活動の鎮静機構
(十)須佐の男の命の系譜 治山、灌漑、農耕事業
(十一)因幡の白兎 農耕民族の台頭
(十二)きさ貝姫とうむ貝姫 農耕民族の被る試練と興亡のくり返し
(十三)根の堅州国 大地の支配権の確立
(十四)大国主の神、大年の神の系譜 農耕文化全盛時代の様相
(十五)少名毘古那の神 宇宙からの援助
(十六)御諸の山の神 祭り事の本義を教えた宇宙人
(十七)天若日子 宇宙からの侵略(懐柔策)の失敗
(十八)国譲り 核攻撃による威嚇と国土支配権の委譲
(十九)天孫降臨 高度物質文化の委嘱
(二十)猿女の君 某先進文明国家の海没
(二十一)木の花の咲くや姫 急燃焼し短命に終わる高文明
(二十二)海幸と山幸 先進海洋民族の衰退と山間民族の台頭
(二十三)豊玉姫の命 精神文明の体制造りの中断
(二十四)鵜葺草葺合へずの命 次の時代(有史時代)の中途半端 な船出

第三章 古代人の世界観 

一、地球上の文明は生滅をくり返してきた(人類文明史七千年周期説)
二、古事記神話に込められた伏線
三、古代人の考えていた世界の種類
四、万物を生滅輪廻させる草本の理念と樹木の思想
五、古代人の理念世界の考え方
六、古代人の認識していた神の恩籠、生命環境制御システム
七、新嘗の思想
八、「命(みこと)」と「顕わし」の原理

第四章 古代と現代に架橋する宇宙構造モデル概念

一、当宇宙構造モデルを考えるにあたって
二、基礎研究
三、モデルの基本的仕組み
四、モデル概念の原理的検討
五、総  括
六、心霊学に関するアプローチ
七、古代思想との整合
八、おわりに

あとがき

参考文献


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第一章  古事記の知識の起源


神話は、はじめから多大な労力をかけて語り継がれねばならないものであったようである。どのような国でも祭祀の中にとり入れられて、古代人の信仰の土台となり、思想的なよりどころとなっていた。 一体そのような神話とは何が語られているのであろうか。この章では、古代人が理想とした遠い過去を神話に置き替え、非常に長い間風化から守り抜いてきたことを説明し、神話解釈の本論である二章に繋ごうと思う。

一、古事記の神話は理想的古代の真実を伝える

日本の神話は古事記に代表される。古事記は上、中、下の三巻から成り、この前に古事記成立の動機などを示す序文が付けられている。偽書の話題が出ているのが序文であり、筆者が太安萬呂に同定できないとされている。だが、古事記本文自体一定の目的を果たすべく書かれたものであることは間違いなく、序文筆者の意図するところと異なる方針で書かれたものとは考えられない。私の考えでは、序文筆が安萬呂であっても多人長であっても構わないし、本文筆も安萬呂Iであっても漢語に猛けた語部であっても構わない。要は序文に示される役割が時と人を超えて遂行されていると考えるのである。

古事記序文には、「最古の時代は暗く逢か昔のことであるが、前々からの教えによって国土を生み出した時のことを知り、先の物知り人によって神を生み人間を成り立たせた世のことが分る」とあり、また、「歴代天皇はそれぞれ保守的である進歩的であるの違い、華やか質素の違いがあっても、いつの時代においても古事を調べ、現代を指導し、衰えようとする典教を正し補強された」とあるように、本辞は古い過去から先賢によって伝えられてきた古代の知識または事実と考えられていたものに基づいていることが分る。(序文訳は文献(9)訳を要約)

これは後世になって、古事記と命名された由縁でもある。本辞は、中央や地方部族に設けられていた「語部」の口誦伝承の中にあったものである。このことから、今の歴史家は本辞を様々な地方で創られた説話であり、歴史的な信憑性が低いものと観ている。ところが、序文には全く逆のことが書いてある。天武天皇の古事記編纂の動機が、諸部族の受け持ち伝えている本辞が伝承のうちに差異を生じつつあることを心配されてのゆえというのである。

この中には、中央にこそ本辞の原型があり、それが地方に分担されたことが暗示されている。そればかりか、元の知識が伝承の正確を期して丁重に扱われていたことはもちろんのこと、さらには「語部」が古代皇室の計画から生まれたことや、その役割が少なくとも本辞の正確な口伝にあったことなどを窺い知ることができる。これは神話考古学上の第一の盲点であり、無視するか否かによっては神話自体の意義を生かすか殺すかの分岐点でもある。

肥後和男氏は、古代人の歴史思考が過去に逆上るほど広大な概念に発展し、理想を古い方向に投射している事実を指摘し、古代人がより過去に素晴しい歴史のあったことを信じ、それを回復する努力をしていたという考えをもっておられる。本辞を主体的に構成する神話部分が、歴帝の事績を語る、中、下巻に優先して置かれていることをみても、理想的古代がテーマになっていることは明らかである。少なくともその復元の材料を示唆すると信じられたからこそ、誤ることのないよう後世に残す努力が採られてきたのではあるまいか。そもそも当時の世相に虚構と真向から分っていることに対し、存続の努力をとることは先ず考えられないことである。現代の考古学が極めて柔軟性に欠けるのは、古代人の行動様式を非合理なものと前提するところから始まっている。このようなところから与えられる、古代人は素朴だとか文学的だとかいう底の浅い評価は真相を伝えるものとは思えないのである。
二、理想的古代の起源をたどる
では、古代人の考えていた理想的古代とはどのようなものであったのだろう。時間を過去へとたどって推測してみることから始めよう。

一般的に、皇室は新民族と共に海外から渡来したと言われている。諸説があり、東南アジア、蒙古、朝鮮など比較的日本に近い所からのものが有力 なようである。だが、古代の文化は私達が考えるよりも、もっと広域に伝搬するものであることが最近多く分るようになった。例えば、正倉院の御物にはペルシャ以西のものが多くみられ、中には向こうの思想を適てはめなければ解けないような絵柄がある。(文献①)(図1 ・1)

図1・1 羊木蟷結屏風(正倉院蔵)

また、日本書紀には七世紀頃、多数のベルシャ人の来訪した事実が書かれている。このように日本の歴史のれい明期には有力な歴史書が少ないために多くが知られていないが、海外との交流は盛んであったと考えられる。

では、理想は遠い異邦の地にあったのかというと、そうでもないのである。神話の類型をはかる目安として、天地創造、二元論的な観方、善神悪神の系譜の根元的一致、よみがえり、大洪水などの基本要素があるが、それらがヨーロッパ、中東、インド、中国、日本と、内容的、表現的差異こそあれ世界的に共通した話題として登場している。そして、それらがこぞって、史実の中に神話を優先し、様々な哲学者や詩人をしてより古代によりよき時代があったと言わしめているのである。そして神話は、いづれの地でも古代人の思想的基盤となった。多く宗教や哲学に反映し、少なくとも語りつぐべき伝承として今に持ち越されている。

つまり、神話は世界共通の重要な記憶であったのであり、何も日本神話のルーツをペルシャやヨーロッパに求めるべき問題ではない。ただ、紀元前数世紀から後三世紀程の間に局限的な伝播がありえたことは考えられる。しかし時として、日本神話の方が海外のものより、より優れた体系をもっていたりするのはどうしてだろう。これは後程詳しくするとして、とにかく、理想のルーツは、本質的には空間よりも時間的過去に求められなくてはならないのである。

三、神話は真実を語る

神話の信憑性は、古代人の歴史に対する敬虔な扱い方が伺よりも物語ると思われる。それは、比較的後世の歴史書に虚構が記載されていないからである。荒唐無稽と思われた斎明記でも飛鳥の水落遺跡から水時計の遺物発見に併い信憑性の高まったことはみての通りである。海外でも様々な考証材料の発堀により同様のことがありえている。もちろん、史書記載の際、適切な言葉がなく「擬態」により表現しなくてはならなくなったものもあろう。斎明記における、「鬼」とは一体何であったか不明であるが、おおかた自系人種ではなかったかとの説もある。神話には、この擬態表現が多く用いられている。それは驚異的な過去の知識を示すには余りにも言葉足らずであったことを示している。このように考えると、史実群の冒頭にいつの時も掲げられる神話とは真実でなくてはおかしいのである。

一方で、古事記と日本書紀の差異を指摘するむきもある。観点の違い、歴帝の御歳の相異、神々の系譜の相異など多くの一致しない点がある。だが、それは原型(本辞)の意図が違うところにあるからであり、虚構であるためとは言えない。そもそも長年月の歴史の記録を後世に伝承し易くするためにわずかの言葉に要約するとしたらどうするだろう。 一連の年表にまとめるか、それとも若千の思想を付加して簡単な興味深い物語にするぐらいしかないであろう。彼等は、過去にあったことの精神を大事にして後者のやり方を選んだと考えられる。恐らくその過程において、それほど重要でないものは細かい扱いを受けなかったのであろう。神々の系譜や歴帝の御歳に重要性がないとは、逆に神話を皇室が権力誇示の目的に使ったのではない証しではあるまいか。

四、失われた 超古代に起因する理想

現代考古学では文明と呼べるものは最古としても四大文明までであり、それ以前は原始石器時代とされている。そこに果して神代と呼べる原型があつたかというと、それは難しい。神話を育くんだ時代と生活条件が同等以下と考えられねばならないからである。ところが、シュメールの古代都市などは美事な計画のもとに作られていた。また、どの文明も非常に高度な建築技術や天文学知識や数学知識をもっていた。ある説では突然確率的にまれであるが文明の随所に天才が生まれて、このような文化を築き上げたのだという。その説によるなら、そのような時期こそ神話に語られるべき英雄の時代であろう。確かに様々な民族の伝承には遠い祖先の時代に人々に敬われる英雄(賢者)のあらわれたことが語られている。だがそれはこぞってどこか遠い所から突然やつてきたとされていてこの説とはくい違う。また、そのような高度な知識が華開いた反面、もっと簡単なことが、おこなわれていないという事実がある。

たとえば、マヤ人は車輪や陶工ろくろや鉄を知らなかった。しかしその代わり、グレゴリオ暦をしのぐ精度の暦をもっていた。しかもそれは現代の正確な一年の長さと六秒しか違わない。シュメールでは一年が三分の誤差であるが、月の回転周期がわずか〇.四秒の誤差であった。「宇宙の無限性」の考え方もエジプト・インド・ペルー等でみられ、エジプトでは地球は金星や土星などの他の惑星と同じ法則で動いていることを知っていた。これらのことは、必要不可欠な日常の話題とは余り縁のないことでありすぎはしないか。これはそれより以前に何らかの文明があり、それが突然壊滅して火事場から焼け出されるたとえのようにごく一部の知識しか持ち出せなかったか、あるいはどこか全く違った高文明世界から知識が移入されたかのいづれかでしかないであろう。これについて、ソビエトのA ・ゴルボフスキーは前者を肯定し、かってあった大文明が変災で滅び、そのとき知識の救出にあたっていた賢者が居たという考えを打ち立てている。そして、その賢者が民族発祥の各地に出現し、人々を指導したのだという。

五、大異変が 高文明を壊滅させた

では、大文明を壊滅させた事件とは一体何であろう。これもゴルボフスキーが明快な解答を与えている世界の神話に共通する伝説上の大洪水に求められるょうである。彼は世界の様々な民族がもつ記録の内容と地理条件をもとに大異変の中心地を求め、その原因を仮説している。それによると、大異変の中心は大西洋のどこかであるという。その一帯は今でもアトランティス論議の盛んなところである。その理由は大西洋から遠くなるにつれて民族伝承の異変の規模が小さくなっているからであるという。たとえばアラスカのインディオの伝説では「大洪水が襲い、山の頂上に逃がれて助かった」というが異変の極近に居合わせた記録と思われるメキショの古文書チマルポポーカでは、「天が地に接近し、一日のうちに全てのものが滅び去った。山も水の中に隠れた。……テリゾントリが物凄い音をたてて沸騰し赤い色の山が宙に舞い上った」と言っている。
ちなみに、彼はこの原因を天体の接近及至は墜落とみている。

このような異変によって一度栄えた文明が壊滅したとすると、神話の起源は考え易くなる。その頃の文明の程度が高ければ高いほど、神話化する度合いも大きくなるだろう。神話とは俗界とは異った驚嘆すべき世界を示すために登場する者に重みづけして表現する物語であると考えることもできるからである。たとえば、インドの叙事詩ラーマヤーナには空飛ぶ車について書かれている。それは飛び上るとき、地平線に轟く豪音を上げたとか、空の中の彗星のように赤い火となって輝いたとか、「翼ある稲妻」により動いたとか言われている。それはまさに現代のロケットをほうふつとさせる。また、マハーバーラタには核戦争を思わせる情景が語られている。「火の玉のように輝く砲弾が発射されると、濃い霧が軍隊を包み、不吉をもたらす竜巻が起り、黒雲がうなり、音をたて空高く登っていった」という。この他、「その光には太陽でさえ目をまわした」とか「兵器の熱で世界は熱くなった」といい、兵器は「巨大な鉄の矢に似る」と形容されている。

これらはいづれも半神半人の英雄の時代を語る叙事詩である。現代人の我々でもまさかと思うようなこの情景描写は、間違いなく過去のものである。このようなものは、古代人からすれば驚異的かつ畏怖すべき神域の出来事と考えられても無理はない。だが、民衆があこがれる世界はそのような戦争や洪水の中には無いはずである。このような文明の形成期にこそ、気力の充実した理想郷があったのではないか。そのような時期の事を記した古文献も見つかっているので紹介しよう。

六、模範的な ムーロア文明

トニー・アールは、メキシコ盆地から出土した「ムーロア古写本」の解読結果から、今から二万三千年(炭素同位元素年代判定による)以上も前に栄えた文明について述べている。この国はムーロアといい、広大な土地の中に二つの郡と七つの都市があり、農業、鉱工業、水産業を中心にして商業活動、航海に秀でていた。政治は神権政治ともいえるものであり、太陽神、月神の権化とされる男女教皇が主催し、優れた知恵を有する多数の神宮と産業別地区別代表者が補佐し人々は光明神をおしいただいて非常に敬虔であった。

農業は穀類、柑橘類、ブドウなどの生産や酪農がおこなわれ、鉱業は銀、銅の採堀とそれによる装飾品がつくられた。七都市の半数以上が港町であり航海術に優れ、海外に誇れる海軍があり商船が活躍したという。都市には道路整備が施され、塵芥、排泄物の処理設備、上下水道設備などがあった。大学もあり、宗教大学と民間大学が設けられていて、卒業者はそれぞれ神官や専門技術者となったという。特にこの古写本は神官課程に進んだ者の手で書かれている。彼の体験の中には私達の知っているものよりはるかに高度な催眠学習による短時間の経験移入や知識付与がおこなわれたことを物語るものがある。また、スポーツや年中行事としての興祭りなどは、我々のものとそう変わりがなく、知識伝承の風化し難さを感じさせる。また、このような安定した国にも反乱があり鎮圧後主課者は極刑として葦船で流されたというが、古事記にも名残りがみられる。

ここでは概略しかお伝えできないので、詳細は彼の著書を読まれたい。このような国が理想的であるかどうかは分らないが、筆者は今すぐにでも屋敷をたたんで引越したい気がした。無暗に発展し弊害をもたらす高度物質文明よりは余程ましであろうし、長い寿命を保つことのできる文明形態であるに違いないと思った。長所は、精神と物質が程良く調和して、人々が両面から恩恵を被つていることであろう。それは人間の進歩と指導を基調とし、人間と宇宙の本質を理解した科学の上に華開いたものであったと思われる。

ゴルボフスキーによると、大西洋両側の神話と伝説は共に人類の存在期間を四つに分け、現在の世界は最後の第四期にあることを認識しているという。そしてそれぞれの期は色で示され、ほぼ第一期「白」、第二期「黄」、第二期「赤」、第四期「黒」となっている。これは、ヘシオドスによる「黄金」、「自銀」、「青銅」、「鉄」の各時代にあてはまるものである。彼は、「青銅」と「鉄」(現時代)の間に「英雄伝説」時代を置いているのがユニークであるが、前の時代に含まれるものと考えられる。

筆者研究では、後程述べることになるが、大文明周期が約七千年を単位としてありえていると結論している。

すると、ムーロアはちょうど第一期の黄金時代に当たる。古代人の時代観がこのような伝承に裏付けられているものであったとすれば、当然より古代に逆上るほど理想郷であったと言えるだろう。

七、新嘗祭と 神体山信仰の原点

では、なぜこのような理想的文明が滅ばねばならなかったのだろうか。それは天体の墜落という不可抗力的なものであったかも知れないが、古代人は神を信じる以上、そのような諦観はなく、納得のいく理由を求めたことであろう。そうであれば、古代人の思考形態は、きわめて複雑であったに違いない。

一大文明の壊滅とそこからの再生のときこそ、歴史の陰に隠れたちょうど舞台裏の出来事であり、もし歴史に偶然以上の意味があるならばヽ全ての反省がなされ、また次の時代への全ての基礎設定がなされるこの時期に重要な意義が見出せるはずである。
その精神的な痕跡は古代から今に持ちこされている新嘗の儀式に反映されているょうである。

古代人の新嘗の観念は実にユニークである。人間の生死と魂の輪廻の考え方を含みつつ、自然界の万物に壊滅と再生の法則が具有されていることを観念として持っている。これは、自然界への恐怖心から身の周りのものに神を想像し多神教崇拝となったという現代考古学的解釈の理由ともなっている。だが、新嘗には強力な時間の観念が併っていて、単なる信仰心や恐怖心から出ているという理由づけで解決できないのである。

新嘗は前段階として一度前身が滅んだとき、過去の行為の反省とその忘却がなされ、次段階として神の前で威儀を正し、純自な心構えとなった精神が、次の新たな局面のために再び新たな身を以てよみがえることとされ、長い時間経過のおりふし、特に新年や節分などの一年の一定の機会に新嘗祭としてとりおこなわれている。そしてこれは時期、方法の差こそあれ、どのような宗教の祭礼の中にも採り入れられているものである。この観念の基礎に超古代と古代の接点にあった衝撃的事件の記憶があると考えることは的を得ていると思われる。それは一つの不幸ゆえに禁忌であると同時に、通常では遭い難い神との会見と新規巻直しという厳粛な喜びの機会を得ることであったようである。これゆえ、古代人のそれを模倣した儀式では、最高の威儀と手続きを通しておこなわれたのである。

また、いま一つ、古代祭祀で欠かせないのは神体山信仰であろう。日本に関する古代の信仰は、神体山を原点としている。神社の社殿はあくまでも後世のものであり、神体山を祭るために建立されていたことに注意が要る。神体山信仰の理由は山に何らかの力があると考えられていたから、というのが最も古代人の合理性を重視した考え方であろう。現代では何のことか全く説明のつかないことかも知れないが、やはり、神体山それ自体に秘められた故事があり、それが古代人の記憶として伝承されてきたものと思われる。

八、古事記の 知識は時代間の破局をみてきた者の記 録か

古事記は、これらの現代考古学では解明できない様々な謎を説き明かすための充分な解答を包含している。これが今まで未解明であったのは、古事記自体が相当な暗号化文献であり、現代ですら未だに出現していない科学技術に言及するからである。ちょうど本居宣長が言葉の意味まで考えようとしたのに、近世日本の風物に比類する物がなかったために直訳的になってしまったと思われるが、そのようなことが今でもありうるかも知れない。しかし、古事記に語られる非常に多くのものが現在出現し、知識として提供されているから内容的に多くが解釈できるようになったことは確かである。

時代の再生の過程に何がおこなわれたかについては海外伝承にも若干書かれていることである。
バイブルでは、ノアがアララテ山に漂着したことと神と対話したぐらいのことであり、その他幾多ある伝承も理想化がなされていて本旨からかけ離れている。ところが古事記には再生の過程についてかなりのウエイトで書かれていて、神話の中核を成すほどに繰り返し念を入れて解説してあるのである。(もちろん、表面的な解釈や古代人の考え方を無視するようなやり方では一語句すらも進展しないと思われるが)

つまり、時代の壊滅と再生の接点に居合せて事実を観てきた者の手によって本辞の原型がつくられていることはほぼ間違いのないことである。まさか、一万年も昔のことが、時代の浅い日本などに伝えられているなどとは誰も信じないであろう。紀元前二千年以上の歴史をもつバイブルなどの方が優位な条件にあることも確かなことである。しかし私はこの原因を知識伝承者の知識に対する誠実度や能力の差に求められると考えている。その辺の事情を全力推理して数節を使ってお伝えしよう。

九、知識は皇室が古代中東から日本に持ち来たした

A ・ゴルボフスキーによると、ベロッソスの伝承に、洪水がシュメールを襲ちたときその災害を予知していた時の帝王クシストロスの手で全ての事の始まりから終りまでの歴史が記録し保存され次の時代に持ち越された話があるという。このような大変災に併う、予知者による知識の持ち越し伝説はエジプトにもあり、トゥトがこれにあたっている。

ところが、筆者の調べでは、古事記の神話には傍線部のことが大把かみではあるが書かれていることが分っている。既に冒頭で述べたように古事記製作の動機が連綿として語り伝えられてきた知識の風化にあったことといい、それまでの皇室にとって、本辞の知識保全の志は、かの遠い祖先が苦難の末持ち来たした時の志と決して不可分ではない。シュメールの知識と共に当時の知識保全の継志が日本に伝えられていると考えられるのである。古事記の元なる知識をもたらしたのは新民族と共に来た皇室であったであろう。皇室とシュメールを結びつける要素は多く、関連のありそうなものを揚げると次のようになる。

(一) 皇室を示す冠詞「スメラ」の語源を考えると、Sumer-aで筆者訳で「シュメールの開祖」となる。シュメールは元来、統一のとれた世界を示すが、古代皇室が理想的世界実現の先峰を志していたことを十分窺わせるものと言えよう。

(二) 日本書紀に書かれる斉明天皇のまれ人饗応譚(六五七年)は、かねてから古代中東の思想が浸透していたことを窺わせると共に、斉明天皇の懐郷的行為ではないかと思われるものがある。

井本氏によると、ペルシャ人ダーラーが一行数十人を連れて六五七年に築紫に漂着した。これを知った時の斉明天皇は早馬にて大和に招き入れ、須弥山像を創って孟蘭盆会を初修してもてなしたという。そのうち、須弥山は仏教にも縁があるが、古代中東にも類似概念があり、孟蘭盆は仏教に語源はなく、古代中東の天則を回復した者(Ulavan)もしくは魂(Urvan)がそうであろうという。また斉明天皇は、狂心渠なる水路を造ろうとしている。これはペルシャの灌漑水路に相当するだろうという。まれ人饗応はさらに東北方面の蝦夷に及ぶが、彼等は白系のペルシャ人であったかも知れない。朝鮮、中国等の人種の出入りの多かったこの時代にあって、相対的に強い憧景のようなものの存在が感じられるのである。

(三) 須弥山は仏教にもみられるが、思想的にはペルシャに逆上る。この語源を考えると梵語でSumer-uであり、(一)と同様にして「シュメールを覆う」という意味が見出せる。仏教で須弥山は確かに世界の中心にそびえ立つ霊峰を示すものであり、筆者訳が決して誇張でないことがお分かりになるだろう。ちなみに「a」と「u」はそれぞれ「開」と「宇」で割り付けている。

斉明天皇はこれらの思想を構成する表現やシンボルの意味を予じめ熟知していて、須弥山の神の側に立ち、ダーラー一行の労をねぎらったものと思われる。

(四) 古代イランでは、須弥山に相当する山をハラー・ブルザティー(高峰ハラー)と呼び、神々の住まう山岳と考え、遠方に臨まれる山岳をこれにみたてることによって人々は理想の中に生活しようとしていたという。古代日本でもそれは同様であり、山岳信仰と神仏の名を冠した山岳名に端的にあらわれている。(たとえば、帝釈山、釈迦が岳など)やはり語源の問題になるが、高峰ハラーと高天が原の類似性は否定できない。高天が原はご存知のとおり神々の住まう天上の国である。これは高みにある神仙を示す共通語的なハラー(原)に誤らぬための説明「高天(たかあま)」が冠されたものではないだろうか。日本の高天が原に天照らす大御神があり、古代中東のゾロアスター教の高峰ハラーにアフラ・マツダがあり、なおも仏教の須弥山に帝釈天や釈迦があるという非常に類似した思想が古代日本には同居していたと思われる。だが日本人は融合の資質に富み、比較し優劣を論じるのではなくいづれもの真意を汲み思想的に合流させようとしたのではないだろうか。

その根拠は日本各地の山岳名に如実に語られている。九州、大和をはじめ各地にみられる釈迦が岳の名は高天が原と等価であろう。その証拠として、関東平野の北方にある高原山(別名、釈迦が岳)がある。同様に、弥山、頂仙岳、帝釈山なども古代に神仙とみたてられたことを物語るものである。飛鳥時代より、急速に仏教の輸入が盛んとなり、その勢力に旧来の勢力がしだいに押されていったといういきさつを想定する。

(五) 古代人が過去の時代に理想を置き、古き良き時代を再現しようとするならば、とりもなおさず自分達の祖国の風俗や地理条件などを何らかの形で滞めようとするだろう。その例として山岳のみたてがあった。だがいま一つ、チグリス・ユフラテス川流域にかつて栄えた古代都市の並びがちょうど一致する場所が日本にも在る。といっても、古代都市の並びの線が緯度線となす角度と同じ線が日本に在るというわけであり、シュメールの古代都市がそのまま一対一に対応するのではない。そのラインは、図1 ・2に示すように九州を斜断する。この特徴については二章三・(九)節で詳しく述べることにするが、簡単に言うと、このライン上の地名が古事記の「天孫降臨」においてニニギの命が降臨してくるときの言葉の中に出てくる地名と符合するのである。それ以外にも驚くべき符合がいくつか見出せるいわくあるラインであり、 一応「ニニギの命の降臨ライン」と名付けている。

シュメールの古代都市の並びと九州の部族国家の拠点の並びの相似像

シュメールの側のラインはそれを延長すれば北西にはシュメールより古い文明が見つかったという黒海西岸に至り南東にはやはり楽園伝説のあるバーレーン島を奇麗に繋ぐ、これは最古の文明の伝搬ルートを暗示するようであるし、それがニニギの命降臨のルートとも幾何学的に一致するというわけである。ここでは二つのラインに符合が見出せることから、シュメールと新民族の関係が不可分ではないことを述べるに滞めておく。

日本各地の地名とその地域的まとまり(地名パターン)には類似したものが多いが、古代人の言葉足らずのゆえではなく、シュメールの地名を踏襲しようとしたことによって起きたと考えても面白いと思われる。

十、皇室は 超古代より連綿として続く賢者の系譜か

過去の時代と新しい時代の接点において、多くの国に賢者と呼ばれる者が登場し、彼等の手で知識の救出や存命策が構じられていたという。例えば、先述のクシストロスやトゥト、オアンネス、古代インドのパラシャリア、古代ギリシャのペラゴス、メキショのケツアルコアトル、その他ボチク、コンティキ、ザナム、ククルカン、ヴォタンといづれも、農耕や建築、天文学、太陽礼拝、律法などの文明の基となるものを付与し、その民族の開祖や神として祭られている。

同様に皇室の起源は、このような賢者の役割をもった人々であったと思われる。その出自の最たる候補地は、拙説ではシュメールと考える。そして知識存続の後志は賢者の役割の系譜として皇室が以来担ってきたと考えるのである。

知識の救出もそうであるが知識の存続にあたる場合にも苦労があったはずである。
ゴルボフスキーは自然的風化に加えて、知識紛砕の人為が何度も歴史上にふりかかっていたことを指摘する。

それは決まって、 一握りの権力者の利益のために公然とおこなわれていた。だが、賢者はそのようなやり口を熟知していて、単純な伝搬方法で済ますようなことは無かったという。例えばエジプトのビラミッドには膨大な知識が隠されているというし、賢者の手になった幾多の文献は容易に意味を悟られないように暗号化されているという。

また、 一方賢者は知識が付与される側の人々を考慮しなくてはならなかった。なぜなら、知識の多くは超古代の高文明の利器に関するものであり、教えられた後世の者が悪用することが心配されたからだ。このためそのうちから時期に応じて必要なものが古代人の啓蒙のために使われたが、残りの多くは、再現不可能なまでに要約されたり、それを開くべき時(これはどうして知るのか読者注意)が来るまで暗号化されたり、タイムカプセル的なものの中に隠されたり、あるいは強力なカースト制を敷いて容易に立ち入らせないようにしたという。これら二つの憂苦への対策法は今現在、多くの謎の形式で発見されている古代遺物や伝承の中に織り込まれていて、多く未解明のままで眠っているというわけである。

古代皇室が賢者の系統であることは、多くの事柄から間違いのないことと思われる。その挙証を次に掲げ、従来までの上代史観が正しいのか拙論が正しいのか併せて問いかけることにする。

十一、古代皇室は情報工学的手法を先んじて使っていた

(上古史への新たな仮説一)

情報化時代の現代において、情報の保全のためには様々な方法が考えられているが、基本とするところは次のようなものにまとめられる。第一に、情報の複写と適時における照合。第二に情報それ自体の体質強化をすること。第二に情報を伝える媒体の品質保全である。これに加えて、必要とあらば、複写部数や照合回数を増やしたり、情報を記憶し易い形に加工したり、情報媒体の質の向上をはかったり、これらの役割を組織化し制度化したりすれば十分に風化に耐えるものとなる。さらに機密を要するなら、特別な知識者にのみ分かるように情報を暗号化するわけである。日本においては最後の機密に関しては比較的オープンである。強いて言えば機密保持は情報機器内部でおこなわれていて、使う者はそれ程意識していないのが実情である。とにかく、以上のような基本事項が考慮されて現在のコンピューターを始めとする情報機器が設計されており、同様の様式で情報化社会が成り立っているのである。

ところで、古代皇室は、これらの情報保全工学的要件を凡そ満足した施策を採っていたことが理解される。それを以下に揚げてみよう。

(一)知識情報  まず保全すべき 知識情報とは何であるかというと、古事記の神話の基礎となった本辞である。これは口伝であったが古事記とほぼ同じ調子の昔語りであった。この中の神名、命名、島の名および筋書きに仕組まれた意味が知識部分なのである。だから神話の昔語りの一連の筋書きをそのまま暗記するかもしくは書き記せば情報の保持の役割を果せたのである。

(二)情報の複写と照合  歴代天 皇は、地方のカタリベを定期的に宮中に招き口誦を楽しんだというが、このとき中央の持っている基の情報(本辞)と他家の受け持つ情報のすり合わせ照合と誤り訂正をおこなっていたというのが真相であろう。

(三)複写情報の分担  (二)の 前提として、各地方諸家(のカタリベ)に知識を分担し受持たせるということがおこなわれていた。これは冒頭で述べたように古事記序文から推測される。

すなわち現存する風土記に記されたものから推測されるように、ある地方に関係する主祭神、先祖の命の伝説が中央や異なる地方の物語にも登場していることによって主観点(主人公)こそ違っていても情報の複写に類したことがおこなわれていたと解せる。そのようなとき中央のものは登場する神をできるだけ公平に表現しなくてはおかしいが、古事記にはそれが端的にあらわれている。

日本書記が倫理を重視して登場者の行為に厳しい意見をもつに対し、古事記は淡々としている。

(四)情報の重みづけと単純化   重要な知識は神名と筋書きに語られる。このとき、「神」や「命」の言葉は知識自体に力をもたせるためのものではなかったか。民衆はその知識の意味するところまで知っても知らなくても良かった。彼等は見えぬ神におびえそして支えられ、畏敬の念と共に後世に語り継ぐことになったわけである。また、情報を憶え易くするために、知識の集約、筋書きの単純化、説話化がなされた。カタリベはこのためにも初期の頃は活躍したと思われるが、非常に高等なプロジェクトであったことが察せられる。

(五)情報媒体の品質管理その一(人)   情報伝達の媒体は、カタリベとその底辺を支える民衆であるが、この強化のため古代の歴帝は万民に国語の教育を普及した。このため人々は後に万葉人と親しまれるほど文学面に秀で、下層階級に至るまで自らの心情を言葉に吐露し、素朴で力強い秀作が数多く創られている。だが、そこには、知識保全の支援体制の拡充と優秀な人材の発堀と登用という期待が込められていたと考えられる。これは同時に国力充実や国民の品性向上などの多くの効果をもたらす、まさに賢者ぶりを示す施策であった。

また、歴帝は国民を大切にすると共に古代の教訓をもとに徳育を施していたことも本当であろう。少なくともこの頃の民の生活はまとまりをみせ、豊かであったと思われる。

(六)情報媒体の品質管理その二(組織)   カタリベは、知識の記憶を担うと共にその査察監督の機能を果たしていたと考えられる。それを指揮していたのは天皇である。カタリベは皇室の計画から生まれ、当初は国語の基盤造りから始まったと考えられることから知識情報の翻訳、説話化の起源は古いものであったと推測される。それがやがて、文法の整備や新造語の取締まりなどにも力を入れるものとなったであろう。そして、機能の大半は知識の保全に充てられたと考えられる。カタリベは方法として、(知識の)語りに対して(舞いで)振りつけるという非常に効果的な記憶法を用いていた。それは、今でも神楽舞いに名残りをとどめている。

また、古事記製作に重要な役割を果したカタリベの舎人という稗田の阿礼の名を語義分解すると「日枝の顕れ」であり、その意味は「知識の分枝(または体系)をあからさまにする」というものである。これはカタリベ自体の役割を端的に示している。つまり、稗田の阿礼とはこの時のカタリベもしくはプロジェクトの呼称であったのではないだろうか。また、彼は目が見えなかったが、耳に聞いたものは全て憶え、間違わずに暗唱できたというが、まさに国家機密諜報機関のように秘密を守り、勅命に違わぬ精神を如実に示していると思われるのである。そもそも、当時の部曲制とは現在のプロジェクトチーム体制のことである。それを現在のように営利企業でなく国家組織の中でおこなったことが特徴的である。情報工学的知識保全策といい、プロジェクトチーム体制といい、古代人の知識水準が高度であったことは疑いのない事実である。

また、知識情報の内容を模倣する役割もあった。これは、知識情報の内容が余りに高度であり、非常に重要であってもそれに引き当てるべき何物も無かったために、その示す実体や行為をしぐさで表現するものである。たとえば、隻人舞いや猿女舞い、また太卜の占術や祝詞の儀式などである。これらは神楽や神社の祭祀儀礼の起源となった。古代人は知識がいづれ元あった通りに復元されることを信じ、いつ再現されても良いように備えていたとも考えられる。

(七)知識情報の前提的な集約加工   海外より渡来した古代皇室が日本統一を画策していた当初を考えてみよう。日本は多湿で地震国であったため、海外のように巨石建造物で記録を残すこ

とができなかった。しかし古代皇室は、どこよりもスケールが大きく利口な手段を用いた。知識を断片化して身近な事物にあてつける連想記憶法という物憶えの手段がある。この方法を時間、空間の位相とスケールを変換して応用し、日本中の皇室の支配下にある津々浦々の地名に縮図化すると共に知識を統治下の部族に分担させ呼習わせたのである。このとき知識を予め神格化し、部族の祖先または氏神として祭らせる準備が図られた。たとえば、イザナギの命は本来、宇宙的スケールの知識なのであるが、御陵が淡路の多賀にあるという挿話を設けて民衆レベルに適わせるやり方が採られた。この方法は古事記に多くみられる。それは神話上に載せると共に対照するように実物を実際の地方に設けているのである。また、この神格化した知識は、皇室との縁籍の深さを示すものとして一役買ったであろう。なおもこのために知識の分担が促進されたことは言うまでもない。このように、日本征服に乗り出す前から知識存続保全のための綿密な計画があったことは間違いないようである。

このように観てくると、古代人といえどもいささかも現代に対して遜色はない。情報工学的手段を余すところなく駆使しているに加えて、深い人間研究の成果がみてとれるわけである。

一体どうしてと思われるかも知れないが、簡単である。彼等の持ち来たした知識に帰因しているのである。彼等は多くの文明の利器を再現できなかったかわりに、方法論的なものは極力駆使していたのである。

古代日本人は、この知識のことを「ひ」と呼んだ。同音でも他に様々な概念を含む言葉であるわけだが、古事記中では「ひ」は多くこの意味に使われている。たとえば、聖(ひじり)、辺つ火(へつひ)はそれぞれ知識の管理者、物質的充足をもたらす知識(「かまど」はそのシンボル)を示す。同じように、天皇の敬称に使われた「ひつぎのみこ」は「古代知識の継承者」を意味し、聖徳太子が隋にあてた親書の書き出し「ひいづるところの天子より……」は知識を活用していく意気込みの強さを隋に誇示しているのだ。

「ひみこ」も決して卑弥呼ではなく、元は「(古代の)知識を総身にする」の意で、潜越さを魏王にうとんぜられて卑屈なあて字がなされたものであろう。よって、卑弥呼も皇室の系統である可能性が強い。古代より伝えている知識の再現は世界共通の憧れであったわけである。古代から連綿として続く皇道なるものがあったとしたなら、それは、このような目的意志と確固とした方針ではなかっただろうか。

だが、日本は、やはり時代的に浅かった。中国は、その時代の奥行きの中で知識に基づく理想復元の無理を知っていたのかも知れない。日本もやがて乗り切り難い困難な局面を迎え、坐折していくのである。筆者はこの辺のなりゆきを次のように推測する。

十二、知識保全プロジェクトの衰退

(上古史への新たな仮説三)

和を中心として日本の統一支配が始まり初めての安定期ともいうべき飛鳥時代に入ると歴帝の予想も大きく喰い違つてきた。知識保全プロジェクトが根底からゆらぎ始めたのである。その原因は、一つは豪族の利害進出、二つは中国文化の流入、そして三つは仏教勢力の拡大であった。

飛鳥時代は様々な面で転換をみせた時代であった。皇室率いる強い意気込みの民族は、日本渡来以前から、日本統一を果たしてしばらくの間は、皇室を中心として一つの目標を貫こうとする意志力で幾多の戦乱をくぐり、究境を打開してきたことであろう。そのまとまりの原動力となった目的意識こそが世界の極東に統一国家を生ましめたのである。だが、世状が安定をみせてくると、今までとってきた目まぐるしい動きに対して反省がなされる。推進原理となった古代知識は、それがいつの日か再現されるものとして至上の宝のように扱われてきたが、抽象的な方法論を除くと未だ何一つ実現されたものはない。

せめて韓の世界(朝鮮ではない)からの知的介入を期待するとしても、具体的なビジョンを知らない。結局実現の約束のないものであることが分ってくると、現実論的な動きが出てくるのも無理からぬこととなる。これが古代皇道の第一のゆらぎである。

その頃、海外からの文物流入も多彩を極め、西はベルシャに及ぶものまで様々でぁった。その中でも日本に近いところにかねてから皮肉を込めてつき合ってきた中国は、古代の知識に描かれている高文明からすれば見劣りのするものであつたが一定の水準を達成しており、魅力的であった。日本がこれを越えるものとなるには、まずこの文化を採り入れ、研究しなくてはならなかっただろう。ところが知識志向の考え方はしだいに大陸文化輸入の目先的なものにすりかえられてきた。それはプロジエクト意識の手薄な新興の地方豪族から始まり、やがて中央にまでその波は押しよせ、やがて中央では豪族間の利害対立を引起こすに至った。これが第二のゆらぎである。

次に文化流入は漢語の浸透をもたらした。これは大和言葉で存続してきたプロジェクトにとつては根底を揺がす大事件である。カタリベもはじめは語いを増すための研究材料として扱っていたものも、その多彩さに色を無くした。漢字に訓をあてがうやり方で日本の独自性は守ったものの、優秀な人材が多く異言語のために流出することとなった。こうしてカタリベの独自の機能は衰えをみせた。これが第二のゆらぎである。

思想的にも大変なものが入ってきた。仏典中最高と言われる法華経が早々に伝来し、聖徳太子がその説明書を書いた。法華経と本辞をすり合わせれば自づと優劣も把えられてしまうものである。たとえば、宇宙論では、本辞が宇宙史が基本三神から開始したとするに対し、法華経は無限回数ほど宇宙は興亡したが、そのはるか前から如来は居たという概念があるためまず神と仏が規模的に差があることが分かる。単純な者なら証さずともこれだけで仏教優位を観て取ってしまう。

次に、法華経はじめ仏教が人の精神的救済に主眼を置きそのための明快な哲学を有していたのに対し、本辞は原理や法則、歴史の説明が主体であり、精神的なものは秘教化していたし、人々の精神的充足は知識再現が果たされたらという条件付き約束がなされたぐらいのことであったに違いない。このためであろうか大衆は、自づと仏教に傾き、神道はエリート的なものとなっている。

本辞は別の面で非常に優れていたのであるが、現実に密着した体系をもっていなかったために、普段の状態で考えがちの当時の学者からして先入観を持ったものだろう。このようなことが豪族間で広まるともはや取り返しのつかないものとなってくる。蘇我氏が仏教に傾頭したのもこのようなことからであったろう。鉄壁と思われていたプロジェクトも人や言語といった情報媒体のゆらぎからもろくも崩れてゆくのである。

十三、大化の改新は古代的皇道の撤廃にあった

(上古史への新たな仮説三)

このような止めようのないなりゆきに鉄槌を下したのは中大兄皇子であった。彼は、うち続く皇、豪族間の政争の中に古代知識の無力さと権威の失墜をみてとり、政治と皇道の分離の必要性を考えていたのではないか。政治をほしいままにしていた蘇我氏を滅ぼした大化の改新は、かつての歴帝が抱いていた復古思想を非現実的な理想として打ち砕くことに理由があったと思われる。その根拠は、過去の歴史書などの重要な記録の焼失であるが、これは謀略的焚書であると考えられるのである。仏教に篤かった蘇我氏は新興豪族であり、古代知識を重要視していなかった。

だが権勢として、これを掌握しておくことは皇道自体を直搾することでもあり、かつ天皇と同等の安全が約束されることであった。だから、蘇我蝦夷はこの管理者の位置で最高権力を自認していただろう。よって、子入鹿暗殺は全く予期せぬ事態であり、さらに、蝦夷の許に屍体が送り付けられたことは天地が逆転する挑発的出来事である。逆上した蝦夷は然らば皇道もろともにの方法を採り文献とともに屋敷を焼き払ったのであろう。

この事件は部外者の目から見れば、仏教に溺れた蘇我氏の漬神的末路と映ったことであろう。

考徳天皇、斉明天皇は皇道の中絶と、陰謀と政争のぎくしゃくした政局にやりきれないものがあったに違いない。斉明天皇は、白系のまれ人との親交を篤くし、汎ペルシャまがいの狂心渠を造ろうとして、民心の反感を買った。この狂気的ともいえる懐古趣味への内外の反感は、現実的改新派の天智帝の好評への布石になったことは言うまでもない。さらに皇子はこのような中にあって既に実用化されていた中国の画期的知識を採り入れ水時計を造営したことは知っての通りである。こうして旧態的な政道は抹消され、現実的施策が着実に開始されることとなる。確かに、「大化」の年号は、皇道の方針の大変革にちなんでいると言えよう。

古代の知識情報の面からみたこのようないきさつは、歴史書に採り上げられているかどうかは不明である。無かったとしてもそれは不思議ではない。というのは、旧知識に関するプロジェクトおよそ、それによって成った地名や祭神、その他一切のいきさつが勅命によるかん口令で封じられたであろうからである。そもそも、このようなプロジェクトがあったこと自体、表ざたにされてはならないものであっただろう。それは文字(神代文字)があるのにわざわざ口伝で知識伝承をしていた徹底ぶりにも窺える。そして我々が発見している歴史書はそれらの表面的な波頭がのせられているにすぎないと言えよう。

十四、古事記編纂の動機

(古事記は古代皇道の墓誌である)

その後に立った天武天皇は天智天皇にはうとんぜられただけに、復古思想の再興を考えられていたようだ。これは、新方針をよしとしながらも、一方で皇道の回復をはかろうとする考えであったろう。だが、重要な史書は焼失しており、かつてのプロジェクトは支配者層の変転で半壊し、豪族も信頼性を失っていたであろうから容易ではない。もはや口伝に耐えぬ有様から、プロジェクトの寿命を見限られたために、帝は現存する本辞を文字で記すことを敢行されたのではないだろうか。文字で顕わすことは、古代人の間では物事の成就と同等の意味をもっていた。この記載が完了時点でプロジェクトは解散し、 一切表ざたにされないというものであったと思われる。このとき、文字もプロジェクト関連のものは用いられず、漢字でのあてふりが検討されたであろう。

だが、御自身の時代にこれをおこなうことは、自らが皇道を大陸文化であがなうことになることや、プロジェクト消滅の帝紀上不名誉な時代にしたくなかったことなどの理由でためらわれたのであろう。御自身は編纂にあたられ、特命を滞びたカタリベチーム(稗田の阿礼)に口伝をお命じになったのである。そして最も親しい側近である多氏に新方針がゆるぎないものになった時に記すよう記載の役を任じられた。この多氏こそ隠れたプロジェクトの一雄であっただろう。

こうして、後の大宝律令制定とその後の元明天皇の時代の平城京遷都による革新時代の体制確立の号令と歩調をあわせて、天武帝の志を継いだ古事記が書き記されることとなった。ここで、旧態勢力の事実上の抹消(顕わし終わり)と新勢力のスタートが形式的に完成されるのである。

古事記の記録にあたった太安萬呂は、この執筆のために敢えてであろうか、「多」の姓を「太」に改めている。そして彼は不名誉な事蹟をとがめられる形で墓葬が呪諷的かつ貧しいものであったようである。これは彼が役割を受けた時から決められた最後であったようにも思われる。だが、古事記序文はあくまでもプロジェクトがより一層充実するような言い回しになっている。それは、古事記がこの連綿として統いてきた役割の墓誌であることを物語るからではないだろうか。(一担滅んだものは再び蘇えるという思想に託したと考えられる。)この後、中央のカタリベは、宮廷や神社の中の一機能の中に規模を縮小し、地方のものもやがて消滅し、かつての部民は自拍子や後のびわ法師などに転身したと考えられる。また、多氏の一族もその後宮任えする者以外は隠れ、根拠地である伊賀地方で、後の忍びのルーツとなったとするのも一興であろう。

また、皇室も皇基の凡そ一半を無くしたことによるゆらぎが否めない。古代歴帝の大義に満ちた雄猛さは以降、明治時代に至るまで見られることは無かったのである。さて、これらのことは、皇室を超古代知識存続の賢者と考える観点から発した古代史の新解釈であり、調べて書こうとしたらそれだけで一冊の本が出来てしまうだろう。だが今回の本旨ではないのでこれで留めることにする。
(三章二節に関連事項記載)

十五、ま  と め

以上のことから日本渡来の新民族は一つの理想状態と秩序を打ち立てようと考えていたことがお分りになろう。それは、より古代の復元をはかろうとするものであった。そのためには、失われた超古代から持ち越された知識が必要不可欠であり、経過を重視してその入手経路をも知識の中に織り込んでいかねばならなかった。そして肝腎の神話はより過去ほど雄大に理想化してあるのである。

日本民族は古くからプライドが高かったが、それもこのような先古の知識を背景にし、持ち伝えているという自負からきたものであった。皇室の万世一系性の根拠も血縁以上に強い知識存続の役割意識に求められると思われる。なぜなら日本人は融合の精神を基調とし、思想、人種を越えたところに目的を置いていたからである。妥協を許さぬものと言えば役割遂行の目的である知識そのものであった。だから、あまた海外の宗教思想は観てきたことであろうが、独自の神道概念を創り、その中で独自の知識を育成してきたものと思われる。

だが、まぎれもなく誤算はあった。まとまった思想の力は人々に非常に難かしいことを成し遂げさせる。だが、思想が母体である限り、考える時間があり余る安定期には非常にもろかった。

それはどのような国家樹立の歴史をみても同じである。

また最大の誤算は知識が再現されるまでには、それから一千年以上の時間が必要であったことだ。そしてその時には逆に一文献を残して一切が無に帰しているのだから、歴史の皮肉、あるいは呪われた黒の時代と言うべきなのかも知れない。

古事記は現代のなりゆきによく似た超古代にあった事実と重要な教訓を多く残している。今頃になって解かれるよりも、もう半世紀も早く明らかになっていれば現在ある事態が、もっとましなものになっていたことも想像に固くない。それだけ古事記はここ数十年、 一握りの人間によって都合のいいように歪曲され、用いられてきたのである。その意味では、暗号化されたこと自体、問題があったのかも知れない。だが、今やその古代的懸念を払拭して超古代知識と継志を含めて理念を昇率させる時期が来たのだということをここに感じるしだいである。

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第二章 古事記上つ巻解釈


ここでは上つ巻の概要説明、解釈のための原理説明、そして本題の解釈に入ることにする。

一、古事記上 つ巻の概要

古事記は上、中、下巻に分けられている。この分類法には、ある種の意味が含まれている。それは、イデアが現実に投影する段階といったものである。その中には時間の流れを含んでいて、上からたどれば、より大枠から骨格へとイデアが固まりをみせて、やがて現実的なものとなり、逆に下からたどるなら、段階的に幽幻の世界に透け込むような格好になる。だから下ほど細部の正確性は有するが局限的であり、上は逆に細部は定かでないが、全体が把めるという具合いである。

つまり、「下」は現実世界であり、「中」はその精神の生きづいている世界、「上」は元つ理念の世界であり、その性質上、神話は夢物語的に荒唐無稽であるが、少なくとも歴史展開の大枠を示している。また、現代と非常によく似たなりゆきが上つ巻には語られている。つまり汎ゆる歴史に類型をもたせる原型的理念の塊といった表現が適切な程である。このため、上つ巻は中、下巻に先行する出来事(すなわち超古代史)を語るのみならず、中、下巻およびその後の我々の住む現代をも包含しているものと言えるだろう。

では、次に上つ巻を構成する物語の各々が何をテーマにしているものか一覧表にしよう。

二、古事記解釈の基礎原理

ヤマトコトバの一音は、象形文字の一字から発している。これは隠語である神代文字が発見されていることから推測される。シュメールから発した皇室がまず手掛けたのは新言語体系の創設であろう。元となった象形文字は非常に多くあったが、この中から基本音を紋り数十種類に抽出した。そこには様々な途中経過した民族の考え方が反映されたわけであるが、ほぼ基本的なまとまりをみせたのはインドの頃であろう。タミール、ブータンなどの各地方の人々は日本人と姿形、発音言語ともによく似ている。

もとより、象形文字は、非常に豊富な概念をその一文字の中に宿していた。これは、まとまりのないという意味ではなく高次元情報であるということである。それはちょうど、原子や分子を形成する凡そ定まった性質と結合ルールを内包した不確定性的な素粒子に相当する。そして、そのような一音毎をまとめ上げる総合的な結合ルールが考えられていたことであろう。また、そうでなくては、後世に文法と名のつくものは登場しなかったはずである。このような音が結合ルールに従い、他の音をくっつけていき、はじめ一音では多様な表情の不確定な場であったものが骨格を鮮明にし、やがて一意な語句あるいは文となっていくのである。それはちょうど、原型的理念と具体化した事実の関係に似ている。言葉は実に天の理にかなった方法で造り出されているのである。

(一)ヤマトコトバの基本的表情解釈

前表は、筆者が日本人として生まれ育った土譲と経験において、察し得たヤマトコトバの各音の基礎表情を解釈しまとめたものである。ここには万葉仮名の研究から得られる甲類、乙類と八つの母音については考慮されていない。全く、ユニークなものである。

(二)少言語多意と擬態暗示の技法

飛鳥、奈良時代、およびそれを逆上る以前から言葉は非常に大切にされ、高下貴賤を問わず教養として付与されていた。だが言葉自体はれい明期であり、少ない言葉の中に多くの意味を込め、周囲の筋書きや事情から本意を示すということが多くおこなわれた。和歌はその好例であり、ゲームの形態により一般教養として慣み易くなるとともに個人の才能を知る上で役立てられたと考えられる。和歌は当初純粋であったが、後に掛詞や縁語などがあらわれたのは、それまで潜在していたものが表面化してきたためであろう。つまり、語句の中への意味の暗示化や多重化の技術は知識情報を集約編集することをおこなっていたカタリベの中に在ったものであり、それが時と共に流出したと考えられるのである。

上つ巻はこのような例がほとんどである。表面的な筋書きは伝承のし易さゆえ面白くしてあるが、表面的解釈する限りにおいては無価値である。では裏面解釈のためにどのような案内が施してあるのだろう。スフィンクスが道行く人に「朝は四本の足、昼は二本の足、晩は三本足で歩くものは何か」という謎かけをしたという。これと同様のやり方で物語の筋書きから推理させる方法が非常に多く出てくるのである。これは、筋書きによる擬態暗示法とでも言えるものである。

これに対して、日常の身近な事物に引当てて、その裏面の意味を推理させるものも多く、これを事物による擬態暗示と言うことにする。これは古代人の「みたて」の共通シンボルとその意味が分かっていないと解けない代物である。なぜ、擬態暗示が施されねばならなかったかについては、既に述べたように、暗号化する必要があったことと、知っていることを表現する言葉を持たなかったことの二点によるだろう。

(三)古事記における特殊修飾語

古事記の語ろうとする重要な個々の意味は神名自体にある。既にお話したように知識存続上の便宣から来たと考えることを理由の一半として、そして、解釈上の言葉のもつ圧迫感を棚上げにしておくため、古事記解釈上の手順として一担次の語句を修飾語として扱い、後に本義を付加して考えてみることが望ましい。

まず、「神」と「命」であるが、これを第一類の特殊修飾語とする。この意味は、「神」(隠満)が隠れ普遍する法則を示し、「命」(満言)が現象を生成する目的意志(理念)を示すものと考える。つまり、「神」は「命」を登場させるための陰の演出者あるいは舞台設備であり、「命」は脚本と言うべきである。たとえば「ゥヒヂニの神」といえば浮力をもたらす法則となり、「オホクニヌシの命」といえば農耕文化をもとに国造りする民族の理念となる。

次に、「日子(ひこ)」、「日女(ひめ)」を第二類の特殊修飾語とする。「ひこ」は知恵を有する者の意があり、このうち「こ」は物言わぬ君子を意味する。「ひめ」は同じく知恵をもつ者の意であるが、物を言う(生産あるいは表現し具体化してしまう)側である。男女の性を区別する以外にこのような意味を含んでいるのであり、古代人は状態としては「ひこ」の方を重んじた。というのは、古代人の間では、理念として存在しているものが形に顕われてしまうと理念自体の寿命が尽きてしまうと思われていたからである。(この詳細は後章で述べる)それは物事の宿命的本性とはいえ、つきまとう離別を考えると「ひこ」の状態を良しとし、老よりも若、それも幼な児の状態を尊んだのである。

古事記では、男性原理を理念のチャージ段階におき、女性原理を理念の衰退に関与するものとして物語が構成されていることに注意が要る。また、この語句が神名自体を構成する場合は意味が異なる。たとえば、「活津日子根」(いくつひこね)の「ひこね」は「日捏ね」で「知恵により造形する」の意となる。(彦根の地名もこれがもとになっていると考えられる)

(四)多重の伏線の仕掛けと縮図化の技法

暗号化の仕方は裏面暗示や擬態表現のみではない。 一本の物語に多重の真実を封入する方法もとられている。主導的な筋書きを主線としたとき、残りは伏線という考え方をしようと思う。その個所は、先述の各節テーマ一覧表で言えば、第二時代の開始部分である「穀物の種」から天孫降臨後の結末を伝える「猿女の君」までの一連の筋書きにみられる。これを主線で言えば、一時代の歴史の開始から終了に至るまでの経過であるが、同時に多くの類似展開を言い表わしている。

つまり「起・承。転。結」もしくは「生・成・衰・滅」が一物に必在のものなら万物においてもこれと同筋書きの展開がありうるということである。

ここには万物が本質的に潜在させている志のようなものを感ぜざるを得ないことから、この神話自体、原型的理念を観破した者が読み取つたものであるという印象がぬぐえない。それは古代東洋思想にみる原型理念アカシツクレコードのことであるが、古事記神話には、随所に「理念の段階的展開」に関する記述がなされていて、神話の初源的な出所を示していると言えなくもない。

(この詳細は三章で述べることになる)よって、必ずしも筋書きに多重の意味を集約しようと技巧をこらしたわけではなく、自然にそうなったというのが真相かも知れない。

三、古事記上 つ巻の解釈

言葉の結合ルールは、あまた存在したであろうが、筆者はそこまでの研究はおこなっていないので、古事記本文の解説には、語句に整理された後に充てられている意味を多く参考にしている。

但し、音の表情により分解判別できるものは、できるだけそれに従うことにしている。解読にあたってはできる限り字義分解例を揚げ神名と最終解釈の途中経過を示すことにする。

また、過去の高度な知識は、凡そ無の状態から出発した古代人にとってとても表現し切れるものではなく、日常生活の中で用いる事柄に対して過去の知識を重畳させ仮託している。そこで、筆者はそのものが何をみたてたものになっているかを考えるために、古代人の世界観、宗教観などの物の見方を分折しつつ、海外伝承なども参考にしながらみていくことにしている。

原文索引は、武田裕吉訳註「古事記」により各節の区切りは、意味の明確化のため若干のところで分離した以外は同書を準用している。また、神名は読み方に意味があるため必要と思われる以外はカナで表現する一本文内容は、筋書き上重要なところを原文対訳で示し、各表題には原文表題と、訳後判明したテーマを掲げまた、特に重要と考えられなかった個所は原文の全部乃至は部分を省略する。

(一)天地 のはじめ

本文最初のこの節は、古代における物理学観を語る歴史書の先頭を飾るに適わしい宇宙開闢の事件を扱うものである。

超空間原理の生成

-----原文 天地のはじめ(前半)------------------

天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神。次に高御産巣日の神。
次に神産巣日の神。この三柱の神は、みな独神に成りまして、身を隠したまひき。

次に国若く、浮かべる脂の如くして水母なす漂へる時に、葦牙のごと崩えあがる物に因りて成りませる神の名は、ウマシアシカビヒコヂの神。次に天の常立の神。この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。上の件、五柱の神は別天つ神。

-----訳 超空間の原理が、先ず完備した。- -----------

世界の最初の頃には、まず超空間があり、そこには全ての創造の要素が平衡状態になって充満していました。次に、現象を展開せしめるメカニズムがあり、さらに、素材となる目的理念を供給するメカニズムがありました。これらの機構は、私共の感覚では把握できません。

次に、現象の展開もこれからという当初は、プカプカと寒天質の意味不明なものが漂っていましたが、そこに、生命の息吹の基となる光明が射しますと、同時に場としての時空間が生じました。

これらの機構も私共の感覚を超えた出来事です。以上述べました事柄は、いづれも、私共の宇宙とは異次元の出来事であります。

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古代人は物理学で「神」、「超空間」を扱っていた

古代人が我々の認識する宇宙とは異なる超空間の概念をもっていたことは様々な伝承から明らかである。簡単に紹介すれば、一つは人が死ぬと魂の行くとされる冥界。二つは常人では行けない宇宙。二つは、現世の我々の行動を逐一みそなわす神界。四つは海原。と古代人にとって未知の領域が分類されて考えられていた。そして、それぞれ支配神が仮定されていた。(古事記、ギリシャ神話に共通)このうちの一と二において超空間であることがはっきりしているが、一は現世より下位にあるとされ、古事記では「黄泉の国」が相当する。この節で扱う「高天の原」は既に述べたが、非セム系民族の神話から発した須弥山を母体にした宇宙の概念であり、我々の次元を超えたところで鳥観する五次元的な超時空を扱ったものである。

「天の御中主」は、我々の表現で言えば、真空即ちディラックの海といえるエネルギーの充満した平衡状態であり、偏極を与えることによって「場」をつくり、ひいては物質の生成を起す領域である。だが、この場合、我々の次元を超越する超空間での話である。「高御産巣日」と「神産巣日」は現象生成の造化の根元的二神である。 一説によると、これは顕われた法則と隠れた法則を示すと考えるむきもある。「高」は「旻」で、「神」は「隠身」で、それぞれ顕在と潜在を示す。

だが、「産巣日」は知恵の結集した組織のことであり、 一種のメカニズムである。超空間の真空が偏極を起こしただけで二種類の根元的組織体が出来上るというのは奇妙なことかも知れないが古代ギリシャ哲学では、ここに叡知の存在を想定している。つまり、唯一者「神」の出口たる叡知があり、初源的であるほど情報的に高次元であり、マイナス電荷が一つ増えるといったような単次元的変化を起こすにとどまらない高度な変化がある。超空間でのなりゆきは、観念の間の相互作用で成り立っていて、形ある実体間でおこなわれる我々の世界のものとは異なる。我々の世界のものといえども究極的には実体の無い「場」の中のポテンシャルの相互関係でしかないから、観念的な働きの一環に無いわけではないが、マクロな傾向の中に埋没してしまっている。

超空間の存在は、現代物理学では否定し去られている。相対性理論の検証が進められるに従い、四次元ミンコフスキー時空が基本に据えられることとなった。だが、ミクロにおいて量子の不確定性などを考えるときに新しい次元を必要とすることはほうぼうでささやかれていることである。この方面からの研究は、現在続けられている。及ばずながら、筆者もこの件について一つの案を所持している。いやしくも古代人の物の考え方の素晴しさを論じようとする者が現代的なえこひいきな偏見の枠に閉じ込められている古代科学観を引き出せないなら、語るに値しないではないか。古代科学が現代科学と接合するときは、新しい次元軸を介してであるということ、そしてその時には、古代科学が現代科学をその部分として包合しているであろうということ、この二つは間違いないだろう。

神、自然、人間、古代哲学、現代科学をつなぐモデル化のかけ橋

筆者はこれまでに、一つのユニークな宇宙構造モデルとその概念を創り、79年に或る小雑誌で公表している。これは、超越的なコンピューターが現象の素材であるホログラムに記録されたプログラム情報に光を当てて実行することにより、二次励起的に現象が生起されるとする考え方である。このモデル概念は、元NASAの研究員トーマス・ベアデンの超空間概念と基礎的に符合するばかりか、不確定性や自然界の切断の理由に容易な解答を与え、発展して超自然現象から古今の心理学的哲学的な究極の問題に至るまでを統一的に説明しうるものとなっている。奇しくも古事記に拙モデル概念の根拠が見出せたことが超古代とその擁していた高文明の研究への動機にもなっているわけである。ここでいうコンピューターとは、その機能をモデル化したものであり、決してそれそのものではないし、しかも超空間上の存在であるから我々の感覚で把めるものではない。それはベアデンに言わせれば精神物体であり、筆者からすれば有機組織的精神体である。

古事記がどう関係するかというと、先述の「産巣日」が有機組織(メカニズム)を示し、「高御産巣日の神」が「思い金の神」すなわちコンピューターハードウエアの祖に位置付けられるとされている。(天の岩戸物語参照三・(七)節)「思い金」がコンピューターであるという説は山田久延日子氏が唱えられているが、筆者も全く同感である。すなわち、これは自然界の窮極原理の本質を古事記の知識製作者が見抜いていたことを示している。つまり、トポロジカルな親子関係にあると考えているのである。

海外の伝承にはコンピューターを扱ったと思われるものは無いようで、人間をモデルにしているものがほとんどである。旧約聖書には「神は自らに形どりて人を創り、生気を吹き込まれた」とあるように、その他の伝承でも人間は神の模倣であるとされている。筆者ももし、情報機器という簡便法がなかったら恐らく、人間をモデルにしなくてはならなかっただろう。だが、人間は非常に複雑であり、ややもすると、本質が見失われてしまいかねない。その点人間の長所を集めて模倣したコンピューターなどの手段は有効である。まず、人間のもつ中枢的機能に的が絞ってあること、それから、その機能をブロックチャート的に簡略化できることがある。簡略化することによっていく分本意が失われるかも知れないが、モデル化するには好都合と思われる。

だが、プログラムの存在を示す伝承は多くある。もちろん、この場合のプログラムとは、我々のレベルのものとは訳がちがう。命令語は多次元であり情報量はとてつもなく大きいし、かつ超空間にあるわけだ。古代ギリシャ哲学でいう「叡知」はこれを言ったものであるし、ヨガでいうアカシックレコードは過去、現在、未来に渡る歴史と知識がプログラムされたものであると言われている。また、旧約聖書のエホバ(ありてあるもの)は現象の原型であるこれを言ったものである。とにかく古代思想は前提的な理念の存在を抜きには語れない。また、旧約の創生記第一章、「はじめに、神天地を創りたまへり。地は、形なく空しくして暗淵の面にあり、神の霊水の面を覆ひたりき。神光あれと言ひたまひければ光ありき。」と古事記は、神の一元性、二元性を異としてもほとんど一致した表現である。そして、これらの要素は、筆者のモデルの要素に次表の如く置き直すことができる。(このモデルに基づく宇宙構造論は四章に詳しく説明する。)

このモデルから得られる究極的結論は、「神は事あるすでに前に万象の源たる叡知を用意していた者であり、それに照見の光を投げかける者であり、結果として自然の運行をみそなわす者であり、全てをもたらし全てと融合するにもかかわらず全てとは独立してある者である。」とする古代哲学観を完全に言い表わし得るのである。

現象宇宙の生成

------原文 天地のはじめ(後半)----------------------------------

次に成りませる神の名は、国の常立の神。次に豊雲野の神。この二柱の神も独神に成りまして、身を隠したまひき。次に成りませる神の名は、ウヒヂニの神。次に妹スヒヂニの神。

次にツノグヒの神。次に妹イクグヒの神。次にオホトノヂの神。次に妹オホトノベの神。次にオモダルの神。次に妹アヤカシヨネの神。次にイザナギの神。次に妹イザナミの神。

上の件、国の常立より下、イザナミの神より前をあはせて神世七代と申す。

-----訳 次に物質世界の法則が完備した。- --------------------------

いよいよ、宇宙空間① が生まれました。そこには、物質の母源②が豊かに 広がっておりました。これらのことも、私共の感覚では察するに余りあります。しかし、次におなじみの浮力、重力をもたらす要素たる質量③ そして、堅ろうな極(陽子)、活発な極(電子)に代表される電荷④また、 回転体の中心方向への力と接線方向への力で示される角運動量⑤ という物理上の基本三性質ができ上がりました。このようにして、物性の諸要素が完備⑥し、これを土台として汎ゆる現象の綾⑥ (相互作用の形態)が平衡化 (収束)の摂理と攪乱(拡散)の摂理⑦によって捏 ねられることになりました。

以上、雌雄の法則を一つと数え、合計七つの完全数により、物質世界は展開されているのです。

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現代に劣らぬ基礎物理概念

ここから始めて我々の宇宙の話題になる。古事記では上位からきちんと順序立てて話を進めている。それは、物事が生起するための手続きの順序でもある。(対訳の科学観は万葉人のものではなく、超古代人のものである。万葉人は情報のキャリアーにすぎないことに注意)

「国の常立」は前出の「天の常立」と対句でもある。「天の常立」は超空間における現象生成の一定のサイクルが完成したことを示すが、「国の常立」はその結果として起こる現象空間である。

「豊雲野」は豊富なエネルギー・プラズマの沃野、あるいは直に星雲と言えるかも知れない。しかし、「雲」は三・(九)節で述べることになるが、不可見なエネルギーを示すので、むしろ、物質の母原とか暗黒星雲とすべきと考えた。

現在言われている相対論的宇宙論にいうビッグバンを古事記は言い得ていないように思われるかも知れない。しかし、裏面的メカニズムを主体にした考え方からは、そのようなものはどうでもよいことなのである。つまり、プログラム情報の構造や扱い方によって、何如ようにでも顕わせるからである。そもそも、我々の宇宙を一様等方と見限る根拠は何も無く、ただ便宣的にそうすれば計算がし易かったうちの一つのテーマにすぎないのである。確かに、古代中国には、ビッグバンを扱った宇宙開閥神話「磐古の天地開き」がある。だが、これも末端的なテーマであるためか、古代世界共通の話題ではない。むしろ「磐古」が龍頭蛇身であったことの方が重要であろう。

これは、万象がカルマ(業)によって生起したとする考え方である。エルンスト・マッハは、宇宙構造は物質の分布状態から決まることや局所的法則は宇宙構造から決まることを仮説したが、古代の思想は物質ばかりでなく精神の分布状態から無限数の宇宙の存在と広がりを事実のものと考えていた。たとえば、仏教は三千世界や恒河沙数の仏国土思想を持っていた。その一々の世界は、同族のカルマの精神を集合し、一つの理念のもとに運行せしめる領域であった。そして名けて「XXの仏土」とか、時間的には「△△劫」と表現していた。(物質とは精神物体の一形態である!)

古事記では、性質の上からそれらを現実世界(地上)との相対関係を観て五つの世界に大別している。

次に、物理法則が語られる。ウヒヂニは浮土、スヒヂニは吸土で、浮力と重力の対照が明らかである。導かれるものは質量である。また、ツノグヒ(角杭)は堅いポール、イクグヒ(活杭または活潜火)は活発なポールで、素粒子にあてはめれば対訳が導ける。また、オホトノヂ(大殿土)は、力の集まる方向を示し、「トノ」は回転体を示す。オホトノベ(大殿辺)が外辺方向の力であるので、併せると角運動量が導ける。オモダル(面垂る)は諸相の充足完備を示し、アヤカシヨネ(綾彼し捏ね、または妖し捏ね)は現象を捻出していく動きを示す。そして、それを担うのは、「凪ぎ」と「波」の摂理というわけである。まさに、この辺は物理的基礎性質を簡単な表現で最大もらさず言い尽くしているのである。これゆえ古代世界の数霊的完全数″七″で与えられているというわけで美事と言うしかない。

(二)島々の生成

この節では、時間経過の中で宇宙に自転する島宇宙、太陽系、そして地球が生成され、さらに地球上に様々な大陸が形成されたことを物語る。

------原文 島々の生成(前半)--------------------------------------

ここに天つ神諸の命以ちて、イザナギの命イザナミの命の二柱の神に詔りたまひて、この漂へる国を治め固め成せと、天のヌボコを賜ひて、言依さしたまひき。かれ二柱の神、天の浮橋に立たして、そのヌボコを指し下して書きたまひ、塩こをろこをろに書きなして、引き上げたまひし時に、その矛の末より滴る塩の積もりて成れる島は、オノゴロ島なりcその島に天降りまして、天の御柱を見立て八尋殿を見たてたまひき。

ここに……中略…… 「故この吾が身の成り余れるところを、汝が身の成り合はぬところにさしふたぎて、国生み成さむと思ほすはいかに」とのりたまへば、……中略…… 「然らば吾と汝とこの天の御柱を行き廻りあひて、ミトのマグアヒせむ」とのりたまひて、約りをへて廻りたまふときに、……中略…… 「をみな先立ち言へるは適はず」とのりたまひき。然れどもクミドに興して子ヒルコを生みたまひき。この子は葦船に入れて流し去りつ。次にアハシマを生みたまひき。こも子の数に入らず。

ここに二柱の神議りたまひて、……中略……天つ神の命を請ひたまひき。ここに天つ神の命以ちて、フトマニにうらへてのりたまひしく、「をみなの先立ち言ひしによりて適はず、また還り降りて改め言へ」とのりたまひき。

------訳 太陽系や地球ができた。----- -------------------------------

さて、現象の展開は超空間で開始された訳ですが、現象宇宙の上では平衡化摂理と擾乱の摂理の相補する形で歴史づくりがおこなわれました。

まず、物質が全て高温のプラズマ状態にあるとき、強い磁場により回転が与えられて集合し、磁場の影響のなくなったところで物質が凝集して自転する天体をつくりました。大きくは銀河系や太陽系がそうですし、身近には、地球がそうです。そして天体は、自転軸を中心にした非常に巨大な回転体でありました。これからお話しするのは、そのような天体の一つである地球における現象生成の歴史物語です。

どのような現象についても、互いに片方だけではアンバランスな陰陽の二極性が全ての要素にあり、それが合して他の充実した諸性質をも一体のものとした新しい形態が様々に組織されてゆくものです。それは、私共男女の性にもあらわれています。男性側は堅ろうで収れんしようとする性質をもつゆえ「をとこ」(土の力)と言い、女性側は柔軟で広がる性質をもつゆえ「をみな」(水の力)と言い、現象世界における普遍的性質になっています。

相補する雌雄の二極は、その相互作用が共通の方向軸に関する回転によってなされます。

たとえば、共通の磁場を柱にして雌雄の電離物質が回転することは、多くの現象生起(国生み)の原動力となります。大域もしくはミクロの現象は割合、法則通りに調和したものですが、局所的現象は様々なゆらぎがあり、なかなかそうはいきません。回転の方向が法則に決められた通りでないことは先ずありますまい。が、雌雄同勢力のとき拡散性の雌側が運動を先行したなら、現象は発散して結果が実りません。過去に地球上に起こった海陸の侵攻の歴史上の忌むべき事件として、大量の水を含んだ天体の落下で一時に幾多の水没した島が生じました。また一方、過去には拡散勢力が集中勢力をしのいで国の統治に関わろうとしたことがありました。その時には内乱相継ぎ、結果的には多くの流浪民や葦船の流罪者を出しました。

組織(くに)造りを通じて、まとめる側の理念が拡散し流動する理念をしのがねば、結果はまとまったものとはなりません。この傾向は、どのような二極の関係にも適てはまるものです。

組織づくりの是非は、このような様々な要因を考慮せねばならないため、複雑な計算をする太卜(ふとまに)占いに議りました。これは後世になって、偏平な骨を火で焼いてその表情を観る占術として伝えられました。それは同時に海陸の侵攻、つまり大陸が地下の火でひび割れする原理を反映しております。

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古代人は本質を穿った物理知識を持っていた

「天のヌボコ」とはプラズマ(広義の陰陽の分離状態)に東縛と回転を与える磁場であり、「天の浮橋」は仮想の根拠地、超空間を示す。磁場はプラズマの分散と共に多岐に分散し力を弱め、物質塊は冷却し安定に向い、重力により天体として凝集した。ここでいう天体は磁場の性質と強度に応じて階層的に広がる超銀河、銀河、太陽系、惑星、そしてミクロに至っては素粒子をも含めていう。つまり、過渡的な共鳴状態を脱した物質全搬を指す。この結果として、「天の御柱」に示される方向が実在となる。この方向は、地球でいえば地軸に相当して分り易いが、多くは仮想空間上の軸である。このため、原文の「見たて」る行為が必要となる。たとえば、銀河系の回転軸は不可見であるし、素粒子の種々の回転軸も仮想されているにすぎない。しかしそれは実在するとみなさねば現象が説明できないのである。

男根と女根の結合による国生みは、雌雄二極が万象生起に関わる本質であることを示す。たとえば先述の超空間メカニズムもそうである。すなわち、レーザーを射込む側とそれにより光彩を放つ側である。前者は単一的で妥協を許さないが、後者は大海のように広がるプログラムデーターバンクである。現象生起の源は、汎ゆる形態の陰陽の相互作用にある。要素の種類は異っていても一つの有機体に組織することによって、その形体を介してより高度な組織(綾)が展開できるのである。たとえば素粒子は最底三種類の要素を含む有機体である。これが再び別の陰陽の過不足を供出して原子になり、さらに分子、高分子、生命体等に築き上っていくのである。

古事記では陰陽の勢力上の問題を多く扱っている。特に、それはマクロな局所的現象に適てはめられている。そして、人類が長年見聞してきたことの集成的な教訓となっている。その最大のものは、大異変に関する解釈にあり、水の過分な侵犯を訴えている。その次に、政治的問題であり、反乱を戒めるものになっており、これらが重畳して語られていることに注意を要する。ヒルコなどは、知識乃至は組織を転ずる(ひっくり返す)の意がある。

「太卜に占る」の原型は、驚かれるかも知れないが、もとはコンピューターに接続された表示画面への分析データー表示を観る行為だったのである。これは三・(七)節で再度述べることになるが、非常に高度な文明が過去に存在もしくは介入したことの記憶が持ち越されているのである)。

------原文 島々の生成(後)-------------------------------------

かれここに降りまして、更にその天の御柱を往き廻りたまふこと、先の如くなりき。ここにイザナギの命、まづ「あなにやし、えをとめを」とのりたまひ、後に妹イザナミの命、「あなにやし、えをとこを」とのりたまひき、かくのりたまひをへて、御合ひまして、子アハヂノホノサワケの島を生みたまひき。……後略……

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一万四千年前の世界地理と大陸移動説

収束の摂理が先行することにより、無事、性交による成果がもたらされたことを示す。ミトノマグアヒ(水と上の交合)に示されるように、これは、八尋殿の示す大陸がひび割れて、海で分断されて生じた幾つかの大陸について述べている。つまり、大陸移動説をとっている。この島々の生成の部分は山田久延日子氏が極めて明快な解釈をしているので、ここでは取り上げず、氏の著書に譲ることにする。だが、古事記のその他の部分は、ちょうど氏が大きな地質学レベルの歴史を扱うのに対し、筆者は、文明史を扱うのでおのづと結論が異なっている。

なお、この地理上には、アトランティス大陸の名称記載がなくてはならない。というのは、この節は今から一万四千年以上前(今から二時代前)の知識部分に相当するからである。そして、もし、アトランティスに古事記上の島名を充てるなら、大倭豊秋津島がそれであり、日本列島を中心にカムチャッカ、フィリピン諸島に細長い帯域に散在する島々こそ、粟の穂に似た淡路の穂の狭分けの島である。そして古事記記載は思想的意味あいから東より始まり西へとたどっていなくてはならないと思われる。

(三)神々 の生成

この節より以降は、人類史となる。

古事記には全体を通じて、最大三時代の人類文明史が語られ、上つ巻にはそのうちの二時代が盛り込まれている。この分類は、文明の登場、発展、破局、滅亡、そして再生を一つのサイクルとみなし、物語の展開に適てはめて得られた結果である。そして、これを諸説にいう失われた超古代史に照合してみるとき、一時代が約七〇〇〇年を周期とし繰り返されていることが判明した。

この三時代を筆者なりに仮称すれば、先ず、アトランティス時代、英雄伝説時代、そして、我々の登場する現時代となる。

一章で述べたムーロア文明は、これらに先立つ四時代前の出来事であり、これら併せて四時代のことをヘシオドスは黄金、自銀、青銅、黒鉄の時代とそれぞれ呼称してぃたょうである。そして、古事記は、残念ながら、自銀より以降を示していて(葦船による流刑の件だけはムーロアのもののようだ)或る程度失策した文明態様で描かれている。しかし、「もし××であれば、○○したであろうのに」といつた表現が随所でとられていることをみると、より理想的な黄金の時代の記憶が少なからず根底にあったのではないかとも考えられる。この節は、そのような比較されるベき失策を述べた、自銀の時代の物語である。

-------原文 神々の生成(前)-------------------------------------

既に国を生み終えて、更に神を生みたまひき。かれ生みたまふ神の名は、大事忍男の神。

次に石土毘古の神を生みたまひ、次に石巣姫の神を生みたまひ、次に大戸日別の神を生みたまひ、次に天の吹男の神を生みたまひ、次に大屋毘古の神を生みたまひ、次にカザモツワケノオシヲの神を生みたまひ、次に海の神名はオホワタツミの神を生みたまひ、次に港の神名はハャァキツヒコの神、次に妹ハヤアキッヒメの神を生みたまひき。

この速秋津日子、速秋津姫の二神、河海によりて持ち分けて生みたまふ神の名は、アワナギの神。次にアワナミの神。次にツラナギの神。次にツラナミの神。次に天の水分の神。次に国の水分の神。次に天のクヒザモチの神。次に国のクヒザモチの神。

次に風の神名はシナツヒコの神を生みたまひ、次に木の神名はククノチの神を生みたまひ、次に山の神名はオホヤマツミの神を生みたまひ、次に野の神名はカヤノヒメの神を生みたまひき。またの名はノヅチの神といふ。

--------訳 ある卓抜した時代の歴史(活況な風俗)-----------------------

舞台設定が完了すれば、次は脚本のテーマが上演されることになります。まず、大事業が推進されました。石や土を使った住居用の建造物の建築や、通風換気坑の敷設がなされ、強い日射しや風に耐えられる家屋が大海原を臨んで建てられました。

また、港には人々の欲求を速かに満たすため、多くの物資を積んだ船が就航しました。ここは商業交易の中心地です。船は、海から内陸部へと運河を経てはいることができました。

ダムを造り、運河の水量を調節してこれを可能にしていました。
また、市街地には、上下水道が造られ、非常に長い間活況を呈して栄えたものでありました。
この都市は、広大な山野を背景にしておりました。

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海洋文明の風俗

「大事忍男」は大土木事業、「石土彦」と「石巣姫」以降は種々の石土造建造物である。ハヤアキツは「速倦きつ」で急速な充足すなわち貿易や流通のこと。アワナギ、アワナミは水の流量調整による現象、ツラナギ、ツラナミは水源地あるいは運河の水面の様子、天と国の水分(ミクマリ)は、上水道および、下水処理設備のこと。クヒザモチは、水汲上げのポンプ設備である。

これらは水路や運河の写実的表現である。古代遺跡でこの情景を思わせるのが、アンデスのテスココ湖上のアステカの都市テノチテトランである。(図2 。1)だが、本文は海洋が関係しており、内陸部に進めば広い原野があるのだから、どうやらアトランティス文明を示したものであるらしいことが理解される。

--------原文 神々の生成(後)------------------------------------

この大山津見の神、野椎の神の二神、山野によりて持ち分けて生みたまふ神の名は、天の狭土の神。次に国の狭土の神。次に天の狭霧の神。次に国の狭霧の神。次に天の間戸の神。
次に国の間戸の神。次にオホトマドヒコの神。次にオホトマドヒメの神。
次に生みたまふ神の名は、鳥の石楠船の神、またの名は天の鳥船といふ。次にオホゲツヒメの神を生みたまひ、次にホノヤギハヤラの神を生みたまひき。またの名はホノカガビコの神といひ、またの名はホノカグツチの神といふ。
この子を生みたまひしによりて、ミホト焼かえて病み臥せり。

たぐりになりませる神の名は金山毘古の神。次に金山姫の神。次に屎になりませる神の名はハニヤスビコの神。次にハニヤスビメの神。次に尿になりませる神の名はミツハノメの神。次にワクムスビの神。この神の子はトヨウケビメの神といふ。
かれイザナミの神は、火の神を生みたまひしによりて、遂に神避りたまひき。

およそイザナギイザナミの二神、共に生みたまふ島拾四島、神参拾五神。

--------訳 ある卓抜した時代史(混迷の世相から破局へ)---------------

ところが利己主義や目先欲の追求などの迷盲の理念が天下るや、国土は山野を中心に細分され、分割領有され、さらに傾向は広がって国を挙げて目先の利益追求に奔走するようになり、巷では相互不信と抗争対立に明け暮れるようになりました。こうして世界は混迷の時期を迎え、このような時に大工業が起り、堅ろうな高速艇や飛行船が造られ、燃焼が早く輝きの良い石油が用いられるようになり、さらに爆薬が造られました。

切角の優れた文明は、これらの道具により崩壊していったのです。むろん、爆薬に対抗するように強じんな金属、非金属があらわれ、それをまかなう工業も隆盛しました。また、それらの生産物を消費するだけの経済組織や需要力も発達しました。しかし、火器の悪用により物質文明は冥界への道を辿ったのです。ここまでの歴史のあらわしは、造化の二神により完全数を以て成されました。

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海洋文明は人心の退廃で破局を迎えた

卓越した活況ある海洋文明も、人間の利己主義、独占主義が台頭してくると、様々な縄張り争いが生じるようになる。これは我々の時代によく似ている。サヅチ、サギリ(狭切り)は領土細分化、縄張り争いを示しクラト、オホトマドヒコは、倉庫の扉や大きな窓の意と、将来の不安や混迷、戸惑いの意の二様が掛けて示され、前者は建造物の一貫として、後者は混迷の類として描かれている。

そのうち、産業革命のようなことが起ったのだろう。天の烏船なる鳥形の飛行船がつくられ、オホゲツヒメにいう大工業が発生した。さらには、ヤキハヤヲ(焼き速男)、ホノカガビコ(炎の輝火)でいう石油類、それを応用したホノカグツチ(炎の輝土)にいう爆薬が生産された。また、「金山」は金属、ハニヤス(埴土安)は土類で、セラミックのような非金属を示す。ミツハノメ(満つ葉飲め)は、生産物の消費、ワクムスビ(涌く結び)は応用産業や経済、流通の組織、トユウケ(豊受)は豊かな物資の受け皿、すなわち需要と供給の体制を示し、ここでは生産と物資流通の体制が整えられていたことを意味している。

イザナギとイザナミの性格は前節のものから、かなり変化している。イザナミは綾の形成を盛んにする因子で、イザナギはその波立ちをコントロールする因子であるが、それが人類史の上に関わるときは、物質文明と精神文明を示すと考えてもよい。なぜなら、文明を役割の側からコントロールするのは知恵であり、これに依って物質的な生産調整がなされなければならないからである。これが片方だけで進行すると、とりとめのないことになる。精神文明だけで進めば活気の無い悟り切った歴史展開となる。逆に物質文明だけであると、行先の分らぬ様々な過不足と無価値な生産がうち続くのみである。要は、この二者の程良いバランスとコンビネーションが理想社会を築くのである。そこにも前節で述べたように、抑制する側の勢力が強くなくては、結果は宣しくない。

ところが、この節では、イザナギの登場がないままに、イザナミだけで生産がおこなわれており、イザナミも結末的にしか登場せぬほどに無意識的なのである。矢つぎ早に神々を生み、火の神を生んで始めて病態を認識するというイザナミの無神経ぶりが端的にあらわれているのである。これでは理想状態は望みようがない。

いま一つ奇妙なのは、山野関係の神が起点となって良くない事態が生じていることである。同様に挿入的な神でもハヤアキツのような海洋関係からは知的産物が語られている。これには何か意味があるのだろうか。またいま一つ、間に子神の生産神を含んでいるにもかかわらず、全ての生産は、イザナギ、イザナミニ神の責任に帰せられていることが、「神参拾五神」から分かる。
この理由は、一体何だろう。

(四)黄泉 の国

この節は物質文明が戦争により崩壊したことを述べ、その終盤にどのような出来事があったかを語る。解釈もこの辺りから破天荒の度を増してくる。だが、現代の様相と非常に似た文明が延長上に引起す大事件ゆえに、我々にとっても見逃せない参考材料であることは言うまでもない。

--------原文 黄泉の国(前)------------------------------------

かれここにイザナギの命ののりたまはく、「愛しき我が汝妹の命を、子の一本に易へつるかも」とのりたまひて、御枕辺にはらばひ御足辺にはらばひて哭きたまふ時に、御涙に成りませる神は、香山のうねをの本のもとにます、名はナキサハメの神。かれその神避りたまひしイザナミの神は、出雲の国と伯伎の国との堺なる比婆の山におさめまつりき。

ここにイザナギの命、御偏の十挙の剣を抜きて、その子迦具土の神の首を斬りたまひき。

ここにその御刀の前につける血、湯津石村に走りつきて成りませる神の名は、石折の神。次に根折の神。次に石筒の男の神。……中略……ミカハヤビの神。次にヒハヤビの神。次にタ第2章 古事記上つ巻解釈ケミカヅチノプの神。またの名は夕ヶフツの神。またの名はトヨフツの神。……中略……クラオカミの神。次にクラミツハの神。殺さえたまひしカグツチの神の頭に成りませる神の名は、正鹿山津見の神。……中略……

かれ斬りたまへる刀の名は、天のヲハバリといひ、またの名はイツノヲハバリといふ。

--------訳 ある時代史の裏話(悔恨の断罪)-------------------------

一方、今まで積極的に生産に携われなかった精神文明の側では非常な後悔が生まれました。

相補し合い達成すべき両文化の均衡のとれた発展が、一方の急速な燃焼により損われたからです。とりわけ悔悟の最たるものは戦争と悲惨の間で泣く者達の心中に生まれました。無残な物質文明の残がいは葬られ、古代の知恵と教訓の伝承となって残りました。

また、破滅の原因は糾弾され破壊されました。この時生まれた教訓はかの破滅の原因を次のように語り、次代を継ぐ者達に再び組みするなかれと警告します。直接のものは、岩石を折き(石折)根こそぎにしていく爆弾(根折)それを射出す砲身(石筒の男)そして折烈して辺り一面に広がる火災(ミカハヤヒ)さらに強いセン光を放つ強力爆弾(タケミカヅチ)それを補助する多くのメカニズムであります。その結果として、大気汚染、海洋汚染が生じました。戦争の瓜跡は山々に及び、ひどい所は亙れきの山や砂漠と化しました。

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物質文明の崩壊と事後処理

高度物質文明は、その生産物である戦火にょって、あえなく滅んで終った。これは非常に重大な損失であり、どれ程良いものがその後出てくるか知れぬ時の不肖事であったことをイザナギに代弁させている。この節では、その直接原因たる兵器類全ての破壊と放棄が、事後になって知恵ある勢力(精神文明の手)によってなされたことをイザナギのカグツチ断罪により示しているのである。ここでも、「正鹿山津見」などの種類の山容が好ましくない側として登場している。どのような意味があるのかは未だ以て分らない。

またイザナミを葬った「イヅモの国とハハキの国の間」とは次のような意味がある。イヅモ(出面)は現象世界、ハハキ(掃木)は蛇の木であり、冥土への旅路で人が手にすると考えられていた杖を示している。つまり、生と死という意識空間の接点を古事記では地理空間の接点で示しているのである。このやり方は、古事記特有なので注意を要する。また、蛇の木と冥界の概念は、ペルシャ、ギリシャなどに共通したモチーフである。

なお、神名に含まれる「ミカ」は閃光を示す。また、「フツ」または「フト」は機械のことである。「ヨハバリ」は凍結して終らせる意をもつ。

--------原文 黄泉の国(中)------------------------------------

ここにその妹イザナミの命を相見まく思ほして、黄泉国に追ひいでましき。ここに殿のくみとよりいでむかへたまふ時に、イザナギの命語らひてのりたまひしく、「愛しき我が汝妹の命、吾と汝と作れる国、いまだ作り終へずあれば、還りまさね」とのりたまひき。ここにイザナミの命の答へたまはく、「悔しかも、速く来まさず。吾は黄泉戸食ひしつ。然れども愛しき我が汝兄の命。入り来ませること畏し。かれ還りなむを。しまらく黄泉神と論はむ。

我をな視たまひそ」とかく白して、その殿内に還り入りませるほど、いと久しくて待ちかねたまひき。かれ左の御讐に刺させる湯津爪櫛の男柱一つ取りかきて、 一つ火ともして入り見たまふ時に、岨たかれころろぎて、頭には大雷居り、胸には火の雷居り、腹には……中略…
…併はせて八くさの雷神成りをりき。

ここにイザナギの命、見畏みて逃げ還りたまふ時に、その妹イザナミの命、「吾に辱見せつ」と言ひて、すなはち黄泉醜女を遺はして追はじめき。ここにイザナギの命、黒御蔓を投げ棄てたまひしかば、すなはちエビカヅラ生りき。こをひりひ食はむ間に逃げ行でますを、なほ追ひしかば、またその右の御髪に刺させる湯津瓜櫛を引きかきて投げ棄てたまへば、すなはちタカムナ生りき。こを抜き食む間に逃げ行でましき。また後にはかの八くさの雷神に、千五百の黄泉軍を副へて追はじめき。ここに御侃の十挙の剣を抜きて、後手に振きつつ逃げ来ませるを、なほ追ひて黄泉比良坂の坂本に到る時に、その坂本なる桃の実三つを取りて持ち撃ちたまひしかば、ことごとに逃げ返りき。

ここにイザナギの命、桃の実にのりたまはく、「汝、吾を助けしがごと、葦原の中つ国にあらゆる現しき青人草の、苦き瀬に落ちて患惚まむ時に助けてよ」とのりたまひて、オホカムヅミの命といふ名をたまひき。

--------訳 世を終淵に招いた最終戦争とUFO (聖衆来迎)-------------

物質文明はもはや死者の世界の低次元の状態に移行していました。その状態から救い出すべく精神文明の側からいま一度再建案と慈手がさしのべられました。「協力して創る予定の理想的な世界がまだ出来上っていない。反省してやり直そう」の案が出されました。しかし時すでに遅く、冥王に魂を売り渡したといったような手の施しようのない腐敗怠落ぶりでありました。それでもなお再建の努力をしたい旨の意思表示がありましたので、精神文明はそのまま準備が整うまで待つことにしました。しかし、いくら待ってもその様子が無いので、しびれをきらして知恵の火で状況を窺ってみると、物質文明世界はいたる所で戦火が起り、ありとあらゆる怒号が充満して、どろどろになるまで腐敗が進んでいました。はては核爆発が随所で起り、地球の様子はさながら雷の巣窟でありました。

このため精神文明は救済をあきらめ、この汚土から脱出すべく逃げ出します。正体を見破られたことを知った物質文明は、善も悪も、大も小も、賢も愚も全てを道連れにすべく最終戦争を起しました。精神文明も物質文明も構成分子たる人間が担います。精神文明はとにかく黄泉軍から逃がれるべく様々な時間かせぎをしました。なおも幾多の核爆弾に副えて、大軍がくり出し無差別の大殺りくのそのさ中に、時代の境界点ともいうべき終結の時点を迎えるのですが、その直前にこの境界地に居た桃の形をした飛行体が空に満ちるほどにしてやってきて黄泉軍を撃退しました。

こうして、次の時代に歴史と理念が存続可能なものとして橋渡されたのです。ここに地球文明史の将来に渡って、この桃の実に一つの委託がなされました。それは「理念の現わしに貢献する人々が、今後このような苦境を迎え難儀するようなときに助け船になってくれ」というものです。それにちなんでこの桃の実は「聖衆」とか「御神体」とかいう名前で呼ばれます。

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文明のなりゆきは人類の集合無意識が決する

物質文明は既に理念の上では死滅していたが、やや遅れて物事が生起する現実の世界では、死の影の濃厚な中で生き長らえていた。ここでは、まだ形の上で壊滅に至っていないので救い道がある。それゆえ、イザナギは黄泉に下って救出に来るという筋書きになっている。だが、イザナ

は、具体的な積極策を持たず、様子を気遣う以外にはただ一緒に帰ろうとしか言いようがない。

これは前節で神生みが半ば無意志的におこなわれたのと無関係ではない。この理由は、歴史を形成していたのが、分子である人間であるからである。イザナギのこの呼びかけは、危機感をつのらせ、高次元的救援を願望する大衆の集合意識の動きに他ならない。もちろん、これが具体化したものが、平和推進の大衆運動などになっているわけである。(時にはUFO現象もそれであろう)

古事記では、歴史展開を語る神名の多くが集合無意識を示している。たとえば、サヅチ(領有)やオホトマドヒコ(混迷)などは人々の全体的な考え方の傾向であるし、カグツチやイハヅツノヲ(兵器類)は悲惨さのゆえに人々の心に印象の強いものである。ここには、理念←現象←観測←理念←現象←観測の循還的展開がおこなわれていることに注意を要する。これが形而上、形而下に渡る歴史展開の連鎖の真相である。(現代の科学はこのうち現象の部分しか取り扱っていない)

だが、さらには、理念は、より高次元的なところからトップダウンされていて、むしろ結果的なものである。これは古代哲学の認めるところでもある。筆者は人類の集合意識とトップダウン的な理念の関係を次のように観る。すなわち、大域的なプログラム展開の大枠が凡そ決まっていて、これが時間経過をはじめ、様々な要因によって順次ブレークダウンされてくる。この枠は可変であるが、既に何度か同じことがおこなわれて、傾向ができたり(モデルの性質としての学習性質や性癖)、あるいは、天体や精神天体の大域的影響(マッハ理論の拡張)などから、定型のパターンが半強制的に与えられるのである。これに対して、外的要因とも言える人類の集合意識が、この中に変化成分として作用してくるというわけである。(これゆえ「集合無意識」なのではなく「集合意識」なのである。ただ個人では対処が難しいので無意識に等しいというわけである)

分り易く言えば、宇宙を生命体としたときの歴史のDNAのようなものが予め有って、人間のDNAに発生と分化から発ガンのプログラムに至るまでが内含され、細胞内の物質条件や電気的条件によっては発ガンしたりするように、外的要因によって用いられる部分が変化するのである。

ここでは人類意識が外的要因の一つとなるわけである。

一万数千年前のアトランティス時代にこのようなことがあって、現代が同様の進行をしているのは、理念的な性癖によって大域的傾向が定まってしまっている証拠である。それは肝細胞から分裂したものはDNAが人体全ての情報を網羅しているといっても肝細胞にしかなりようがないのに似ている。だが、これは人間で例えるなら転生してでも乗り越えるべきカルマである。同様に文明も転生して改めて課題の消化能力を問われていると考えても良いと思われる。それをなしうるのは、外的要因の積極的変化である。それに係わる基本的な単位は、人の霊的記憶である。

この中には良いものも悪いものもある。だから、文明自体の霊(理念)は人類という構成要素(霊)に負うところが大きい。もしも人類に新しい進歩がなければ、文明もそれ以上のものにはなりようがないのである。

精神文明側からは遅ればせながら回復の呼びかけがなされたが……

イザナギの呼びかけは、精神文明あるいは知識を代表する最近騒がれているUFOを駆使した地球外知性の干渉としても表出している。それが人類に新しい進歩に目を向けさせるものである限り、安易に否定し去るべきではない。 一万数千年前の教訓は続いて次のように語る。

イザナギの呼びかけに対し、イザナミは、「残念ながら、来てくれるのが少し遅かった。私は冥王に魂を売り渡して終ったよ。だけどもわざわざ来てくれたので申訳ない。建て直そうと思うので、冥王と団判してくる。しばらく準備ができるまで待ちてて下さいよ。」と言って引きこもった。だが、なかなか出てこない。そこでイザナギは貞察しに行き、大変なことを目撃した。イザナギ(精神界の慈手)の呼びかけにイザナミ(物質文明)は一担応じたが準備が滞っていたばかりか、表に掲げるように地球上至る所に戦火が起り、腐敗ぶりは凄まじいものになっていた。このためイザナギは恐くなって逃げ出してしまったのである。

これはまず屍体が腐敗していく有様にたとえて、 一担破局を起した物質文明は後戻りが効かない不可逆現象であることを示している。また、同時に、精神文明の打つ手が早ければ、すぐに立直らせることができたこと、および準備が速かにできていれば救出も可能であったことなども示れているのである。もし、旨くいったなら、恐らく一章で述べたムーロアをより進歩させた形態が約束されていたことであろう。

古代イランの「黄泉がえり」神話にイシュタルがその子タンズムを救出するために冥界下りするというのがあるが、この場合は無事救出がなされている。もちろん、この場合は穀物の実りが毎年もたらされることに関係していて動機が異なるのであるが、そもそも、「よみがえり」自体思想的には決して失敗する筋書きのものではないのである。ゆえに、古事記の場合は、やはり前の時代における特定の失敗について語られているとみられるわけである。そして現代は再びこの特定のケースに漸近していることは言うまでもない。

救済摂理の慈手は最終戦争の末期に到来し軍隊を撃破する

さて、このため、精神界の慈手は救援をあきらめ、引揚げようとする。すると、物質文明は全てを道連れにすべく最終戦争を起す。エビカヅラ(壊火鬘)は火除けのシェルター、タカムナ(高棟)は高層ビルとその地下など一時的存命設備である。これらは真先に黄泉軍の餌食となる。時間かせぎの材料なのだ。結局、ヨモツヒラサカ(世面尽平逆)に示される世界の「時間的」な終淵に来たときに、「桃の実三つ」(桃の実満つ)に示される大量の桃型UFOが飛来して地上軍を撃滅することになる。そしてついに、ヒラサカノサカモト(平逆の逆基)の示す一つの時間的境界地を隔てて、文明をはじめありと汎ゆる基盤が以前と逆転するというのである。

結局、次の時代に橋渡されたのは精神文明だけである。その役割を担ったのは分子である人間であることは無論である。よってこの追撃と撃退の過程は、特定の役割をもった人間の救出劇でもある。これらの記憶が我々の時代に引継がれて、ユダヤの奇妙な選民思想や仏教の聖衆来迎思想(世界が終末の時に釈迦をはじめ無量のサットバが衆生救済に飛来するという)などに反映したのである。旧約聖書は予言であると言われるが、実際には古代伝承を基にしたものか、それとも傾向を滞びたアカシックレコードを読取ったものであろう。

それはその通りに演ぜられてはまずいのであって、少なくとも努力して良い方向に持っていかねばならないのである。現時代の全ての宗教思想は、この頃の強烈な印象が原型になっている。一部的にしろ救出が成功したからこそ、古代哲学も華開いたし、多くの記憶が知識として持ち越された。しかし、顕著な文明の利器はヒラサカの事件およびその後のうち続く変災により一切破壊されて断片すらも出てこないのである。

さて、様々な防御策が一時的で役立たなかった時に決定打となった桃の実(UFO)にはこのときに、表掲の預託がなされた。このことをみてもUFO問題や地球外知性のもたらした情報には目を向けていかねばならないと思われる。そればかりではない。古事記の多くの個所に地球外知性の介入が語られていることからも、我々は決して一人ではないということが分るのである。

また、地球外知性の介入は歴史を定型的パターンのくり返しと考えたとき、特別の時点でしかおこなわれていないことを古事記全訳を通して分っていただけたら良い。その時点の最初のケースがこの節で出てきているわけである。そして本当の介入は、世界が終結する前夜にしかなされないことを知るべきである。それ以前のものは介入でなく注告と貞察であることをこの節は説いているのである。

--------原文 黄泉の国(後)------------------------------------

最後にイザナミの命、身みづから追ひ来ましき。ここに千引の石をその黄泉比良坂に引き塞へて、その石を中に置きて、おのもおのも対き立たして、事戸を渡す時に、イザナミの命のりたまはく、「愛しき我が汝兄の命かくしたまはば、汝の国の人草、一日に千頭紋り殺さむ」とのりたまひき。ここにイザナギの命のりたまはく、「愛しき我が汝妹の命、汝然したまはば、吾は一日に千五百の産屋を立てむ」とのりたまひき。ここを以ちて一日にかならず千人死に、一日にかならず千五百人なも生まるる。

かれそのイザナミの命に名けて黄泉つ大神といふ。またその追ひ及きしをもちて、道敷の大神ともいへり。またその黄泉の坂に塞れる石は、道返へしの大神ともいひ、塞へます黄泉戸の大神ともいふ。かれそのいはゆる黄泉比良坂は、今、出雲の国のイブヤ坂といふ。

---------訳 旧い時代の終結と次代の開始------------------------

さて、私共の宇宙観では、理念が異り、存在状態(相)が隔たる二つの世界の間には、感覚では把めぬ境界石が置かれ、互いに交通するのを距み、互いの秩序を保たせていると考えております。たとえば、現世と黄泉の世界の二世界を往来することは禁忌のことであり、許された者が許された方法でのみ可能となるものなのです。時代の最後まで、物質文明は跳梁しました。だが、ある一点を境にそれは完全消滅し、分子を減らした精神文明に切換わりました。時間軸上の原点に巨大な大岩が仮想され、それより過去と未来が対称的になっており、これゆえ「ひらさか」と言います。精神文明を建て直していく人類は、物質文明を崩壊させていった人類と好対称に増加の一途をたどることになりました。

また過去の汚濁した時空は、それを与えてきた理念プログラムと共に巻き戻され、新たな歴史のプログラムの導入がはかられました。この接点の出来事を、今に「新生のための前夜祭(イブヤ)」と言うのです。

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古代人は時代の終結と再生の時間経過を「道」にみたてた

「道」は空間的な道を意味すると共に時間的な経過のうちにたどるべき歴史やその元となる理念具体化の経路のことを意味する。特に古事記では伏線としての後二者の意味が主として使われている。「道敷き」は道を仕切るの意で、歴史や理念を終了させるの意をもち、「道返へし」は道をふり出しに戻すの意で、歴史や理念を原点に戻すことを示している。また、「塞へます黄泉戸」は冥界との通路の閉鎖を意味し、総じてこの大岩により、原点への復帰(悪く言えば元の黙阿弥)と、再び前のものが後に影響しないようにシャットアウトするという二つの意味を示しているのである。

古代人の境界石に対する考え方は特筆すべきである。彼等は、次元の隔たった二世界の間に世俗的な往来を拒否する厚い壁(大岩)を意識していた。それは後節の天の岩戸にもあらわれているし、彼等の習俗上出てくる空間的境界を示す巷の道祖神石(ヘルメス)や神々の世界へのかけ橋を示す秀麗な神体山などにもあらわれている。そして、古代人の道の観念は、時間的な道程をも意味していた。その途中に置かれる岩は決して道中の安全を祈願するためのものではなく、隔てられた新しい局面への不可逆的移行すなわち新嘗の厳粛な儀式のためにあった。古代人はその場にあって否応なくやってくる新しい経験を有意義なものにするため、節目節目で威儀を正していたのである。古来より、おりふしにとりおこなわれる祭りは、この新嘗の観念から出ていることであり、起源的には、時代の再生の時点に立会ってきた少数の人々の持ち来たした鮮烈な記憶に至るのである。

古代人は時間的隔たりを空間的隔たりに置きかえて表現した。これは何と相対論的であることか。現代人の我々ですら未だ時間と空間の同化を机上の理論の上でしか果たせていないのである。

あるいはまた、自然界の仕組みが一局面ごとに置石して展開する不可逆的因果律で成ることを理解していた。これは、無知な者が単に時代の狭間をかいくぐってきただけでは決してできないアイデアである。やはり、高度な文明が実在したというのが本当であろう。

(五)身楔

この節では新時代への新嘗のための地上の浄化がなされ新天地の支配体制が不充分ながら完成することを物語る。この節も引続きユニークな解釈となっている。

---------原文 身楔(前)-----------------------------------------

ここを以ちてイザナギの大神の詔りたまひしく、「吾はいな醜め醜めききたなき国に到りてありけり。かれ吾は御身の祓へせむ」とのりたまひて、筑紫の日向の橘の小門のアハギ原に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。かれ投げ棄つる御杖になりませ る神の名は、衝き立つ船戸の神。次に投げ棄つる御帯になりませる神の名は、道の長乳歯の神。次に投げ棄つる御に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。かれ投げ棄つる御杖になりませ る神の名は、衝き立つ船戸の神。次に投げ棄つる御帯になりませる神の名は、道の長乳歯の神。次に投げ棄つる御袋になりませる神の名は、鶴量師の神。……中略・…煩ひの失しの神。……中略……道俣の神。

……中略……飽昨ひの失しの神。……中略…… 奥疎の神。次に奥津ナギサビコの神。次に奥津カヒベラの神。……中略……辺疎の神。次に辺津ナギサビコの神。次に辺津カヒベラの神。

ここにのりたまはく、「上つ瀬は瀬速し、下つ瀬は弱し」とのりたまひて、初めて中つ瀬に降り潜きて、灌ぎたまふ時に成りませる神の名は、八十禍津日の神。次に大禍津日の神。

この二神は、かのきたなき繁き国に到りたまひし時の、けがれによりて成りませる神なり。

次にその禍を直さむとして成りませる神の名は、神直毘の神。次に大直昆の神。次にイヅノメ。

次に水底に灌ぎたまふ時に成りませる神の名は、底津綿津見の神。次に底筒の男の命。中に灌ぎたまふ時に成りませる神の名は、中津綿津見の神。次に中筒の男の命。水の上に灌ぎたまふ時に成りませる神の名は、上津綿津見の神。次に上筒の男の命。この三柱の綿津見の神は、阿曇の連等が祖神と斎く神なり。……中略……筒の男の命三柱の神は墨の江の三前の大神なり。

--------訳 接点の時代(地球の復元と浄化)---------------------------

さて、 一つの歴史が終了し、次の歴史が始まるまでの隠れた接点の時代の話になります。

まず、黄泉戦争で汚れ切った地球上は浄化されねばならず、救われた人々は一担地球を離れることになり、ストーンサークルを築いて正確な帰還を期し、巷に魔除けの岩を据え、航行の手順正確を期し、救済の慈手の提供した乗物で長い時空の旅に赴きました。乗物は、長い道のりを時空の帯をまたいで超えてしまうもので、ストーンサークルのエネルギーパターンが帰還の鍵になっていました。

さて、 一方、地上は水で洗われると共に、地球をとりまく精神圏も元あったように奇麗にされました。海洋では、筒状の機構が活躍し、毒物を除去しました。こうして、地上は白紙の状態に戻されたのであります。

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古代の巨石モニュメントは宇宙船発着のエネルギー的なキーパターンを形成

ここでは、文明再生の基盤となる大地の復元の具体的な施策について語られる。「みそぎ祓え」は、精神文明の一時的な退避と、その間の物質文明の汚物で濁された地球上の浄化を示している。

「衝き立つ船戸」は杖の形をした船の発着場。精神文明には地球外知性が援助して、宇宙船が遠離のために用意されたと思われる。冥界往来の時、杖が必要と考えられたのは、宇宙空間に往くときに用いられたからではないだろうか。

「道の長ち歯」と「時はか師」は、長い時間をかけて地上の浄化がなされると共に救出された人々の赴いた先の天体が非常に遠い所であることを物語る。プロテスタントの思想には、このようなメルヘンに満ちた救済説を掲げるものがあるが、あながち否定できないと思われる。「道俣」は二俣の道を示し、ヘツカヒベラまでそれぞれ物欲や煩悩からの遠離を説き、確かに神道でいう身楔の効果を物語っている。これは、物質文明との関わりを一切断ち切るという行為を並べたのであろう。

また一方、次のような解釈もありえよう。「道俣の神」が道祖神として石のモニュメントで示されていたように、ツキタツフナドからヘツカヒベラまで、表2 ・3のような石碑であると考えられる。巨石建造物は不可見の未知のエネルギーの制御機構であるらしく、筆者の考える一説には、宇宙船の発着基地兼エネルギー補給機構、またもう一説には三・(七)節で述べるような地球を一個の宇宙船と化するための要素であったのではないかと考えるのである。古代人が石や土に霊力を認めていたことを考えても、これらのことは、あながち否定できないと思われる。

また、「奥」と「辺」は、それぞれ左と右に対応する。これは、神社などの祭祀形態の座標を示していて、前者は時間的に旧く、原型的であり、後者は新しく、現象的である。先程の石碑をこの考えに適てはめると図2 ・2のようになると想像される。

理念界と地上の浄化がなされる

今一方、地上では、ヤツマガツヒ、オホマガツヒで示される放射能による超汚染がカムナホビから「上筒の男」までで示される浄化機構で清浄化された。その具体的な形や仕組みははっきりしないが、筒の男は海洋浄化のための円筒状の機構であることは言える。ノストラダムス大予言の二章四八編には毒物浄化機構を思わせる極地にある輪のことが述べられているが、この筒状の機構の活在を意味してはいないだろうか。接点の時代にはこのような救済用設備が前面に出て活躍し、文明期には人類に気取られることのないような所で潜かに運用されていると考えられる。

なお、イザナギが身体を浴ぐために降りようとした川の上、中、下流というのはアカシックレコードの投射の階層をあらわしていると考えられる。というのは、古代人が因果的な過去(時間にしろ空間にしろ)を示そうとする際に用いるのが、身近な不可逆的な可視の(空間的な)擬態表現なのである。「道」は不可逆性を石で作っていたが、川は自明である。加えて、ごく自然にブレークダウンしてくるものであり、否応ない法則としての理念の投射にあてはめられたのではないだろうか。だから、ここで浄化がなされたというのは、多く精神界での出来事とみてよい。

上流はそのままにされ、中間段階に手が加えられた。これはアカシックレコードの原型は病んでいなかったからであり、正常に事が進めば浄化などしなくともよかったものであろう。これゆえ、この文明の歴史は失策であったと結論できるのである。

--------原文 身楔(後)--------------------------------------

ここに左の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、天照らす大御神。次に右の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、月読の命。次に御鼻を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、建速須佐の男の命。……中略……天照らす大御神に賜ひてのりたまはく、「汝が命は高天の原を知らせ」と、言依さして賜ひき。かれその御頸珠の名を、ミクラタナの神といふ。

次に月読の命にのりたまはく、「汝が命は夜の食国を知らせ」と、言依さしたまひき。次に建速須佐の男の命にのりたまはく、「汝が命は海原を知らせ」と、言依さしたまひき。

かれおのもおのもよさし賜へる命のまにま知らしめす中に、速須佐の男の命、依さしたまへる国を知らさずて、ヤツカヒゲ胸前に至るまで、泣きいさちき。その泣くさまは、青山は枯山なす泣き枯らし河海はことごとに泣き乾しき。ここを以ちて荒ぶる神の音なひ、狭蝿なす皆満ち、 萬の物の災ひことごとに起りき。

かれイザナギの大御神、速須佐の男の命にのりたまはく、「何とかも汝は言依させる国を知らさずて、哭きいさちる」とのりたまへば、答へ臼さく、「僕は母の国根の堅州国に罷らむとおもふがからに哭く」とまをしたまひき。ここにイザナギの大御神、いたく忿らしてのりたまはく、「然らば汝はこの国にはなとどまりそ」とのりたまひて、すなわち神逐ひに逐ひたまひき。かれそのイザナギの大神は、淡路の多賀にまします。

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接点の時代の新しい天地の胎動

原文の対訳を省き、次に主要語訳を載せる。

新天地の登場と荒廃した地上世界

この節では、新しい時代の天地支配の構図を示している。アマテラスの支配する高天の原は既に述べたように超空間であり、地上世界の何事も鳥観できる五次元的時空である。だが逆に地上の我々からは察知し得ないので、遠隔の太陽に擬態すると共に、ミクラタナ(棚の上の安定した世界)と古代人の間では考えられていた。また、「月読」は「尽く黄泉」と解せ、地上を中心にしたとき、高天原の正反対の位置に在るべき冥界をあらわすと共に、現在みる月が文明の終局に何らかの関わりがあったことを示している。後程述べる「天の斑駒」と関係が深いと思われる。

スサノヲは海原の守護を命ぜられるが、これは表裏の関係にある大地の守護をおこなうことでもある。(これはギリシャ神話のゼウス、ヘーデース、ポセイドンの支配構図と一致している)だが、彼はそれを履行しないばかりか、かえって海陸を逆転するようなことをした。「その泣く様は……泣き乾しき」にあらわれている。これは海外にあるものと共通した洪水神話である。

また、スサノヲが洪水を起した理由が、母イザナミの居る黄泉の国に往くことであるから前節のイザナギの水による地上の病んだ状態の浄化と同じことを示しているのではないかと考えられる。

つまり同一事件を異なった観点で述べているのである。海外の洪水神話がいづれも洪水の原因を不敬な人類への神の怒りとその浄化に帰していることをみてもうなずけよう。

古事記上つ巻の訳の上から、ここで大きく歴史的に二つに分けられる。これより以前は一時代の壊滅と次代の準備のための浄化までが書かれ、以降は次の時代の初期状態の説明で始まるのである。また、原文上でも、イザナギ、イザナミから天照らす大御神、スサノヲという天神、国神の持ち分け支配へとバトンタッチされていくのである。

(六)誓約

この章は、挿入的に天神の武具の象徴する超科学力と国神の武具が象徴する大自然の力を対比し、長い間両者の葛藤があったことを示している。後節の布石として掲げられているようだ。

---------原文 誓約-----------------------------------------

かれここに速須佐の男の命、まをしたまはく、「然らば天照らす大御神にまをして罷りなむ」とまをして、天にまゐ上りたまふ時に、山川ことごとに動み国土皆震りき。ここに天照らす大御神聞き驚かして、……中略……ヤサカノマガタマノイホツノミスマルノタマをまき持たして、背には千程の収を負ひ、平には五百程の収を附け、また腎にはイツノタカトモを取り侃して、……中略……イツノプタケビ踏み建びて、待ち問ひたまひしく、「何とかも上り来ませる」と問ひたまひき。……中略……

かれここにおのもおのも天の安の河を中に置きて誓ふ時に、天照らす大御神まづ建速須佐の男の命の侃かせる十挙の剣を乞ひ渡して、三段に打ち折りて、ぬなとももゆらに、天の真名井に振り洛ぎて、さがみにかみて、吹き棄つる気吹の狭霧に成りませる神の御名は、多紀理姫の命、またの名は奥津島姫の命といふ。次に市寸島姫の命、またの御名は狭依姫の命といふ。次に多岐都姫の命。……中略……左の御みづらにまかせる八尺の勾珠の五百津の御統の珠を乞ひ渡して、……中略……吹き棄つる気吹の狭霧に成りませる神の御名は、マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミの命。……中略……アメノホヒの命。また御かづらにまかせる珠を……中略……アマツヒコネの命。また左の御手にまかせる珠を……中略……イクツヒコネの命。また右の御手にまかせる珠を……中略……クマノクスビの命。……後略…

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超科学力と自然の力の対比

対訳は省く

洪水が終ったと思えば、今度は地殻変動が大規模に起きた。それに対し、ミサイルや超音波などの科学力で抑え込もうとしたことをこの節では語ると共に、自然の猛威が並のものではないため、より高度な超科学力を対峙させて長期に及ぶ根本的解決の見通しを語っている。「ひ」という言葉は、ほとんど、知識を示すと考えてもよい。天照らす大御神の持物から生じた神々は、次のような知恵の権化である。

アメノホヒは、燃え上がる知恵、マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミは、何よりも勝れた知識の体系を示し、巨大エネルギー発生器を登場させるだけの科学知識ならではのものである。

アマツヒコネ(天つ日捏ね)は宇宙科学の総合、イクツヒコネは生命科学の総合、クマノクスビ(隈の霊す日)は世界の境界を知る霊妙な科学を示している。我々の科学を科学と呼ぶなら、ここまでの広範囲を総合したものは、超科学と言える。

一方、スサノヲの持物から生じた神々は「姫」がつくもののこれは第二修飾語であり、本義はタギリ(田切り)、サヨリ(狭依り)、タギツ(液つ)で、それぞれ細断、圧縮、焦熱の荒々しさを表現していて、いかにもスサノヲ(大地、自然力)の眷属らしさをもつ。これをみると自然の爆発的力と知恵の力を並べ、力の出所が異なることを示し、どちらが優れているかを対比しようとしているようである。だが、後節では、前者は後者に強伏されてゆくことを語っている。このため天神優位は絶対的なものと考えられたのであろう。

前節までで多く山野に関することが古事記では悪く言われ、海に関してそうでもないということを述べたが、この辺から汎ぞ察しがついてくる。スサノラとその系譜は地変の話題に関係している。よってここまでの物語の原典の作成もしくは伝承者は、地変の災禍を受けた海洋民族の記憶をもつ者であったという推測ができよう。すると、やはり、アトランティスぐらいが知識の出所ではないかと考えられるのである。

また、タギリ姫は沖の島に、サヨリ姫は大島に、タギツ姫は宗像にそれぞれ祭られる。これを地理的に結ぶ線は直線となり、既に述べた図2 ・2 (八十三頁)と次表のように対応する。またさらに後述する八重垣ラインの角度と美事に一致するのである。(三・(九)節)

問題は直線上に並ぶということであり、「奥つ」「辺つ」の関係は相対的なものであることに注意を要する。すると、本来の「中つ」に相当するものは、九州の内陸部に求められ、九重山ぐらいがそうであり、「辺つ」に相当するのは、延岡ぐらいであろうか。九重山はあたかも巨山のストンサークルである。後述するが、このライン(群)は自然の猛威を知恵の力で抑え込もうとした遺構である。

(七)天の 岩戸(地球上を襲った大変災とその建直 しの記録)

ここには、 一時代を壊滅させた大変災とそこからの回復のために採られた超科学的方法について語られる。内容的に破天荒であるが、新嘗、輪廻等の古代思想の根底をなす記憶である。

--------原文 天の岩戸(前)---------------------------------------

ここに速須佐の男の命、天照らす大御神に自したまひしく、「我が心あかければ我が生める子手弱女を得う。これに因りて言はば、おのづから我勝ちぬ」といひて、勝さびに天照らす大御神の営田の畔離ち、その溝埋み、またその大嘗聞じめす殿に屎まり散らしき。かれ然すれども、天照らす大御神は咎めずて告りたまはく、「屎なすは酔ひて吐き散らすことこそ我が汝兄の命かくしつれ。また田の畔離ち溝埋むは、地を惜しとこそ我が汝兄の命かくしつれ。」とのり直したまへども、なほその悪ぶる態止まずてうたてあり。天照らす大御神の忌服屋にましまして神御衣織らしめたまふ時に、その服屋の頂をうがちて、天の斑馬を逆はぎにはぎて堕し入るる時に、天の衣織女見驚きて、ひに陰部を衝きて死にき。かれここに天照らす大御神見畏みて、天の岩屋戸を開きてさし隠りましき。ここに高天の原皆暗く、葦原の中つ国ことごとに暗し。これによりて、常夜往く。ここに萬の神の音なひは、さ縄なす満ち、 萬妖ひことごとに発りき。

--------訳 接点の時代の詳細----------------------------------

さて、もう一度かつての文明壊滅のいきさつをふり返ってみましょう。それまでに、人為的な山野の乱開発や戦争による破壊によって、それ以前に目的があって整備され耕された土地が多く駄目になっていました。そのような成りゆきも、恐らく一時的な戯れか、あるいは、もっと良いことをするためであろうと放っておいたところ、いつまでたっても地上の所業は収まりませんでした。

そうしているうち、ついに歴然とした大事件が起きました。水と土砂を大量に含んだ天体が宇宙からやってきて、地球の近傍で爆発して衝突したのです。このために地上は一瞬に大変動を起し、泥で大地を洗ったような格好になりました。また、清浄なオーロラを織りなしていた地磁場は急速に消失し、宇宙から射込む放射線は大気と作用して水滴核をつくり濃厚な雨雲を形成しました。世界は暴風雨が吹き荒れ、寒冷化すると共に、暗黒の中に置かれました。こうして、地球上の生命は生命体地球の死と共に絶滅に頻したのであります。

大異変(洪水)の原因は天体の落下

中核になる話は、「天のふちこま」に示される天体の落下とそれが引起した大異変である。天の斑馬とはまだら馬のことであるが、井本英一氏によると死と再生を司どる禁忌の神馬であると古代人の間では考えられていたという。筆者はこれに加えて、水と土の複合という意味がまだらに込められていると考える。その逆はぎの有様とはまさに、水と土を大量に含んだ尾を引く天体の姿と考えられるのである。そしてそれは前時代の死と新時代への再生をもたらした。

大異変は、単に天体物質と引力により巻上げられた物質による大洪水や噴火などの直接的なものと、いま一つ、地磁場消失という間接的なものがある。地磁場は、「忌服屋(いみはたや)」と「神御衣」から想像できる極地のオーロラから導ける。これが、「服屋の頂」すなわち地球外から飛び込んできた天体のためにだめになることをオーロラの織り手の生産機能の崩壊という擬態で示している。

「身禊」からここまでは、一大変災に関する説明を多角的に施していると考えられる。先ず「身禊」では地球生命の再出発のためにひどい汚染状態を浄化しておかねばならないという理由で、水を正当化する。次に幼ないスサノヲの行状にたとえて、洪水という変災が地球の守護力あるいは抵抗力不足で不可抗力的に訪れたことを示し、さらに「誓約」では、変災が地かく変動や火山活動の原因になったことを示し、最後にここでその事件が天体の突入にあったこと、及び地磁場を消滅させたことなどの詳細を語っているのである。

海外の諸民族の伝承にも、この記憶は根強く残っている。旧約聖書やギリシャ神話では、人々の傲慢さに神が怒って洪水をもたらしたとしている。これは「身禊型」である。太平洋諸島の住民の間では「最も暗い時代」とか「毎日が夜の時代」と称される時代があったとされている。また、インディオの聖典「ポポル・ヴフ」には、大異変のあと、ひどい寒さが始まり、太陽が失われたと書かれている。メキシコやベネズェラの神話にも大異変の後の寒気で海は氷におおわれたと語られている。

「タルムード」の中でも楽園追放の後で太陽が隠れたという記事があるという。これらは「天の岩戸型」である。これらは、A ・ゴルボフスキーの著からの引用であるが、彼はこの原因として大異変ばかりでなくその影響を受けて起きたであろう磁極や地軸の移動を説いている。また彼は、この異変の期間を、インド、マヤ、エジプト、アッシリアの暦の開始点をたどることにより、B.C 一一六五二~B.C 一一五四二の約百十年の間だったとしている。仏教では煩悩の数が百八つあるといい、新年の直前に滅尽の鐘をつくが、この近似は面白いと思われる。

諸悪の根元はスサノヲにあらず人類の無知にあり

また、筆者は後述するが、歴史の七千年周期説を掲げ、この事件を今から一時代前の始まりとなった異変と考えている。その期間は、ほぼ一世紀に及ぶ長いものであるが、その前半を前の人類のまいた業の浄化、後半を凍結の期間とし、その終了の頃に次節で述べる回復処理がなされたと考えている。

自然力の横暴とも言えそうな大変災は、 一方では地球の防衛力の衰えに帰因もしていた。今から一万四千年前地球磁場はちょうど現代と同じように衰亡期にさしかかっていた。磁場の衰えは、人間で言えば生体磁場「オーラ」の衰えに相当し、外界からの悪影響を受け易くなるのであろう。

これゆえ、スサノヲの守護意志の精神的な放棄物語となったと考えられる。それは文明末期の戦争によって加速されたのであろう。「勝さびに営田の畔離ちその溝埋み、大嘗聞じめす殿に屎まり散らし」は山野の傲慢な乱開発や戦争による破壊行為を示している。自然の人為的破壊、地磁場の衰え、外天体の干渉、大変災、生命体地球の死、これらは一連のつながりの中で把握できるのである。

また、この天体の投入が人為的に計画されたとも言える。それは、イザナギが自ら浄化のために水を使ったことや、次節でも述べるように、超科学力に自然の力が及ばないことを充々に示していることからみても考えられることである。それをおこなったのは、宇宙の超科学である。

五島勉氏は著書「ファチマの予言」の中でファチマの聖母は地球外の高度の生物ではないかと言っている。そのような聖母が今度はベロニカ・ルーケンを通じて語らしめたのによると「救いの

玉(漬罪の玉)が急速に地球に近づいている」「それは主イエスキリストが遺わされるもの」というのである。キリストも聖母もこの場合、同格に地球外知性であり、論理的に天体あるいは変災の投入が正統化されているように思われる。

では、地球外から干渉する地球外知性が悪いのかというとそうでもない。地上では人類のエゴによる核戦争まで起きていたのであり、浄化のためとなら充分な大義名分がある。あるいはまた、人類が集合無意識として持つ罪の意識がかかる変災を招いたとも考えられる。

そうするとかかる一連事象の最大の責任は何にあるかというと、人類それ自身の歴史への対応の甘さということになる。だが、伝承の上では、全ての原因はスサノヲ系の大地にしわよせられている。それだけ人類は宇宙の大義の中では理念を地上にあらわすための分子として破格の扱いを受けているのである。ここで一句。

「命もち、愚子を育くみ 赤切れぬ 母なる大地は 悲しからずや」

人類は自らの置かれている立場を理解しなくては、いつまでも「類」の範ちゅうを出られないのではないだろうか。

--------原文 天の岩戸(中)(天の宇受賣の踊り)-------------------------

ここを以ちて八百萬の神、天の安の河原に神集ひ集ひて、高御産巣日の神の子オモヒガネの神に思はじめて、常世のナガナキドリを集へて鳴かしめて、アメノヤスノカワの河上のアメノカタシハを取り、天の金山のまがねを取りて、鍛人アマツマラを求ぎて、イシヨリドメの命におほせて鏡を作らしめ、玉の祖の命におほせてヤサカノマガタマのイホツノミスマルノタマを作らしめて、アメノコヤネの命、フトダマの命をよびて、天の香山のマヲシカの肩を内抜きに抜きて、天の香山の天のハハカを取りて、ウラナヒまかなはじめて、天の香山のイホツノマサカキを根こじにこじて、上枝にヤサカノマガタマノイホツノミスマルノタマを取りつけ、中つ枝にヤタノカガミを取りかけ、下技にシロニギテ、アオニギテを取り垂でてこの種々の物は、フトダマノ命、フトミテグラと取り持ちて、アメノコヤネの命フトノリトことほぎもうして、アメノタヂカラフの神、戸のわきに隠り立ちて、アメノウズメの命、天の香山のアメノヒカゲをたすきにかけて、アメノマサキをかづらとして、天の香山のささばを手草にゆひて、天の岩戸にうけふせてふみとどろこし、神がかりしてむな乳をかきいでものひもをほとに押し垂りき。

--------対訳 生命体地球を蘇生させた超科学--------------------

宇宙人達は、静かな宇宙空間に陰ながら集まって、顕象の宇宙法則を模倣したコンピューターの制御のもとに、超音波のつくるある特殊な状態の下で、元素周期律表の上層部にある堅い鉱石と、どこにでもあるオーソドックスな金属を結合させ、この材料を鍛造して、輝く結晶体を造り、UFOの母船の設計原図をもとにたくさんに分岐したマガタマを円の中に統一した威力の出るエンジンを造り、ボディー及び主要な組みつけに関しては、たくさんの輝く材料を丸く堅ろうな型にブレスして、輝く材料の小片で内装張りをして、やはり輝く材料により造られた威力の源泉となる支柱の上辺部に先程のエンジンを取りつけ、中ほどに輝く結晶の多面体を掛けて、下辺部に白と青のそれぞれにぎやかに輝くものを垂らしました。そして、この装置を地球上に設置したのです。この装置類はコントロールルームにある制御操従系統と連動して、発進、駆動の合い言葉となる手続をふませると、強力な力場が、次元超越のトンネルの入口に見えないが発生してきて、回転系の動きは力場の真空地帯を兆型にして、空間の分断域を周りにバリアとして張りめぐらし、笹の葉をたくさん結んで輪にしたような輝かしい力場を発生させ、うつろな箱のような次元のトンネルの上で共振するようになると船体(宇宙機と化した地球)は励起して元時空の縛りを超えて新時空にジャンプしました。

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地球を死から蘇らせる超科学技術

この節は、災疫に満ちた環境から脱出させ、生命力ある地球を再生する超科学的手段とその実際を示している。そればかりか、これは宇宙人の乗物であるUFOの飛行原理をもあらわしているようである。インドの古文献マハーバーラタにはイオン推進であるらしい宇宙機の説明がなされているが、古事記のそれは、ある種の力場の回転により現時空を超越してしまうというものである。その用途が決して遠距離の短時間航行にあるのでなく、現環境の離脱もしくは改善のためにあったことがみてとれる。つまり存在状態の変革機構なのである。しかもこの機構の説明に要した長い叙述が一文にまとめられていることに、他文にない特異性があり、明らかに特別重要な知識群であることを物語っている。

この節に登場する主役は、もはや地球人類ではなく、地球外知性となる。だが、この史実をもたらした者とは、地球人類の祖先である以上、接点の再生の時期のタイミングに偶然もしくは選ばれて行きあわせた者であり、それも、本来なら秘密裏であるべき復元作業の現場に立会っていたものであろう。さらに、驚異的な科学力の半神半人的宇宙人の横で逐一教唆を受けていたとさえ考えられるような製造行程の描写である。このような情景は現代でもコンタクトマンが公表している宇宙人との会見談によく見うけられる。

UFOの構造、稼動原理

さて、この節の解釈ほど原文対訳が忠実にできた個所は無い。神名の意味は対訳と照合すれば意味が把めるはずである。だが、重要な留意事項を次に掲げておこう。

オモヒガネ(思金)は考える金物のことで、宇宙文明の底流をなす利器、コンピューター(ハードウェアー)のことである。この神がタカミムスビの神の子であることは、コンピューターの設計思想が宇宙運行の原理を模倣したものであることを示している。これは拙宇宙モデルが古代的観点から妥当である証拠の一つである。

アメノヤスノカハの「ヤス」はたくさんの物質のことで、全体で物質資源のことであり、この河上とは元素周期律表の(最も重い元素の側の)上位であることや、物質生成の場の付近の意味にもとれる。「カタシハ」は、堅い石片のことであり、ァメノカナヤマの意味するどこにでも見かける山ほどにある金属の中の特に「マガネ」(これはマグネシウムかもしれない)とともに鍛人アマツマラ(交転)の意味する融合炉にかけ、イシヨリドメ(石凝り留め)の鋳型に入れて、カガミ(輝身)の示す輝く結晶体を造るというのである。

「香山」は、輝くたくさんの材料、「マヲシカの肩」は、丸く力ある船体(鹿は古来より神の乗物であるとされる)の型、アメノハハカは細長いケーブル(ハハは蛇の意)、「ウラナヒマカナヒ」は「占ひ」ではなく「裏絢ひ賄ひ」で、内装整備するの意となる。

「玉の祖の命におはせて……アオニギテを取り垂でて」の部分は、まさに空飛ぶ円盤の内部構造を示すかのようである。(図2 ・3参照)ヤサカノマガタマノイホツノミスマルノタマは、たくさんに分極した曲玉が円筒乃至球内に収まった多極巴えの外観をしたもので、これがパワーを発生させる中心動力(エンジン)になっているという意味である。(図2 ・4参照)

ここまでで装置の部材からハードウェアまでを具体的にしているわけであるが、その次は運行に併うソフトウェア的な説明となる。「フトダマ」、「フトノリト」、「フトミテグラ」の「フト」とは、電子機械や電気そのものと解せ、それぞれ、機械船、メヵ的司令手順、メヵの充満した部屋(電子制御室)を示すと考えられる。既に出てきた「フトマニ」は予測(占ひ)のための表示画面であり、「タケフツ」は戦車や球電兵器を示している。

また、「アメノタヂカラヲの神……天の岩戸にうけふせて」の部分は、まさに空飛ぶ円盤の稼動状態を示すのであるが、何やらJ ・アダムスキーが金星人から示されたという「アダムスキー文字」の説明をするかのようである。(図2 ・5参照)まず、エンジンが操作手順に従ってある程度稼動した頃、「アメノヒカゲ(日陰)をたすきにかけ」に言うように、文字中の兆型で示される力場(の空域)をつくり、「アメノマ(目、間)サキ(訴き)をかづら(鬘)とし」にあるように、同文字中の眼型で示される時空の分断域すなわち新しい存在状態のバリアーを機体の周りに発生するというわけである。つまり、アダムスキー文字中のシンボルは、直接的に機体やエンジンの形状を語るのではなく、二次的に発生した力場の有様なのである。「鬘」というのは頭を保護するかぶりもののことである。この話が記憶付けられるために、マサキノカヅラという樹名がつくられているが、実際はとてつもない代物である。また、葛城の山というのは奈良盆地の西のとりまきの生駒山系をいうのであるが、これはまさに西からの悪疫を阻止する防壁の山並と考えられたものである。

さらに「アメノウズメ(渦目)」はこのような有様を総括するものであるが、大変なのはこれが「うけふせて」にいわく、うつろな箱のような天の岩屋戸の上に載っかる格好で、きらびやかに振動しているというのである。(「うけふせて」はうつろな箱の上に置くという意味)これは図2 ・5中の眼型の下にある箱の図柄に示されているではないか。また、黒い部分(まだら)は何となく半開きの岩戸そのものを示すようである。つまり、天の岩屋戸の景観を示している。そこは禁忌であるゆえに自黒のまだらにもなっている。このように、アダムスキー文字と天の岩戸物語は対になってようやくその意味するところが把めてくるのである。

現代の様々な目撃報告の研究からUFOは異次元航法をとるという情報がもたらされているが、これは以上の言葉の解釈を妥当なものにすると思われる。「天の岩屋戸」は宇宙機が航行していく次元のトンネルとみてよい。次元のトンネルはトーマス・ベアデンに言わせれば、虚状態で実現するといい古代人が空虚な箱にみたてたのも奇妙に的を得ていると思われる。そして、「ふみとどろこし」に示されるように、力場が共鳴を起し、「神がかりして」に示されるように、機体が励起状態にあって始めて、時空の縛り(面のひも)を解くことができるというのである。

また、この箱の図柄やいくつかの紋様に過不足のあるピンターダ文字(図2 ・6)は、多分、非励起状態にある宇宙機の説明図ではないか。眼型のまわりの種々の草文字は、「八百萬の神」で、対訳中では宇宙人と訳したが、次元飛躍現象を生起するために参加する物理諸法則と解した方が望ましいかも知れない。とにかく、図2 ・5、図2 ・6は宇宙機の動作原理を説明したものであることは確かである。拙宇宙モデルでは、このような現象はプログラムの慣性的な成りゆきを乗り替えていくというやり方の一環で把握できることを申し述べておく。(四章にて)

地球を宇宙機に仕立てる機構はバミューダ海域にある!

もう一つ類例の図柄として、金星人が残したという靴跡の解説をしよう。(図2 ・7参照)宇宙人関連ばかりで破天荒の極み申し訳なく思うが、これがまた重要なのである。

左足のA部には宇宙機のハードウェアを示す古事記の原文がシンボリックに対応し、対隅にある右足のD部がソフトウェアを示すシンボルとなっている。さらにB部は、バミューダ海域の略図と共に、力場の影響域を示し、C部はさらにその詳細図となっている。バミューダ海域には、この時空跳躍の宇宙機と同じ原理で動作するメカニズムが埋設されており、その現象の軽度のものが頻発する航空機の消滅事件であったと解される。そしてそのメカニズムの本格的動作のおりには、地球がそれ自体宇宙機の性質を示すのではないかと思うのである。

そのようなことがかつて有ったことを古事記は語っている。その結果はご存知のとおり、太陽の復活であり、生命体地球の蘇生であった。これはちょうど冥界から逃げていくイザナギのとった行動と同等であり、改めて、「身楔」から「天の岩戸」が同一事件の異なる側面からの観察記録であることが分るのである。

イザナギの逃避行動は地球を宇宙機とした時の時空ジャンプであったこと、ストーンヘンジがその補助装置であったことなどが察せられよう。旧い時空はプログラムのブレークと共に過去に埋没したのである。それは、アダムスキーを通じて宇宙人が積極的に訴えようとした「現代にあっては、将来にあてはまる」事件でありはしないか。

古代祭祀シンボルの意味

J 。チャーチヮードによれば、兆型の図形はムー文明のシンボルであり、聖なる原動力をあらゎすという。また井本氏によれば、古代世界に普遍的な吉祥のしるしで生命力の象徴であるという。そして、中国雲南省の洪水神話で生き残った人類の始祖となる兄妹に×や卍の文字があてはめられていることから死と再生のシンボルでもあったと言っている。筆者もこのような兆型シンボルのいわれを非常に重要なものと考える。それは死と再生、異時空への飛躍を物語るものである。

UFOは時空の関係からみた死と再生を繰り返す神域の乗り物であるし、広義な死と再生の解釈をすれば、不可逆性をもってする自然界の時間経過それ自体が、このシンボルにあてはまるであろう。ゆえに、古代人の間では、折りにふれ威儀を正そうと気がついた時点で兆型シンボルが用いられたと思うのである。

とにかく、古代の普遍的なシンボルである兆型、鹿、蓮華、桃、まだら、そして石碑などは共通した起源をもつと考えられる。鹿は古来より、神霊の宿る聖域をめざす神の乗物であり、鹿の子まだらを内含している。まだらは複数の状態変化の可能性を象徴しているようである。 また、黄泉醜女を撃退した桃の実や、伝説上の正義の使いを生んだ桃の実はUFOの形の擬態表現であろう。また、仏教における仏やサットバとは、悟りを開いた時空を超越した超人を示すとするより、これであるとした方が似つかわしいのではないか。「天の香山の笹葉を手草に結ひて」の表現は、実に蓮の華を思わせるような回転力場を発生することからきていると思われる。その有様を霊能者が見たならば蓮華上に座する仏と例えるのではあるまいか。(図2 ・8)

よって、仏教でいう「聖衆来迎」は「黄泉の国」の段でみた「桃の実満つ」と同様の過去におこなわれた出来事であると考えるのである。

人類は、拙モデルでは、映像的時空に縛りつけられた存在である。だが、それを裏返せば、UFOや超能力者にみるような、仮称「プログラム航法」による柔軟自在な行動が可能ということでもある。仏教が個人の解脱や成仏を説き、キリスト教が新世界の到来を説いている。それらは個とか全体とかの区別なくただ一点で境界を接する二種類の時空の間の移動について言ったものではないか。その一点とは尋常の手段では扉(岩戸)を閉ざしたままの障壁である。それを古代人は汎ゆる自然界の仕組みにみてとり、境界地信仰や新嘗の儀式の中で思想を陪い、サイクリックな定型パターンの摂理が起こす再び来たるべき機会に照準を合わせていたのであろう。

さて、以上見てきたように、古来より用いられ、また最近に至って地球外から呈示された不可思議な謎かけの紋章は、宇宙の利器に関連して平易に解答できるのである。だが、いづれもこれ以上のことは知ることはできず、何かのヒントにはなっても、ここから宇宙機を造ることなどは到底不可能であろう。しかし、古事記はインデックスに相当する文献である。より専門的な知識を記したものがもし有るならば、原典がどこかにあり、また、「天孫降臨」の章に示されるように、中臣、忌部、鏡作などの豪族各氏が専門に従って持ち分けて伝承しているのかも知れない。いづれも暗号化された形で書かれていることであろうが、この発堀、解読を期待したい。

---------原文 天の岩戸(後)---------------------------------------

ここに高天の原動みて八百萬の神共に笑ひき。ここに天照らす大御神怪しとおもほして、天の岩屋戸を細めに開きて内より告りたまはく、「吾が隠りますに因りて、高天の原おのづから暗く、葦原の中つ国も皆暗けむと思ふを、何とかも天の宇受賣は楽し、また八百萬の神諸笑ふ」とのりたまひき。……中略……かく言ふ間に、天のコヤネの命、フトダマの命、その鏡をさし出でて、天照らす大御神に見せまつる時に、天照らす大御神いよいよ奇しと思ほして、やや戸より出でて臨みます時に、その隠り立てる手力男の神、その御手を引き出しまつりき。すなはちフトダマの命、尻久米縄をその御後方に引き渡して白さく、「ここより内にな還り入りたまひそ」とまをしき。かれ天照らす大御神の出でます時に、高天の原と葦原の中つ国とおのづから照り明りき。

ここに八百萬の神共に議りて、速須佐の男の命に千座の置戸を負せ、また家と手足の爪とを切り、祓へじめて、一神逐ひ逐ひき。

----------訳 超科学力の成果 地球の復活------------------------

こうして超空間の摂理を動かして、地上の存在状態の根底をなす法則から顕在的な法則に至るまでが震動しました。これにより、地磁場は回復をみせ、地球には生気が蘇り、太陽はわずかに顔をのぞかせるようになりました。次はその太陽光を集光して地上の気温を上げる努力が結晶体を積載した宇宙船を地球外に飛ばすやり方でおこなわれました。空中の厚い雲は雨として降り注ぎ、消散していきました。こうして、新しい存在状態が安定したところで、かつての存在状態に戻ることがないよう通路を封じたのであります。太陽は元のように輝き、地上は明るくなりました。

大地の守護摂理(地磁場、地かく変動などを支配する理念)は、理念のレベルで爆発的な勢力を削がれ、不安定な性格を嬌正されて、地上に追放されました。

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復活後の後始末

天照らす大御神が天の岩戸から出てきた後には再び帰還逆行することのないように、出入り禁上の尻久米縄を張っている。これはイザナギが置いた「塞へます黄泉戸の大岩」と同意義である。

ここには、二つの因果事象の不可逆性を守る規律に従い時空ジャンプした後にとるべき後始末手続きの必要性を示している。それだけ異次元航法をする宇宙機には因果律を乱さないための規則が課されていると思われる。

天の岩戸物語を通じて、高天の原と葦原の中つ国の双方が太陽消失の被害に遭っていることになっている。この場合の高天の原は、超空間ではあるが、地球史の元となる理念圏の話であり、タカミムスビ(現象生成のコンピューター)の存在域とは意味あいが違う。既に述べたイザナギが身楔のために降りた「中つ瀬」に相当するのである。理念圏の白紙化がおこなわれた結果、世界は暗黒になっている。それは「実行すべきプログラムが無くなったために光が無い」という超自然的メカニズム上の出来事なのであり、演ずべき理念が無いことのつじつまあわせが現象上では暗黒、凍結、滅亡、その結果としての空自として出現しているのである。この辺はC ・ユングの心理学が解答を与えてくれそうである。

(八)穀物 の種

この物語は、原文としては挿入話と言われている。だが、編者は物語の意義を十分に理解していたようである。ここでは、大異変の災禍をかいくぐって知識が後世に持ち込まれたことを示す。

---------原文 穀物の種---------------------------------------

また食物をオホゲツヒメの神に乞ひたまひき。ここにオホゲツヒメ、鼻口また尻より、種々の味物を取り出でて、種々作り具へてたてまつる時に、速スサノヲの命、その態を立ち伺ひて、きたなくして奉ると思ほして、そのオホゲツヒメの神を殺したまひき。かれ殺さえましし神の身に生れる物は、頭に蚕生り、二つの目に稲種生り、二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰に麦生り、尻に大豆生りき。かれここに神産業日御祖の命、こを取らしめて、種と成したまひき。

--------訳 大異変から救出された技術知 識-------------------------

何度も蒸し返すようですが、かつての高文明は、大工業地帯、大穀倉地帯など様々な生産の活況を呈しておりました。ところが、その生産物が多様で面白いものであった反面、既に述べましたように械ないものであったため、大異変がこれを沫殺しました。しかし、それでは余りにも勿体ないため、隠れた知識者が主として農業を中心とした知識を取りまとめて、次の時代に持ち越した訳です。この知識者は民族の開祖として敬われました。

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変災禍中から知識の救出にあたった賢者の事蹟

オホゲツヒメは穀物の神である。だが古代人は穀物の種類により、様々な生産分野をあらわしていた。高文明下にあっては、「カナヤマ」、「ハニヤス」、「ワクムスビ」なども一つの分野であることは現代も変わりがない。「神産巣日」はここでは「神」ではなく「命」であり、高次元的存在ではないことを示している。それは、 一章で述べた民族の開祖(御祖の命)となった賢者の事蹟をあらわしているのである。ゾロアスター教でも善神と悪神の抗争期に世界の植物が悪神の毒で枯渇したとき善神アムルダードがこれをとり、多種樹につくりかえたという。現在みる植物のすべては、この多種樹から生まれたとされる。(ゾ教の神話は古事記のそれと非常に共通性があり、同根であると感ずることしきりである)

(九)八俣 の大蛇

この物語は、大異変の後遺症ともいうべき火山活動の猛威を鎮静する仕組みが古代に知識者の指示で創られたことを語る。これは新生した時代の当初に宇宙からもたらされた超科学である。

---------原文 八俣の大蛇(前)----------------------------------

かれ逐はえて、出雲の国の肥の河上、名は鳥髪といふ地に降りましき。この時に、箸その河ゆ流れ下りき。ここにスサノプの命、その河上に人ありと思ほして、求ぎ上り往でまししかば、老夫と老女と二人ありて、童女を中に置きて泣く。ここに「汝たちは誰そ」と問ひたまひき。かれその老夫、答へて言さく「僕は国つ神大山津見の神の子なり。僕が名は足名椎といひ妻が名は手名椎といひ、女が名は櫛名田姫といふ」とまをしき。また「汝の哭く故は何ぞ」と問ひたまひしかば、答へ白さく「我が女はもとより八稚女ありき。ここに高志の八俣の大蛇、年ごとに来て食ふ。今その来べき時なれば泣く」とまをしき。ここに「その形はいかに」と問ひたまひしかば「そが目は赤かがちの如くにして身一つに八つの頭八つの尾あり。またその身に羅また桧杉生ひ、その文谷八谷尾八尾を度りて、その腹をとみれば、ことごとに常に血重りただれたり」とまをしき。ここに速須佐の男の命、その老夫にのりたまはく、「これ汝が女ならば吾に奉らむや」……中略……ここに足名椎手名椎の神、「然まさば恐し、奉らむ」とまをしき。

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火山の猛成による良質の土地の減少

追放されたスサノヲは地上圏に降りてくると、守護者の性格をあらわして大地の工作者となり、民族の英雄となる。彼はまず地上(出雲の国)に流れ込む理念(ひ)の河の上流に何事かがあることを知る。河の流れが理念の天下る流路にみたてられていることは「身楔」のところでも述べた。

流れてくる「箸」は「橋」でもあり、理念の存在を伝えるもの、すなわち精神波動の中間領域である。これは「天の浮橋」とも相通ずるものである。

スサノヲが上流に赴くと、そこには苦悩する人類の集合意識(泣く老夫老女および童女)があった。わけをたずねると「八俣の大蛇」という怪物が来て毎年のように娘を喰っていき、今またその時が来たので悲しんでいるのだという。このため、彼は天から降りてきた者であることを明かして、怪物退治の一計を案じてやるわけである。「八俣の大蛇」とは、目が赤く輝き(赤輝地)、身一つに多くの山河を被り、腹からはたえず血が流れていた、と形容されるように、多くの火山を抱える火山帯の象徴である。(図2 ・9)これに対し、娘の「櫛名田姫」は「奇し、稲田」(書紀)で、良質の耕作に適した土地のことである。

それまでに多くの娘が食われたというのは、火山活動の猛威により良質の土地が多く火山灰や溶岩土の下に埋没したことを示しているのである。無機質かつ酸性土である火山灰土では農地として不適であることは言うまでもない。このような事態を哀れに思った守護者(ここでは天降した地球外知性であろう)が救助するのだがその方法は超現実的なものであった。信じ難いかも知れないが、この解釈により古代の遺物や宗教思想の謎が氷解してくるのである。

---------原文 八俣の大蛇(中)-----------------------------------

ここに速須佐の男の命、その童女を湯津爪櫛に取らして、御髪口に刺して、その足名椎、手名椎の神に告りたまはく、「汝等、八塩折の酒を醸み、また垣を作り廻し、その垣に八つの門を作り、門ごとに八つのサズキを結ひ、そのサズキごとに酒船を置きて、船ごとにその八塩折の酒を盛りて待たさね」とのりたまひき。かれ告りたまへるまにまにして、かく設け備へて待つ時に、その八俣の大蛇、まことに言ひしがごと来つ。 すなはち船ごとに己が頭を集り入れてその酒を飲みき。ここに飲み酔ひて留まり伏し寝たり。ここに速須佐の男の命、その御侃の十挙の剣を抜きて、その蛇を切り放りたまひしかば、肥の河血になりて流れき、かれその中の尾を切りたまふ時に、御刀の刃欠けき。ここに怪しとおもほして、御刀の前もちて刺し割きて見そなはじしかば、ツムハの大刀あり。かれこの大刀を取らして、異しき物ぞと思ほして、天照らす大御神に自し上げたまひき。こは草薙の大刀なり。

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天降した賢者の教えた火山活動を鎮めるシステムの創り方

宇宙から来た知識者は、ある種の火山活動を鎮静する具体的な方法を地上の人々に教えてやる。

それは、「汝等、ヤシホリの酒を……盛りて待たさね」に語られている。ヤシホリは「八締火離」と分解でき、(火山エネルギーを)多くの部分で仕切って火勢を柔げる方法。この部分の意味は、「お前達、火山帯の活動を鎮めようと思うなら、垣根を張りめぐらし、その垣根にたくさんの問(かど(角))を設け、その問ごとに供物台を組み、その上に酒船(逆船)を置いて、ヤシホリの仕組みを仕掛けて待っていればよろしい」ということになる。

そこで足名椎たちはその通りにして待っていたら、確かにオロチはやって来て、酒船に頭をつっ込んで酒を飲み、酔っ払って寝てしまった。これは、オロチの動き(火山活動)が活発になると、この仕組みが自づと作用して弱らせてしまう働きをしてくれるというのである。

この後、スサノヲが大蛇を切り殺し、体内からツムハの大刀をとり出すが、ここにも重要な意味がある。ツムハは「摘む歯」で去勢の意、この別名クサナギは「隠騒凪」で隠れた暴動の鎮圧の意、さらに別名ムラクモは、次のように火山鎮静の原理を如実に示す。つまり、雲塊の群らがる様子のことなのであるが、古代の「雲」という言葉にはただならぬ意味があり、クモのモは、形をとる基になる要素のことで、今様に言えばエネルギーのこと、これに具体を意味する「ノ」がつくと物体(もの)を示すと同様に、潜在を意味する「ク」がつくと不可見のエネルギーを示すものとなる。ちなみに古事記では、空中に水滴によってできる雲を「アメシルカルミヅ」と呼びその成因を明らかにして使い分けている。古事記に影響を与えていると思われるゾロアスター教では、これをメーノーグ相にある不可見な物質状態として、形を併うゲーティーグ的なものと区別している。これは非物質というのではないが、可見な物質状態よりもより繊細であるために不可見な、いわゆる霊質とか「気」を意味するという。この種のエネルギー状態は古代において世界共通に知られたことであったようだ。

また、大蛇(火山活動)を切り殺す筋書は先程のヤシホリの説明を再びくり返している。このことから、スサノヲが造らせた仕組みそのものが大蛇退治を直接おこなうためのものと考えることができる。まとめると、火山活動鎮静の原理は、「地エネルギーを細断して無形のエネルギーの群塊にして取り出す」ということになる。

現存する大蛇退治の驚異的な仕組み

その仕組みが具体的にどのようなものであるかは、言葉を丹念に見ていけば分る。加えて、実物が存在していればこれほど分り易いことはない。筆者は、これより前に日本列島上におびただしく存在する規則的な不可視のライン群を発見している。これは、古来より信仰を集めた神体山、神社、巨石モニュメント、古来から残る特別な地名、門前町的都市などを結んで得られるものであり、特に出雲地方を中心に調べたためか、この辺りに密度が高い。(図2 ・10 表2 ・4参照)

このライン群に関する意義は後程述べることになるがこのライン群と前述の「垣根」とが同じものを意味するのではないかと思うのである。「酒船」は「逆船」でありちょうど船を逆さにしたような秀麗な山のことであり、古来より信仰の篤かった神体山は汎そ「逆船型」である。神体山には後世になって対置するように神社や仏閣が造られたが、もとはといえば「サズキ」たる神体山を介して高みにおわす神を祭るというものであった。それが形式化と「みたて」の後退によって、社殿式へと遷移したのである。だが基準となる法則は、余程後世のものでない限り、遵守されていると考えられる。

また「門」というのは、「角」であり、線描の交差点のことではないか。それも形の良い直角というのが本当であろう。うまり、「垣根」も「門」も、このライン群の外観を大局的にあらわしたものと考えられる。要するにスサノヲが提示した火山鎮静システムの設計図面の特徴を身近な当てはめ易い言葉に言い直したものと理解できるのである。図2 ・10はそのうちのごく一部分にしろ表わせていると思われる。だが実物はもっと計算し尽くされた精致かつ細密なものであろうし、「出雲」自体西日本の地域にとどまらぬ世界のことを述べたものであるから、全貌を把むことなど途方もないことでぁる。

出雲八重垣の基本構図なのか?
以後の幾何学遺構の発見はこれが基になった

重大発見の裏には重大な裏付けあり

このライン群に関する重大発見は、次の六点であるが、これを応用して引ける多数の平行なラインにもやはり重大な符合が見出せる。

一、大和の南北のライン(1)上には、名所旧跡が、ちょうど緯度十分の等間隔で並ぶ。

二、その地点から東西に引いたラインに太陽の道と言われた北緯34゜32'を含む(6)~(14)がある。中でも(6)は出雲、大山、元伊勢など神体山や神社の集中したラインである。

三、九州斜断のライン(2)は(1)と類似パターンのうえ、地名が等間隔である。(図2・11参照)

九州の天降ラインと畿内の南北ラインの相似像
有識の同一民族が根拠した証拠になるだろうか?

四、ライン(2)およびこれと直交するライン(5)は古事記の「天孫降臨」で裏付けられた確実な証拠がある。その上、重要な地点が九州上で巨大な直角二等辺三角形の幾何学図形を示している。

ニニギの命が筑紫の日向の高千穂の霊峰に降臨したときの言葉、「此地は韓国に向ひ笠紗の御前にま来通りて、朝日の直射す……」に韓国、日向、笠紗の三地点が示され、前後併せると筑紫(福岡)、高千穂もこのライン上の拠点となっている。そればかりか、筑紫―日向と日向―笠紗が日向で直交して等距離となっているのである。(図2 ・12参照)ここで「ま来通り」が直交を意味し、(「巻き」か「真切」か「曲ぎ」の意)重要な測量概念であったことを物語っている。

この幾何学図形が数年後には西日本から畿内にかけての幾何学図形と結びつく
当時はそのようなことを想像もしていなかった

五、「ま来通り」を応用して、ライン(2)と志賀島で直交するライン(3)は穂志倭人伝の地名、恰土(伊都)、松浦(末慮)、そして、須佐の男系の祭社、宗像、出雲を通り、山陰の海岸線を奇麗になでて、東北方へは十和田湖南環状列石付近にまで至っている。同時にこれは大和朝延が征服を目録んだ北限を意味していもする。

六、ライン(2)上の志賀―高千穂の線分を7対6の比でとった日向神で(2)と直交する(4)は「神武天皇の東征」で示される地名を通り、同時にやや小さめの直角二等辺三角形を形成する。(図2 ・12参照)そこには、東征に関する「計画の高千穂」、「起点の日向(神)」、「筑紫」、そして「宇沙(今の宇佐)」が二つの三角形で与えられている。

これらは、決して偶然のものではなく、航空写真でも用意しなければ分らない程の地名の設定をやってのけているのである。通常の測量術でも、山岳の多いこの地方でこのスケールで距離を出そうとするのは無理と言ってもいい。ちなみに、7対6というのは、この緯度帯における緯度一度と経度一度の距離の比であり、ライン(2)の角度もこれに一致している。その他のラインについても意義を揚げればきりがないほどに重要なものが多い。

筆者が明らかにしたのは、ラインの角度であり、これに二種類あることとこれに直交する二種類のあることであり、これにどのような意味があるのか、これ以外の角度があるのか、日本以外あるいは緯度帯によって異なるのかといったことに尽きぬ疑間が残る。ただ、等緯度帯のオリエント地方では、 第一章図1 ・2で既に述べたように、ライン(2)と一致する角度のラインがシュメールの古代都市の並びにはぼ一致している。これは、歴史的に旧い物を尊ぶ考え方が日本民族渡来の時に九州の地理に作用したとも考えられる。だが、それ以上に、不可視なエネルギーを生成するラインが古代人の直感力で捉えられたとするのが本当のように思われるのである。

大蛇退治の遺構、築山らしい山は西日本の各地にみられる

次に神体山のような山が人工築山なのかどうかという疑間がある。西日本地方は河川の侵食でできた隆起準平原であり、まろやかな山容がもとより在ったとするのが適切かも知れない。筆者が地元から兵庫県の中部を調べてみたところでは、この地方一帯にピラミッド群がおびただしく存在することが分っている。それだけに、神社の数も多く、過去に都が置かれたとしてもおかしくない風土である。(図2 ・13参照)

兵庫県氷上郡を中心にして、小高い山波が臨まれるが、この中に意図的に方錘型を目ざしたと思われる陵線の張り出しのある小山が多く含まれている。エジプトやアンデスのものと基本的に異なるのは、もとあつた平担な山に手を加えて形を整えたとみられることである。高さは二十m~二百mほどであり、最多は四十m級である。数は正確には把めないが、県内だけでも百体を下るまいと思われる。

形態は単独であるもの(最も少ない)、山並添いに東西または南北に連なるもの(多い)、大小順に階段状に連なるもの(最も多い)、山嶺をふもとでとりまく格好のもの、元の素材が長円型のためか二段階に構えたらしいものなどがある。(写真1 図2 ・14参照)ただこれらが本当にピラミッドと呼べるかどうかであるが、サンプリングして調べたところ、地面と陵線のなす角度は、二十五度がほとんどで、側面の表出しているものは、ほぼ東西または南北の方向に沿っていることが分かった。また、そのうちの階段状の一例に登ってみたところ頂上に方位石とみられる岩の一角が見つかっている。現地の山は杉の植林か自然林で立入り難く、一例に滞まったが、その他のものについても同様であろうと思われる。

角度二十五度が本来のピラミッドの条件に適わないとされるむきもあろうが、エジプトの五十二度は測量の技法に車輪が使われたためとする説もあるわけで、方錘型が重要であるのみならより安定な二十五度の方が地震国日本にとっては、また砂山だけでも事足りる簡易さから言っても、本物であるような気がするのである。ゆるやかな起伏に富み柔軟な砂岩質のこの地方の山岳は加工し易く目的の形にするには都合が良かったと思われる。この一帯では加工物と非加工物の差がはっきりと分かるので、多くの人が作為性を覚えていることと思う。そして、秀麗な山には多く、神社が対置するように設けられ、古来より神体山であったことが窺われる。

また、氷上を中心とするマウンド群は既述の南北に引かれるべきラインに沿って帯状に広がっている。(ラインとは言っても厳密なものではなく、或る幅をもった帯域であることに注意)この真南には神戸市垂水区の雌岡山、雄岡山の夫婦マウンドがあり、この帯域への飛行艇の進入灯を思わせるような神体山である。しかもこの地には須佐の男の命が櫛名田姫と連れだって降臨し、土地の人々に農耕を教えたという伝説があり、(写真2)このラインが、より一層大蛇退治と結びつくことがお分かりになるだろう。(また、地名の類似性についてみると、氷上(ひかみ)は日向神(ひうかみ)に相当し、中(なか)は那河川(福岡)、春日や二和は九州、奈良とも同じである。また、青垣は古事記で三輪山と結びつけられて、山に重点の置かれていたことが分るのである。

さてライン群の関係からすると、このマウンド群の存在は西日本、さらには日本全土に広がっていると思われる。車窓から気付いた個所として、びわ湖南近江地方にそれらしさを見出している。

--------原文 八俣の大蛇(後)-------------------------------------

かれここを以ちてその速須佐の男の命、宮造るべき地を出雲の国に求ぎたまひき。ここに須賀の地に到りましてのりたまはく、「吾ここに来て、我が御心すがすがし」とのりたまひて、そこに宮作りてましましき。かれそこをば今に須賀といふ。この大神、初め須賀の宮作らしし時に、そこより雲立ちのぼりき。ここに御歌よみしたまひき。その歌、

や雲立つ 出雲八重垣
妻隠みに 八重垣作る
その八重垣を     (歌謡番号一)

ここにその足名椎の神を召して告りたまはく、「汝をば我が宮の道に任けむ」と告りたまひ、また名を稲田の宮主須賀の八耳の神と負せたまひき。

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火山活動鎮静システムのその後

原文では、スサノプの命は大蛇退治の後、めでたく櫛名田姫と結婚して出雲の須賀という所に出雲八重垣なる宮殿を造り、その景観を愛でて歌を詠む。

「八雲立つ 出雲八重垣 妻隠みに 八重垣作る その八重垣を」

古事記の歌謡の一番目にあるこの歌は、全文が易しい暗号で成り立っている。それは語られていることの重要さを繰り返し強調すると共に、古事記自体が一連の暗号化文献であることをほのめかしていると思われる。

「やくもたつ」は「たくさんの雲が立ち登る」の意で、単に枕詞ではない。(雲はもちろん空の雲ではない!)「出雲八重垣」は、忠実に訳すと「雲を生成する多重の垣根」ということになり、先述の大蛇退治の垣根と無関係ではない。さらに「妻隠みに」が「妻を守るために」の意で、良質の農耕地(櫛名田姫)を保全する意味となるので、かつての垣根と出雲八重垣は同じものを示していることになる。

つまり、この物語は、筋書きを基にしつつも筋書きを超えて、出雲八重垣の存在により、大蛇のスタミナが奪われ八雲として立ち登り、そのおかげで妻が守られているという関係を言葉を最低二回以上繰り返して強調しているのである。このような角度を少しづつ変えながらおこなう繰り返し強調法は、既に「身楔」~「天の岩戸」を通じて再生の過程を示したり、「神々の生成・後段」~「黄泉の国」で終末的世界の有様を示したりするのに用いられていた。

さて、歌の解釈を通しておこなうと、「大量の不可視なエネルギーを立ち登らせているエネルギー涌出の八重垣は良質の土地を守るために幾重にも垣根をめぐらせて作ったのだ。どんなものだ、八重垣の威力は」となる。ちなみに歌末の「を」は、古典字引きに載らない「力」を示す接尾語である。

結論として、出雲八重垣とはマウンドを基調とした線描であり、容観的に垣根に見えるもののことである。これが地エネルギーを無作用なものに変える大域的なエネルギー変換網を形成しているというわけである。要所(門)に置かれた山やマウンドを個別にみれば、エネルギーを変換し、分散する極ということになるが、それは山の名前に顕著に表現されている。三輪山は、「倭青垣の東の山」とされる八重垣の重要拠点であり、別名、御諸山というが、「みわ」は充足するパワーのこと、「みもろ」は相を変転するの意があり、 エネルギーコンバータというわけである。兵庫県の三室山も同義である。古代人は決して思いつきや勝手気ままでなく、機能するところに応じて適わしい名前を付けているのである。(みわ=満。力、みもろ=満・面・転)こうして、先述のライン群にも、「出雲八重垣」と命名できた。また、「出雲の国」とは、エネルギッシュな国ということになり、島根県にとどまらない不特定な大域を示していることがお分りになろう。

出雲八重垣は、大蛇退治をおこなうシステムであり、基盤になるマウンド群が破壊されない限り半永久的に動作し続けるはずのものである。古代知識人の努力は、これが破壊されないことのためにも払われた。 一つは神体山として祭り、禁忌の場としたこと であり、いま一つはそれ自体墳墓化して慰霊の場とし、後世の人々の良識に委ねたのである。だが現代ではそのようなことも忘れ去られて、かってのスサノヲがしたような田や畔を壊し、溝を埋めるような行為を繰り返している。それを「より良いことをしているのだろう」と決め込んで黙認した結果大異変が起っていることも既に述べた。システムがどこまで持ちこたえるか、心配なことではないか。(写真3)


人類は地球の主人ではなく番人であった

さて、八重垣システムの製作に関して、スサノヲは計画立案し、製作は主として足名椎手名椎たちにやらせている。だが彼等の関係は、為政者と民のそれではない。なぜなら、この後にスサノヲは足名椎を召して宮殿の管理人(宮の首)に任命しているからである。つまり、スサノプは、文明のれい明期に世界の各地に突然人々の前に現われて有用な知識を授けて後を託して立去った賢者に相当し、足名椎たちはそれ以降「みたて」に秀でることになった古代人なのである。先述の雌岡山のスサノヲ降臨伝説ともこうして符合するわけである。ちなみに、「足名椎、手名椎」とは「土ならし」の意味であり、機能するところに応じて付けられたプロジェクトチームの名称であったことが分る。また、「八耳(やつみみ)」とは、たくさんのマウンドや巨石碑のことである。

ところでいま一つ、スサノヲはもはや居ないのかどうかということにも、触れておこう。スサノヲは表向きの支配権を譲ったのであり、彼自身は櫛名田姫すなわち有用な大地と共に居て、システムの効果的な動作をみそなわしているはずなのである。ずばり言うと、スサノヲは国神かつ地神であるが、ここでは天降した者すなわち宇宙人なのである。スサノヲの経歴からすると一担地球に居て、宇宙に往き、そして戻ってきたとするのが適切かも知れない。すると、かのイザナギの脱出の時に救済された人々が温情的に戻ってきて啓蒙活動をしたのかも知れない。この辺は全く推測の域を出ないのであるが。

だが、とにかく私達は私達人類だけで地球を牛耳っていると考えるのは大間違いである。私達は未だに大地の管理人(番人)の末えいであるにすぎないことに注意したいものである。それはキリスト教の教義の中心的認識と同じ意味あいに帰着するのである。

火山鎮静システムの活在を示す証拠

現在でも判別がつくスサノヲの企画、これはその遺構の存在と共に火山活動鎮静が今なお行なわれていることを示すものである。このシステムの効果、実在性は、一方で火山活動抑制の効果、もう一方で涌出してくるエネルギーの作用の痕跡を調べることによって分かるだろう。だが、前者はスサノヲ以前のデーターが無いと比較できないし、後者も不可見であるというのでは手の施しようがないという感がある。だが、いささか気味の悪い話かも知れないが、前者は自然破壊が促進された結果として、近未来に効果の中断としてあらわれてくる可能性がある。また後者も従来の科学では説明できないようなところに現象が吐出している可能性がある。

まず、効果の面からすると、日本の全域、特に西日本に多く火山活動の抑制がなされていることになるが、中国、四国、近畿に著しい動きがなく、白山火山帯が存在しているとはいえ、大人しいのはこの理由によりはしないか。日本の他の地方も決して著しくはない。

しかし、近頃、山野は宅地造成や海岸埋立ての名目で乱開発を受け、古代智に基づく多くの有用なマウンドが破壊されている。これが原因となり地殻変動期が再来する可能性が増大しているのである。最近、地震学者により日本の火山帯が活発期に入ったと報告されているのも、決して無関係ではない。数千年前から、有珠、御岳と噴火し、つい一年前には兵庫県北部の神鍋山で地熱上昇による避難騒ぎがあったが、この辺りはシステムの心臓部なのであり、八重垣が衰えをみせている証拠と考えられる。エドガー・ケーシーは近未来の日本海没を予言しているが、あながち虚構であるとは思えない。既に三・(七)節で述べたように神話は幼ないスサノヲの暴挙に仮託して、後世の無知に基づく乱行を強く戒めている。古代智に基づくシステムの効果の証拠を把んだ時には既に手遅れであることに注意したい。

次に、不可見なエネルギーによると考えられる現象を揚げると、第一にUFO現象がある。目撃されるUFOの多くは宇宙人の乗物ではなく、放出エネルギーの光物質化現象であろう。地球外知性は確かに居るが、人間の願望、偶然、過剰エネルギー放出などで引起されるものも多いのではなかろうか。

例えば元伊勢の外宮には節分の夜毎に青白い光塊が立ち登るので、「龍燈の杉」と名けられた神木があり、ここから南の神戸市の丹生山には、瀬戸内海をゆく船が暗夜で航路を見失ったときに丹生明神に祈ると灯明をともすと言い伝える「灯明杉」なる神木があった。これらは、システムのラインに沿って起るエネルギー放出によるものだろう。それも地震の場合に似た周期性を伝承のうちに伺い知ることができる。地エネルギーとしての元の性質を端的にあらわしているのだ。

また、地震の予兆として起ることのある山の発光現象や稲光りなども同様の理由であろう。ちなみに火山エネルギー等に関して次の等式が成立つと思われる。

地の歪エネルギー=システム変換エネルギー(無形)十地震・火山エネルギー
システム放出エネルギー=不可見なエネルギー+光物質化エネルギー

このエネルギーは、最もオーソドックスな電磁エネルギーに変化し易いのである。
また、放出エネルギーは、ライヒのいうオルゴンやヨガでいうプラナと同じものかも知れない。

ライヒは、オルゴンを雲に照射して穴を開ける実験結果を得ているというが、規則正しい網目模様や平行線を描くという地震雲は、システムのラインのパターンの反映と考えられなくもない。

また、日本上空の雲の出来具合いが図2 ・10のラインに平行した格好になり易いことが「ひまわり」の高空写真を調べると分る。図2 ・15右は冬に多いパターンであり、季節風の吹き出しによるとされているが、天気図の等圧線との関係がほとんど無いから奇妙である。また、図2 ・15左は偏西風によるとされているが、この角度より平担なものが少ないのはなぜだろう。

また、オルゴンも、プラナも生命体に有用であり、特に意思力に反応してその実現を助ける役割をもつと言われている。これを肯定するように、垣根の節目には神社、霊峰、都市などがある。神懸りのし易さ、超能力開発、精神修養のために有用な霊気が豊富であることから神社造営の地が選ばれ、修験者の行場となっていると考えられるし、動植物の生育の良さや思考活動のし易さ、ひいては住み易さのゆえに人々が本能的に集まり、都市を形成するに至ったとも考えられる。また、先程の「灯明杉」はエネルギーが意思力(祈り)に感受することを示していた。

ところで、古代人はこれ程のエネルギーを利用しなかったであろうか。ヨーロッパのメガリスには神秘的な力が認められるため異様な名前をもつ巨石が多く、触れると痛みを覚えたり、治病力をもつものもあるといい、石の形質、配置などにより様々な形態でのエネルギーの取り出し方が可能となっているようである。また伝説上のオリハルコンという自ら光る石や巨石加工、運搬法などはこの実用化の例ではなかっただろうか。また、巨石碑特有の磁気異常、これも未知のエネルギーのベクトル成分として表出しているのではないか。

巨石建造物は巨石の組合せにより、マウンド等から放出されるエネルギーを目的に応じて導き、流動せしめる機能を持つと考えられる。石土造のマウンドなどがシステムを担っている以上、同類の巨石碑も何らかの効果を持っていなくてはなるまい。さて、人工であるか天然であるかは別として、先程のいのラインに沿ってある恵那峡および上流の苗木城はメガリスである。このラインは、実は地元のUFO研究家によって、UFOの通り路と言われたほどの発光体の出没ラインなのである。これは、かの二輪山に接続している。

筆者の考えでは、これは線上の各拠点がちょうど真空管のカソード、グリッド、プレートのような機能を相補し合い、地表上でのエネルギー的均衡を保ち、この結果、地殻内部をなおも安定にしていると思われる。それはあたかも針灸により表皮に刺激を与えて、内臓の具合いを良くする方法に似た効果なのではないか。これは、古代人の利用というよりは地球的規模の大目的利用であるが、似たような方法が農耕のために用意されていたようである。

西日本各地から大量に出土している銅鐸は、巨石と同様に補助的役割を果していたと考えられる。土地は外観的に同じでも場所によって耕作に適不適のあること(イヤシロチとケガレチ)は知られている。この原因はこのシステムのもたらす波状的なエネルギー過不足によるだろう。その局地的是正に用いられていたのが銅鐸、銅剣などでありはしなかったか。こうすれば銅器がなぜ土中に埋められる筋合いのものであったか、その謎の一半は解明できるものと思う。もしそうなら、銅鐸は堀り出したままにせず、元あった場所に埋めておくのが本当であろう。付近の農家 は知らずして迷惑を被ることになっているはずだ。

まだまだ、我々の知らないエネルギー理論はあるに違いない。古代人は石土造建造物に感覚以上のものを見出していたことは確かであり、さもなくば世界各地に残されたマウンドやメガリスに対して情熱をかけた古代人の努力が何の意味もなさないばかりか、永久的に未知の扉に閉ざされてしまうだろう。古代人は共通して「みたて」の民族でぁった。しかし、「みたて」の基になった知識あるいは超感覚は本物であったと思うのである。無形なエネルギーは有形な資源へと変換されれば、地球が保証する無尽蔵なものとなりうるが、我々の科学がその域に達することはまだまだ難かしいと言わねばならない。

古代山城は超古代マウンド造営の模範例

ところでその後このマウンド造営を物語る証拠が、NHK総合TVの「知られざる古代」という番組で放送された。

主題は古代山城として採り上げられた西日本に散在するマウンドのことである。

それらはいずれも山の頂上付近に神籠石(こうごいし)なる摩かれた石材を列石に組み、その上に土を盛って、これを隠すという(図2 ・16)、いわゆる版築という方法で土塁が築かれていて、山の名も、鬼の城(きのじょう)とか石城山(いわきさん)とか「キ」という音を含む特徴をもつという。またこれらの山は古来より信仰を集めた磐座を頂上にいただく神体山であったことも知られている。

筆者の考えでは、この神籠石なる石垣こそ、スサノヲの発言にあった「サズキ」(供物台)を意味すると思われる。石垣に組むことを「サズキを結ふ」と言ったのだ。そして、これは逆船形に土盛りがされて隠されたのである。丹念に磨いて作られた石がどうして最初から土中に埋められる筋合いのものであったか、その一見不合理にみえる築山法の真相こそ、八重垣という大目的のためにあったことを証し、我々の知り得ないエネルギー理論に根拠されたものであることを示している。また、山名に「キ」のつく理由は、「サズキ」が「捧げる城」(授城)を意味することからきているようである。

ところで、筆者は、この例として岡山県総社市にある「鬼ノ城」に行き、 いま一つ異なった発見をした。筆者の考えでは、「鬼ノ城」の構造は、土台をなす三メートル以上の巨石が土中深く塁々として築かれていて、その上に土砂が盛られ、なおも一メートル以下の小さな石が石組みとして山頂をとりまくょうな格好で築かれ、なおもそれに砂がかぶせられたという感がした。つまり、時間とスケールを異として二世代のものが同居しているという具合いなのである。(図2 ・17)

これと良く似た例で、小岩の方が無いものを、中部地方、恵那峡上流にある苗木城(なえき)にみることができる。ここも「キ」が付く名であるが、戦国時代に地の利を生かして山城として利用されていた記録はあっても、古代山城ではないようだ。っまり、日本古代のれい明期に築かれたものこそ、第二世代の小岩群であって、第一世代のものは、もっと前に存在したのではないかということだ。そもそも苗木城の場合の大岩は、直径四~五メートルもある巨岩であり、運搬できる筋合いのものではない。これこそ、スサノプが為した功業というべきではなかろうか。

また、苗木城がもと神体山であったことは、この真北にある丸山神社が物語っている。境内には蛙や恐竜を型どった奇岩がみられる異様な辺つ磐座をかもしている。(ゾ教との関係も深いようだ)このような、巨石組みの山は、日本の随所に存在すると思われる。これに対し、小岩組みは民族の伝搬に併う後世のものだから、西日本に限られると考えても良いだろう。

また、いま一つ、スサノプの言葉は、小岩群にも生きているのである。巨石群でみた言葉の意味づけと小岩群のそれの関係は図2 ・18のように示せる。これは一種の縮図化現象である。

「垣」を石垣としたなら、「サズキ」に相当するものも現地に存在していて、山頂に向けて設置されている。「酒船」もかつてその上に置かれていたものだろう。

だがこれは後世のものであり、周りにはそれより以前のものが土台を形成しているのであり、時間的に大きく二段階にくびれて相似形に縮図化されているのである。(それがなおも後世には神道で用いられる木で結った「サズキ」へと転進している)それはまるでギリシャ神話でいえば、チターン時代から現時代に移った同一思想のものをスケールを縮めて重畳しているといった具合いである。我々の時代の古代は、より古代のスケールの巨大さに圧倒されて縮図化してしまっているという感が否めない。すると、この小岩群は、もとあった実用的なものの名残りをとどめるために模倣して作られたものかも知れない。

ここに次表のような世代的変遷をみるのである。

地球的規模の大改造事業

ブルース・キャシーによると、不可視なエネルギー網がある種の数学式に従って地球上をとりまいているという。彼は、ヨーロッパのメガリスや、バミューダの謎の海域の位置などがこの計算によって割出せるといい、UFOの出現が網の交点に集中することから、UFOのエネルギー補給網の可能性を説いている。筆者はその計算式が未だによく分らないが、もしかしたら、例のライン群との一致が見出せるに違いないと思っている。そればかりでなく、八重垣の設計原図により近いものが期待できるだろう。

出雲八重垣がUFOのエネルギー補給網であるなら、宇宙人は地球を基地にする目的で事業をおこなっていたのかも知れない。だが、地球上の生命系を同時に安んずるなら、このような地球改造は一石二鳥以上の大事業であったことになる。そして、その一環として古代人の啓蒙をもおこなっていたのであろうか。

大昔、天は非常に低かったが、エジプトのシュー神はこれをもち上げて高くしたという。日本のククノチ、アマンジャク、ギリシャのチターンも類型である。これらは生命を育くむ星「地球」の改造事業を物語っているようだ。

古事記に書かれる限りでは、出雲八重垣なるエネルギー網は、地殻のエネルギーを柔らげるべく、須佐の男に象徴される宇宙人乃至は賢者が企画し、足名椎手名椎という優れた造成プロジェクトチームを古代人の間で組織して、八耳なるたくさんのマウンドを築いたというのである。

西日本各地に残る鬼の塚造り伝説は、この事実が素材になっていると考えられよう。

この事件は今から一万三千年も前のことである。それが今から二千年前の古代日本のれい明期の日本先住民族に縮図化されて反映している。縮図化された事件についてはまた三章で詳しくしょう。

(十)須 佐の男の命の系譜

須佐の男の命の系譜は原文、対訳ともに省略する。この節では須佐の男の大地の工作者としての後嗣を継いで、治山、灌漑、農耕に関した表現がおこなわれている。しかし、その表現は、意味不明なものが多く、書紀、風土記を参考にすべきものもある。また分るものについては、スサノプの系譜らしく、スケールの大きなものであることが理解できる。事業のジャンル別に次に解釈を施してみる。

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(治山)

オミヅヌの神  八束水臣津野(書紀) 各地からマウンド造りの材料となる土砂を運んできたプロジェクトのこと。特に平地を堀り起して後の農業用灌漑池としたので、水に関係した名がつき、山神、土木神であると共に農耕神の性格をもつ。

フノヅノ神  威力ある角型のマウンド、すなわちピラミッドもしくはそれを造ったプロジエクトのこと。

フテミミの神(太耳)  エネルギーを蓄えた巨大なマウンドもしくはそれを造ったプロジェクトのこと。エネルギー変換量は恐らく、マウンドの大きい方が多く、形は平山よりは方錘型の方が効率が良いのだろう。

(灌漑)

日河姫  川の水が干上っている様子を示す。

深淵のミヅヤレハナの神  深く水をたたえ、必要な時に放水する灌漑池すなわちダムである。

(農耕)

大年の神  長い年月をかけて植物が成育していくことを示す。

刺国大、刺国若姫  狭い耕地をしだいに開拓し広げていくことを示す。多い段々畑。

大国主の神、オホチムヂの神  広い農耕地を得た古代人を示す。

アシハラシコヲの神  地上(葦原)を(とり)仕切る力をもった古代人の形容。

ヤチホコの神  大量の銅鉾、銅剣のこと。時として戦闘用に、主として祭祀用に使われた。

ウツシクニタマの神  鋼鐸のこと。祭祀に使われた。「フテミミ」や「フノヅノ」がその形の中に込められている。

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超古代の志を縮図化した銅器

銅は古来より、物事を映す鏡と考えられた。銅鏡は、物の実像を映すものと、物の精神(理念)を映すものがあり、主として、後者の役割が大であった。

銅(器)のことを古代人は「ウツシ」と表現していただろう。その意味は「理念が反映して現実の姿を取ってあらわれたもの」であり、その指す対象は非常に広範囲かつ不特定である。たとえば「ウツシクニタマ」とは「大地の精神を反映した実物」であり、農耕民族そのもの(オホクニヌシ)をみたててあり、かつ(大地の工作者スサノプの造らせた)神体山をみたててあるわけで、それを縮図化した銅鐸が代表物として作られたのである。

また、オホクニヌシの別名、ヤチホコは確かに諸説でいうところの幾多の戦闘をあらわしている。だがそれがみたてられた仮物として銅鉾が造られているのである。この銅鉾は実際に斬り合いには使われず、祭器であった。

銅剣、銅鉾は、統治力の精神を反映するとされた。それを適当な土地に埋めて、平治、戦勝、豊穣の祈りを涌出するエネルギーに託すわけである。銅器は不可見な領域と古代人の精神をつなぐ「みたて」のシンボルであったのだ。そしてこの種の「みたて」がいかに理念の領域に影響をもつものであるかは、種々の瞑想学で取り沙汰されていることである。

銅鐸は農耕の原点である秀麗な山容を型取り、同時に既述の一定の機能を満たすべく設計された利器であった。そこに描かれる流水紋、渦水紋は、不可見なエネルギーの効果的な流れを意図するものであり、それが現象上の水の流れにみたてられ、どちらも共に重要視されたわけである。狩猟、農耕関連の図柄は、やはリエネルギーの流れに託して豊穣を祈願するものである。また、時折、男女二神が流水紋の起点に描かれているが、これは八重垣システムを見守るスサノヲ、櫛名田姫であると同時に、後述する大国主の命、スセリ姫でもある。そしてまた、水源の神としてもみたてられている。

銅器は以上のように超古代の表わし難い事実をなぞらえて表現する手段として古代人の間で用いられているいわば一種の縮図化された事物なのである。それは、ほとんどの場合祭祀という形態でのみ用いられた。その祭祀というのも、エネルギーをコントロールするという実際上の効果を併ったものである以上、この民族(弥生民族)にとって銅器信仰がすたれることはなかったはずである。

大国主の命に関する物語

前節のスサノヲの系譜のうち最後に登場する大国主の命に関する物語がここから始まる。大国主の命は、スサノヲの築いた偉業を引継ぎ農業を主軸として地上を支配していく新しい民族のことである。かつての大変災で人類は新規巻き直しをはからねばならなかった。今にいう旧石器時代をからくも演出していた人々の前に、かつてあつた知識のいく分かをもたらす賢者があらわれ、風俗を正し、秩序を与え、農業の仕方を教えた。それを忠実に守ったのが後の大国主となる民族ある。彼等は他部族との闘争や当時活発であった火山活動に苦労してとても伸長できない状態であったが、賢者が援助に訪れ火山鎮静の方法を教え、出雲八重垣を作らせた。これにより安定した基盤が保証され、また戦闘手段も確立し、こうして他の民族を撃ち払い征服し、大地の支配者と言われるに至ったのである。それは実に長い期間存続した。その間に国家の存続が危くなるつど宇宙から援助がさしのべられたからである。

この歴史的事実は今から一万一千年前~八千年前の出来事であると考えられる。(縮図化は紀元前数世紀から紀元二世紀頃にかけての日本史上の弥生時代にみられる)

(十一) 因幡の自兎 農耕民族の台頭

この物語はおなじみであり、原文、対訳、語訳を省略する。大国主の命には兄神が多く居たが、みな土地を大国主に譲っている。これは、農耕を始めたのが特定の部族だけで、外辺部族は個別に共同体を営む狩猟民であったことを示す。そして、これらをやがて統一するのが農耕民族であったというわけである。

兄神たちは、大国主を従僕として扱うが、大人しい農耕部族であればそれも仕方がない。やがて時が進めば、今度は迫害に変わってくるのであるが、それは大国主の力が増大したからと言えよう。

兎は地質の象徴である。当初、土地(兎)は火山など(鰐)によって痛められていた。そこに海水の侵入等があってそれが去った後には岩塩が吹出したりしていた。それが八十神に欺された兎で示されている。そこで、大国主は「蒲の花紛を敷く」に語られる有機的な土質改良方法を施したという過程が示されている。

「いなば」は「稲場」であり水田地帯のことである。また、「八上姫」は、多くの部族の頭という意味で、多数の部族が支配権を争ったことを示している。そしてその頭の位を得たのは、最終的に大国主であった。

(十二) きさ貝姫とうむ貝姫

農業を主体にする民族は同じ土地に定着し、やがて都市をつくり繁栄する。これに対し、狩猟民は定地をもたず、強力な共同体を作り難く、勢力的に劣勢に立たされる。このようにして、農耕民族が文明の主導権を握っていったことが前節には語られていた。この節は、それを受けて農耕民族を襲った幾多の試練について語る。

--------原文 きさ貝姫とうむ貝姫----------------------------------

かれここに八十神怒りて、オホチムヂの神を殺さむとあひ議りて、ハハキの国の手間の山本に至りていはく、「この山に赤猪あり、かれ我どち追ひ下しなば、汝待ち取れ。もし取らずは、かならず汝を殺さむ」といひて、火もちて猪に似たる大石を焼きて、転し落しき。ここに追ひ下し取る時に、すなはちその石に焼きつかえて死せたまひき。

ここにその御祖の命哭き患へて、天にまゐ上りて、神産業日の命に請したまふ時に、きさ貝姫とうむ貝姫とを遣りて、作り浩かさじめたまひき。ここにきさ貝姫きさげ集めて、うむ貝姫待ちうけて、母の乳汁と塗りしかば、麗しき男になりて出であるき。

農耕民族にふりかかった試練

「きさ貝」は「消・去・隠・火」、「うむ貝」は「生む隠火」で、農耕民族や農地の崩壊と再生を意味している。民族は他民族(八十神)との抗争で生滅をくり返し、また農地は火山の猛威に破壊され、再び築き直されたわけである。こうして幾度となく民族と土地の世代文替がなされたことを示す。

(十三) 根の堅州国 農耕民族への八重垣システム 運用法の伝授

八十神の大国主に対する迫害が繰り返されて彼の死と再生が繰り返される。御祖の神は、終いには大国主が滅ぼされてしまうことを按じて大国主にスサノヲの許に行くよう勧める。彼はその通りにして行ってみると、スサノヲの娘スセリ姫が応待し、スサノヲに報告する。スサノヲは彼を蛇の部屋やムカデの部屋に入れて彼を試練する。彼を慕う娘スセリ姫は試練を難なく済ますことができるように蛇のひれやムカデのひれを授ける。彼は、蛇などが害しようとすればそれを振って追い払い、無事難関をパスする。

その後もスサノヲは彼を焼き撃ちにかけたり、頭に巣喰うムカデを取らせようとした。だが、ネズミが安全なほら穴を教えたので焼き打ちを免れ、スセリ姫の策でムカデ取りを赤土の色でごまかしてすっかリスサノヲを信用させることに成功した。寝入ったすきに、大国主はスサノプの髪を部屋の柱や巨石にゆわえつけ、大神の所持する大刀弓矢などを奪って、スセリ姫と共に逃げていく。

気がついたスサノヲは黄泉比良坂(根の堅州国と現世の接点)まで追いかけるが、はるか遠くをすでに大国主は走っている。そこでかつてイザナギ、イザナミがやったように事戸を大国主に大声で言い渡す。その内容は、大刀や弓矢で八十神を撃退し、大国主の神(本当の国土支配者)としてスセリ姫を正妻にし自分にかわって宮殿を建てて国土経営をおこなうがいいというもので、やはり時代の接点を境にした理念の世代交替を示している。

こうして、大国主は八十神を打ち払って国土経営を始める。先の八上姫は正妻スセリ姫に遠慮して、生んだ子を木の俣にはさんで帰ってしまった。この子を御井の神という。以上ここまでがこの物語のあら筋である。

この章は八重垣による治山効果が発揮されるようになってから、スサノラから大国主へと国土支配権と八重垣システムの効果的運用法の伝授がなされたことを示す。ここでスセリビメとは火勢が収束する意味をもち、出来上った八重垣の一通りの効果が確かめられた頃あいを示している。

大国主とは、地上の支配者としての権利を得た古代人であり、ギリシャ神話ではクロノスに相当する伝説上の農耕民族である。彼に授けられた運用法とは、「蛇のヒレ」、「ムカデのヒレ」で表現されるもので、「蛇」は既出の火山のこと、「ムカデ」とは火山の断面図のマグマの有様の形容であり、どちらも火山活動に関連している。

この中で「ヒレ」とはひらひらする布のことであるが、実は既述したエネルギー発光現象のことなのである。これが盛んになることは、それだけ八重垣のエネルギー変換が能率良く進んでいることを示し、火山の動きも抑えられているわけである。ここでは大国主が効果的な祭祀の仕方、奥義といったものを伝授されたとすべきであろう。また、マグマをみたてた赤土を用いる呪術的方法も伝えられたようである。後世の埴輪は赤土に霊力が宿るとして盛んに製作されている。さらに、スサノヲはいくつかの試練を与え、火山活動そのものに古代人が慣むようにしむけ、引継ぎを果たすという筋書きとなっている。

さて、根の堅州国とは一体どこであろう。黄泉比良坂が出てくるので、黄泉の国と同じという説がある。古代人は確かに両者とも地底にあると考えていた。だがその原型は明らかに異なる。

後者は死者のなおかつ生存する次元的に地下の世界であり、前者は生者の隠れた世界である。つまり、根の堅州国こそ、真に地下の世界なのである。それは「ネズミ(根住み)」すなわち地下に住む者が、大国主を洞窟に導いたことにも表わされている。

そしてまた、スサノヲの住居が、マグマの間にあることなども示されている。(頭にムカデが巣喰っているのだから)現今の地底文明説も真実をうがっているように思われる。マヤ族が一瞬に消えた世界、ラマ教の僧院から通じるという世界、それらは同じ場所ではあるまいか。そこには人類の成りゆきを温情的に見守る聖者の住むシャンバラ伝説もあり、それこそかのスサノヲの居る根の堅州国に適わしいだろう。

また、御井の神とは、「三井」、「御井」といった地名の元になっている神である。それは川の二つの本流の合流点に栄えた古代都市国家を示すものと考えられる。そこは農耕の中心地でもあったし、全部族の頭(八上姫)の産んだものとして適わしい。

(十四) 大国主の神、大年の神の系譜――農耕文化 全盛時代の様相

この物語については、原文および対訳を省く。「大国主の神の系譜」の後に「少名毘古那の神」、「御諸の山の神」の物語が続き、その後に「大年の神の系譜」が語られるのであるが、この両系は農耕文化全盛時代の風俗、技術、栽培作物(あるいは政治)などを示すものであるため一括してとりあげ系譜で区分して諸神の解釈を施すことにする。

(十五)少名毘古那の神

大国主の時代に地球外知性が訪れ国造りの援助をして去っていったことを語る。

---------原文 少名毘古那の神-------------------------------

かれ大国主の神、出雲の御大の御前にいます時に、波の穂より天の輝身の船に乗りて、ヒムシの皮を内はぎにはぎて衣服にして、寄り来る神あり。ここにその名を問はせども答へず、また所従の神たちに問はせども、みな知らずとまをしき。ここにタニグク白してまをさく、「こはクエビコぞかならず知りたらむ」と白ししかば、すなはちクエビコを召して問ひたまふ時に答へて白さく、「ここは神産業日の神の御子スクナビコナの神なり」と白しき。

かれここに神産業日御祖の命に白し上げしかば、「こはまことに我が子なり。子の中に、我が手俣より漏きし子なり。かれ汝アシハラシコヲの命と兄弟となりて、その国作り堅めよ」とのりたまひき。かれそれより、オホチムヂとスクナビコナと二柱の神相並びて、この国作り堅めたまひき。然ありて後には、そのスクナビコナの神は、常世の国に渡りましき。かれそのスクナビコナの神を顕し白しし、いはゆるクエビコは、今には山田のソホドといふものなり。この神は、足は歩かねども、天の下の事をことごとに知れる神なり。

農耕文化時代の宇宙からの援助

スサノヲより国造りの手ほどきを受けてから後も他系世界から協力の手がさしのべられた。

スクナビコナは、天のカガミ船すなわち光輝やく船でやってきたということと、蛾の皮を思わせる衣服を着ており、背丈が小さかったという姿からスサノラとはまた違うタイプの宇宙人であったと考えられる。名を問うて答えられなかったのは言語の違いによるのだろう。そこでタニグク(谷潜)という峡谷に住む知識者に問うたところ、クエビコ(朽壊日子)なら知っているという。これはやはり老境の賢者であろう。恐らく古い過去の知識を扱い、長い歴史の変転を知っていた者と思われる。彼は友好を示して来た宇宙人と農耕民族の橋渡しをしたことになった。

ここでいう「神産巣日」は地上からみると隠れた世界である宇宙文明を示し、スクナビコナはその一組織であることを物語っている。そしてしばらく協同作業をして、役割が終ると、彼は再び宇宙(常世の国)に帰っていったというのである。

この結果、前述の「大年の神の系譜」にあるように、霊妙な科学のもとに堅固な知恵の統治体制が確立したわけである。

(十六) 御諸の山の神

この節では、少那毘古の去った後、また別の地球外知性が訪れ、八重垣システムの効果的利用法を教え、地上民族だけで独立して国土経営ができるように図らったことを物語る。

--------原文 御諸の山の神-------------------------------------

ここに大国主の神愁へて告りたまはく、「吾ひとりして、いかにかもよくこの国をえ作らむ。

いづれの神とともに、吾はよくこの国を作らむ」とのりたまひき。この時に海をてらして寄り来る神あり。その神ののりたまはく、「我が前をよく治めば、吾よくともどもに作り成さむ。

もし然あらずは、国成り難けむ」とのりたまひき。ここに大国主の神まをしたまはく、「然らば治めまつらむ状はいかに」とまをしたまひしかば答へてのりたまはく、「吾をば倭の青垣の東の山の上に斎きまつれ」とのりたまひき。こは御諸の山の上にます神なり。

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「祭り事」の本義を教えた宇宙人

地球上は厳しい自然環境であるために、知識は容易に風化していくのであろう。再び国土経営に陰りがみえはじめた時、宇宙から再び使者が来た。それは、かつてスサノヲが築かせた八重垣システムを再認識させるための役割をもった宇宙人であったようである。

かつての大国主へのシステム運用法の伝授は、ただ火山活動の鎮静に関するものであった。その時は火山の鎮静が当面の課題であったからであるが、すでに安定期を迎え、多くの耕地が得ら

れている時となっては、第二の運用法というべきものの方が望まれたわけである。

既に述べたように、不可見な八重垣エネルギーはUFOのエネルギー補給に用いられるばかりか、自然界の多くの生命が利用している。その中でも最大のものは人類であり、彼等のもつ意思力によって有効な用いられ方をしなくてはならない。このエネルギーは意思力に感応して容易に具体的力をもつに至る。この宇宙人はそのことを教えるために、自ら御諸の山に鎮座し、システムの動作が祈り(祭ること)によって補完されることを示したのである。

人々が御諸の山に託して鎮護国家や豊穣を祈れば、エネルギーはその具体化を目指して働いていくという訳である。御諸の山は既に述べたように三輪山という特定した山ではない。それは津々浦々にある秀麗なマウンド(神体山)のことである。

この時代は、次から次と宇宙から具体的な援助がもたらされ、良い知識が導入された。それも当時の古代人にとって適わしい農耕を主体にした素朴な知的介入であった。このような形で安定期を迎えた大国主の時代は人類の黄金時代と称されても不足は無いだろう。スサノヲによるマウンド造りが今から一万三千年前、引継いだ大国主の時代が一万一千年前~八千年前と考えられる。

古代日本における大国主の時代の縮図化

筆者は、明確な年代を申し上げたが、これは地球史の大枠で申し上げるものである。ところで、紀元前数世紀から後数世紀の日本古代史にも今までみてきた大国主の文化が適用できる。すなわち弥生時代と呼ばれた頃であり、銅器が使われた。また世界の有史以降を考えても、オリエント時代から農耕文化があり銅器が用いられている。

こうすると、何も超古代に神話の起源を持っていかなくとも良いと思われるかも知れない。確かに神話は部分的にその傾向がある。そのかわり、スサノヲも、これから出てくる天つ神も、多少意味あいの異ったものとなってくる。これは、古事記がどうにでも解釈できることを言っているということではない。既に言明したように、神話は理念の世界の出来事を示すという特殊な事情によるからである。

理念はやがて具体化するが、形になる前には気配として存在し、形造られたものに対してはその成りゆきの秩序的順序を与える演算子として作用する。理念は一種のプログラムであり、最も根元的な理念は単に「こうなる」という概念的なものであったものが、何段階かブレークダウンしてその際に様々な条件要素が付加されて「〇〇を用いてAとなる」といった、より具体的な理念として、現象となる直前には有りえているのである。

この際の「こうなる」という理念を発動するためには、その前提的な手続きをふまえておかなくてはならず、たとえば大国主の素朴な文化が再現されるなら、前提的にスサノヲの介入に相当する手続がをふまれなくてはならないのである。人がよく独りでにおこなう「ツキを呼ぶ」行為も同じようなことであり、人が経験的に見出した幸運という理念を発動させるための前提的手続きであると考えられる。

このような理念発動のパターンは、かなり定式化しているのだろう。考えようによってはおぞましいカルマとも言える。しかし、識者は逆にこれを利用して、自らの有利なように物事を展開するのであろう。孫子の兵法などは、まさにこの理念を把んだ理論ではないか。また、一部の予言者は、理念の登場順序を知っていて、現在の時の流れの中に兆候を見出し次の現象を予告するのであろう。現象は様々な要素が重畳して理解が難しくなっている。しかし注意深くこれを分解すればある決まった定型パターンが時間や空間の尺度を異にしつつ複雑に組み合わさっていることに気付くのではないか。これを筆者は「理念の要素に対する演算子効果」と名けて、後述する宇宙構造モデルにも採用している。

さて、こういうことから、地球史のレベルの展開もそれを構成する時間的にも空間的にも局部的な歴史の中に同じような展開が含まれていると考えられるわけである。特に日本古代史については、日本という局限の中で「歴史の縮図的相似効果」がありえている。それが神話の中に採り入れられた形跡も無くはない。たとえば、銅鐸を示すウツシクニタマなどは弥生時代にのみユニークなものであろう。ヤチホコなどは超古代にも何らかの形で登場しているはずである。神話は理念をとらえるものである以上、相似的な流れの中の素材が採り入れられていても仕方のないことであろう。

【天照らす大御神と大国主の神】

ここからは宇宙からの介入も侵略的かつ組織的な色彩を帯びてくる。その介入の仕方も非常に巧妙になっているので最も注意を要するところである。原文は長文に及ぶので省き、筋書きの説明を詳細に施していくことにする。

(十七) 天若日子  宇宙からの侵略的介入(懐柔策)

この節から、突然天神系を主体にした歴史のなりゆきの説明になる。まず、天照らす大御神は実り豊かな農耕文化を築いている地上に全知識の体系を示す御子マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミを降そうとする。ところが、天の浮橋から地上の風俗を眺めると、非常に騒がしかったので、降りるわけにはいかなかった。そこで、タカミムスビの神がアマテラスの意向を何とか実現しようとして、八百萬の神に思ひ金(コンピューター)をまじえて協議して、地上の風俗を柔らげるためにまずアメノホヒの神を平定のために遣わすことにした。

アメノオシホミミとは、既に述べたように「全分野の最高の知識の体系」のことであり、古代世界共通の「知恵の木」でシンボライズされる神聖な知識体系のことである。天の浮橋は、理念の存在する超空間であり、単に宇宙から降りてくると考えるのは誤りである。これは後程、ニニギの命のところで詳述する。ここまでで重要なのは、地上の生活が荒れていたために所期の最高学問の地上世界確立がすぐには実現できず準備期間が必要となったことを示していることである。

ところが、文明開花の意味をもつアメノホヒ(初火)は大国主の許で帰化してしまった。仕方なく、タカミムスビは再びコンピューターに議って今度は天と地の両方の事に精通した宇宙文明の中でも若輩のユニット(アマツクニタマの子アメワカヒコ)にミサイル(アメノハハヤ)などを含む強力な兵器を併わせて送り込むことを決定した。これは恐らくそれまでに地上が啓蒙されて相当な武力を持つに至っていたからであろう。だがこのユニットは、大国主の娘シタテルヒメと結婚し、地上を自分のものにしようとして、やはり帰化してしまった。ここでシタテルヒメとは、準備段階を示している。

今度は、アマテラスがどうなっているのかを調べるために、やはリコンピューターに議って、キギシナナキメに注告の言葉をそえて送る。だが地上社会も体制が確立しており、様々な逆調査がなされた結果、宇宙文明の直轄支配の意図を察知し、地上政府はこれをミサイル攻撃した。これは、一大戦争の発端である。キギシナナキメの攻撃されたことを知った宇宙文明(タカギの神)は、アメワカヒコの地上勢力に報復攻撃をして禍根を絶ったのである。

懐柔策は裏切り(帰化)によって失敗

既に述べたように、インドの叙事詩ラーマヤーナにはラーマのシータ姫奪回の物語で核弾頭ミサイル使用の描写がある。伝説では、この武器は天空の住民から与えられたものとされている。

また、旧約聖書のソドムとゴモラの話はやはり核兵器使用であり、この場合は腐敗怠落した都市人民に対し神が怒っておこなわれている。これらいづれも宇宙文明のした行為の正統化がなされたものである。前者は、文明の利器の偉大さに力を入れ、そのような兵器を英雄伝説に合一させている。後者は神への長敬と神に忠実でない者に対する戒めに力点を置いている。古事記の場合はこの両方の要素に加え先制攻撃に対する報復(還り矢)も語られているだけに裏の事情に詳しいと言える。いづれにしても宇宙からの支配権をめぐる干渉を語っているに変りなく、同一事件が様々な伝承に変化していると考えられる。

また、ここで夕カミムスビはタカギの神と名を変えて、あらわす実体の内容を刷新している。

ここでは「現象展開の超空間コンピューター」ではなく宇宙文明の組織体制を意味している。これより前「少名毘古那の神」のときに出てきたカミムスビもタカミムスビと陰陽の性格の差こそあれ、同じものを意味している。つまり、スクナビコナもアメワカヒコもその組織から派遣されたユニットなのである。カミムスビは保守的、温情的な性質をもちタカミムスビは進歩的、攻撃的な性質をもつ。これはちょうどギリシャ神話のクロノスとゼウスに相当する。これは、主導的方針あるいは思想の変化が宇宙文明にあったことを物語るのだろうか。

大義を生かすために小義を犠牲にする

物語ではこの後、死んだアメヮヵヒコのために同族の宇宙人達は組織を挙げて喪屋を営み長い間なげき悲しんだが、その葬儀の場に容姿がアメワカヒコに似たアヂシキタカヒコネ(前出のアヂスキタカヒコネとは、「鋤き」と「敷き」の違いのあることに注意。この場合、他・地・征伐を意味する)がやって来たので、家族はまだ彼が生きているものと錯覚する。これにアヂシキタカヒコネは非常に腹を立て、「汚れた死人と一緒にするな」と言って、オホバカリ(大量)という大刀で喪屋を切り伏せてしまった。

この部分は非常に教訓めいているし、宇宙文明の組織内部の裏話も秘められている。つまり、帰化と征服もしくは懐柔と侵略は根本的に似て非なることを述べようとしたのである。それは地上においても複雑な原因で成りゆきが紛糾しがちになるのは歴史の通例でもある。それは宇宙文明の組織内部でもよく意趣の伝わらなかったことであろうと思われる。これゆえ、「大量」の意味する「より大きな計画」をここで示す必要があったというわけである。つまり、宇宙文明の方針に変化は特に無く、時に従い様々な方便がありえていたというわけである。

ここまで世の歴史を深く取材できた者とは、かの海洋民族であったと言えるのであろうか。とにかく、連綿とした時代において常に体制に随伴しながら知識の収集に努めてきた一つの役割があったと言えよう。

(十八) 国譲り 地上の支配権の委譲

一部的な宇宙人が入れ知恵した地上の文明も、それまで平静であった宇宙文明も、アメワカヒコの戦争が発端となり急展開することになる。いよいよ強制的に地上を開け渡すべく大国主に対し威嚇するわけである。アマテラスは、またコンピューター(思ひ金)に議って、戦略兵器の第一候補として強力なビームによる封じ込め兵器(イツノヲハバリ(力・波・張))、そして第二候補としての核爆弾(タケミカヅチノヲ(猛・輝・雷・力))を用意した。

だが、ここで採られたのは後者の核兵器であった。これは、「天の鳥船」なる飛行艇で運ばれ、地上世界のとある沿岸(出雲の国のイザサの小浜)で落された。その様子は、「十掬の剣を抜き逆に刺し立ててその剣の先にあぐらをかいた」格好であったという(図2 ・19)それはまぎれもなく核爆発のキノコ雲の状態の形容である。キノコ雲に別の言い方をすればこんな風な表現になるだろう。

その様はまるで核爆発のようだ
先の広島、長崎が預言されていたのだろうか?

この威嚇で、大国主は無条件降伏する。

ただし、「八重事代主」に示される政府と、タケミナカタ(建・水・堅)に示される強力な海軍がまだ残っていた。飛行艇を遣って威かくすると前者は降参したが、後者は抵抗を試みたので、それで再攻撃して敗退させてしまったという筋書きである。

こうして、大国主たちは天つ神に降伏したが、国譲りのとき、住み家だけは天神と同等の格式のものを要求する。国神を介することにより、国土は天神の方針どおりに動くであろうことを言っているのである。これはいかに地上を治めることが難しいかを物語り、長年の実績をふまえた者でなくてはやれないためにこのような取引きに及んだものだろう。その難かしさの第一は人類意識の調御の難しさである。人間の個々は必ずその意識の中に固くなな獣性を持っているし、人間の構造自体、地球のそれとかなり類似しているからである。たとえば背柱下の蛇クンダリーニは火山エネルギーから生まれた八重垣エネルギーと相似のものであり、この利用の仕方によっては天にも黄泉にもなるからである。そして第二は出雲八重垣とその守護神スサノヲのことがあろう。大国主の仲介で八重垣は正常な動作が保て、宇宙船のエネルギー基地たりえるからである。

さて、こうして、様々な方法で国神が支援する形で天神の直轄統治が可能になったわけである。

(十九) 天孫降臨(その一) 地球人類を媒介する 天神系理念の降臨

こうして地上は平定され、宇宙文明は所期の最高の知識体系を地上にもたらそうと予定した。

ところがまたまた予定が変わりその分子ともいうべき(アメノオシホミミの子)、アメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギの命(単にニニギの命という)に示される「文化の華美さ、にぎやかさ、便利さ」などがもたらされることになった。これはオシホミミの中の部分的な知識の産物による物質文化的な充足であり、全体ではない。また、同時に、ヨロズハタトヨアキツシ(萬機豊倦きつし)姫の意味する「全ての産業分野の繁栄」の子でもあり、アメノホアカリ(知的文化)と兄弟でもある。

こうして、物質文化がいつの時も先行してしまうのである。既にみた、イザナミ先行型の展開と全く類似している。そして上つ巻のどこをつついてみても所期の精神文化を含むアメノオシホミミの天降を書いた一節は見あたらない。つまり、予定されてはいたが実現されていないのである。

さて、ニニギの命が降りようとする時に、天のヤチマタにあって、率先して迎えようと商人的な立ちまわりをみせる「猿田彦」に示される国、乃至は民族があった。彼は非常に高い知識をもち、宇宙文明と地上の双方の事情に精通していたので、ワンクッションおいて穏便な導入の手助けとして用いられることになった。このサルタヒコについては次節で詳しくする。

--------原文 天孫降臨(その二)--------------------------------------

ここに天の児屋の命、フトダマの命、天の宇受女の命、イシコリドメの命、玉の祖の命、併せて五伴の緒をあがち加へて、天降らしめたまひき。ここにその招ぎしヤサカノマガタマ、鏡、また草薙の剣、また常世の思ひ金の神、手力男の神、天の岩戸別の神を副へたまひてのりたまはくは、「これの鏡はもは我が御魂として、吾が御前を拝くがごといつきまつれ。次に思ひ金の神は、前の事を取りもちて、政まをしたまへ」とのりたまひき。この二柱の神は、折く釧五十鈴の宮に拝き祭る。次に豊受の神、こは外つ宮の渡らひにます神なり。次に天の岩戸別の神、またの名は櫛石窓の神といひ、またの名は豊石窓の神といふ。この神は御門の神なり。次に手力男の神は、佐那の県にませり。

かれその天の児屋の命は、中臣の連等が祖。フトダマの命は、忌部の首等が祖。天の宇受女の命は、猿女の君等が祖。イシコリドメの命は、鏡作の連等が祖。玉の祖の命は、玉の祖の連等が祖なり。

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文明の利器の移殖

こうして、地上に基地が置かれ(アメノコヤネ)、各種電子機器(フトダマ)、エネルギー発生器(アメノウズメ)、精錬設備(イシコリドメ)、UFO母船(玉の祖)とそれに関係する五つの技術者集団(五伴の緒)が降された。次に、既に述べた時空飛躍のメイン動力(ヤサカノマガタマ)、表示装置(カガミ、つまり輝く身)レーザー装置(クサナギの剣、つまり、整流(コヒーレント)された剣)、コンピューター(オモヒガネ)、土木加工機械(タデカラヲ)、通信機器(アメノイハトワケ)が送り込まれた。

この中で、コンピューターとそれと連動する表示装置は、宇宙文明の系内に張りめぐらされたコンピューターネットワーク(折く釧五十鈴の宮)の一つの構成要素として組み込まれており、宇宙から司令が送られてくるようになっていた。またトユウケ(豊受)に示される情報収集システムがこのコンピューターヘの情報入力になっていた。そして、コンピューターとディスプレイは特別なマシンルーム(内宮)に入れられ、入カシステムは外の部屋(外宮)に出された。

古事記の神話は未来知識の詰め込まれた宝箱だったのだ

これはちょうど現在の大型計算機センターさながらである。マシンルームは通常機密保護のため部外者立入禁止で、建屋の中央に置かれ、外部からタイムシェアリングやリモートバッチで情報を処理できるようにしてあるのが普通である。このようなものが、より広域なネットワークとして通信回線を介して結びつけられているものが七千年前に存在したのである。

次にクシイハマド(霊し言は窓)は霊妙な言語を話すボックスのことであり、恐らく、コンピューターでしか分らないコード化データーを扱う出力装置のことである。このようなものがトヨイハマドに示すように多種多様にあるというのである。またこれは、通常会話による通信機、ラジオ、テレビ、電話などと考えてもよい。というのは、「御門」すなわち対面の場で用いられるからである。

これはまさに、現代の情報化社会の有様とほぼ一致するのである。また、古代皇室が知識の存続保全に情報工学的手段を用いていたことは、知識そのものが内包する奥義だけに本当のことなのである。

この時代は宇宙文明の積極的介入によって地球上は驚くべき発展を遂げた。世界各地に様々なパターンの基地が設けられた。その意義は一重に地上への天神系理念の委嘱にあった。宇宙人の目的は忽論別にあったかも知れない。例えば遠隔地への旅行の際のエネルギー補給基地としたり、地球人類を宇宙文明の傘下に加えたりである。だがそれも、より高次元な宇宙の大目的に沿っておこなわれたことは確かであろう。このため、ややあって後、(後述するが)完全に高文明の顕わしが終った時点で基地は全て撤去され、高文明の中心的国家は壊滅の憂き目をみ、宇宙文明は手を引いて終い、再び来ることはなかった。

豪族は知識伝承を分担して受け持っていた

さて、これら各種の重要機材は飛鳥奈良時代の有力豪族の先祖となっている。もしかすると、はるか七・八千年も昔からこのような専門職の世襲がおこなわれていたのかも知れない。例えば中臣氏は社殿造営に携わった(基地建設の形を変えたもの)家柄であり、忌部氏は祭器の前で祈祷をする家柄(機械操作の模倣?)、猿女氏は舞踊(力場の回転の模倣?)、鏡作氏は銅器の鋳造などそれぞれもとあった役割を反映して伝えているらしいのである。

だが、家柄がずっと続いていたとするのはおかしい。そこまで強い役割があるなら大化の改新以降の動乱(武士の時代も含めて)に、より強い結束がありえたであろう。やはり、知識存続の役割意識を介して皇室との結びつきを深める手段であり、知識の内容をより正確に伝えるために擬態模倣がおこなわれていたと考えられるのである。

これも、いづれ知識が再現されたときに戸惑わないために伝承していたのだとすれば何と驚くべき役割の系譜ではあるまいか。

--------原文 天孫降臨(その三)-----------------------------------

かれここにアメノヒコホノニニギの命、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、イツの道分き道分きて、天の浮橋に、浮きじまり、そりたたして、筑紫の日向の高千穂の霊じふる岳に天降りましき。

かれここにアメノオシヒの命アマツクメの命二人、アメノイハユキを取り負ひ、頭椎の大刀をとり侃き、アメノハジユミを取り持ち、アメノマカゴヤを手挨み、御前に立ちて仕べまつりき。かれそのアメノオシヒの命、こは大伴の連等が祖。アマツクメの命、こは久米の直等が祖なり。

ここにのりたまはく、「此地は韓国に向ひ笠紗の御前にま来通りて、朝日の直射す国、夕日の日照る国なり。かれここぞいとよきところ」とのりたまひて、底つ石根に宮柱太しり、高天の原に氷橡高しりてましましき。

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二二ギ降臨譚は高次元アカシャの下降過程を語る

次に、実際にニニギの命の降りてくる有様が語られる。この道筋の叙述は実に含蓄が多く、宇宙構造に決定的な手懸りを与えるものである。

アメノイハクラ(言は座)とは言語の座、すなわち、アカシックレコードのプログラムの存在領域なのである。始めアカシックプログラムの中に在った華美で便利な技術知識は、ヤヘタナグモに示される多階層の次元のプリズムを経て、屈曲が加わりつつも、天神の命を受けた強力な理念なのでイツノチワキチワキに示される物すごい勢いで降りてきて、一担、アメノウキハシに示される地上との間の暫定的なイデアの超空間に滞留する。それは、「そり立たして」にあるように一群の知識体系として確立されており、そこから末端にある(ツクシ(尽くし))この知識に指向した(ヒムカ)現実にあるたくさんの勢いのよい念の炎を上げる(タカチホ)人間の大脳(クジフルタケ)に精神感応的に降臨したというのである。

この過程はT ・ベアデンに言わせれば、キンドリング(精神物体の漸時凝集)であり、拙モデルで言えば、階層構造的なプログラム実行のブレークダウンのことである。原型となる総元締のアカシャがあり、それをブレークダウンしたタイプのアカシャもある。そして末端的に現象がありえているというわけである。

我々のレベルで言えば、誰でもごく自然に考え、それに応じて新たな発想が閃きとして得られているが、実にそのことをここでは述べているのである。これは、我々が大脳の中で過去の記憶などをたどりながらその中だけでクローズして創作したことが必ずしも次の発想をもたらすのではないことを意味している。確かに新たな発想あるいは発見につながる閃きといったものは、非常に大量の情報であることを誰でも経験している。最近の科学では大脳を左右半球に分け、右脳で抽象思考、パターン思考がなされているのだとしているが、なぜ抽象的にしか情報が扱えないのかにまで解答が及んでいない。この解答は、発想をもたらす情報は非常に高次元であるからで、現実の次元ではこれをまとめて解析することができないことがあげられるだろう。多くの人は高度のことを思いつくが、それが一体何であったかを次の瞬間に思い出せないので、なかなか実らない。そしてその情報を我々の次元の言葉に直すことも大相骨の折れることであり、このような過程で多くの重要な情報が損われているのである。

また、閃いても置き替えるための言葉(物理学知識や天文知識等)や道具をもたないために個人の中で悟り気分で終らせてしまうものもある。我々の一生は無形の実在を具体的にするためにあり、この道具あるいは言語取得のために勉強すると言っても過言ではない。古事記では、人間の目的はあくまでも無形の理念を世に産み出すための分子たることにあると言明しているのである。これはその他の古代思想とて神との対比において同様のことを言っている。そして、古事記をはじめ、種々の古代哲学は、このような無形な情報が交錯している領域のあることを語っている。特に古事記では、その領域すら順次ブレークダウンしていく仕組みになっていることを、川の流れ、下降する道路などの擬態暗示を使ってあらわしているのである。

ニニギの命の出立した「磐座」とは、古神道の信仰形態からすると、荒御魂の主座なのであり、ここから空間的に下位の位置関係で化御魂、和御魂の座が置かれるのが普通である。これは「奥つ」、「中つ」「辺つ」の様式とも対応がとれていて、神体山と神体山、神体山と神社、神社と神社、の格調的関係が成り立ち、その様はちょうど階層的なネットワーク構造の空間配置をしているのである。(三章五節で詳しくする)

ひと(日戸)は理念具体化の窓口

ニニギの命も宇宙人ではないかと思われるかも知れないが、ここではアカシャの理念である。

ニニギの命の下に様々な文明の利器がぶらさがっているのである。ここでは、ニニギの理念が場合によっては宇宙人という直接媒介を通して天降ることもあることを語っている。つまり、古事記の神話の中では、全てが理念の相互作用として扱われているのであり、媒介の分子たる人間は宇宙人であれ地球人であれ何でもよく、前面には出てこないのである。「華美さ」という形態すら、仮定のものであり、それが同じ機能を満たすなら、他の何と置き替わっても構わないのである。

ここに理念というものの奇妙さがある。それは一種の演算子であって具体物がどのようなものであっても、所期の目的通り運行させようとする潜在意識的な働きかけなのである。ある者はこれをサタンと言い(人によっては自分を中心にして都合の悪いもののみをそう言う)、あるいは蛇(業、カルマ)と言い、あるいは憑依霊と言う。これらすべて、理念の末端的なものと相互作用した分子(人間)が場合に応じて抱く感想ではないだろうか。

結局、ニニギの命はイデアの領域でまとまった知識の体系を留め、ある決まった方向に投射するのみである。この方向は、三・(九)節で既にみてきたように、有形世界の空間にみたてれば、入射角度四十九度三十分になるというのである。それは特定の思考形態に応じた超空間幾何学が基礎にあるわけであろう。古代人はその原理を伝えるために地理的模倣をして、その拠点に適わしい名前をつけたのである。

天降した「思ひ金」、「櫛石窓」等の文明の利器も、むしろこのようにして開発されたとするのが本当かも知れない。そうすると、宇宙文明の意味が薄れてしまうように思われるかも知れないが、決してそうではない。地球上の人類は天神系と国神系の双方から意識的な制御を受けていることは否めないのである。しかも宇宙文明の方は積極的な精神感応という高等技術を用いて働きかけている可能性もある。それを人類は一向に気付かず自分達だけで発明したように思い込んでいるだけなのかも知れない。

さて、そのような中にアメノオシヒの示す「知識の普及、推進」がおこなわれ、アマツクメの示す「終局への道案内」のもとに、アメノイハユキ、クブツチノタチ、アメノハジユミ、アメノマカゴヤなどの「兵器類」が登場してくるのである。

(二十) 猿女の君

高文明の華が開いた国家の事故による滅亡を語る。

---------原文 猿女の君-----------------------------------------

かれここにアメノウズメの命にのりたまはく、「この御前に立ちて仕へまつれる猿田彦の大神は、もはら顕し申せる汝送りまつれ。またその神の御名は、汝負ひて仕へまつれ」とのりたまひき。ここを以ちて猿女の君等、その猿田彦の男神の名を負ひて、女を猿女の君と呼ぶことこれなり。かれその猿田彦の神、アザカに坐しし時に、漁して比良夫貝にその手をくひあはさへて海水に溺れたまひき。かれその底に沈み居たまふ時の名を、底どく御魂といひ、その海水のつぶたつ時の名を、つぶ立つ御魂といひ、その沫咲く時の名を、あわ咲く御魂といふ。……後略……

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一大高文明国家第二次アトランティス文明の減亡

積極的に高文明を志向した「猿田彦」は「去る田」あるいは「狭・転・田」であり、失地した者をあらわす。この節では、彼は高文明導入の役目が終ったので、天命により抹殺されることになる。その後を担ったのが、アメノウズメ、すなわち、エネルギーの渦であり、具体的ななりゆきが、「アザカに坐しし時に……あわ咲く御魂という」に語られている。アザカはヒラサカと同様ある種の境界点であり、すなわち、ある種の終末的時期にさしかかった頃の日々のなりわいにあるとき、「ひらぶ貝」で示される平定の業火により土地が海中に引き込まれて没し去ったのである。

これは再び、伝説上の大陸アトランティス大陸の沈没を物語るようである。かつて天体の落下により破壊を受け海没したが、無事残存した土地で、やはり温暖なメキシコ湾流に守られて、この時代においても繁栄した文明を形成していたわけであろう。民族性を重んじ、積極的に宇宙文明と接触し、地球上の他民族より優位を勝ち取ろうとした国家であり、既に述べた八十神を撃退し、宇宙の知恵をあてにした「大国主」の事績と重畳するようである。その実、伝説ではアトランティスは海外に多くの植民地を持っていたといい、ェドガー・ヶlシーの過去透視によるとアトランティスは数千年の間に数回に分けて水没したという。そしてその最後の時には、文明が高度に進み、開発された磁気装置の操作上の誤りにより巨大なエネルギーが地殻に作用して異変をもたらしたというのである。

これはまさに「天の岩戸」の時空ジャンプシステムであるアメノウズメの誤用による事件であることを物語っているようである。これにより、アトランティスは地下の火を誘起して海中に没し去ったのではあるまいか。

こうして、アメノウズメはサルメ(去る目)の君、すなわち消失を起す目型(のエネルギーバリヤー)と呼ばれるようになったが、この地域は今でもサルメの現象を起すので魔のバミューダ海域として恐れられている。猿女氏の舞楽のわざの中には、この時の大陸が惨禍の中に壊滅していく様子が伝えられていると考えられる。

それは、後述する「海幸彦」の水難が隼人の乱舞して宮仕えする起源であるとするのと相通ずる。さて、この事件は今から七千年前の出来事と考えられる。

(二十 一)木の花の咲くや姫  華美で実のない高 文明は結局短命に終る

ニニギの命は、笠紗の岬で「木の花の咲くや姫」に出会い求婚する。だが彼女には姉「石長姫」があり、一存では決められないので、父「大山津見」に話してくれという。そこでそのようにすると、「大山津見」は、非常に喜んで「石長姫」も副えて嫁にさし出した。ところが、ニニギの命は、醜さのゆえ姉姫を返してしまった。そこで父「大山津見」は非常に残念がって、姉妹相並べて差し出した理由を次のように説明した。

すなわち、「石長姫」により天神の子孫の命(理念)が磐石の如く寿命の長いものになり、かつ、「木の花の咲くや姫」により華美な木の花のように栄えるものになる。こう考えて差し出したのに、「咲くや姫」だけを留められたのでは、天神系の理念は木の花が開花し散るごとく短命なものになりましょうと。

既にみてきた高度な文明が爆発的に開花して、急速に散っていく事実を理念の領域で象徴的に捉えているのである。つまり、ニニギの命のもたらした華美な文明は残念ながら長続きせず、「猿田彦」の海没でみたように理念の現実への顕わしが急激に終ってしまえば、何らかの形態で現実ともども衰滅していくということなのである。また、加えて、華美だけを尊び堅実を採らぬ発展は一般的に長続きしないことを掛けて示している。これは古代歴帝の施策に強く反映されており教訓として用いられた部分であろうと思われる。そして、華美さが目立ってきた飛鳥時代から天皇の力は弱まりをみせ、まさに予言通りとなっている。

なお、「木の花の咲くや姫」の別名は「カムアタツ姫」であるが、これは文明の殿堂を示す。

また、「石長姫」は岩のようにしっかりしている意味と、「言は長」すなわち物を言う期間(プログラム)が長いことを掛けて示している。

現代文明はこの物語の類例であり気をつけねばならない

ニニギ文化は既述したイザナミ文化に類似していることは否めない。そして現代もそれに酷似していることも否めない。古事記の物語は重畳して現代の世相を預言しているとも言える。だが、それは既にあった歴史があたかも性癖のようにして我々の時代に及んでいるからであることは既に述べた。古代の予言者、知識者は、時の兆候を観る術を心得ていたが、超古代からの伝承をヒントにしているのであろう。

歴史の終末を根拠づける「時の兆候」とは、前節で述べたコンピューターなどの文明の利器や兵器類がにぎにぎしぐ登場してくることにみられ、終局の到来は、それらが一通り出揃ったか否か(顕わし終えたか否か)で判別されるのである。文明の流れを加速し、いたづらに終局の到来を早めようとする悪魔的な存在に我々は気をつけねばならない。彼等は現代のような高文明を好ましいものとして印象付け、より高度な発展を正統化しようとするだろう。そして、いざ人類が危機感をつのらせた時、新時代の輝かしい未来を吹聴して麻酔にかける術も心得ていることに注意しなくてはならない。

華美な高度文明は短命

我々はいま少し時間に余裕があれば、アメノオシホミミの降臨を待つことができようし、黄泉の段階に入る前にイザナギの救援を期待できよう“だがそれは未到来のことであるし、具体的なビジョンを知らない。だが、 一度終局すれば、非常に多大な労力と時間をかけて、ここまでにしなくてはならない。まず最初の千年は旧石器時代を演じ、次の二千年で宇宙文明の手を汚しつつ基盤造りをしなくてはならない。この時点で国づくりがうまくいけば宇宙文明が全面的に委嘱されて理想世界が実現する。それが思わしくなければさらに三千年の有史とされる曲折の過程を経て、現代的な姿にまで高められなくてはならない。そこで失敗すればまた一からやり直しである。

そのようなことを繰り返させまいと、古代の賢者がまとめてきた事の真相を改めて早急に公表しなくてはならないことを痛感するのである。

アメノオシホミミもイザナギも全て人類自らの手で到来させなくては誰もやってくれようがない。それらの理想的な理念を我々の手で発動させ大いにキンドリングさせねばならないのである。

民衆の正義の抵抗と、理念界を清浄にし、理想的理念を天降らしめる「祈り」を以てせねば終局は避けられないものとなるだろう。(ファチマの予言より)

さて、山の神である「大山津見」がこの節から始めて威信回復をみせた。それは、 一般的に優位とされた天神系の本質を暴露した今、好位置で陽の当らなかった存在を浮上させているのである。「少那毘古那」の節でもみてきたように、険しい峡谷や山岳の住人は普段消極的な賢者を示していた。

---------原文 木の花の咲くや姫(後半)----------------------------------

かれ後に木の花の咲くや姫、まゐ出て白さく、「妾は妊みて、今産む時になりぬ。こは天つ神の御子、ひそかに産みまつるべきにあらず。かれまをす」とまをしたまひき。ここにのりたまはく、「咲くや姫、 一宿にや妊める。こは我が子にあらじ。かならず国つ神の子にあらむ」とのりたまひき。ここに答へ白さく「吾が妊める子、もし国つ神の子ならば、産む時幸くあらじ。もし天つ神の御子にまさば、幸くあらむ」とまをして、すなはち戸無し八尋殿を作りて、その殿内に入りて、土もて塗りふたぎて、産む時にあたりて、その殿に火をつけて産みたまひき。かれその火の盛りに燃ゆる時に、生れませる子の名は、火照の命、次に生れませる子の名は火須勢理の命次に生れませる子の名は火遠理の命、またの名はアマツヒコヒコホホデミの命。

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二二ギ文化の燃焼による成果

さて、「咲くや姫」は一晩で子供をつくってしまい産気づいた。これはやはリニニギ文化が急速な展開をみせることを示している。このとき「八ひろ殿」(回転体地球)を産屋とし、外界からしゃ断して火をつけて、ニニギ文化の成果を試す。これは地上の文明を他系から隔絶して業火に焼き、その結果、無事に次代に引継がれれば天命に基づく承認されたなりゆきであることを示すようだ。

「火照(ホデリ)」は文明の隆盛と業火の盛んに燃える様の異なる二態を掛けて示している。

「ホスセリ」は同様に、文明の衰えと業火の収束を示す。

「ホオリ」は同じく、文明の終結と業火の鎮静を示す。(火下り)

ところで、「ホオリ」のまたの名が「アマツヒコヒコホホデミ」というのは、知恵に基づくものの勢いのよい出現を意味している。つまり、物質文明もしくは華美な文化期が去って、知恵の文化もしくは精神文化が登場することを言っているのである。だが果して黄金時代として輝くものであろうか。その解答は次々節三・(二十三)節に書かれている。ちなみにこの出来事は今から七千年前~六千年前頃のアトランティス海没に併う世界的な文化の衰退や戦乱による荒廃を語るものである。しかし、現代をはじめ様々な局所で類型のパターンが演じられるものであることは言うまでもない。

また元へ戻るが「咲くや姫」の言葉の中に天つ神の出産は逐一申し出ねばならないことが語られている。それは天神系の理念が隠れのないこと、全て現象上にあらわれて、そして何らかの観測にかからねばならないことを意味している。

(二十 二)海幸と山幸  海洋民族の衰退と山間民 族の台頭

これまでは高文明の主役について語られてきたが、この節では世界全体との関連を述べている。

高文明国は世界の弱小国を意地めてきたが、変災を契機として立場が逆転していくことを示している。

貧しい民族の救済

「ホデリの命」は海浜部で生産する海幸彦として、「ホオリの命」は山間部で生産する山幸彦として登場する。これは、文明先進国と開発途上国の対照でもあり、また都市部と山間部の対照でもあり、またこの場合アトランティスとその植民国の対照でもある。この二神がそれぞれの獲物をとりかえて漁場を交替し、旨くいかなかった話は海浜の高文明を山幸の知識ではまかなえないことを示している。つまリアトランティスなき後、これを継ぐだけの力を持った者が居ず、たとえ植民国に優れた文明の遺物が残されていても放置されたであろうということである。

さて、山幸が釣針を返せないために海幸の無理じいに泣いた話は、植民地民族の悲劇を物語る。

そこに「シホツチの神」が来て、山幸の釣針探しを援助する。ここに語られる一連の物語は文明の恩恵から遠離していた民族の救済措置の内容であり、龍宮伝説の源になった実話であろう。しかし、ここでまたしてもイザナギの汚土逃避の物語が再現しているのである。古事記上つ巻を通じて一通りの物語が何度も繰り返し語られているにすぎないのであろうか。

筆者はこの金太郎飴的な展開の原因を既に与えてきた。それは、古事記の神話はアカシックレコードを参照した物語であるからであり、この効果はアカシャが多段階にブレークダウンされた派生理念を多く引き連れているから起きている。この辺の説明は四章で原理的なことを詳しくするが、これが予言者泣かせになっていることは言うまでもない。よってここではァトランティスの海没に併い遠離行動がおこなわれたかどうかは定かではない。ただこの一連の理念(文明の終局という)には、このような逃避行動が生ずる余地があるためにこうなったのであると考えることにする。

変災回避の逃避先は爬虫類型人類の惑星だった

さて、逃避行の内容は実に詳密をきわめている。「シホツチ」は海陸の事情を知る賢者であるが、その造り与えた「マナシカツマの小船」とは「間無し勝間」でもあり「目成し堅間」でもある、いわゆる二次元空間に関与しない超空間を航行可能にした眼型の宇宙機である。それに乗ってしばらくすれば超空間の天然の通路に出てそのまま流れに乗っていけば「ワタツミ」の神の宮なる一つの超空間上の世界に出るというのである。ここでも、異時空への説明の仕様のない道筋を船、川、道、流れ、といった表現で示している。(ここは決して海中ではない)

さて、綿津見の宮はにおいてホオリの命はその神の娘「豊玉姫」と結婚して大相長い間そこに滞まる。ところで、この世界の住人はこの時空上では秀麗な姿をしているが、現実世界から観れば「ワニ」や「亀」や「龍」であったりする。つまり、爬虫類として捉えられるのである。日本における巨石モニュメントに爬虫類を型取ったものが多いことは特筆すべきであろう。これらは全て、異時空との境界石としてみたてられていたわけである。また昨今宇宙人捕獲のニュースが出ているが、その姿はホ乳類というよりは爬虫類に近いのではないだろうか。伝説上の河童もこの類であろう。また、中国にも龍と玉にまつわる伝説が多く、ワタツミの神と豊玉姫にその根拠が得られるようである。現在、地球近辺に出没するUFOは我々人類よりもはるかに高度の科学力を有するにもかかわらず、顕著な敵対行為を示してはいないのであるが、この理由を海幸山幸の物語が明快に与えているような気がする。

さて、山幸は幸福な日々を三年(みとし)間過ごすが地上でし残してきたことを思い出し、どうしても戻らねばならないことを言い出す。そして所期の釣針を手に入れ、兄ホデリの命を打ち負かす術策を授かり、この宮殿から帰る時に、ことさら帰還までの時間を気にかけるようなやりとりがなされる。ワニを集めて何日で地上に戻れるかの能力を問うているのである。その中で一日で送ることができるというワニが選ばれることになる。滞留期間が三年というのに奇妙なことであるのだが、これは明らかに異時空の間の距離が時間換算されていると共に、「ワニ」なる乗物の性能によって船内観測時間が短縮されたりもすることを述べているのである。つまり滞流したのは三年でなく数日であったとしても、地上との距離がそれだけの時間を運んでしまうのである。

しかも「三年」は「満年」のことで非常に長い年月のことである。

これが浦島伝説では「亀」が乗物になっており、帰還後には何十年もの時間のずれを発見するという筋である。これらのことは特殊相対論で説明でき、浦島効果と呼ばれている。例えば帰還後仮りに百年のずれがあったとしよう。かつワタツミの宮が宇宙のある遠方の天体として、往き帰りに合計二日だけ宇宙機の中で過ごしたとすれば、計算上、宇宙機は加速しすぐさま光速近似の速度で航行しているとして、二点間の距離は五十光年というものになる。だが、このような宇宙機とは、相対論的には無限に近い質量をもつ一種のブラックホール的な天体となるといわれ、広範囲な影響を考えれば存在しようのないものである。このようなことを解決するために、「目成し堅間」でいう目型のバリアーをめぐらせて存在状態を変え、超空間を航行するものになっているのではないか。存在状態の変化は、宇宙自体が電磁波動的な流れの上に乗っているので、その波動のサイクルを局限した範囲のみで変えてやれば大域的な影響を及ぼさなくて済むはずである。

このような超空間航法では、宇宙機はタイムマシンにもなりうるわけであるが、これに対し、何らかの規則で因果律の崩壊をカバーしているのであるに違いない。この規則のことが多く「石置き」の手続きで表現されていたことに注意したい。また、大異変、あるいは地球浄化時代の百年という期間を救済された地上の人々が一体何年と考えていたかも面白い問題である。旧約聖書のノアは四十日であったが、これは五十光年ほどの距離をやはり準光速で四十日かけて往復したものかも知れない。箱船に入ったまま運搬されたために、何があったか気付かなかったのではないだろうか。

以上、時空の種類をみても様々なものがありえていることが分る。たとえば黄泉の国のように現世の存在レベルを落とした程度のものもあれば、時間軸しか共有しないような超空間もあることを古事記は示している。これはホワイトヘッドの言った電磁波動空間としての在り方とベアデンの言うような断層的に隔絶した空間の在り方の両方を肯定するものである。

物語は明らかに地球人のいくばくかが宇宙的知者によって異時空の国に遊行した事実を語っている。だが風土記に載る浦島物語と照合すると、異空間に行った事実とその時の記憶にウエイトが置かれており、往く目的や帰る目的は決して重要ではなかったと思われるのである。この節の本旨は異時空への往来にあり、これに歴史の展開を好位置でつなぐ伏線が組み合わされていると考えるのである。伏線の一つとして、高い文化をもっていた海浜の民族は貧しい山間部族を日頃卑げていたのであるが、様々な変災があり、立場が逆転していき、最終的には、英知主導の精神文化が後者の高文明の音信を知らない人々の手でスタートすることが示されていると考えられる。また、今一つは隼人舞の起源を洪水に逆上ることを述べ、知識伝承における隼人族の役割を明らかにしていることである。こうすると猿女舞も隼人舞も同一の事件を異った知識分担に変えていることも考えられ、いよいよ「豪族、あるいは地方部族は知識分担のために後天的に役割を付与された」と考えることが本当のことのように思えてくるのである。

(二十 三)豊玉姫の命

新しく来たるべき知恵の時代が地球外知性の早期撤退により実現しなかったことを物語る。

---------原文 豊玉姫の命-------------------------------------

ここに海の神の女豊玉姫の命、みづからまゐ出て白さく、「あれすでに妊めるを、今産む時になりぬ、こを念ふに天つ神の御子、海原に生みまつるべきにあらず、かれまゐ出きつ」とまをしき。ここにすなはちその海辺のなぎさに、鵜の羽を葺草にして、産屋を造りき。ここにその産屋、いまだふき合へねば、御腹の急きにあへざりければ、産屋に入りましき。ここに産みます時にあたりて、その日子ぢに自して言はく、「およそ他し国の人は、産む時になりては、本つ国の形になりて生むなり。かれ、あれも今本の身になりて産まむとす。願はくは、あれをな見たまひそ」とまをしたまひき。ここにその言を奇じと思ほして、そのまさに産みますを伺見たまへば、八ひろ鰐になりて、はひもこよひき。すなはち見驚き畏みて、逃げ退きをたまひき。ここに豊玉姫の命、その伺見たまひし事を知りて、うら恥しとおもほして、その御子を生み置きて白さく、「あれ、つねは海道を通して通はむと思ひき。しかれども吾が形を伺見たまひしが、いとはづかしきこと」とまをして、すなはち海坂を塞きて、返り入りたまひき。ここを以ちてその産みませる御子に名けて、アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズの命とまをす。……後略……

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新らしい知恵の時代の不充分な成りゆき―― 黄鶴一去再不帰

この節では「ホホデミの命」の示す精神文化の成果について語られる。前々節でもそれが産屋での子生みの形態で示されたように、ここでも同様である。「豊玉姫」は知恵の宝庫を示している。

海辺のなぎさに鵜の羽根でかやをふいて産屋を創ろうとしたのであるが、完成する前に産気付き、御子の出産に間にあわなかったというのである。これにちなんで御子に名けられた「アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズ」は、知恵に基づく体制が不充分な状態で次代に引継がれていくことを示すものである。

さらに「豊玉姫」は産屋の不完全さゆえ、「ホホデミの命」におぞましい出産の有様を見られてしまい、恥じて海坂(異時空との接点。比良坂と類義)を閉ざして海(超空間)に帰ってしまった。これは、文明の崩壊の痛手に充分な勢力ができず、知恵が不充分なままで、置き去られたことを示している。高文明を実際に知らなかった人々にとっては、彼等だけで完成した精神文化を築くことは不可能であった。これは今から七千年前~六千数百年前の出来事であると考える。旧約聖書のバベルの塔の事件の前後の頃と話が対応する。

ここでも、また、一つの後悔が語られている。「ホホデミ」が「豊玉姫」の本質に懐疑をもたなければ、もっと高度な知識体系が次代に引継げたであろうことが窺える。なぜなら「豊玉姫」はある種の高い文化水準を有する地球外知性を示し、「ホホデミ」は援助を受けた人々の集合意識をあらわしているからである。その頃の人々が相互不信を起さぬ程に寛容であれば、宇宙人もじっくりと手助けしたであろうに、ということが後悔されているようである。

次に、天つ神の御子の出産は海原のような決して隠れた所ではおこなわれないという表現がみられる。前々節の「咲くや姫」の場合も、同じ理由から先ず報告している。これは天神系の命がすべて現象空間上(ここでは地上)に表現されなくてはならないし、それが観測されなくてはならないことを示している。しかもその大役が地球だけに限定されていることに注意したい。

これは非常に重要である。まず理念の状態で成りゆく様が与えられる。これは一種のプログラムである。それは既に述べたような精神感応的な過程を通して分子である人類を通じて表現されていく。だがそれはあくまでも一つの試みであり、実験炉中の出来事なのであり、実際どのように展開するかは分らない。それゆえ観測とか報告とかいう手段が必要となるのであろう。この役割も当然分子たる人類の意識が担っている。つまり彼の思い行動した結果を彼の目で観て思考し、その結果を理念の高みにフィードバックしてゆくわけである。その結果は新たな理念発動のために機能すると考えられる。(これは拙宇宙モデルの根本的な概念である)人間の役割が嫌虚にこのようなところにあるとしたとき、古代哲学や宗教の考え方が矛盾なく受け入れられるのである。

(二十 四)鵜葺草葺合へずの命

結局、統一のとれた体制は確立できず、民族を分散して新らしい道を模索していくことが物語られる。

---------原文 鵜葺草葺合へずの命---------------------------------

このアマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズの命、そのみをば玉依姫の命にあひて、生みませる御子の名は、五瀬の命、次に稲氷の命、次に御毛沼の命、次に若御毛沼の命、またの名は豊御毛沼の命、またの名はカムヤマトイハレヒコの命。かれ御毛沼の命は、波の穂をふみて、常世の国に渡りまし、稲氷の命は、母の国として、海原に入りましき。

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次の時代への橋渡し(現時代への引継ぎ)

以上の節から、切角の知恵ある精神勢力のぼっ興も自然との闘いや文明復旧の難かしさから、新体制造りがはかどらずついに意見対立などが生じ、幾つかの民族に分れてそれぞれの活路を探し始める。この節は、「フキアヘズ」が「玉依姫」に示される知識依存の方針を踏襲する形で幾つかの方向に民族を分散していくことを示している。

これは恐らく、かのバベルの塔の事件である。「バベルの塔」とは精神文化の体制確立の金字塔のことであり、言語の乱れ(意見の対立)から四散するに至った転末を語る物語と同一のものとみなせよう。よって、この中心となった地域は小アジアであろう。「五瀬の命」は五種類の民族の流れを示す。「稲氷(いなひ)の命」は海洋の部族として、地中海やインド洋さらには環太平洋諸島に去り、「御毛沼の命」は残された利器UFOを使って宇宙に去った。そして「カムヤマトイハレヒコ」は「五瀬の命」と共に中東を拠点に主として東方に進路を開いたのである。

こうして、民族の分散して出来た四大文明や後のギリシャなどでは、非常に高度な哲学が華開いた。だが、それはいづれも未完成なものの引継ぎであったために、現代をしのぐ程の体系をもたず、我々の時代の無理解な権力の時期に対抗するに至らず、現代にその卓抜した物の観方のいくばくかを窺わせる程度にとどまったのである。

以上が古事記上つ巻の全訳である。

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第三章  古代人の世界観


古事記の神話の構成は実に美事である。二章三節でおこなった散逸的な解釈を表3 ・1にまとめることにし、またそれぞれの物語が、どのような関係にあるかを図3 ・1 (次々頁)にする。

宇宙開びゃく論、地球創成論、人類史、超古代科学、そして一つの時代の初めから終りまでの歴史、とまんべんのない体裁をとっていることがお分りになるだろう。

宇宙開びゃく論、地球創成論などは筆者が現代風に与えた解釈にすぎないが、古代人はこれらのことを大宇宙の開始後連綿として続く歴史と捉えていた。それによると宇宙開びゃくは二段階で起きている。古事記に関する限リビッグバンでなく、定常宇宙論的である。まず、超空間のメカニズムが何よりも前にあって、動き始め、現象界の基盤ができる。次に宇宙空間に物質的胎動が起り、物質の究極的保存量である質量、電荷、スピンの三要素ができたとしている。さらに、物質はプラズマ状態から、磁場に東縛されて宇宙を運ばれ、その先々で天体系にまとまったとされる。最後の磁場縁起の過程は未だ現代科学でも未解明であるが、形而上的な理念の作用が現象に先だって電磁的効果としてあらわれてくることを簡潔な物語で示しているのである。

次に、地球ができてから巨大大陸が、今みるような形に分裂する過程を「天の御柱」を中心にした男女二神の回転で表現する。「天の御柱」は多意を含み、ミクロからマクロまで仮想、実物を問わず回転体の中心をなす軸であり、この形態は現象の基本的なところに必在する原理であるとしている。これは現代科学が様々な現象の解明に伴ない、しだいに明らかにしつつある自然界の究極原理であるだけに、非常に卓抜した科学が古代にあったと考えざるを得ない知識である。

次に、筋書きは一転して人類史となる。宇宙→地球→大陸の順序で時間。空間の視点を急降下的にズームインして、次にでてくるのがある大陸の一角に栄えた交易都市の風物というパノラマ的展開をみせる。そしてここから時間は平行移動して人類史の結末に至るまでの経過を明らかにしている。人類史が大戦争による陰惨な終り方をするのをイザナミの腐乱死体にたとえて表現し、その汚土はそのままでは使いものにならぬゆえ、イザナギの身楔という環境浄化処理を適用すると繋ぐ。しかし、この副作用で世界を暗闇が覆い、文明の滅亡に続いて今度は地球も瀕死となるが、これを蘇生させるべく超科学が用いられ、暗く長い煩悩の年数(百十年)は去り新しい時代が到来したとしている。

こうして、人類史は我々の時代の直前の時代の詳細を語るものとなるが、これもまた終末を迎え、我々の四大文明に引継がれたとしている。

◇   ◇   ◇

人類史が三度に渡って書かれていること、これは同じことを三度述べて強調しているのでないことは、筋書きの詳細なずれがあることによって分かる。もっとも、類似したパターンをしていることは確かであるが、ここではやはり三度分の時代の生滅が語られていると言ったほうがいい。

そしてさらに、我々の時代がちょうど表3 ・1の分類記号C ・Dで示す物語の論じている歴史展開とよく似た状況にあることに強い不安感をまじえ「歴史は繰り返す」ことわりの真実を感ぜざるを得ないのである。

一説にもあるように、古事記は予言書としての可能性もある。しかし、それは我々の時代のみを対象にするのではない予言である。その理由は少なくとも表3 ・1の分類記号H~Uの物語(人類史の二回目のものと考えてきた物語)が原形的理念を語るものであると考えられるからである。

それは自然界の多くのものが具有する定型的成りゆきをあらわすものであり、表3 ・1右欄に掲げるように様々な伏線を見出せる。

また、人類史には地球外からと思われる高度な知性(宇宙文明と二章では述べた)が深く関わっていたことが否めない。そしてその多くは地球上の生命環境の維持改善のためにシステム造りをするという恩恵をもたらしてきた。その最大のものの一つは今なお活在しており、自然界の仕組みの中に融け込んだ形で生命体地球の新陳代謝に欠かせないものとなっているらしい。

このように古事記の神話は、歴史、理念、予言、そして生命体地球の奥義をまとめたものとなっている。この元なる知識が古代人の思想を形成していたのだとすれば、その思考レベルの深さは再吟味されて然るべきである。それは古代世界に普遍していえることであり、むしろ過去ほど、起源に近いゆえにより高度という信じ難い逆説が生じるのである。プラトンやアリストテレスなどの哲学分野の先達の輩出は然るべくしてありえたと考えられるのである。

この章では、いささか散逸的ではあるが、いくつかの基本的テーマについて話を進めながら、古代人の考え方がどのようなものであったかについてアプローチしていくことにしよう。

一 地球上の文明は生減をくり返してきた

(人類文明史七千年周期説)

仏教では、一つの文明が始まり、終止符を打つまでの期間を「劫」と呼び、その一劫にはある決まった年数が与えられている。そしてそのような劫が幾度もくり返すという文明興亡の輸廻説を説いている。

二章であらましを述べた拙宇宙モデルからするとコンピュータがプログラムを実行するとき予め大記憶装置(データ。バンク)からプログラムを取り出し一定の大きさの記憶領域に置いて、そこから順次実行していくというやり方をとるように、地球史を直轄する超空間上の宇宙意識が地球文明史を展開するときにも理念の領域に一定の許容量があり、同様のことをしなくてはならないのではないかと思うのである。

実に突拍子もない話のように聞えるかも知れない。また信じられない話かも知れないが、既に述べてきたように、理念、アカシヤ、これらは波動場的であり、演算子的にふるまう高次元言語で書かれたプログラムであり、これに対して形而上的なコンピューター的メカニズム「宇宙意識」(仮定)により現象空間上に投写された結果が歴史現象となると考えることは四章で述べるが、古代的世界観と基本的に一致する。

だから、これを仮りに真実として考えてみよう。通常のコンピューターの場合は、記述できる命令語の数に限界が生じるのに比して、宇宙意識の場合は、現象を構成する時間の総数すなわち年数に限界が生じると考えられる。だがコンピューターがいかに記憶容量が小さくともソフトウェア的にロールインロールアウト、ページングなどの技法を用いて巨大プログラムを部分的に順次入れかえつつ、あたかも巨大計算機の機能を模倣することもできる。地球史のプログラムは、百数十億年分が今まで実行されてきている。この全てが全てとは限るまいが、そのうちの人類史の部分は順次入れかえがなされていると考えるに足る証拠は、古事記では既にみたように多く見出せるのである。

ただこのくり返しがプログラムの虫つぶし(デバック】機能的欠患を見つけ出す)のためのテストランでありはしないかの疑間はある。

過去の理念(プログラム)が終結して新しい時代の理念が適用されることについて、ヨハネ黙示録は次のように語る。「これより前の天と前の地は過ぎ去り、海もまた無きなり。我また聖なる都、新しきエルサレムの、夫のために作りたる新婦のごとくそなへして、神の許をいで、天より降るを見たり」これは古事記でいう「道返し」に相当する。「新しきエルサレム」とは次の時代を演ずるプログラムである。これに関して、説により永遠の楽土であると言うか、元の黙阿弥であると言うかの差が生じているのであるが、この点は何とも言い難い。また、前の天、地さらに海までが無いというのも、現象が物質で運行されるのではなく、プログラムで運行されるためと考えれば納得のいくことである。(但し、ここでいうプログラムとは理念であり、波動であり、言語であり、高次元情報のことである。)

仏教ではスケールが大きく構えられており、 一定の期間で顕わすべきテーマがあって、それにちなんで「XX劫」といった表現で一つの時代を呼ぶことがよくなされている。また、一劫は非常に長い期間のこととされているが、元義の正否はともかくとして決められた年数が与えられていた。

ノストラダムスの詩篇「一・四八」に七〇〇〇年周期を思わせる表現が出てくるが、筆者も七000年で人類の大文明史はくり返しているという感想を持つに至っている。不吉なことを言うかも知れないが、A ・D二千何年かに現在の時代が終結するとして、七千年づつ過去にたどるとB ・C五千年頃に開始があり、前の時代は約一万四千年前、二つ前は約二万一千年前という具合になる。このようにして立てた仮説が筆者の提案する七千年周期大文明興亡説とその文明推移の歴史年表(表3 ・2)である。しかし、厳密に七千年とすることはなく、大まかな誤差は有りうると考える。たとえば、前の時代は一万三千六百年前に始まっているというデータを、A ・ゴルボフスキ‐が見出している以上は、それに従う。

七千年同期文明推移表の解釈

七千年周期説の根拠として、今から一万三千六百年前に起きた洪水をもたらした大異変、そして二万三千年前から始まり二万一千年前を狭む長い間衰滅をみせた地球磁場の逆転という事件である。これらのことは、地上に繁茂した生命にとって壊滅的な出来事であったに違いない。そして、七千年前にやはり、文明の極みに達した時の失策があり、それは人類を滅ぼすには至らなかったが、全てを元の黙阿弥にしたのである。

過去から順を追って説明しよう。

(一)ムーロアを終らせた地磁場の衰滅

ムーロア文明の設定は、一章で掲げたムーロア古写本の書かれているパピルス紙の炭素同位元素分析によって明らかにされた製作年代が二万三千年前であることによる。この時代は地磁場強度が大きく、生命系は健全に成育したに違いない。文明自体も非常に均勢のとれた理想国家と言っても過言ではないものであったと考えられる。

二万三千年前から地磁場変動期にはいり、 一万九千年前頃まで乱脈をくり返す。地磁場が消失したり衰退すると太陽からの有害放射線が大気圏内に直射して地上の生物は短期に痛手を被る。

しかし直ぐに大気を電離し、イオンの核を中心に水滴が形成され、ちょうど金星がそうであるように濃度な雲に覆われた状態になる。有害な宇宙線はくいとめられるが、反面寒冷化し、混屯とした環境となる。この年代には生物の働きが著しく鈍ったことが地質学的に分っている。

この地磁場消失の原因は大域の地殻変動によると考えられる。ムーロア大陸なるものが在ったとしたら、その海没との関わりも考えられる。ジェームス・チャーチワードによるとこの根本的原因がやはり巨大天体の落下によったという。それは、ムー大陸の下に巣喰っていた地中の火を解放し、一挙に大陸を壊滅させたというのだ。これほどの事件が地球それ自体に大勢的な影響をもたらさないということはあるまい。

二)アトランティス海洋文明の興亡(一万九千年前~一万三千六百年前)

次の時代は非常に寒冷な中に初まった。アトランティス時代の幕開けである。人類は温暖な低緯度地帯に集まり、再び文化の灯をともした。古事記に書かれる歴史はこの時代の海洋国家の全盛期の風俗描写から始まっている。運河、水路、市場の活況、自亜の建物群、港をゆきかう商船、それら全てが、商業交易の中心地として栄えたアトランティスの貿易都市の様子を語るものである。

この文明はやがて利益主義から独善主義さらにその輪が広がり、疑惑と不信をつのらせる混迷の世相を招く。産業革命のようなことが起り、高度志向に拍車をかけ、飛行機、石油、火薬、兵器類を生産する金属工業、非金属工業が隆盛した。このためこの頃の気温は上昇し、ウルム氷期に間氷期をつくるほどとなっている。さらには戦争、そして世界大戦によって核兵器が用いられやがて人類史は終結したのである。この直後地球上の洗浄を促すような水天体の衝突により大量の水がもたらされ、海面は一気に百数十メートル上昇し、地上のほとんどの地域を洪水が襲った。

災害はこればかりにとどまらない。地磁場は消失までせずとも衰弱し、再びムーロアの終りにあったと同様の暗黒の時期が来た。また、火山活動が活発化し、各地で噴火が起り、粉塵を大気にまき散らし、暗黒時代に拍車をかけた。恐らく、そのままの状態では地球は再び生命を育くむ星たりえなかったであろう。そこに宇宙からの復旧の手がかけられた。古事記にはこの時期の復旧作業について詳細に書かれている。それは地球上の重要な位置に超科学的システムを設置し、ちょうど生命体地球の心臓マッサージをおこなうが如きやり方で、磁場の活生化をはかったのである。

天体の落下から再び太陽が地上を輝らすようになるまで、百十年かかったょうである。

(三)宇宙文明の介入時代(一万三千年前~七千年前)

それからは、我々より一時代前の出来事となる。この時代は生物界が出そろいをみせるまでのしばらくの間は人類の登場は据え置かれた。それは時代が再生する際の決まった手続でもあつただろう。短期のうちに太古から新世代までを模倣するのである。それからば人類は火山活動との戦いから始まった。しかしこの頃、宇宙からの援助で火山活動を鎮める道具が各地に建てられている。これは地球生命体で言えば心臓マッサージに継ぐ針灸理学療法とでも言うべきだろうか。

これにより、大地は安定し、人類は農耕民族を先進的種族としてまとまりをみせるようになる。

このような時にも地球外からの援助が加わり、新しい文明を生む下地が築かれるに至り、宇宙からは、新しい文明の移殖のための干渉がおこなわれる。これは本来やむを得ぬ歴史の流れというものであろうが、 一時代前が特別な宇宙からの顕在的な介入が無かったのに対し、この時代ではそれが露骨である。新しい文明の利器を様々にとり揃え、侵略の形態をとって地上に高文明を置こうとしたのである。まず、人類の性質が横暴であることから局地的に核戦争までしてこれを征服する。次に本質的な最高知識体系をおあづけにして、高度物質文化を普及した。この役割を担ったのがアトランティスの復興された国家であったようだ。情報網が敷かれ、科学技術分野で非常に隆盛した。この国家は世界に植民根拠地を多数設けていた。

だが何が原因してなのか、本質的知識はついに持ちこされることはなく、もはやこれ以上の顕わしは無用と判断された時点で、高文明利器の事故により地中の蛇を触発して、大陸の全てを海没させてしまったのである。高文明の音信とわずかな恩恵にあづかつていた植民国はほとんどれい属の現状であったので、根拠地ごとに利器が残されていたとしてもそれを維持することはできなかった。

こうして当初、同一言語とも言うべき世界的な一大情報網の統一した指令で動いていた人類が、中枢部の崩壊により、個々別々の歩みを始めなくてはならなくなったわけである。アトランティスのファウンデーションは多くが破壊されたに違いない。これがバベルの塔、不敬な目録見の塔と言われた事件である。この裏には宇宙文明と地球側の相互不信やいざこざの引き金があったようである。この後、様々な覇を争う戦いや独立の戦いがなされ、結局収集がつかず地域に分散してそれぞれに小国家が成立した。そして四大文明へと橋渡しがなされたのである。

二、古事記神 話に込められた伏線

前時代の人類史を語る表3 ・1の記号H~Uの展開は自然界の様々な局限的な時間経過の中にもみられる。たとえば、植物のうちで弱い部類に属する一年性草本や多年性草本、あるいはある時期に羽化し卵を産み落せば直ちに死んでいく昆虫などの生涯がぴったりと適てはまる。同様にマクロな展開、たとえば、地球史、さらに宇宙史、日本古代史などが相当するのではないかと考えられる。

筆者の考えでは、次のような時間経過が込められていると見受けられる。

(主線)大洪水後の新生から一大文明国家の滅亡まで(一万四千年前~七千年前)の世界史

(伏線その一)地質学的な歴史展開。荒れすさんだ誕生真際の地球~生命の登場、進化~人類登場~地球生命系の役割終了までの地球史

(伏線その一ダッシュ)宇宙的な歴史展開。混屯と無秩序の中から、天体系が確立され、霊系宇宙に服属され終了するまでの宇宙史。今後の成りゆきが不鮮明ゆえ"ダッシュ"としている。

(伏線その二)呪術的な旧石器時代~農耕石器(弥生)時代~大和朝廷統一までの日本史「天地のはじめ」から順次訳した限りでは主線の事実を語ると考えられるが、時折挿入的な後世の事物が登場するので伏線その二が重畳していることが分る。この両者についてはこの他、筆者が実踏査した遺跡からも重畳を裏付ける混然一体となったものが見つかっている。(二章三・(九)節で述べた)
伏線その一は前「身楔」の段のアマテラス、月読、スサノプを太陽、月、地球という構図として地質学的に捉えた場合に美事に対応がとれている。

このように幾種類もの異なる歴史を一つの筋書きに集約しようとすれば、当然余分な詳細は極力省いて単純な物語にせざるを得ない。古事記の神話はどうして、これほどスケールの異なる伏線を込めねばならなかったのだろうか。この理由は上つ巻が既に起ったこと、これから起ることを含めて、現象に先立つものとしての原型的理念の世界を語る役割をもつからであろう。

神道哲学は神話に対して「自然現象の荒御魂」を語ったものであるという考え方を持っている。まさに、これこそ神話の位置づけに関する古代世界共通の考え方なのであり、これを無視した神話解釈はナンセンスであると言って良いだろう。そこで次の話も含めることにする。

(伏線その三)以上を包含した理念的展開。まず、種があり、発芽し、基礎づくりがなされ、ある程度まで耕やされた頃に、華美で異質の急燃焼を旨とする理念の移殖がなされ、急激に盛えて、土台もろとも急衰退するという一連の自然界の原理について語る。その適用例は、前記主伏線の他、草本の一生、昆虫(かげろうや蝶など)の一生といった局在的なものにもみられる。

筆者は、二章二・(三)節の古事記解釈の手順説明の中で「神」や「命」は記憶のための重みづけであるので、一担はずしてみれば考え易いと言った。しかし、ここでその修飾語が確実な意味を持ってくる。全ての本源が我々の感覚では知り得ない超次元のかなたにあるとしたら、いかにもこの表現が適切であるに違いない。その態様を古代人は「神」すなわち隠れ満ちるものと言い、「命」(満言)すなわち高次元言語で成るプログラムと言っていた。そして「神」や「命」の言葉や、彼等の行為する筋書きのすべてが歴史の展開に関わってくる理念であり、波動的にかかってゆく性質を考えれば未来にも適用されるべき予言であったと言えるだろう。確かに主線、そして分類記号C ・Dの筋書きと類似したなりゆきを現在の文明は遅っており、現代に一つの警鐘を鳴らすものと言えるだろう。ここに伏線その四として次の展開をつけ加えよう。

(伏線その四)紀元前五千年から紀元前二千年に至るまでの現時代世界史(旧石器時代~四大文明~ルネサンス~現代~?)

伏線四については世界史をみれば分かるので説明を省き伏線その一~その三をそれぞれみていくことにしよう。

伏線その一 地球史に関して

地球史に関して言えば、生命の発祥から人類の登場、その滅亡に至るマクロな地質学的過程が語られると考えられる。このとき古事記は生命の発祥に関して、一つの説を持っている。パンスペルミアである。古事記の宇宙論はビッグバンではなくむしろ定常宇宙論的であることから、星のレベルの世代交替の観点からバンスペルミアに至ることは順当なものである。

なお、ゾロアスター教典によると、諸魔により汚された地上を浄化するため、アフラ・マツダの神族ティシュタル星が地上に大雨を降らせ魔生を絶滅したが、このとき、草本の主宰神であるアムルダードは地上で枯渇していた草木をとりすりつぶしてティシュタル星の降らす雨に含ませた。このため地上に一万種類の薬草が生い出でたという。これも外天体がもたらすバンスペルミアを物語っている。これは「穀物の種」物語と筋書きが一致していることに注意したい。

その後は地質学的変動の収束に併い生物学的な進化論が適用される。オミヅノやフノヅノがここでは大地から出た角ではなく、身体から出た角、すなわち剣竜や一角竜などを示すと考えれば、恐竜族の全盛時代(中生代)ということになる。次に、このような大地の眷属から新しい種族にとってかわる。新生代のホ乳類や、温、寒帯植物の登場である。これが大国主とその替族の時代であり、ギリシャ神話でいうところのクロノスの治世に相当する。 一世代前のスサノラとその省族はチターン(巨人)族と対応がとれ、新生代より前の粗暴な地質学的時代を示すようだ。

さらに、この新しい土壌の中に人類が登場する。天神で示されるのであるが、これは高次元霊系宇宙の介入と考えられる。そして地球世界はこの傘下に服属せられるのである。これに併って様々な面で変動を迎える。まず、試行錯誤を前提とした全くの新種が今まで統一のとれた自然界に台頭することになる。

また、これは、それまでの生物が類を単位として一つの「我」を持っていたに対し、個々に我をもつものである。霊系を繋いでいる印しとして新種は大きな脳を保有した。また、自然界はそれまでは温室的であったのに対し実験炉としての性格を帯びることとなった。実験炉の理由は、「木の花の咲くや姫」、「豊玉姫」のところで、天神系理念は全て観測されなければならないことに表わされていた。

こうして、全く新しい方針が地球上に打ち立てられたわけである。それによると、天神の理念遂行のためには国神系が犠牲にならねばならないこと、自然界のサイクルが短期的になっても己むを得ぬことなどがある。このバックアップとして、「身楔」、「天の岩戸」などで述べられる回復手続きと、「穀物の種」にあるように種子の保存が約束されるとしているのだ。だが時として、国神は不満を爆発させることもあるとされる。これに関し、ギリシャ神話も同じことを語っている。

伏線その一ダッシュ 宇宙史に関して

霊系宇宙との関係を考えた場合、その接触は決して地球世界のみにとどまるものではなく、宇宙開びゃくの当初から関係づけられており、偶ま露骨に介入する時期が定型パターンの末期に相当しているだけのことではあるまいか。

宇宙は当初、超高磁場がヤマタノオロチの如く、複雑に分極していき、切離されてそれぞれの周りにガス星雲の渦を形成していったと思われる。それがスサノプの大蛇退治に語られると観る。

出雲八重垣とは宇宙空間にとった天体座標というべきだろうか。それがスセリビメなどで示されるように、やがて、磁場の衰えと共に「国」の基である天体物質に冷え固まっていき、現在みるような宇宙ができ上ったと考えられる。これが大国主の時代に対応する。

一応の安定期にはいってしばらくして、霊系宇宙から介入がある。さらに不満足な霊系宇宙は、宇宙を支配するようになり、その中で一つの実験計画を実施する。その結果安定的であるべき宇宙は比較的短期に崩壊していく。この計画とは、今すでにその時期に入っていると考えられる。

なぜなら宇宙文明から五次元以上の方法を用いてUFOが飛来している。また、我々自身が霊系と繋がった存在であるからだ。もはや実験計画下なのである。

そしてこの結果実験が終れば、再び宇宙開闢から新しい実験系の設定までが繰り広げられることになるというのがこの定型パターンから導けるSF的な将来予想であるが、この辺も考え方によってどのようにでも予想がつくので試されたい。つまり、理念という演算子のパラメーターの与え方しだいというわけである。

伏線その二 日本古代史に関して

日本のれい明期には、島国日本とはいえ、非常に多数の海外渡来者が有ったことは否めない。

その中でも特に大量の民族の流入は波状的におこなわれ、日本の文化を段階的に異色で染め上げていくという経過をたどったに違いない。中でもその中心的役割を果たした地域が北九州であろう。

海流のせいでもあろうか、この地に海外の渡航者は漂着する可能性が過去の歴史において最もあるのだ。そして彼等は九州の中部までを区切りにして今度は東の本州ヘと足を延ばすのが常であったようだ。そのルートを遅った大民族は少なくとも二通りあった。

その経過を様々な要素をとりまぜてまとめたものが3 ・5 表である。

伏線その二の重心は弥生時代以降に在るらしい。このため縄文時代以前の歴史に関しては、全て「過去」の範ちゅうに含められていると考えられる。ここで、古代遺物、伝承等をふまえ古代人の立場から次のように推測する。

超古代(一時代前)のれい明期において須佐の男が残した功業「出雲八重垣」は、その遺構と共に伝説が縄文人の間に在った。それは「遠い我々の祖先(足名椎手名椎)が大地に巣喰う巨大な蛇を鎮めるために、とてつもない石垣を築いたのだ」と。そして縄文人は巨石組みや土塁を信仰の対象としていた。そこに紀元前八世紀頃徐々に侵透したであろう弥生人との文化の相異、生活圏の相異などから数々の戦いがあり、融合がはかられた。そこでは「縄文人の祖先」というのも邪見視され、「鬼が」とか、「巨人が」とか「天邪鬼が」とか言った表現に改められたであろうが、巨石組の意義、効果、人々が被る恩恵、さらには神霊すらそれを効用するという言い伝えは、新民族である弥生人にとって、参考にすべき土地の知恵といったものだったろう。

弥生人の文化は、中国、朝鮮に基を置く。銅器を用い、農耕を営んだ。信仰は道教などの元となる中国の古代哲学に基を置く超自然的なものが対象であっただろう。縄文人の信仰は、その一環で充分に融合できたと思われる。その融合の産物が銅鐸である。これは、銅鏡(中国や朝鮮でもみられる)に加えて、スサノヲ系の巨石や山岳信仰がミックスされて新しいパターンを生み出したものである。

こうして、縄文人と弥生人はあるものは融合し、あるものは戦いの末、辺境に追いやられた。こうして形成された日本における勢力分布は、九州、西日本、中部、四国にかけて、弥生文化圏、それ以外を隼人や蝦夷といった勢力が占めた。この辺の過程がスサノヲの治世から大国主の治世への変遷、また八十神と大国主のし烈な戦いの中に縮図化されているようである。そして弥生人は出雲族、三輪族、吉備族などの部族国家を形成させていった。

弥生人の中には多く秦の始皇帝が遣わしたという人々が居て、縄文信仰の融合のために「小さなスケールの石垣」を西日本各地に塁々と築いたようである。それは新天地にあって自由な境遇で懐古する万里の長城の築城法の模倣であったとしても不思議ではない。こうして大国主の治世は最も近しい朝鮮の支援によって充実した数百年を送る。その後新民族の先峰が渡来し、温厚な弥生人のもとで帰化していく。彼等は中東系の思想を携えたインドに在った民族である。非常に長い間、シュメール時代に有った知識を言語を熟成して持ち伝え、鉄器を知り、兵術に長じた進取の気象ある民族であった。あるいは祇教を起し、馬術を知った中国人であったかも知れないが。

とにかく皇室率いる新民族は海外から渡来した。しばらくの間九州の山岳地方で根拠し、日本全上の探りを終わり、機の熟すを観て大軍を以で日本支配に乗り出したのである。この話が主線解釈上の古事記中つ巻、以降の神武天皇の東征に始まる物語となっている。これは同時に、戦争や威嚇によって大国主に国譲りを迫る物語に縮図化している。その後、大和に落ちつき安定期を迎える。ニニギの命に示される華美なにぎわいは、都を置き、朝廷を設け政治と文化交流の場にした皇室の施策に反映されている。それは決して、超古代の驚異的文明のそれには値しなかったけれども、神話は傾向として生きづいているのである。

神話の定型パターンはここでも実証されるけれども、もしかすると、皇室は神話を一種の予言書として考え、あえて予言の成就を自らの手でおこなっていたのではあるまいか。マヤ人、ユダヤ人、ベルシャ人など古代人に多く共通しているのは、予言的神話と、その成就に貢献することが神べの奉仕と考えられていたことである。その流れを一部なりとも皇室が汲むとすれば、予言書古事記のクライマックスは皇室が演ずるニニギ文化にあったと考えられ、そのターゲットは当時、奈良時代開始の律令体制の完備と長安の都を模倣した平城京の完成、そしてそこに華美に動めく無数の人並みに在ると考えられたのではあるまいか。本来なら口伝承すべき本辞神話を古事記に書き記したこと、皇室の権力の衰退、純日本文化の衰退、これらは次段階の「猿女の君」の急衰退消失の定型パターンに適わせるための驚くべき知識人達の諦観的議り事であったかも知れない。(一章十二~十四節が関連)

だがそれでもなお歴史は動いていた。それはより大きなサイズの定型の中の一時点にすぎなかったのだ。先述したように演算子のパラメーターに何を与えるかしだいなのである。この頃の皇室は、残念ながら一つの思い込みで最も重要な決断を下してしまったのではあるまいか。

◇   ◇   ◇

ここで若干、道草をおこない、日本古代史の展開に関連して日本の古代思想を典型づけていた神道の起源を考えてみよう。

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神体山信仰と神道のおこり                         

神道の発祥は神社造営の開始と期を一にすると考えられる。その推進役を勤めていたのはやはり皇室であろう。

皇室率いる新民族が日本を征服し根をおろした頃、それまでの弥生人(一般諸民)の信仰は民族信仰とも言うべき神体山、巨石類をもとにしており超自然的な大地の神霊を拝するというものであったであろう。なぜなら、弥生人も、局部的に縄文人の思想を汲み取りつつ、彼等の神の概念を発展させていたであろうから。そして、神体山や巨石組みは既に二章三。いでみたように、それなりの実効力をもったシステムであるから、弥生人はそれを充分に利用する手段を心得ていたであろう。

涌き出るエネルギーは、石土造建造物により何らかの形態に直して取り出し得たし、生物は本能的にそれを利用していた。また古代人は祈りの力によって、それを理念の世界に抽象化し、やがて現象化の流れに乗って祈った通りのものが具体化されることを読んでいた。この思想は当時の人にとって動かし難い真実であったに違いない。古代哲学や宗教に用いられている観法、瞑想法はクンダリーニ(これは地涌のエネルギーと同じものである)を利用して精神的に昇華したり、現象を意のままにする方法であるとして伝わっている。

皇軍が西日本征伐の折にも、具体的な抵抗以外に熊野の山中で一趣呪詛的な抵抗に遭いこの

めに皇軍の先行きが危機に頻したことが中つ巻には書かれている。それはいわばヴーヅーの呪いとでもいうべきか。熊野の山中に仕掛けられた「猪垣」は決して具体的な合戦のためのものではない。地涌のエネルギーを怨敵撃退の方向に集中する呪術的設備であったのだろう。石垣は呪術的に結界を意味するが、もとはといえば実に合理的な効果のもとに裏付けられた事実であったのだ。その知識は、超古代から持ち越されていて、シユメールの城郭は外敵のみならず、大河の中州にあってまで、水の侵入を結界の呪諷によって防ごうとしたあらわれである。その根元的意味は、火山活動を地上に持ち来たさないこと、またあるいは、業的な障りからの隔絶といった「封じ込め」、「超自然的バリアー」のそれであった。これらはすべて、地涌のエネルギーによってまかなわれると考えられていたのである。

皇室の本来信奉する思想は光明神であった。それは、伝え守るべき知識と一心同体であったから、征服民族としての所期の方針は貫かれねばならなかっただろう。こうして決して無視できない諸民信仰としての神体山や巨石を土台にしたエネルギー信仰の上に光明神を上のせする形で思想的融合がはかられることとなる。

光明神は中東でも信じられているとおり、霊峰山岳のはるか高みにおわすると考えられていた。

(既に一章九節で述べた)このことは、趣旨は違うとはいえ、同じ神体山などの山体を媒介にする崇拝形態として非常にとけ込み易い素地ではなかっただろうか。こうして一方ではエネルギーに対して、一方では光明神に対して、共通した「みたて」的な山体を介して結びつけられたのである。そして、神体山には、それをどこからでも眺めて拝するのではなく、それを諸民の主張にのっとって、禁足の地とした上で、拝所を特定のところに定め、そこに神社を設置して、そこから、集中して拝するという形式を造ったものだろう。

神社の設置場所は非常に厳選され、それは二章三・(9)でみたように、八重垣のラインを生かしている。また、奥つ宮、中つ宮、辺つ宮が奇麗に一線で並ぶような配置を採ったものと思われる。

しかし比較的後世ほどこの原則は薄れてくることは己むを得ず、今でも残る官幣大社級の旧いものでないと厳選の跡は見出し難くなっているようである。

皇室の意図は恐らく身近な神体山にはなく、むしろ全国に散在する山並み豊かな山岳に求められたことであろう。そして山岳名も、高原山とか、高御位山とか、高山とかいった「高天が原」ゆかりの名前がつけられ、後に仏教の侵透と共に釈迦が岳とか須弥山を思わせる山名がつけられるに至った。いづれもより広大な神域をその上空にみたてたものであることに変わりはない。しかし、この異和感をかもす二つのみたて信仰がやがて神体山信仰から神社の社殿信仰への遷移衰退を引越こし、加えて諸民思想的な施策が充分でなかったことから、神体山が禁足の地、侵してはならない地であるという考え方が早期にすたれていったといういきさつを推理する。

では、神道概念はどうだったのだろう。諸民信仰の崇拝形態の中に祭祀の原型が既に在り、古伝的な思想がそれをバックアップしていたと思われる。これが自然神道の起源であろう。そこに光明神信仰が一つの知識の体系を携えてはいってきた。従前の思想および民族の存在は、この知識体系(神話の原型)の中の局部を占めるものとして位置づけられ(大国主の時代として)、それにとって替わって皇室の登場がやはりその体系の中で後置される局部として位置づけられた。

では諸民(弥生人)の起源的思想である縄文文化はどうかと言えばやはり最も前置されるべき局部(スサノヲ神話)に位置づけられた。こうして、皇室のもたらした知識体系は様々な場合を網羅できる万能のものとして認識されたことと思われる。

高天が原思想の優位性は予言書的正確さで認識され、なおのこと存続の必要性は深まったのではあるまいか。こうして、神社神道の側で知識体系は吟味し直され強力な思想として定着する。

そこでは知識体系の局部的受け持ちが決まり、様々な地方の神社に配分される。ある所では天つ神あり、ある所では国つ神あり、あるいは海神ありで各々受け持ちがなされ、知識体系という中央集中の一つのまとまりの中で幾多の地域がまとめ上げられることとなるわけである。

伏線その三 理念の定型パターン

以上観てきたように、時間、空間的スケールを異として非常に似通ったパターンが適用されていることがお分りになろう。歴史のもつ定型パターンと言えるものである。(図3 ・2)

ところが我々の生活レベルで適合するものとして、日常食料としている稲や麦などの一年性草本の成長過程がちょうどこれに当てはまるのである。伏線(3)は共通的な理念のパターンを並べたものであるが、これと穀類の生育とは次のように対応がとれる。

ここで再び、古代イランの神話イシュタルの冥界下りと穀霊タンズムの蘇生のくだりが一つの手がかりを与える。この物語が、古事記のイザナギの冥界下りとイザナミ救出の失敗諄と、共通していることは既に述べた。その語るところの差は人類史の蘇生と、一年性草本の蘇生のそれであるが、根底にこの理念の定型性が存在して両者に共通点をもたせていると考えられる。よって、この理念の定型パターンは確かに古代人が意識していたところのものであり、起源は古いものであることが分る。古代人は穀類の中に人類史、地球史、宇宙史、などの多くの重要な歴史の流れを観て取っていたわけである。つまり、穀類は生滅変転してやまぬ歴史のシンボルであったのだ。

これが樹木などではあらわせない道理である。しかし樹木はもっと永続性を保証するゆえに、現象界からは遠く離れた恒久な「知恵の本」などのモチーフとして使われたようだ。

◇   ◇   ◇

古事記を調べると古代人の思想が自づと分ってくる。その思想も決して日本のみに偏ったものではなく、世界の共通した考え方であるので重要である。世界共通思想である理由は、一章で述べたように古代思想の原点が出所を一つにしているからであり、古事記はその出所から生枠のままで高度な保全手段を構じて口伝されたものの精随であるからである。

ここではその思想を順次テーマ別に考えていくことにしよう。

三、古代人の考えていた世界の種類

古事記に語られる世界(空間)の種類を図3 ・3 (次頁)に示す。それは古代人が我々の現世を中心にして考えていた世界の構図を与えるものと思われる。その中の少なくとも高天が原、海原、黄泉の国、根の堅州国は海外の神話とも共通の素材である。

高天が原は何にも増して重要である。現世の汎ゆるものを生起させ、移りゆく様を鳥観する位置にあり、万物の原型的理念(荒御魂)を充満させ順次下位へと変化させ押し出している無限の高所と考えられた。五次元以上の世界というものかも知れず、また我々の世界と少なくも時間軸を共有する超空間というのかも知れない。それは、古代中東のハラーブルザティー、ギリシャのオリュムポス、インドの須弥山で示されるように山岳地帯をモチーフとしている。

常世の国は常夜でもあり韓(空)でもある常に暗い真空のいわゆる宇宙空間である。少名彦名(小人の宇宙人)はそこから天の輝身船(UFO)で地上に来て再び去って行った。

葦原の中つ国は現しき青人草(人類)の住む理念顕わしの舞台である。高天が原に対して葦なる原であり、「葦」が示す通り、春には芽生き、夏に生い茂り、秋に地上部を枯れさせ、冬に地下だけで過ごし、春を待つ多年性草本としての性質をもつ世界のことである。古代人はある時は穀類、ある時は葦に、この世界をなぞらえた。

いづれも弱く空しい草本としての現世観が与えられていた。

山は中つ国の内にあるが、常人の往かぬ所とされた。神(理念)や霊や死者が昇降するところであり、神託者か賢者か世捨て人の往く所であった。

海原は海とその水平線のかなたにある生命の淵源たる亜空間であり、汎ゆる超空間と交わる波動の海原のことである。ここを経由することにより、非常に遠い天体にも(相対論的効果は無視できないにしても)短時間に航行できるらしい。そしてその先にある綿津見の神の宮(龍宮城)は地球から数十~数百光年離れた天体または超空間であっただろう。ギリシャ神話のオーケアノスとその涯にあるヘスペリデス、そこにある生命の樹を求めてゆくヘラクレス、古代イランのフラークカルド海の深淵にある白ホーム樹、これらは同様のモチーフをしている。

黄泉の国は、死者が赴く異空間である。それは時代という大きな死者にも人という小さな死者にも適用される幽界(冥府)であるが、現世の腐敗した惨状や腐乱死体を埋葬する墓地にもたとえられる。このため暗くじめじめした地下にあるとも考えられた。アトランティス文明は死んで肉身(イザナミ)が腐敗したままの状態で冥府にとどまったが、霊魂(イザナギ)は脱け出して身を浄め天界へ昇華した。ギリシャでは冥王ハーデースの居所とされ死者はヘルメースに随伴されて斑犬ケルベロスに見張られながら暗い辻道をそこへたどったという。古代イランでも光明の女神イシュタルは毎年のように死ぬ穀物神タンズムを救い出しに冥界に赴くとされていた。

根の堅州国は超人的賢者(スサノヲ)と地下の火(マグマ)と鼠(根住み)の居る地下であると考えられた。そこは地下の火を幽閉し、自然の基本的な猛威を制御する場所とも考えられていた。スサノヲは表からでは分らない仕組みを地上に張り巡らし、地下の火を制御した。ギリシャでも地上で火山や暴風として荒れ狂うチターン神族が今やゼウスの手でタルタロス(地下)に幽閉されるという。その中にはサイクロプス(火山)やヘカトンケイレス(百手マグマ)やテューポーン(暴風)が居る。

以上の世界に対して神々は図3 ・4のような分類ができる。神と空間は必ずしも一致しないことに注意が要る。

四、万物を生滅輪廻させる草本の理 念と樹木の思想

古事記の神話とは一体何であったか、これをまとめてみると、汎そ一半は歴史事実を語るものであると共に残り一半は歴史展開に関わる理念の世界の意志の流れ、つまり理念世界を客観したときに把握される出来事を語るものと考えられる。

前者は一通り(一意に)に決まるが、後者は漠然としている。しかし後者は、ある特定の場合に前者と一致する。この性質は素粒子を扱う時に考えに入れねばならない粒子性と波動性のパラドックスに似ている。波動的な理念に対して、「時」を限定すれば粒子的足跡としての歴史が示されるというわけである。筆者はまさにこの「時」を与える方法を神話に適用した結果、前述の伏線を見出せているわけである。またこのようにして、神話から過去に生滅した二時代分の超古代史を見出せたわけである。そしてこの場合が最も適切な解釈が得られたので主線に据えている。

神話を考えるときに、物理学的解釈ができるとすれば、逆に「理念」というものの実態がモデル化でき把握し易くなる。「理念」の量子場としての把握法は予言のメカニズムを考える上で役立つし、実体にかかる理念を分析し計算すれば未来予測すら可能になると思われるのである。また古代哲学が観念論的に難解な言葉でこの実態を修辞していたものに対し、現代物理学的見地から妥当なものとして古代の側につき上げることが可能となるのである。第四章では古代科学観と現代科学観を融合する概念を述べることになるが充分に吟味されたい考え方である。

では、理念についてもう少し考え方を鮮明にしておこう。

理念は中国古来の言葉「気象」にあたる。これは時の兆候という意味であるが、前提的に時の経過に併い成りゆく模範的定型的パターンが予じめ想定されている。それは最も大きいパターン「太極」の中に細かいがそれほど多くないパターンが在りそれが天工の造化によって適宣用いられるとする。古代インド哲学ではこれをブラフマンとしていた。古代人は、この定型的な内容を何らかの方法―それは超能力者をしてアカシャの本源を観察せしめたのかも知れないし、あるいは長い過去の歴史から統計的に潜在する本質を導き出したのかも知れない―で知り、その時々に生きた人々は日常のなりわいの中に時のしるしを見出し、 一体今がどのパターンの中のどの位置にあるかをいつも考えていた。それは凡その場合、占星術とか奇門遁行の兵術とかの形で秘術化したが、マヤのように民族共有のものとしたところもある。

理念の性質は、ある典型的な定型パターンを考えると、第一に「生・成・ 衰・滅」の波形のまとまりをしていることである。釈迦は「生老病死」の問題意識ゆえ出家したが、このときの「生老病死」とは決して人間に介在する煩悩のことではなく、天地万物が共通して抱える普遍的性質ひいては神仏の本性を考えるためのテーマであったと考えられるのである。日本にも輸入されて万物具有のはかなさ「無常観」として伝えられた。

第二に波動のように、または一種の「場」のように他の理念や実体に演算子的に掛かっていき、その性質を付与することである。その結果、大小長短様々な成りゆきがこの性質を滞びて、ちょうど波動の重ね合わせ、量子場の掛け合わせのような格好で理念の空間で組み上がることとなる。

実体はその動かし難い結果、あるいは観測時間を投入された結果として生じてくる。そして、理念と実体の境界にはこれ以下の時間の設定が不可能であるという観測限界があり、ミクロの不確定性がありえているらしい。そして現象は様々な理念の重ね合わせであるので、ちょうど歴史とは光の干渉縞のように多彩な類似パターンをその中に含みつつ、大域的に繰り返しているものと考えられるのである。

マヤ人はこのパターンを予言として口伝した。そしてこれは一担成就すればそれで終りになるのではなく、再び強い確信と共に訪れてくるものとされた。近い頃の伝承では、カトゥンの予言、トゥンの予言などとして記録されている。カトゥンは二十年を示すが、十二期分が予言され三百六十年でサイクリックに巡るという考え方を含み、様々な伏線的サイクルを持っている。旧約聖書も予言とされる。それは主線としてユダヤ人の宿命を語り、既に多くが成就してきたとされている。しかしその中には今後に通用する予言が多くみられるとされ、このため最近の予言ブームの中に再燃してきている。これは、定型の理念がスケールや要素を変化しつつ繰り返しあらわれることを示している。

さて、「生・成・衰・滅」の定型パターンは確かに我々の世界においては汎ゆるもののなりゆきの中にありえている典型的なものであるし、表3 ・1の七段階の移ろいはその中でもまた多いタイプのパターンである。だが、古代人はこのような変転きわまりないパターンよりも優性でかつ安定したパターンの理念の存在することを考えていた。それが、樹木のパターンである。

樹木の思想

歴史のオーソドックスなスタイルは穀物のような一年性草本、または草のような多年性草本として繰り返すと考えられた。しかしこれは人類最大の疑間であり古代人にとっては是非とも解決せねばならないことであっただろう。それをある民族は神の所望と考え、それに甘んじる中に超然たる生き方を見出した。またそれを打開する方法を求める人々もあり、そのような中に釈迦が居た。彼は、表面的な現象宇宙の深奥に決して生滅することのない永遠の仏土があると考え、生滅してやまぬ現象宇宙をマヤ(幻影)であると観てとった。

この概念はもっと旧くペルシャにもあった。汎ゆる世界を囲続するアフラ・マツダの世界が永遠に安定的にそこに在ってこれらの世界の成りゆきを鳥観すると考えられていた。問題はどうすればその世界に到達しうるかであるが、その点についても、 一つの概念を持っていた。それは簡単に言えば、「天則にかなうこと」と「最高智を得ること」であった。前者は神の所望に従順であることであり、人の心がけしだいでまだしも容易である。しかし後者は、それがどのようなものであるか分らないばかりか、 一度は人類に付与されたものの、神の怒りにふれて遠ざけられたと伝承するところの注「知恵の木」であった。

なぜ「木」に讐えられたのだろうか。考えられるのは、 一つとして現代でも学問体系をよく一つのツリー図にして説明するようなことがあるのと同様に、非常に広範多岐な知識の体系が実際に在ったのだけれどもその表象だけが伝えられたのではないかということである。それは超古代の高文明を前提にすれば考え易い。またあるいは、最高智の体系はアカシャ(理念の知識部門)の世界に厳然として樹立されていたものを言うのかも知れない。なぜなら理念界は逆トリー構造をしており、上層に幹があり、下層ほど詳細な枝葉をかもしているとみられるからである。(図3 ・5)そして人々は、これを得るべく、この内容を知るべく、知覚力増大の修行をおこなっていたと考えられる。釈迦は、成仏するために阿褥多羅三貌三菩提(仏の最上の知恵)を得べきことを説いた。

そして彼は瞑想を通して菩提樹の下でそれを得たとされている。また将来仏である弥勒菩薩も竜

樹の下で成仏するという。ともにここでいう「樹」とはアカシャの本と考えれば分り易い。

古事記の場合、直接的ではないが、「天の岩戸」の節で最高科学力の粋を掲げておいて、それらが一本の「五百津の真賢木」にまとめられていることを語っている。マサカキとは真逆木であり上下逆さまの本のことをいう。そのうちの初枝にかけられた「八尺の勾玉の五百津の御統の玉」から生まれたのがアメノオシホミミ(最高知の体系)というわけである。図3 ・5はこれらの言葉を解くキー表象となっていることに注意。

また、もう一つ考えられることとして、これを得ることにより永遠の命が得られると考えられていたことから、草本に比べて永遠に近いシンボル常緑樹がその表象として採り入れられたのではないかということである。このときの永遠の命とは人間の寿命のことではなく、興亡しない永久安定の文明をもつということが原義であっただろう。

いづれにしても樹木に暗示されるものは個においても全体においても獲得すべきものであり、神の所望に従順であることと共によりよき未来の理念のために必要とされていたものである。

法則は法則として従い、それ以上のものを出し合って、新しい輝かしい法則を持ち来たすことが本命とされたのであろう。

古事記の伝承も、やはり人類にこの最高知識を与えることがためらわれたことを物語っている。しかしこの場合、神のねたみなどによるのではなく、人類の資質に問題があり、理念界の高みに据え置かれたとしている点で、海外の伝承とは異なる意見をもっている。それは、いきさつが詳細であるだけにより真実を伝えていると思われる。

最高智獲得の課題は古代世界共通のものであったと考えられる。これを考える民族の主義主張に応じて様々に変化したと思われる。例えば、ギリシャでは神話の中に満たされぬ願望として表出し、半神半人の英雄ヘラクレスに知恵の本の実を取って来させている。古事記でも山幸物語の中には、この往来かなわぬ世界への憧景が込められていると言えるだろう。

五、古代人の理念世界の考え方

理念の前提的存在の観念は古代世界共通の思想である。理念は具体的な形をとってあらわれる以前の抽象的、高次元的な情報であり、我々が何かの行為をしようとする時の直前に閃かせるものである。これは人間ならずとも時間の流れが万物に与える変化の素となるものである。

理念が現象化してくるときのステップは汎そ次のように考えられていただろう。時の経過に併い、最も大雑把な理念(荒御魂)が理念界の上層に徐々に落ち着いてゆく。時の経過により強力かつ鮮明になるにつれ、その詳細な理念(中御魂)が他の様々な理念と掛け合わさって下層に形成されてくる。これゆえ和御魂という。それが同様の経過でより下位へ下位へと退り、ついに現象界の極近のところではほとんどの詳細が鮮明になった形で現象の事物に掛かってゆきそのなりゆきを変化させていくと。そして現象化が果たされれば、それをもたらした理念は順次消去してゆくことになる。また、最上層の理念は単一でも最下層になると非常に多種多様となっているが、その関連樹の全てが終了して始めて理念は完遂したと言えるのであると。

たとえば「火のカグツチ」という理念がぁったとしよう。それは下層に多様化して、「イハサク」、「ネサク」、「火のヤギハヤヲ」などの戦争の付帯性質を展開し、現象界には非常に多種多様な戦争形態としてあらわれることになる。だが理念は始めから最も鮮明な形をしているのではない。

段階的に鮮明になってくるとも言えるし、またあるいは、その理念の範囲内で無限のケースが在って状況に応じて取捨選択されてくるとも言える。実際の現象はあくまで実験炉の中の出来事ゆえ理念はこのためにどのような変化にも対応すべく波動的な柔軟さを持っているのである。だがそうするうちにも時間的経過は多くの細部を確定したものに暫時変化していることは確かであり、事態を変えようと思っても、手遅れになる確率はそれだけ大きくなるのである。イザナミ救出の物語でみたように「くやしかも、速く来まさず、吾は黄泉つ戸喫しつ……」の結末になることが多いということである。時の兆候は様々な方法で観ることができるようであるが、何の対処もせずに放っておいたら変わるものも変わらず、宿命的様相を呈してくるというわけである。

さて古事記では、理念の展開の階層を三段階にして表現している。それを図3 ・6に示そう。

これらは、「道」、「川」、「火」に讐えられている。そしてこれらの階層関係を端的に示せるモデルとして、細胞内物質を考えてみる。細胞内は一つの歴史の生産を営む世界である。

アミノ酸の生産にたずさわる酵素はDNA核の存在を一切知らない。ただRNAに運ばれてくる限りの情報を受け留めて、これを全体だと認識(する能力の有無は別として)する。その結果のまとまりが一つの臓器を円滑に動かしているのであり、これと全く同様の原理が宇宙にも適用されていると考えられるわけである。

「奥つ」、「辺つ」の意味と無限階層構造

理念の階層的ブレークダウンの過程を示す言葉に「奥つ」、「辺つ」がある。「辺つ火」というのは「かまど」のことであるとなっている。これは、今でも地方で「へっついさん」と呼ばれている語源である。これは総じて衣食住に関する物質的充足をもたらす知恵のシンボルである。逆に、「奥つ火」というのも、対隅の位置に考えられていたことが推測できる。これは、精神的充足の知恵のシンボルであると共に「辺つ火」の元なる理念のことであろう。また、「奥つ」は、左(日垂り)の方を意味するが、明らかに理念の垂述を物語っている。

また、「辺つ」は、右(身極)を意味し、確かに現象の側を示す言葉だ。よって、ここでも、道や川の概念にみた拠点の考え方がなされていることに注意したい。

また、この配置は、相対的なものである。それは既に二章三・(6)節でみたようにより広域という観方に立てばその関係はまた変わってくる。まさに、無限の広がりの中で任意の空間座標を設定するものである。また、一つの座標がまた別の座標の一部であったりしている。

たとえば、最小単位が神社の本殿―拝殿―鳥居であったとしよう。一段階上がると神体山―神社―御旅所となり、次に神社(奥)― 神社(中)― 神社(辺)あるいは神体山(奥)― 神体山(中)― 神体山(辺)となり、次に、霊峰山岳―山ろくの神体山や神社などの霊所―街や都市となり、もしかしたらさらに日本から海外へとラインで結べる関係があるのかも知れない。(図3 ・7)

実際に日本にある限りにおいては筆者が既に明らかにしているとおりである。
なぜこのような形態にしてあるのか。それは理念の降臨する段階的経路にあわせたのである。

今までみたように時間的経路などの抽象物の流路を空間的な表現に置き直しているのが古代人の特徴だからである。理念の降臨を空間的にみたてるとき、たとえば神の加護が実際に村々に効果としてあらわれてくるのは、まず神体山に降臨し、次に神社、さらに鳥居を経て村の津々浦々に配られると信じられたから鳥居の前に民家が並び門前町となったのである。特に祭神が水分神であればなおのことである。このように階層構造的な配置の仕方を古代人は意図しておこなっていた。それはとりもなおさず、彼等の元なる思想あるいは知識に根ざしていたのである。

古事記に語られる美事な理念展開のストーリー

古事記には理念展開の多段階程が省略され、三段階で顕われるというモデル化がなされている。その例を図3 ・8に示そう。

過去の歴史では、オシホミミに示される最高智の体系は地上にもたらされることなく、理念界の高所に引揚げたままとなった。

この原因は「中つ国は、いたくさやぎてありなり」、すなわち地上の意識レベルが粗野であることにより、この後もニニギの産まれたことにより据え置かれたからである。

かわってニニギ(高度物質文化)が天の浮橋(理念の中間段階)にチャージされ、その結果コンピューターや通信機器、土木建設機器などがその一環としてもたらされ、そして最終的にニニギ自体の降臨による理念完遂となる。

まさに、古事記は正確に展開の経過を順を追ってえがいているのである。

また、イザナギ、イザナミニ神の造化についても同じことが言える。この場合もやはり天の浮橋にあって天体や地球が理念のブレークダウンの原則に従って創られていることを示している。

神々の系譜は理念の因果の連鎖を語ろうとする

神々の系譜図は時間経過に併う理念の誘起発動を語るものである。この系譜が天地創造の当初から連綿と続いてきていることは、宇宙の開始から現在に至るまでが一本のプログラムの中でおこなわれていることを示している。これは、当り前のことのように思われるかも知れないが、重大なことなのである。なぜならこの中に含まれる小単位のプログラムは何度も一からの出直しを余議なくされているからで、今後途中坐折が無いとは言えないからである。

系譜上の親神は子神を包含するものであるか、もしくは子神の誘起要因を意味している。通常親神は男女二神であるが、時には一神であったり、媒介的な要因が補助する場合もある。それを表3 ・6に掲げよう。

理念は単身の場合もあるが多くは二神で下位へ結果を折し出してゆく。そしてそこには媒介が必ず在ってその権化として現実が動いているという形態をとる。我々が通常考えるのは、このような媒介からの段階がせいぜいで、それを動かしめている源までは考えたりしない。またもっと悪くすれば、より結果的なものしか考えないかも知れない。たとえば、島生みのため天の沼矛(磁場)が「漂へる国」(プラズマ星雲)に介在しているところまではよく分るが、二神がそれを書き動かしているなどとは夢にも思えないことである。しかし、古代人は因果関係的な親も含めて、超次元的な実体を意識していたのである。

理念界の浄化のなされ方(理念界の流産)

また、理念の領域の浄化についても語られる。詳しい手法は定かではないが、ここでは「水」にたとえられる何かが用いられている。時代と時代の接点に理念界の中流域の浄化がなされ、それ以下の地上に至るまでの段階が浄化されたことを示している。

浄化の方法は「水」であるがどうやら「出雲八重垣」のところでみた、不可見のエネルギーがそうであると思われる。というのは、銅鐸の流水紋が農耕に多大な影響力をもつ八重垣エネルギーを示していると考えられるからであるが、古代人はこのエネルギーを「水」に例えるものであったらしい。水分神は雨司の神であると共に、山の神でもあったが、それは、エネルギー供給が起源になっていると考えれば全て合理的につながるのである。

そして、このエネルギーは想念と相互作用し易いこともあり、想念の力で浄化の理念を理念界の中流域で発生し、その発生点に自紙化プログラムを繋げたのであろう。これがイザナギの「中つ瀬に降り潜き」の行動であらわされる物語となったと考えられる。イザナギ自体理念であると共に、実行者なのである。白紙化(浄化)というのも理念であり、顕わされるべきものである限り、地上に投影する時には合理化されて恐るべき水天体の地球衝突というあらわれ方をしたのである。それは急激な浄化の方法であった。

ところでこのとき、上層部の浄化までは、「瀬速し」の理由で、なされていないことになっている。このためであろうか、我々人類は、かつてあったのとほぼ同様の歩みをしている。今やコンピューターは日常生活にも入り込んできたし、そのネットワーク組織が随所で登場している。

土木工事とて同じである。さらに今後核兵器の使用が無いという保証はない。理念の完遂も間近な気がするが、果して今後どうなるのだろうか。究極的なターゲットであるオシホミミは持ち来たされるのであろうか。

六、古代人の 認識していた神の恩籠、生命環境制御システム

地球上に設置されている生命維持、環境制御のための機構はかなり多彩に登場した。それらはほとんどが時代の入れ替え期に起きる地球上の大事変に対処するために用意されているようである。それを次表に示そう。

「豊玉姫」物語で念を押すように語られているように、人類文明史は地球という一つの実験炉の中でおこなわれる試し火の過程であるという考え方はこれでほぼ明らかになろう。一つの実験が成功する失敗するというのは我々のレベルの分別智では何も言えないことである。しかし、恐らくは一つの実験が終れば次の実験のために様々な環境条件が復元されるのであるということは言える。

一つの実験の終了と共に、惨劇の軽減、種の保存、そして時代の閉幕のためにUFOが大飛来し、情性で殺戮を続ける軍隊を撃退するということは理にかなっている。また、地上の汚物の浄化のために荒療治であるが、水天体を衝突させる如きは天の知性の超科学力からすれば難しいことではなかったであろう。このもたらす泥土により、毒物は洗浄され、全ての前時代の遺物は泥の下に埋め尽くされる。それに併いそれまで援徐に動いていた海洋浄化ダクトがフル回転すれば、短期のうちに無機的な下地は回復されるだろう。そして、しばらくの凍結期間の後、地球に宇宙機と化すシステムを設置することにより、新たな理念を賦活し、地磁場を蘇らせ有機的な下地の回復がはかられれば、新年を迎える準備が整うというものである。

すると今度は、かの天体の力学的影響で歪んでいた地殻が火山活動を活発化させ生命の発展を脅かす。このためこれを逆用して生命の賦活に効用すべく、知性は地上に呪術的なメガリスやマウンドの超科学システム「出雲八重垣」を築く。(この辺はSF的破天荒さであるが、ただ信じてもらうしかない)これにより、地エネルギーは変換され、生命活生エネルギーとして地上の生命体をはじめUFOの動力源としても幅広く活躍することとなる。地球はかくて生命が繁茂し、宇宙を旅する船人のオアシスとして不可侵の秩序が守られると共に、人類の知らぬうちに宇宙文明の根拠地となり、 一つの高度な計画下に参入しているという具合である。

また、このエネルギーは理念界の新陳代謝を高める働きもする。たとえば、先程の水天体投入の前段階として、理念界の自紙化(アボート)手続きもおこなわれている。このためのエネルギー源は、やはりこれしか無い。なぜなら、この八重垣エネルギーとは正しい用い方さえすれば、高次元の高みにまで作用しうるほどの昇華力を持つというインド哲学でいうところの地中の蛇クンダリーニであるからだ。そして、出雲八重垣に相当するものは表3 ・7における前時代にも存在した、というわけである。 また、「八俣の大蛇」とは必ずしも火山活動や火山帯を示すものとは限らない。ちょうど人間が肉体部分と精神(霊や幽体)部分の複合体であるように、どのようなものにも精神がある。一説によると、人間をはじめ生物の出す破壊的想念が理念界の低所に「業」として蓄積し、それが地下に沈み火山エネルギーに転化しているという。

そればかりか、人々の思考上に投影して破壊的、悪魔的な衝動にかりたてるという。

古来より卵をとりまく蛇のモチーフがあり、暗に世界を示すとされていた。

蛇はどの神話でも良くないことをしでかすものに醤えられるが、これが地球をとりまくような格好で存在する業想念帯で、本来の理念が天降ってきてもそれを破壊的な方向に偏極し、生命系の潜在意識を通して日夜破壊的衝動やトラブル、あげくは戦争を起こさせ、実験炉のなりゆきを低質なものにしているとすれば実に問題があるだろう。

蛇は汎ゆるまとまりをみせようとする働きに逆らって、それを熱エネルギーに変化し消耗する摂理のようなものかも知れない。それは業想念帯という精神部分と、火山活動、戦争、破壊といった具体的部分の複合で成っている。そしてそれは、逆の良い方面の摂理である生命的組織化の摂理とやはり重合する格好で世界の歴史を形成してきているわけで、宇宙の法則から熱力学第二法則を外せというのが不可能なように、業的事象を取り去ることは不可能であろう。それでもこの働きを抑制して、バランスよく歴史が運行していくように地球には優れた設備が置かれているという考えができるだろう。

いま一説によると人類が光明化想念をもってすれば、宇宙にはそれを増幅して業想念を対消滅すべく作動する地球外知性の築いたシステムがあるという。この考え方も八重垣システムの効用を述べているのであろう。八重垣エネルギーは二章三・(十六)節でも述べたように「威儀を正した祈り」の想念に感受して、具体化するからである。これを知らせるためにわざわざ御諸の山の神なる知性が訪れてもいる。このようなことから、地球をとりまく、物心両界のエネルギー循環系を考え、その中で宇宙の知性がもたらした環境浄化システムがどのような働きをしているかを図3 ・9 に示すことにする。

こうしてみると、地球は一個の生命体である。そこには可見と不可見の領域に渡る循環系があり、さながら人体の仕組みを見る思いがする。その中で業的事象は一種の疲労物質であり、この除去のために肝腎に相当する環境浄化システムが日夜活躍しているというわけである。このような対策が予じめ施してあるからこそ、今の時代の無謀な公害や汚染にも自然は未だ破壊し尽くされず残っていると言えるだろう。自然の浄化作用と我々が思っているものの多くは、実は地上を一つの実験系たらしめている知性の厚情の賜物によるものである。だがそれはどこまでも万全とは思えない。特に次の二つの面で心配されるものがある。

一つは、人類の横暴に基づく汚染の最大のもの。核戦争になれば、決定的なオーバーワークをもたらすだろう。二つは、国神族の反乱とも言うべき、自然の猛威の復活である。火山の爆発は水爆に匹敵するほどの大気汚染をもたらす。これは八重垣システムが有効に働く限り大文夫であろうが、山野の乱開発は明らかにシステムの援徐な破壊を引起し、活力を弱らせていないとは言えない。そればかりでなく、システムの機能が効果的に活用されねば地球生命も文明も早い老化をきたすことになるのは人体と同じである。だがこれも活用すべき人類の考え方の問題で効果的活用には程遠い。結局のところ、本当に心せねばならないのは人類なのであり、多くの人が真知に立ち帰り、知識者が一丸になっての大運動が今日下の急務なのである。

古代人は、これらの事実を、体験者、観てきた者、地球外知性などから聞いた伝えなどを着実に守って、彼等自らその意義を理解していたと思われる。神道をはじめ、世界の民族の宗教はこぞって祭祀を教儀の中にとり入れ、自然的な浄化作用を賦活することに心がけてきた。祈れば理念界にその種を播くことになる原理を活用していた。鎮護国家、豊穣、世界の安定、よりよき理念の天降らされんこと等、実に様々な祈り方がありえただろう。それらは全て超科学力を駆使する神への従順と信頼により形成された方法であったことは間違いあるまい。

歴史の表層的流れは、しだいに単なる野望で動く者の手に渡り、価値の転倒が起こったが、過去の貧しくて豊かな人々は、今なお多くの人の中に見受けられる。これは人が本質的に霊であり、かつての記憶を持ち来たしているからと考えられる。このような人々の純粋な結東と新らしい動きこそが陰惨な破局を回避することに繋がると確心されるわけである。

七、新嘗の思 想

先程来の説明においても、現象世界の歴史の生滅は実験炉の性格を持っていることを繰り返し述べてきた。

実験炉の中における作用分子としての自分を古代人達は認識していたとするなら、それを運行する神への奉仕という大きな役割の観念で行動することを旨としていた彼等の生活態度がかなり鮮明に理解できる。

そのような彼等が一体報酬として何を求めていたのであろう、と考えてみると、恐らく、日々の生活のかてである食料を得ることだとか、金銭を得ることだとかいった観方が一切できなくなってくるだろう。彼等の全てが全てそうであったとは限らないだろうが多くの人達は、食料を得ることは一つの手段であり、生きることすらも手段にすぎずただ歴史の流れが今日下何かを要求しているのであれば、それを神の要求として認じ、それを遂行することを真職としたと考えられる。

ある時にはただ、次の子孫が何事かを成すことのために種族の維持のためにのみ精を出し、ある時には、天命を知りその催しを率先して遂行したのであり、そこには神に従うというただそのことのためにのみ「生」があったと考えられるのである。大ピラミッドやマウンドの造営、穀物の栽培、収獲、祭礼、それら全てが、神の認識と繋がった中に労苦の軽重を問わずおこなわれてきたのである。

神の要求を知る手懸りは、 一つは予言書であり、 一つは時に応じなされる神託者の宣言であった。神話は予言書であり、時の兆候をその中に知り、その時々に応じた事業が神託者の指示でおこなわれねばならなかった。それは何も中東のみにとどまらぬ日本も含め世界共通の古代人のやり方である。

そのような彼等が重要と考えたものは、彼等がその役割のために生まれるきっかけとなった本源なる神への帰命であっただろう。このため、死後の世界観はどの民族でも共通して最重要テーマとされていた。日本では、それが巨視的な時代の終了とその死後とも言うべき時代の有様として伝えられている。それはしかも個人の死におけると決して相違するものではない。 

一つの時代が病める状態から荒涼たる死の黄泉の状態に遷移する。ここで歴史の精神はその惨状から綿密な身楔をおこない、新しい状態へと翔いてゆく。その先には新しい形をもった魂が八百萬の神のとりまきの中で暗黒の中から光明の中に身ぶるいして昇華してゆく有様としてえがかれる。もちろん、この時には二章三・(七)節で述べたように宇宙人が八百萬の神に仮託されている。この宇宙人(宇宙文明あるいは霊系宇宙の使い)こそ地球上を実験炉としている神(または神の使い)なのであり、特別に目通りのかなう者(天則にかなった者)こそ理想的な神の意にかなった者と考えられたのだ。その通り、宇宙人は実歴史上ではちらほら姿を見せ、何かを暗示するのみであり、実歴史が終結したと測られたその時点に突然飛来し、次代のために必要な措置を構じるのである。

個人的死の際には忽論(天意にかなえば)神の世界(霊界)に往くことが心霊学的にも言われていることである。(仏教で言えば成仏すると言う)そして次の転生の機会を待つ。同様に文明のサイクルの継ぎ目も次の時代の準備期間中は神と会見できるチャンスであつたのだ。仏教では大乗と小乗の分類をしているが、元義はこの辺に求められるのではないだろうか。古事記は観念論の書ではなく、科学書であった。このゆえに、実体験的に宇宙人と会見できることを神と会見するという位置に持ってきているのである。

かくして、新嘗は、役割を下された神との再会に焦点が絞られる。そしてその期間中に人々は新たな時代のために威儀を正し、再出発に備えるのである。そのような新嘗のサイクルは自然界の定型パターンによれば非常に多種多様なケースとして設定できる。中でも一年性草本穀類のパターンに従って、一年に数回とられるのがオーソドックスである。

人々にとってはサイクルが余りに長すぎても短かすぎても、新嘗の意義が風化してゆくと考えられたのであろう。現在新嘗の習慣は、決してそうは思わないけれども、朝夕の仏壇、神棚の前で手を合わせる行為あるいはキリスト教ではざんげの時間、イスラム教では聖都礼拝の行為などの中に見出せるのである。それらはの本義は、神と心の中で再会をおこない、過去の禍ちの白紙化と新たな次の局面への再出発の覚悟を固める手続きなのである。

八、「命(みこと)」と「顕わし」の原理

古事記の神話においては、歴史の流れがちょうど舞台劇のように脚本と舞台設備と配役で成るといった観方がなされている。舞台設備とは、法則である「神」であり、脚本とは、神話に語られるような大筋の理念であり、「命(みこと)」がこれに相当する。そして配役は、「みこと」を分担して舞台上に表現していく「現しき青人草」すなわち我々人類と言えるだろう。「みこと」は人類が分担して負うべき役割とか使命とかいうものであり、「神」の提供する素材を使ってこれを表明していくのである。少なくともこれが「神」と「命」の意味であろう。

古事記の神話は、理念世界を読み取ったものであるだけに、様々な歴史展開が縮図化され集約されている文献である。そして実際に地球上には幾度も類似した理念が適用されてきたようである。

そこには、「種子期」、「土台構築期」、「基礎形成期」、「充実期」、「変化期」、「爆発的開花期」、「急衰退消滅期」の七段階の歴史経過があり、その各々を構成するために、詳細な「命(みこと)」が存在している。そして人類は集合意識的にその一つ一つの「命」を受け持ち具体化していくのである。

古事記も中つ巻以降になると、個人に対して「命」の割当がなされており、理念も細部的には個々のレベルにまで、ブレークダウンすることが示されているようである。もっとも、どのような人も、単一の理念のみにとどまらず、複数のそれを併せ担っているわけであり、誰がどのような役割を持っているかを一概に言うことはできないほど多重畳していると考えられる。

古事記では、理念の段階にあるものを「顕わす」ことが重要であることが何度も説明されているのだが、「顕わし」は至ってビジネスライクにおこなわれ、顕わし終えたらもう舞台上には用は無く、ただ去っていくだけという淡々とした観方になっている。これは神話が高能率に集約化されているからというわけでもない。役割を終るまでが寿命という意味なのであり、それ以降は、墓に葬られ、手厚ければ「斎き祭」られるという具合いである。

ちょうど人間も「命」を担って生まれ、その「顕わし」が終るまでが一生なのであると言えよう。「命」は生まれた時から担うものもあれば、後天的に付与される「命」もありえる。また「命」の中には我々が多く善悪と分別することも含まれている。しかし、事の善悪や受け持つ「命」の好き嫌いを超えて「顕わし」はおこなわれてゆくものである。そして個々の具体化が集合されて大きな「命」が歴史上に登場してくるのであり、当然かも知れないが、歴史の流れはトップダウンされた多種多様な小さな「命」とその「顕わし」の堆積で成立っているわけである。

多くの中には、所期の「命」が果せない場合もあろうし、逆に余分のことをしてしまうこともあろう。これゆえ歴史は一種の実験炉としての性格をもつのである。

また、古事記においては、「命」は斬殺されても次々と新たな「命」を生む。そのように「命」は具体的成果を通じて着実に次の段階に引継がれてゆく。そこには、因果的な流れこそあれ、人間智的な分別は介在していない。では、分別や節度が必要無いのかというと決してそうではない。

個人のレベルでの努力は自分自身のために必要となろうし、その集合である全体的なレベルアップは天降ってくる理念に、より高級なものを期待できることになるだろう。しかし、既に天降っている理念が混屯を所望するものであれば、幾等社会にレベルアップを呼びかけてもどうにもならないのである。つまり、天の所望しない汎そ決まったものの実現を願っても奇跡以外はかないようがないのである。理念に無いものは、顕われず、それに逆らって事が運んだとしても、それは確率的にごくまれな分子の仕業でしかない。古代の賢人は、このことから事始めの潮時というものを時の兆候の中に観てとり、極近の理念の中に熟したものを観破して多くのことを成功させたようである。

だが、もし識る者が天の不合理な所望を改善しようと図るなら、その祈りの時は、今しか無い。

しかも長い後の結実を見込まねばならない。それを良しとするなら今が新嘗のときであり、その思い立った時の積み重ねが理念界の高みに楽土を呼び込むこととなるだろう。輝かしい人類の黄金時代を可能とするなら次の理念界の主位の座に、よりよき理念の鎮座を長い間前以て準備した限りにおいてである。人類の集合意識が求めねば、それは来ない。その求めじめるのは、個人の厳粛な祈りの集合である。

世の多くの人々は、歴史の理念のキャリアーであるし、その実現状況のモニターである。(天神系理念は表現され観測されねばならないから)もし理念が無知迷盲を所望するものであれば、大多数の人々は、どんなに教育を施されても無知であり、迷盲しか演ずることができない。そして残り一つかみの人々は、この無知迷盲ぶりを醒めた眼で観察し、世の迷盲ぶりを嘆かねばならないために相対的な知者となるのである。これが本当なら、もはや諦観しか無いのが実情だろう。

その通り、古代人の多くは、このような観念を持っており、自らを神の僕者と考えて、従順な生活を送ると共に、良き明日を祈ったのである。ところで無知を演ずる人は本当に無知なのだろうか。心霊研究では人間の本性は霊にあり、霊は格段に知覚力が優れるが、地上の作業のために能力を減殺し記憶を失って生まれているのだという。つまり人間は既に述べたような霊系宇宙の派遣者なのである。ここで次のようなたとえ話をすれば分り易いだろう。

天つ神、すなわち歴史の展開を所望する者は一つの大企業と考えられる。だが、天神カンパニーには自社製品を世に出すために多数の従業員が要り、やや仕組みの異なった要員貸し企業(もっとも、「霊」を派遣するのであるが)にこれを求める。この要員リース社は「神産巣日」と言って、従業員は様々な個性や能力を創ることを仕事とした霊であり、創り上げた商品である個性の殻に入った状態を霊魂とか霊体とかいう。そしてこの企業では商品の出来具合いに応じて身分制度や賞罰規定がある。(心霊研究においては、霊魂の差別相や霊界の事情を語るものの中にこのような仕組みの存在が示されている。)

そして、このような個性を被った霊たちは、一方で「神産巣日」カンパニーの服務規定に従いながら天神カンパニーに出向し、そこで能力と実績に応じて「命」を賜わり、この会社の服務規定のもとで働くこととなる。ある時はスサノヲ系生産工場に行き、縄文人を演じ、ある時はニニギ系工場に行き現代人を演じたりする。そして、一仕事終れば、実績、能力に応じて次の仕事が与えられる。本来の霊は当然それを良しとするだろう。

そして「命」の「顕わし」という大義のために為した記憶や罪悪(と分別されたこと)は、仕事が終る毎に一切が滅尽されなくてはならない。(心霊研究では、戦争中における殺人は神の現前で情状酌了され、平常時の殺人や自殺は、役割遂行を減殺するということから罪の重いものとなるという)

そもそも、神というか、仏というか、宇宙の叡知というかは、展開されるべき現象の全ての要素(仏教では仏の三十二相と言っている)を保有しているのだろう。そこには善悪、長短、具象、抽象などの相対の全てが結びつけられ存在しており。そのつながりの全てをあらわしていこうとするのが、霊の使命であったろうと思われる。

それは丁度、私が古事記を説明するやり方に似ている。随分とまどろっこしい説明の仕方をしているが、それは汎そ、図3 ・10のような風であろう。しかし私の考えの中には、これが全部多次元的な塊りとして入っており、それを毛糸の玉をほどくように文章にしなくてはならないので、大相骨の折れることである。この場合には「一次元的にお話ししなければ読者に伝わらない」という事情があり、これが具体化の命題であった訳である。

このように、物事を「あらわし」ていこうとするにはある索引キー に従って次元を落して展開してゆかねばならないのであるが、これと同様のことが私達が自分自身のある仕事のために、霊の形をとり、幽の形をとり、肉体の形をとるという仕組みにあらわれているようである。

つまり、次元を落して翻訳する作業なのである。全ては構想として既に完備され存在しているのであるが、それを骨を折って次元を落して表現し、意識の目を通tて観測しているのが私達だということである。

逆に、索引キーでまとめて、次元upしてやれば、全ての完備した一つの塊(仏塊とよぼう)ができ上るはずである。その大きな境地に立つことが古事記流の世界観なのである。

だが、「知らざる」ことにより、あまたある歴史は築かれたのである。歴史の流れの中で相対的な価値がいかに重要であったか。歴史のあらわしに従事する人類が、天降る理念に従って無知無明といえどもその場その時の価値感を忠実に保持してきたために、理念の定型性が着実に実行され、所期の歴史が有りえたのである。もしも、全世界の人々が、古事記流の大きな世界観に立つことを知っていたなら、万物の存在意義を感得して事の善悪を超えてしまい、いかなる面白い筋書きの歴史展開もなくなっただろう。そして人々が全ての真実を知ってしまえば、歴史の流れは、もはや必要なくなり、ある種のエントロピーマキシムの状態となり、仏国土が実現してしまうだろう。

だが、古事記流の世界観を民族挙げて忠実に実行した人々が居た。マヤ族である。彼等はちょうど日本が古代国家を樹立する頃に、太平洋を隔てた大陸の接点につき出た半島に根拠し、約一千年の間、奇跡的なほどに美と調和と深い認識を持続した国を営んだ。彼等は、汎ゆる努力と情熱を「時間」を識ることにかけた。それは神と神の要望を識ることであり、その正確さを期すために天の法則、宇宙運行の真理を識ることに努力が傾けられた。グレゴリオ暦をしのぐ精度の暦命と顕わしの原理はこうしてつくられた。

彼等の世界観は、地上の世界とその歴史は決して自立的なものではなく、無限の一部であり、現時点は時の巨大な車輪の一通過にすぎないと考えたことに端的に示されよう。大宇宙があり、そこを流れる「時」があり、万物の創造を時間の中にコントロールせしめる神がそれによって運ばれてくる。そして一度去った時は再び巡る。このため、間違いのない神の予言があり、それは大宇宙図の記録の中に収められ、万民の共通の信仰と思想の基となった。

彼等は神の僕者であることを認じ、たとえ巡る神が気まぐれ勝手な運命を押しつけるものであっても彼等は宇宙の運行にリズムをあわせることに最大の安全地帯を見出していたという。彼等は物の道理を知り尽くした霊肉一致の民族であったのだ。彼等は恐らく一年性草本的な歴史展開を演ずるには適わしくない程に卓越したものとなっていたのだろう。マヤ族の主流民族は、かの悪らつなスペイン人がやってくるはるか以前に、怠落した支流民族を残して、何の変災も受けることなくこの地上から突然消滅してしまったのである。

古事記の与える宇宙観はマヤ族のそれと何ら変わるものではない。これは古代の幾多の民族が根元的に抱えていた思想ではなかったか。超古代の壊滅をかいくぐってきた精髄的知識と教訓ではなかっただろうか。多くの民族は自然環境や他民族との葛藤の中にそれを風化させたが、マヤ族は隔絶された理想状態にあった恵まれた民族であったように思う。彼等は彼等の信じていた神と予言に従ちて、地上の汚土を離れ仏国土に去ってしまったのではあるまいか。

* 知恵の木

紀元前二千年の古代には知識を人間が持つことは神によって嫌われることであると考えられていた。ポポル・ヴフには、神々が自分と同等の力をもつことに不満で大異変を起こしたとされている。バイブルにも神が知恵の本の実を食した始祖にしっとして楽園を追放し、その後、ケルビムと回る剣でこの木を守らせたとある。この知恵の本にまつわる伝承は、ペルシャ、ギリシャ、アステカ、インド、中国と、何らかの本で示され、それぞれ常人には得ることのできないものとされている。だが逆に、これを得た者は永遠の命を得て全世界に君臨し支配する権限を与えられると考えられていた。

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第四章 古代と現代に架橋する宇宙構造モデル概念


はじめに

古代の物理学観は我々の世界はもとより、はるか神の領域にまで思索を及ぽし、神を中心存在とし て秩序立った体系をもっていた。その取り扱う範囲から言えば、現代の物理学の対象とする領域を包含する関係にあったことは確かである。そして科学の発達の 経移からみても現代物理学の基礎原理は多く古代の索引から得られており、その上に詳細な発見物をつけ加えて今日に至っているというのが実情である。

 しかし、近、現代物理学は観測可能なもの、証左のあるもの、公理や規定に基づき推測でき るものといった公認の枠を設定し、そのらち外にある古代的科学観を排除した。このことは初め、様々な不合理性や迷信を排し、多くの発明とそれによる文化の 発達という良いものを生みつづけてこの方向づけに間違いはないと思われた。ところが、進化論と相まって人類至上主義が幅をきかせ、今ほど自然を我が物顔で 踏みにじることが平然とおこなわれている時代も無い。人は精神の無い科学観と繋がりのない知識情報の氾濫の中で本質を見る目さえも摘まれようとしている感 がある。いつもトラブル発生の後に反省し改めようとする傾向もまるで自然現象であるかの如く理論化されたりしている。これらは実に奇妙な現象である。

倫理観念の欠如、昨今の教育の荒廃、心的不安など挙げればきりがないが一重に物質的豊か さの反面、精神的に虚無であることを如実に物語る現象ではあるまいか。これら現代の半病的有様は最小限、古代思想が持っていた「全能の神により生かしめら れている」という認識に立つだけで改善していくはずのものである。神が本当に在るのか、と言われるむきもあろうが、古代思想は神を認識させるための膨大な 知識体系と神に接近するための実践論を持っていた。これらのものが不合理の名のもとに一ベつもされなくなってから既に久しいのである。

 本源に立ち帰らねばならない。不可知であっても神の存在に意義を見出す動きが科学の中に 出てこなくてはならない。そのためには科学的態度が表面的追求から脱して内奥の本質を穿つ方向に進路がとられねばならない。それが難しいことなら、現代と 古代の科学観の融合をはかってゆくことが望ましいと思われる。

 話は変わるが、ここで現代の謎とされるUFO現象を考えてみよう。地球外知性の乗物であ るといわれるこの不思議な飛行体は、人類に現状のゆきがかりを改めるよう注告を与えているといわれる。筆者は中でも、その運動形態に新たなものの嘱望され ていることを窺い知ることができた。アメリカで起きたUFO現象に図4.1のような成りゆきをしたものがある。各コマは右記時間経過後の光体の変化を示し ているものとする。

この解説は至って簡単である。四次元時空上に十手型に横たわった物体を時刻tの断面でス ライスして目撃していたというわけである(図4・2)だが、このような変則的物体を四次元時空に置くという所業は五次元的なことではありはしないか。この 後、UFOは米空軍のヘリコプターのまわりを旋回して推進原理の明らかな違いを見せつけて去ったという。

五次元時空、これは表面観察を続ける現代物理学では認め乾い言葉である。逆に今は黙殺さ れている古代科学なら得意とするところであった。そして現代物理学すら全体の中の一部にすぎないと言うであろう。この皮肉に我々の歴史の負った業のような ものを感ぜざるを得ない。しかし、考えようによりけりである。この両者が合すれば、やがて〃活”となる。そしてそのような変革が今、内外から要求されてい ると思われる。

 幸い、古代科学は現代科学の扱う領域を包含する関係にある。そして現代科学は可観測な仕 組みを詳細に考えているに対し、古代科学はむしろその外周から無限の神域までの非可観測な仕組みを概括的に与えている。このため、融合は互いの主義を闘わ せながらも比較的容易であろうと思われるのである。
 もし古代思想を充分に説明できて、なおかつ現代物理学と整合性の保てる新旧統合の物理理 論ができたら画期的なことである。そのときには現代の抱える諸余の問題を考えれば、少なくとも古代思想の積極的な再検討が図られるべきであろう。拙論は、 そのような現代という時代の暗黙の要請に基づいて提案する一つの試案である。

 その前に、古代思想特有の基幹概念に少なくとも次のようなものがあることを述べておこ う。

1、超空間(現実世界とは別の天界や冥界など)
2、原型的世界(理念、アカシックレコードの存在領域)
3、意識
4、霊

 これらのことは現代物理学では全く解き得ない。1が解けないとUFO現象は説明できな い。
 2は物理学的土台をくつがえすものであるゆえに一べつも与えられないだろう。すると3以降が説 明困難となってくる。拙論はそのような中に新しいモデルに基づく新物理概念を展開し、これらの問題を統一的に解明しようとするものである。

1. 当宇宙構造モデルを考えるにあたって

 現代物理学が自然界に不変の法則性を見出すべく努力する根拠には、自然界を運行せしめるある種 のメカニズムの前提的な想定があるからに他ならない。それなら一層のこと、コンピューターのようなものを法則の担い手として、現象の背後に仮定して物事を 考え直してみてはどうだろう。そう考え、一つの宇宙構造に関するモデル試案を構築した。

 概略骨子を述べると、現象は超越的なコンピューター的メカニズムにより、原型プログラム が実行された結果、生じていると仮定していることである。このときのコンピューターとは銀河、超銀河のマクロコスモスから人間それ以下のミクロコスモスの 精神部分であり、それらが連合して矛盾のない宇宙の運行がおこなわれていると考えるものである。

 なお、ここで取り上げるものは、一般的な数理的モデルではなく、機能モデルであり、しか もモデルの構成要素が単純なものではないので、一般に受け入れ難いものであるに違いない。加えて、現状の四次元時空の物理観からすれば、背後のメカニズム などの存在する余地は無いというのが大かたの見解であろう。

 だが最近、ある方面からこれを可能してくれる概念のあることが分かった。アメリカのミサ イル工学の専門家であるトーマス・ベアデンの創案した超空間概念である。彼は、エベレット理論などを根拠にUFOを含む超自然現象を統一的に扱うことので きるモデル概念を発展させているが、筆者の考え方とは共通するところがあるので多く参考にすることとした。拙モデルの中核をなすコンピューターとは、ベア デンの考え方を流用すれば、超空間にある有機的精神物体ということになろうか。

 ところで、どうしてコンピューターなどを模型にしなくてはならなかったのか。少なくとも 精神の領域を語ろうとするのに無感動冷酷な金属物体でおこなうとは何事かとお叱かりを受けるかも知れない。古代思想で基本的に言明されているのは、「人間 は神の模倣」、詳しく言うと「大字宙と人間は同じ仕組みで作られ、神はそれらの世界を包み、かつ融合している」ということである。このことは幾多の民族に 共通した思想ともなっている。もっと古い伝承によると、「最も原初の頃、人は神と対等であった」とさえ記されている。

 人を神や事績をあらわす模型として科学する方法が古代にあったことも確かであろう。それ は多く、人間に内在する神的部分の拡大と意識的接近にふりむけられ、現在において隆盛することとなった瞑想学を登場させた。しかし学問の側で、人間という 有機生命体をつかって表現することは非常に複雑で難しく、現代のように人間の機能の細部まで理解されるような時代となったといえども、それは不可能なこと であった。古代においては、その局部的なエッセンスを拙出して、積極的にモデル化が図られたようである。

 カバラでは「生命の木」のモデルがあり、それは宇宙にも人間にも適用されるとしている。 またインドでは「マンダラ」があり、やはりこれも宇宙(如来)と人間の両本性を結びつけるシンボルとされた。それらは瞑想のためにも用いられたが、重要な 学究的モデルでもあった。それはシンボライズされなくてはならない理由があったのであり、筆者は、人間をモデルにすると余計に不鮮明になるということを揚 げたい。だが、人間をモデルにする方法が、今もしあったならば・・・。

 現代に至りバイオニクスの成果が実り、人間は自分に似せて多くの機械を発明した。中でも コンピューターは人間の中枢的機能を模倣し、いつでも機器的構成図などの形で機能が明確に把めるようになっている。宇宙の模倣が人間で、その模倣がコン ピューターなら、コンピューターモデルで宇宙が説明できるのではなかろうか。

 物理学は最近とみに物事を観念的に扱えなくなり、数理的手法に頼るようになった。ミクロ の状態記述にはやたらと演算子が登場してくるようになった。筆者の予想では恐らく近いうちに物事は情報とその演算によって成立しているのだと物理学は結論するだろう。

 またマクロを扱う生物学においても、行動生物学は動植物の本能の世界を支配するのは信号 と反応の連鎖、すなわち情報伝達とその情報に規定された手順の発動のくり返しで成るのみであることを発見している。人間の場合、創造性や伝達系の錯誤など により、極めて異例の行動様式を備えているが、それでも基本的には同じである。

 自然界における反応系、人間をはじめ、生物の行動、さらに原子・分子の動き、各種保存則 の成立などを考えると、情報伝達を抜きにしては語れないのであり、その有機的機能体であるコンピューター的反応形態は汎ゆる生命現象の根底をなす基本原理 と言っても良いものである。人間は本来、生化学的コンピューターとしての性能を持っている。そして現行のコンピューターは人間の仕組みを判り易くする便宜 的手法でもあることを理解願いたいのである。

 では、次に拙モデルを支持してくれそうな一風変わった傍証を掲げておこう。五井昌久氏を 通じて宇宙人のもたらした知識情報の中には現象生成がまるで磁気コアメモリを磁化するような方法でなされているというものがあった。また超能力者ユリ・ゲ ラーはスペクトラムとかロンバス四次元とか名乗る超空間上のコンピューターから知識やエネルギーを受け取っていたという。また、ヨーガをはじめ、古代イン ド哲学でいうアカシックレコードとは、予め設定されている現象生成のプログラムのようである。それは過去・現在・未来に渡って歴史のなりゆく様やありうべ き知識が理念の世界に予め存在しているというものである。予言者や発明家が随時に情報を得るというところがそれだ。
古事記にも、現象生成の仕組みがコンピューターと相似の開係にあることが述べられてい る。「思金の神」は山田久延彦氏の言われるようにコンピユー夕ー。この神の親が「高御産巣日の神」すなわち現象運行の摂理とされているのである。つまり、 両者は機能的に相似の関係にあるというわけである。

2. 基礎研究

量子論では、時間とエネルギーの間には不確定性関係が成立っているから、極めて短い時間にはエ ネルギー保存則を満たさない過程も起りうるとされる。このため、電子などは短時的には仮想的な光子を放出吸収していると考えることができる。これは、仮想 的プロセスなのであるが、運動量変化に伴う光子放出や、相互作用を考える上で欠かせないものとなっている。陽子や中性子でもπ中間子を出し入れしており、 核力の理由とされている。
 仮想光子に対し筆者は実質的意義として、次のように想定したい。それは、粒子というもの が、ある種の励起状態にあるものを言い、その元となるものが観測にはかからないが存在しており、仮想光子は元のものを粒子に励起する「基エネルギー」とし て働いているのではないか、ということである。
 図4・3は、粒子の時空構造や性質を記述した情報のようなものがまずあってそれを仮想光 子が次々と点燈していくという概念図である。これは粒子が仮想のポーズ粒子を出し入れているとする量子論的事実と矛盾しない。ここで重要なのは、時間が仮 想光子に付随して発生しており、常に現象は、励起された最新のものが存在しているということである。
 詳しく言うと、仮想光子が情報と作用して時間が生じているため、生じる時間の範疇でおこ なわれる物理的観測には情報そのものは検知されないし、仮想光子も現象上には登場してこないのである。(すると量子論でいう仮想光子のふるまいに帰因する 発散の問題は解決つくのではないか。識者は調べられたい)

 次に不確定性の意義を考えてみよう。
 場の量子論では四次元時空上の量子場は、それを頂点とする光円錐の内側にある過去の源に よって決定される。つまり、現時点の量子場は過去の一意に決まった地点をもとに相対論的因果律を満たして存在しなくてはならないとしている。ここで電子の みに限って、図4・4をモデルとして次のような仮定をおこなおう。

 時間的にみれば、電子はA点にあった次の瞬間(現時点)にはBの局面の確率的に分っているどこ かに在ると考えられる。その間には拙論のみにユニークなアイデアであるが、考えられるB点との間に軌道が無限に引けると仮想される。現時点ではこれを確定 できないが、保存則の成立が必要であるため先述の仮想光子が放出された時点、つまりCの局面に達した時にはB点として一意に確定されていなくてはならな い。
 つまり、現時点の量子は仮想光子が投入されてできている一種の過渡状態ということができ る。原因と結果の関係は予め、相対論的因果律に従い無限通りの方法が確率的に決まっているのであるが、一通りの時間の中では量子という過渡状態を経過する ことにより、一通りの経路のみが選択確定されている のではないかと考えられる。
 つまり、一刹那毎に確定する過去、過渡状態としての現実(量子)、前提としての刹那毎に 無限分岐するプログラム情報の存在が仮定されてくるだろう。このうち、我々の関知するのは過渡状態のさらに特別な場合のみであり、前後二者は全く知り得な い状態にあることを理解されたい。
 以上してきた議論は、現象運行の基礎がコンピューターの動作原理に相当するものを内在さ せていること、およびこの説明のためにコンピューターモデルが有効であることを述べようとしたものである。またこの後、物理学的議論から漸次、意識、超意識へと話を進めていくが、その前提となる考え方である。なお、物理学上の用法と混同を避けるため、仮想光子は次節から虚光子と改める。

3. モデルの基本的仕組み

 前節でおこなったモデル化のための基礎的事実の考え直しの結果に適合するように基本的に次のよ うなモデル構成を考える。
 ノイマン型コンピューターを中核にし、ホログラフィを入力系、空間媒質グラフィックスを 出力系に配置し、次段階入力制御のためのセンサー観測、その結果のフィードバック機構を併せて、モデル構成の1ユニットとする(図4・5)これが他系と通 信回線で連絡し、後述する階層的ネットワーク組織を形成すると考える。(モデルの構成要素のあらましは、表4・1を参照のこと)

モデルの構成要素は機能的仮定によるものであり、実際には積分された有機的精神物体とし て超空間に存在する。このために我々の感覚はじめ物理学的観測にはかからない。
 その仕組みは大まかに、コンピューターによるプログラムの実行によって現象が生起してい ると考えるものである。図4・5の構成要素の全ては超空間にある。さしずめ、空間媒質が我々の世界であるようだがそうではない。空間媒質は実験炉であり、 そこに火が入れられてなおかつ、センサー検知で観測され始めて現象空間が(識域下に)生じることになる。
我々の世界と超空間を結びつける唯一の次元は時間である。これはベアデンの考え方に一致 する。しかしさらに言うと、この両世界は時間の中の変化を通して相互作用すると考えられる。これが拙論にユニークな点である。
 ここで、人間の有機的精神物体とは何かというと、博識な読者ならお分かりのように、心霊 学でいうなら幽体であり、神智学でいうならアストラル体である。だからコンピューターといえども雲をつかむような高度生命体であることがお分かりになろ う。
(モデルの設定が最新技術の枠ばかりを集めたような結果になったが、現象説明に有効である ということ以外に次のような筆者独自の思想がある。すなわち、歴史は最先端ほど宇宙の真相を累積的にまた総決算的に吐露していると考えるのである。特に現 代は良いものも悪いものも何でもかんでもひしめき合うようにして表出しているのであり、そこから何を汲み取るかは人の自由意志に任されていると考える。)
現象生起の大まかな仕組みは次のようになる。

1. まず前提的にホログラムに記録された現象の運行を記述したプログラムがある。ホログ ラムは無限次元であると仮定し(*1)、絶対的超空間に在るとする。 これは一種のデーターバンクである。プログラムは全宇宙の発生から終結、無限小から無限大(極限が有るなら大の果てから小の果てまで)のすべての成りゆき うる場合を網羅しているとする。前提的なプログラムの存在という考え方は、現時点が時間軸上の最前線に在ることを自負する現代物理学からすれば御法度のこ とであり、科学界の権威の根底をくつがえす忌むべき槻念であるに違いない。
しかしこれは既に故湯川博士が打ち出された素領域論の前提的概念でもある。この論は今検 討されているところであるというが、この東洋的発想に凱歌が上がろうことを期待したい。

2. 超空間のコンピューター(*2)は 自系他系に発生する情報を考慮しつつ、自己の目的や資質に応じたプログラムを自己のメモリ空間に呼び込み、それをもとに順次実行する。

3. 実行の過程には虚光子(*3)(ホ ログラムに対するレーザー参照光)による参照と解読により、一情報単位(*4)(一 命令語)のn次元情報が取り出され、演算されてn次元空間媒質のいわゆる実験炉に投射され励起した結果が現象となる。

4. 実験炉の中で現象生成の波頭に乗ってこの結果が観測され、次の実行サイクルのために 情報がフィードバックされる。

 物理学的観測は、3項で励起された二次体(量子)の相互作用の記憶をとどめる光子の情報 をもとにしている。厳密には、観測者にとっては、時間の刹那毎に起る自己の内部変化だけが検知されているにすぎず、与えられるままに変化の流れを読取るに すぎないと言える。既に申上げているとおり、プログラム情報は一切検知されない。これゆえ、情報の存在空間と現象生起の空間は全く独立したものとすること ができるし、情報系に対しては、絶対空間の概念が適用されても構わない。相対的な形式はこれが実行された結果、生じるのである。

 なお、実行時の演算結果をタイムリーにモニターする割込み処理が内部でおこなわれている とすれば、現象は完全に精神の中でおこなわれる変化の流れにすぎなくなり、空間媒質すらも不要となる。ベアデンは観測者にとっては時間の刹那に併い起る自 己の内部の変化が検知されるのみであるとして、現象とは観測者の精神の内部変化であるという推論を進めているが、拙モデルはちょうどこれを超空間から観た ものとなっている。

また、図4.5からも分るように、システムの1ユニットに関係する観測は三種類ある。一 つは物理学的観測、二つは、他系からの情報入力、三つは自己の内部状態(実行状態)をモニターするもので、いづれも次段階の制御入力となる。
(以降、「観測者」と言う時は、物理学的観測者を示す。また、「実行者」とは、1ユニット それ自体に起る変化に係わる超空間部分に在る全てを示すものとする。観測者と実行者は処理の一連の過程の中で表裏一体となっている。)

なお、人間の機能と対応させて言えば、実行者とは超空間上の有機的精神物体であり、観測 者こそ我々の肉体、中でも五感の観測結果を統合して情報を創り出す脳であることに注意されたい。

4. モデル概念の原理的検討

 物理学上のいくつかの根本的問題をモデルによって明らかにし、発展的に超自然現象、超心理現象 の仕組み、その意味あい等を考えてみることにする。

(一)時間

 時間は我々が考えているように一定の大きさを持って不変に運行しているというものではな い。自然界は非常に小さいところで切断しているというのが最近の物理学の見方である。そこにはプランク定数が関わっており、それが時空に渡って存在する最 小の現象をつくるエネルギー的基底量と対応していると考えられている。拙モデルから考えれば、現象は情報が励起された結果として生じているとするが、その 最小励起単位エネルギーを与えると考えるものである。

(情報の励起とは情報の実行あるいは演算の結果を空間媒質に出力するという意味であり、今 後この表現を用いることになる)

 時間はコンピューターの実行に随伴して発生する。たとえば、参照光により得られる情報 (命令語)を一単位づつ実行するとき、この順序の中に光速や各種の保存則などの相対論的因果律が情報レベルで規定されていると共に、一単位毎に「みかけ の」時間の大きさが与えられると考える。このため我々が円滑と考えがちの時間の流れも実は破断しており、その間には何事も保証できないと言える。

 時間経過はプログラム上の二地点間の論理的距離や発生時間の累積値として求められるが現 象上ではこれを観測できず、空間的な測定結果から推量されるだけである。ただ、これは実行者の超空間では観測可能なわけであり、生物時計や発生分化、老衰 プロセス発動の根拠となる観測系の存在を予告するものである。

(二)光子と虚光子、そして量子化現象

 我々のいう光子は拙モデルでは情報の演算結果であり、その他の粒子と情報形式の差こそあ れ原理的には同じであると考えられる。情報の演算過程には虚光子が介在しており、すべての現象の陰の担い手は虚光子であるからである。一方、虚光子は超空 間上でコンピューターの実行サイクルに関わる電磁的物質であり、我々の世界に作用するときの現象励起の基エネルギーではあるが、現象上には情報をかぶった 仮面の姿しか観測されない。

 光子は虚光子が情報にチャージして表現された量子である。時間も同様に量子である。そし て情報に従い時間と空間は虚光子を介して相互変換しているというわけである。それは相対論に基づく。また、我々がする観測は量子間の相互作用の結果の記憶 を持った量子によっておこなう。

 この反応系には相対論的因果律が支配する。一方、虚光子は無限分岐する未確定な時空情報 にチャージして量子を励起させ、次の瞬間ここから放出されると同時に確定された一つの情報(粒子の足跡)を残していくタイプのものである。これには相対論 は適用されない。

 電荷やスピンのような量子化は基本最小単位がbitであることによるだろう。(むろん、 この場合のbitというのもさらに明細が下位にブレークダウンしているのであり、ここではある実行者の実行状態における最小の代表情報なのかも知れない) これに基エネルギーがチャージされデジタルな演算の結果、bitを基底とした値が出てくるのである。これは一つの情報単位にかかる下位の情報素量(*5)のレベルで出てくる。これは量子数的量子化(*6)と言われる。

 また、場やエネルギーのような量子的量子化(*7)の方は情報単位のレベルで出てくる。つまり、粒子自体励起の一単位であるからだ。その基底には演算 前の基エネルギー(虚光子)があり、その仮面として量子が出てくるのである。そこで粒子と分かるものは、現時点の量子から推測される過去の情報である。

 このように量子化現象は潜在したコンピューター性を端的に示している。

(三)プログラムの情報構造

 コンビユーターの扱うことのできる命令語の大きさに制限があることは自明である。同様 に、各種の情報単位を構成する情報素量には大きさの粋があることが明らかであり、これが演算後の各種物理量に表現上の限界を与えていることは充分推測でき る。

 では情報構造としてどのようなものが仮定できるのであろうか。従来、分子から原子そして 素粒子さらにクォークといった究極的実体を探ることがおこなわれてきた。しかし未だに最終がどこにあるとの解答は無い。また、いくつか考えられている相互 作用が粒子交換モデルにより統一できるのではないかと考えられている。だが、これも重力場を組み入れるに至っていない。重力場には計算の過程で、非線型性 が生じてきて計算上の限界をきたしてしまうというのである。これに対して重力場記述に関しては四次元座標では足りないのだという推測がある。このようなこ とから、拙モデルでは、次のように考えてみる。

 プログラムは、ある因果律に従い、予め命令語で記述されている。同様に現象の変化を示し たプログラムもある種の命令語で記述されるが、その構造は図4・6のように階層構造をしていると考えられる。局所的にみれば、下位のボックスは上位に対し 粒子の性質を決める情報素量の役割を果たす。つまり、ゲージの演算子場やクォークのような、さらに細分化できる粒子などを与えるものと考えられる。

 図4・6左は、粒子がより下位の粒子で構成されていること、量子場が様々な場の関数とし て出現しているという事実から考えたモデルである。ここでは下位の粒子が上位の粒子の性質を与えると共に、量子化したときの演算子を供出することや、上位 の粒子が下位の粒子の存在の枠を決定することが示されると考えられる。また、下位の構成子を必要なだけ設定すれば何次元の要素でも記述が可能となる。これ はミクロの話においても、マクロでも充分機能するだろう。我々の人体模型や太陽系の構造にも、また観念的な物事の説明にも対応のとれるものである。よっ て、汎ゆる自然現象の根本原理図と言ってもはばかられないであろう。

 実際には、このような局面的階層関係が、時間と空間の構造を含んで上位にも、下位にも際 限なく組織されているものが一つのプログラムにまとまっていると考えるものだ。(図4・6右)

 ここで一つの重要な仮定であるが、このプログラムの情報構造は実行者(コンピューター) が観測のために要求する精度に応じて、可能な限りの無限小から無限大までの仕意の階層、任意のサイズの情報を一情報単位として供給することを可能にするも のになっているということである。

 つまり、現象の破断は実行者によって起こされており、それを可とするプログラム構造に なっているというわけである。

 不確定性でいう観測時間の長短の問題の実質的意義はここにあらわれている。観測的時間が 長ければ、現象は我々の目で観測するほどのマクロなものとなるし、短かければ素粒子よりもなお下層の領域を調べるものになりうる。その差は時間が量子化し ていることによる。物質界が量子化しているから、時間もそれに対応しなくてはならない。それは観測光のエネルギーとして与えられる。

 高エネルギー的光子は、より下位の粒子を探るであろうが、その場合、いったん相互作用の 時間を限定する中間子に変化していると考えればよい。この量子化したものこそ、その精神体としての実行者と対応がとれるものである。よって、情報の規模に 応じて実行者もとびとびのスケールをもっているし、とびとびに定在し、受け持ち範囲を勤めているというわけである。

(四)情報上に記述された変化と保存別

 量子論では、素粒子のできたところと消えるところといった観測点には、汎ゆる可能性が あって、時空の連続性の概念さえも、いかなる基礎もないとされている。この中には二つの問題が提起されている。一つは変化の究極的な時点(地点)が定まら ないこと、二つは、観測およびそれから導かれる推測に限界があることである。これらは、従来のモデルが表面的追求に終っていたために起きている。

 情報構造からすると変化は分明(デジタル)に記載されている決定事項であり、不可知性は 一切無い。問題は、やはり量子化過程にあるのである。虚光子が投入されてできている過程には、そこで形成される時間においてのみ、時空の連続性は保たれる がそれ以外は全く保証されない。

 つまり潜在した領域の話なので語りようがない。変化の究極点も、最初から破断しているも のであり、この境界を考えること自体ナンセンスである。実行は明滅的になされ、観測はその「明」のときだけなされるのであり、マクロな観測者はただ、量子 の点燈した時の結果の集合をもとに、連合させて隔った時間と空間の間がなめらかにつながっていることを感じているだけなのである。

 変化の過程を示すために図4・7を掲げる。

 図は粒子の崩壊の例であり、一粒子が分裂し二つの同じ粒子に変化する様を示している。現 象的にはa粒子は次の瞬間bとCの粒子に分裂している。だがこのとき、実行者も含めた上で考えており、E1系実行者の時間軸に繋がっていた情報がツリーの 或る個所で二つに分解されその一つはE2系に引継がれていく方法をとる。
(El系も消えて全く別のE3系に転進すると考えてもよい)

 その間には各階層に応じた情報量保存則が成立している。これから分かるように粒子は時間 の刹那というボックスの下に記述された情報であると言え、これを統合するのが超空間の実行者であるということになる。

 図4・7はコンピューター技法中、データーベース手法の一般的なものを流用している。要 は実行者が何をデータの索引キーにしているかによって、みかけの時間軸が生じているというわけである。実行はこのように特定の索引キーによって実行者毎に ユニークになされる。このように実行者個有に系を形成しているという概念により、物理学が現在当面している多くの問題に客観的な説明を施せるようになると 思われる。相対論的因果律は起源ではなく、より起源的なものの派生物にすぎないことも言える。ただ、それをマクロな事象に結びつけていくとき、かなり飛躍 した考え方を呼び込まねばならないのであるが、幸い、古代科学がガイドをつとめてくれることになると思われる。

(五)情報構造とマクロな現象

 では、このような情報構造と現象が一体どのような関係にあるのかをもう少しみてみよう。 ありうる限りの無限小から無限大までがそのまま現象上に投影されているとすれば、いかにも簡単であるが、それでは始めから情報を現象と区別して考えなくて も済むことである。ところが実際に現象はそれはど簡単なものではない。まず、観測者に基準が起かれるとする相対論が扱えない。また、量子化する理由が説明 つかない。ニュートン絶対系とは実験的に異なるのである。

 今の物理学でも存在の態様がどのようなものであるかは、実験的に、数理的に導き出せた が、その理由となると分かっていない。そのようなことは考えなくても良い、また納得できる説明のつくものではないというのが信条なのかも知れないがそれで は大きな未知を残すことになる。

 筆者は図4・6をもとに、次のようなことを考える。実行者は少なくとも一つのボックス乃 至は一つのボックスを頂点とした複数階層を同時に一情報単位として実行する。ミクロの場合、その階層は少ないがマクロなレベルでは多階層もありえるだろ う。そしてミクロ、マクロがどのようにして秩序立って統合され、あたかも一通りであるかのように運行されているかについては次のように考えられる。

 観測の側から考えたとき、ある観測者にとっては極ミクロのことまでを感知する必要はな く、必要とあらば別の観測者をたててそこから情報収集すればよい。それと同様に、実行者も細部まで関知する必要はなく、別の実行者をたてて、下位の現象を 運行させているのであろう。

 だが、我々の世界をみれば分かるように、観測者のレベルでは観測は全く独立し、排他的に なされる。そして意図して結びつけられることがなければ有機的なものになりえない。しかし、実行者のレベルでは実行すべきプログラムや下位の観測結果等の 受け渡しがたえずおこなわれており、それが緊密であるため現象上には矛循が生じてこないと考えられる。これは精神界と物質界の大きな相異と言えよう。精神 界でのふるまいは波動的であり、物事はミックスされて出てくる。だが物質界は全てが自己の殻を持ち妥協を許し難い形態をしている。

 ベアデンは、巨視的世界は点滅する光点から成るテレビ画面のようなものと言ったが、巨視 的世界は実行者ごとにユニークな情報処理がおこなわれている集積場のようなものと言い替えることができる。巨視的世界に矛盾のないまとまりがみられるの は、プログラムの階層構造に対応して、実行者が階層構造的に組織的な情報処理をおこなっているからというわけだ。

(六)プログラムは観測者を基点にして実行される

 さらにもう一つ重要な問題がある。観測はなぜ特殊相対論に従うのであろうか。通常のノイ マン型コンピューターでは一般的にベースアドレス方式が採られている。これは、同じプログラムが異なったメモリ空間に置かれ別々に実行されても同じ結果が 得られるように、ハードウェアー的にアドレス修飾ができるように工夫されているやり方である。若干ニュアンスが違うが、実行者はプログラムをメモリ空間に 導いた時点あるいは実行時に観測者を基点に時空を扱えるようにプログラム情報を修飾していると考えられる。つまり、汎ゆる相対的な場の量は、観測者に基準 が置かれるのである。これは実行者から現象を励起する光が発せられ、観測光が観測者に帰せられるとすれば至極当り前のことかも知れない。

 こうすると観測者個有の現象があたかも彼の周りをとりまいているようなものであるが、そ うではなく、現象は超空間上の実行者の「心の面」に生起する出来事であるにすぎない。このように現象は、実行者に併い発生するゆえに、個我は他と区別され て意識される。そして、現象はあたかも他の個我の領分と不可分に透け込んでいるが、トップダウンされたプログラムを観測点を違えて共有しているのであり、 一時点一観測の原則は守られる。

(七)異なる時空の間の相互作用

 べアデンによると、全系時間を与えた超座標系内で、実験室空間、超空間、物質、精神と いったものの空間的な相互関係が認められるという。その中で、実験室空間の位相を変え、一直交回転で、光子、二直交回転でニュートリノ、三以上で精神物体 がそれぞれ存在しうる超空間であるとしている。そして、各空間の間の物質は、虚状態で充満的な無を媒介して干渉し合っているとしている。たとえば精神物体 が凝集し、臨界に達すれば空間を超えて物質状態が変化し、我々の世界に物質化現象としてあらわれたりする。その例として、UFOや幽霊、あるいはファチマ の聖母のタルポイドなどを携げ、人類の集合無意識が引き起こすキンドリング現象であると解釈している。

 拙論でも方法は違うが似通った考え方となる。まず、位相的な階層的超空間の概念は、階層 的励起モデルを基本的に支持してくれることを述べておく。

 次に、精神物体が凝集し、下位時空に作用を及ぼす過程、すなわち、階層の上下空間間の相 互作用の形態は、コンピューターの実行の過程への変化介入という方法で実現できる。実行の過程には、量子状態を実現すると共に、無限通りの進路から一通り を確定するという演算がおこなわれていると考えられるが、ここで変化介入は、通常なら状態変化を示す情報素量について慣性的な進路がとられるのに対し、慣 性を情報的に破ることである。(図4・8)

 といってもプログラム情報の実行直前の値を変えるというのではなく、参照光の方向乃至は 波長を計算で意図された分だけずらせばよい。すると慣性方向とはちがった地点から実行が継続される格好になる。この瞬間、現象的には基本定数の変化が起こ り、短時的な超自然現象が実現していることになる。

 既にお分りと思うが、制御された参照光こそが励起される現象時空の存在の根底をつくって いるのであり、これが物理学上の第四軸、時間を与え、我々の世界を電磁波動的なものにしている理由である。この中で波長は通常、一定に保たれているもので あるが、必要に応じて変動し、新局面を開く自由度を与える。(この機能は図4・5の操作部が主制御部の指示を受けておこなうものである。)

 これは現代物理学が目指す四次元時空のみで現象を記述できるとすることと何ら矛盾しな い。五次元的変化は時間次元を通してやってくるからである。五次元的事象は超空間の実行者を介して時たま出現するにとどまっている。特にミクロでは実行者 が機能的に単純なので汎そ統計的にふるまう。よって統計的観測である限り全て統計的誤差に含められてしまうだろう。

 かえって、この現象の多くは定量観測の困難な生命体の中で起きていると考えられる。(一 つの試みとして、超能力者を素粒子物理の実験室に連れて行けばかなり面白い観測が期待できるように思われる。)

(八)精神作用と現象への関わり方

 変化介入は特に精神作用と関わりが深いことが考えられる。これは超心理学分野の問題でも ある。実行結果の観測結果情報は現象と独立したところでどのように演算加工されても構わない。

 それは図4・5から分かるコンピューターの機能として自明である。むろんこの演算加工処 理のためには実行者の中に処理プログラムが存在していることはもちろんであり、ミクロな実行者ではそれは先述したように単純であると考えられる。しかし人 間の場合、それはどうやら霊系からの付与物であるらしい。ここに心霊学とのつながりが出てくる。

 入力情報は現象からのフィードバックのみならず、他の情報系からの入力もあり、現象上の 一励起単位に対して演算加工に無限の奥行きを容認できることになる。そしてこの演算結果が、実行中の時空に影響を与えるか否か、与えるとすればどのように しておこなわれるかは、実行者の意思決定に委ねられる。この演算加工と意思決定処理を併せて(超意識的な)精神作用という。(ここで言う精神作用とは大脳 内の思考過程、すなわち現象上の作用を含まないことに注意)

 では、人間の場合の精神作用の現象界へのあらわれ方はどうなのか。既に述べたように、三 種類の入力情報は、何らかの規則をもつ処理プログラムで処理され必要と意思決定されたとき適当な強度、形態で情報が介入して慣性的実行順序を変化するので ある。変化の強度は時間、空間の広がりとして反映するようであり、そのうち軽度のものは最も脳の近傍で作用し、人の行動を潜在意識的なバーストを介してコ ントロールするようである。これが「衝動」の本質である。この形而上との接点は脳梁であるといわれ、そこから高次元情報が右脳に送られ、それがさらに左脳 で線形に分析を受け、肉体側の精神過程にゆだねられると考えられる。その次は錯覚や幻覚などで観測結果に直接働きかける。ここまでで充分慣性方向から運命 修正とも言える進路変更は果たせる。さらに強度な場合は実行者の直轄する領域全ての存在状態を変え、あたかもトンネル効果的に進路変更することもありうる だろう。超能力者のPK現象はこのことを言う。

(九)高密度記録ホログラムから生ずる雑書

 ベアデンは時間の一単位には、虚の物体や精神物体がサブ量子的であり続けるはど充分に非 凝集性なら、無限に含むことができると言っている。この「サブ量子的」というのは観測界面上に登らぬはどに繊細であるの意味であるが、拙論では時間軸を見 かけのものとして複数用意することにより階層別に全く独立した形で精神作用については無限の容量を認めることができる。

 なお、「サブ量子的」なものの存在も、ホログラム模型の挙証として必須のものとなる。す なわち、ある時点の主流プログラム以外に支流的プログラムが無限通り分、ホログラムからハレーションとして出現してくるのである。これは理念の幻影ともい うべきものであるが多重記録されるホログラフィとしては仕方のないことである。

 つまり情報としての意味はもたないが、〃基エネルギー〃のいく分かをもらって、潜在した エネルギーとして存在することになる。物体の周り、特にエネルギー的に活発なプラズマ状態にある物質の周りには顕著にあらわれるだろう。「オーラ」はこの 潜在エネルギーの偶ま検知されたものであると考えられる。

 霊能者にこれが顕著に観測できるというのは、この霊能者をあらしめている実行者が照見の ために用いる光の波長が多少通常よりずれているためと言うことができる。彼の現象空間では多くハレーションが生じ、通常無い成分が意味をもち、逆に通常の ものがぼやけてくるのである。それだけ実行者(彼の精神体)がユニークであるからと言えるだろう。

 これらハレーションの物質状態は、物理学的な一定の組み上がり規則を何らかの形で付与し てやることによって、わずかな波動的ずれのために不完全である状態を、あるものは脱し組織化を果し、観測可能なものとして浮上してくることになる。このた めに高周波電磁場が有効であることをキルリアン写真は物語っている。このハレーションの部分は、実行のなりゆきによっては具体化の自由が与えられていた範 囲を意味していることになる。

(十)無限階層宇宙と光子、時間、空間、物質の階層的関係

 いままで、超空間とそこから励起される現象空間という二階層の世界を前提として話をして きた。だが、現象励起する実行者の存在する超空間も一定の時間の流れをもつ一つの現象世界であるに違いない。すると、この超空間を励起するさらに上位のコ ンピューターがありえ、そこにも時空があるだろう。こうすると、上位に関して推測する限り、際限ない時空の階層的励起構造が成立っていることが考えられ る。

 超意識的な精神作用は超空間コンピューターの動作の中にあり、これは虚光子のサイクルと n対1で対応する。しかも虚光子と超空間時間はさらに上位からみれば同じものの異形態であるのみだから、よって、精神と超空間時間は虚光子に担われ、その 微分型として物質、現象上時間、光子があらわれていることになる。それは隣接する上、下位の関係にあるどのような時空でも同じであると考えられる。そこで は全系時間が連綿として流れている中で、多種多様な見かけの時間と空間がありえていることになる。

 上位については、際限ない宇宙構造が可能と考えられる。では、下位に対してはどうだろ う。

 さしずめ、我々の現象世界の下にコンピューターによって励起されているものは無く、ここ が下限かと思われる。ところがミクロの世界にそれは続いているのである。既にみたように量子現象の過程の中に、知られざるコンピューター的な照合と実行の メカニズムがありえているのである。

 量子は粒子がとるべき一つの行程をはっきりさせるための演算がなされている過渡状態であ る。情報構造は、下位に際限なく情報素量を階層的に展開しているが、量子状態とは、この無窮の階程の情報群の階層的実行を含んでいると考えられる。下位階 層の実行ほど、我々の時間から比較して、短時間に終了することが分っているから、下位階層全体の実行の終了を待って次の刹那に至るといっても、その時間は 大きいものではない。量子時間は収束の無限級数で与えられることになる。その大きさは決してゼロではなく、それがなおも、現象に時空の厚みを持たせている と考えられるのである。

 粒子のコンプトン波長以下の内部構造を調べる試みは、観測光に高エネルギーの量子を投入 し、観測時間を短時間に局限しておこなわれるわけであるが、これは情報の下位の構成子の演算過程をのぞくことに相当する。たとえば中性子に高エネルギー光 子を投入して中の構造を観るとき、光子は量子時間の中における相互作用のための情報構造を予め創り上げている。その中には中性子との交流に関わる位相情報 をもっており、その対応の如何によっては、クォークの演算子場と相互作用したり、あるいはグルーオン・あるいは全くダミーな演算子場との相互作用の形態が ありえ、散乱結果は多様性をもつと考えられる。

 また、様々な研究から、自然界の極小限界が提案されている。それはブランクの長さ(10-33㎝)であり、少くとも我々の知る限りの宇宙ではこの長さ程度で切断していると考えられている。これは情報構造 の最小限界とも考えられるが、後程出てくる図4・10上にあるよう、まだ、無限の一部なのかも知れない。いづれにしても、これが(ある実行者にとっての) bitに対応するに違いない。

 これから逆に、情報の一単位(実行の一励起単位)に投入される基エネルギー量にも推測が つく。

 それは、ブランク質量(~1019Gev) で表現されるものになるだろう。またそれは、極ミクロから大宇宙、さらに超空間に関するいかなるスケールの実行者でも同じだけ必要であろう。

 以上のことから、図4・6の模型が、実は我々がごく微細な一点として所属している全世界を示す ものであることがお分りになろう。無限階層情報構造を示すと共に、無限階層励起型時空構造の全貌を示しているのである。そこでは、どのような微細粒子にお いても情報で成り立ち、階層の節目にコンピューター的機能が働いていると考えられる。ちなみに図4・6の意味を与え直し図4・9に掲げる。

(十一)プログラムを索引してくる意識体「索引念体」

 図4・9の繋ぎのラインはもっと複雑に錯綜するうちの基幹的なものをあらわしたにすぎな い。というのは、中には例外的な索引形態(時空を生成するための時間軸に沿わない)をもつものがある。

 たとえば思考活動や精神作用の過程で随時発生して観測データをもたらして適当な寿命で消 滅するような、いわゆる一定の目標に指向したベクトルプロセッサである。それ自体、局限的な意識体なのであろうが、そこまで高度な情報処理能力を有しない ものをここでは「索引念体(あるいは単に念体)」と呼ぷことにする。というのは念いの作用によって不完全な形態で生じることが多いと考えられるからであ る。

 念体の機能はデーターバンクにある仕意のプログラムを主体的実行者の実行のために準備す ることである。一般的にコンピューターは実行に際して共用データーバンクからプログラムを自己のメモリ空間に導入しておいて、その先頭番地から実行を開始 するのであるが、それと同様に念体は、必要となった時点でこのようなことをおこなうと考える。つまり、念体の機能はデーターバンクにある任意のプログラム を索き、実行者のメモリ空間上の発生点のプログラムに繋げることであると仮定する。これによりコンピューターモデルのもつ全ての機能が満足することにな る。

 ホログラムの参照とプログラムの入手は、参照光に一定のマッチトフィルター(*8)をもたせた念体による。マッチトフィルターは、やはり一種の高次元情報 であるが、それは割合大雑把な形で精神作用によって創られる。それがホログラムの記録と近似の照合をみせたものを索いてくることになり、そのもたらされる 内容は、主体的情報だけでなくハレーション的情報およびそれらの下位につながる情報の全てである。

 念体は実行の動機づけをおこなうものということもできる。通常の実行が順次おこなわれる に対して、念体はダイナミックにプログラム自体を操作することがある。

 念体は実行者の中の一つの機能と考えても良い。この二者の動きが備わっていて始めて一つ の柔軟性ある意識体として機能することができるのである。

 索引念体の意義として次の三つのものが考えられる。一つとして、実行者が自己のメモリ空 間に処理を必要とするプログラムを導入したり一部入れ替えをしたりする、いわゆる基幹的プログラムのメンテナンスの役割を果たすものである。

 二つとして、定石的プログラムの呼出しである。これは、発生点が情報上のミスの少ない情 報素量の中に経験的に築かれているもので、相互作用や有機物の組織化規則などの法則の定型演算子のキャリアーとして確実に作用するものだ。

 三つとして、未開拓または頻度の少ないプログラムの偶発的呼出しがある。これは発生点が 不完全な思考活動や偶然などで生じ、半試行錯誤的なマッチトフィルターをもつために、発想とか、原始生命の誕生や偶発的進化のプロセスの担い手である。

 このような念体生起のプロセスが、それ自体情報素量として情報構造の随所に組み込まれて おり、実行者による時間の展開に併い順次発現するのである。DNAは高次元なプログラムのミニチュア版である。A・G・C・Tの各基の組合せで成る情報群 は、これだけで生物個体の発生から消滅までに関する出来事を秩序づけているはずはない。この一連の符号の中には体内電流と作用して超空間に念体を生起する タイプのものが充満していると考えられる。

(十二)我々の宇宙史の展開に関わる起空間生命体の発生と分化

 我々の宇宙を運行する超空間の意識生命体(実行者)の活動は次のように考えられる。

 我々の含まれる四次元宇宙は「宇宙意識」(仮定)というコンピューターに励起されてい る。実際には、まだ間に数段階の集合意識をおいて、我々をはじめ様々な意識形態を備えたコンピューターと連絡し、たえず情報交換をおこなっていると考えら れる。たとえば、超銀河、銀河、太陽系、地球を創造する意識とブレークダウンし、さらに人類、国家、専門分野と多種多様な意識形態がありえていて、我々の 個我意識にあたかも干渉縞のようにふりかかっていると。(図4・10a)だから図4・9は基幹的な繋ぎを示したにすぎず、本質的には大脳神経系を書きあら わしたように複雑であると考えられる。

ここでは宇宙意識がプログラムバンクからプログラム塊を自己の実メモリに呼び込み、それ をサブプロセッサである下位意識(我々も含む)に役割分担しているわけである。逆に言えば、下位意識が自己の実メモリ上に分担されたプログラムを導入し、 それをもとにして局部的実行を始め、その結果、個我の認識領域が発生していると考える。(図4・10C)

 これを意識の時空において時系列的にみれば次のようになる。

 まず宇宙意識がメモリ上のプログラムの実行を始める。現象宇宙が開闢し、しばらく経つと 宇宙意識の中に細部を扱う意識が萌芽し、それに細部的なプログラムの実行と観測の役割が分担される。このようにして、時間経過のうちにプログラムの複雑な 局面になるに従い、より多くの多段階のコンピューターがあたかも人間の脳神経系のように増殖して、プログラムの微細に至るまでが取り扱われるようになる。 これは全プログラム消化というテーマに対して発生する超意識レベルの生命現象と言ってもよい。宇宙意識を母体とした発生と分化の仕組みがここにあるのであ る。(図4・10b)

 この仕組みは、上位時空のメカニズムから下位時空が生起される要領でおこなわれる階層構 造的な超空間の励起においても同じことが言えるものと思われる。理念(プログラム)は全宇宙の有機的運行と共に上位から下位へと運ばれる。そして現象の観 測結果が実行理念に関与する時は逆に下位から上位へとフィードバックされて大域的な理念を渇望し、その傾向を決定する。

 下位の意識体の要求する理念の質(直接的にはマッチトフィルターの質)が総合的に向上す ることは、これを抱える局部意識系からより大域系へと理念の相対的な質的向上に寄与することになるはずである。このことから、「宇宙構造は、精神物体(物 質を含む)の分布状況で決まる」という拡張マッハ原理を提言するしだいである。

(十三)UFOのメカニズムと意識体の力関係

 ここで、UFOとはどのようなメカニズムのものなのかを考えてみよう。

 UFOが異空間航法を用いていることが真実であるなら、UFOは現象を独自に励起してい くだけの「宇宙意識に準じたメカニズム」を備えていることになる。つまり、一種の意識体(実行者)である。それは単一目的を持たされたメカニズムであるだ けに、安定し強力であるに違いない。

 それは非稼動状態では宇宙意識の傘下にある無能力なコンピューターであるにすぎない。だ が稼動中には宇宙意識とUFO内部の個我意識の間に割ってはいる新たな意識体として一段階増結されることになるものである。はじめは宇宙意識の提示する法 則に従い、プログラムをもらっているが、やがてその範囲内で不確定性をマクロ化したようなジグザグ運動をおこない、さらにすすめばそれ自体で宇宙意識のも つプログラムの別の部分を奪ってきて、時空の乗り替えをおこなったりするだろう。

 その傘下にある個我は以前の宇宙意識から受けていたものとは異る新しいプログラムをここ から受けて、UFOで実現されているのと等しい状態を認識するのである。それはたとえUFOが飛ぶための機能を備えていなくとも、新たなプログラムを供給 するというだけのことで観測者(宇宙人)は新局面を観測することが可能となる大変な装置である。

 アメリカで調査された墜落UFOにはこれといった推進機構が積まれていなかったというの もこの辺に理由が見出せるだろう。

 既に冒頭でみたように、五次元的現象を考えるとき、もはや従来の物理観に基づく四次元的 メカニズムでは解決がつかないことが分るだろう。確かにメカニズム部分は持つに違いないが、単なる機械でなく、超次元意識体と適確に連動し合う仕組みに なっているだけでよい。(その仕組みと類似したものが人体であると考えれば分り易い。ヨガでは人体は一種の宇宙機と言われている)

 ここで重要なことに気付かれることと思う。人の個我意識は上位意識体が与える情報をうの みにして実行し、観測しているわけである。もしここに霊力並みならぬヒマラヤ聖者がいて、ある人の意識を故意に支配下に置いたとしよう。すると、この人は 聖者が無言であったとしても催眠術的な制御を受け、実際には単なる棒切れも蛇に観測してしまうようなことが起こりうるのである。

 同様のことが、すでに我々が宇宙意識から地域的集合意識に至るまでの多段階の意識体の傘 下に置かれることによって発生している。それはほとんど「うのみ」の状態である。

 また意識体は、たとえ突然発生したものといえども、重層する様々な意識体の任意の位置に 割り込みをおこなうことができるに加え、かつて従属していたものでも、その発達によって勢いが逆転することもありうることが理解されよう。

 超能力者は短時的ではあるが宇宙意識もしくは少なくとも地球人類意識を超えることができ ている。そこには、ある種の力関係が明らかに存在しており、その力の規模は可変であることを物語っている。古代の求道者の多くは、この力の獲得のために訓 練を重ね、ちょうどUFOがそうであるように不思議を実行したものではなかっただろうか。

(十四)ホログラフィー的現実世界の臨場感の理由

 では、なぜ我々は映像的世界に対して現実的すぎるほどに臨場感をいだくのであろう。
 それは、我々がたえず目に見えぬ集合意識から暗示をかけられているからである。この場合の暗示 とは催眠術師が言葉でつくる誘導と非常に似ている。

 催眠術の場合、やや複雑であるが、術者の言葉を被術者が自らの考えの中で元なる言葉に翻 訳して、自らの意識の中で照会用マッチトフィルターをつくり索引念体を介してデーターバンクから類似プログラムを入手し、彼の意識の場の中で実行して現実 を経験するものであると考えられる。この催眠効果は非常に強力である。

 ところが現実では、集合意識が与える意識場の中に個々の意識が浴しており、直接的に個我 は暗示を「元の言葉」で受けとることになる。これはど簡便で強力な暗示はない。個我の意識状態は様々な形態をとりうるが、顕在思考に同調しているときに は、その集合意識と同調せざるを得なくなり、定在的な実現象として認知せざるを得なくなる。

 逆に、睡眠に入り意識状態が大脳皮質的思考から外れてくるなら、個我は異なる集合意識、 すなわち旧脳的なものと同調し、なおも進めば意識体が観測器である肉体から分離して、いわゆる意識レベルの先祖がえりと言うべきものになる。ここでは「認 識する意識」は、別の記憶と思考中枢を備えた意識体へと移行し、それが入手するプログラムを実行することによって、ここでも意識は与えられた場に臨場感を 以て臨むことになる。

(十五)意識体(霊、幽、肉体)と意識場

 心霊学的な分類では肉体に重層するようにして存在する幽体(アストラル体)そして霊体 (スピリッツ)を想定している。これらは客観的にみて人の意識体が何重層もなしていることに対し、異なった人格を一個のものに認めるかわりに人格の媒体と しての意識体を多数仮定したものと考えてもよい。

 自我から主観的にみれば、意識体は本来一つであって、このメモリ上には特定の期間内に演 ずべきプログラムが現実時空を与えるものから異時空を与えるものまでつめこまれていて、それらが幾つかの分離される状態を形成しており、意識原理はその状 態(すなわち異なるプログラム)間をただサイクリックに飛び回っているのであると言い換えることができる。

 また、それぞれの状態は他の状態から侵犯を受けぬよう、記憶域の保護をおこなっていると すれば意識状態が変わる毎にその前の記憶が薄れてしまうことも言いあらわしうる。

 夢の経験を忘れてしまうこと、前世の記憶をもちこせないことなどはこの事情を説明するも のだ。意識がある状態を経験した記憶は、その状態における記憶領域にストアされ、他の状態における経験によってできる限り壊されないようになっている。こ のため、他の状態に移るとき、それまでの記憶は遷移時に(バースト的に)転送されない限り失なわれてしまう。しかしまた元の状態に戻れば(夢の)記憶をと りもどし、逆にその前(現実)を忘れてしまうというようなことになる。

 記憶領域はその状態のプログラムに対して(あるいは意識体に対して)割りつけられる。こ のため、プログラム(あるいは意識体)の消滅の直前に、もしそれまでの記憶が必要ならば次の状態に移る直前に次の状態の側に情報をバースト的に一括転送し て記憶の存続をおこなう。

 ここで記憶に二種類あることに注意が要る。一つは宇宙的な記憶であり、無限分岐時空を一 意にたどる過程の中に自動的に形成される。二つは、自我のためにする記憶であり、夢の内容の記憶や、ニアデス体験者の語る「生前の記憶の巻き戻し的展開」 の過程はこれである。その仕組みは現在のオーソドックスなコンピューターが十年も前から採っている方法と何ら変わりないのである。(図4・11)

 意識体の存在空間は階層構造をしていること、それらは全て現象界と同様の仕組みで段階的 に生成されていることを扱ってきた。これから宇宙構造に普遍して考えられることは階層的宇宙のそれぞれが量子的にとびとびの状態で存在していることであ る。特に個我を中心にして考えたとき、霊界、幽界などの考え方をとることを別として、これらの概念は薄れて一つの「意識場」とも言える量子場が、個我(意 識原理)を中心にして発生していると考えられる。

 その中には、基底からとびとびに「意識原理」の定在すべき状態が存在し、そこには、それ ぞれに適合したプログラムがあり、意識的経験の素地が与えられていると考えられる。

 現象は全て量子化していることの関連事項をまとめると次のようになる。

1. 全宇宙は最も根元的な量子である。階層型宇宙はとびとびの状態で存在している。
2. 人間は「意識場」をもち、その中で意義はとびとびの状態をとりうる。各状態は意識体とも等 価である。この関係はちょうど、場の理論と素粒子論の観方の相違に似ている。主観的→意識場  客観的→意識体(霊体など)
3. 意識の状態毎に(あるいは意識体毎に)記憶領域と記憶保護機能が存在している。
4. 無限次元空間媒質中では、汎そ全宇宙に存在する要素の数ほど無数の波動の干渉縞として意識 場が生じている。客観的にはあたかも無限次元超「まんだら」の如くであると想像される。

(十六)細胞レベルに封じられている宇宙の基本的仕組み

 理念(プログラム)の段階的ブレークダウンの仕組みは四・(十二)節で述べたメカニズム を基本にすると考えられるが、我々の身辺にもそれが縮図化されでいる例がある。それは、我々の身体を構成する細胞で日夜行なわれている事実の中に在る。

 DNAに記録されたプログラム情報は、人体をどのように空間的に構成し、時間的に変化さ せるかを詳細に網羅し、体じゅうの汎ゆる細胞の中に同じパターンを組み込んでいるわけである。しかし、細胞は脳神経を創るものであったり肝臓を創るもので あったりして、全く似ても似つかぬ形態を表面化させていることは衆知のことである。生物学ではこれを「機能分化」という簡単な用語で定義しているが、これ こそ宇宙を語るものに他ならない。

 機能分化の理由は誰しも知る通り、DNAの中のある機能を満たす特定のプログラムが励起 され用いられた結果、この特定情報を複写する伝令RNAや、その結果として生ずる酵素にユニークなものができ、このために末端的に生産される化学物質に相 異が生じ外形的変化となり、マクロな機能分化へと展開していくわけである。歴史をつくる理念プログラムの具体化も全く似ている。

 伝令RNAに相当するのが中間段階の介添役である人間に相当する。その結果生じるのが生 産物質(歴史)や老廃物質(カルマ)であったりする。

 理念の部分的紐解きには時間経過が重大な役割をするのと同様のことがRNAにも言える。 人類の歴史の場合、宇宙意識の下位にある人類集合意識がプログラム実行と共に時間認識をしており、それがしだいに実行順序を一つの定型パターンの中に変化 させてゆくと考えられる。

 同様に宇宙意識の下位にある幽体が人体の生滅に関する時間情報を認識し細胞レベルに電磁 的変化を通して賦活をおこない、個人の生涯を定型的な形に変化させていると考えられるわけである。

 ここでまとめると次表のようになる。細胞の中に宇宙の基本的仕組みが活在しているのであ る。

5. 総括

 さて、現象励起のメカニズムは以上の通り決してシンプルなものではない。だがこのモデルも、現 象の機微に渡って潜んでいるメカニズムを言い表わしたものであるにすぎない。冒頭で述べたように、観測一つ考えても決して光子一個のごときものではありえ ない。現在の物理学は物質世界における根本法則を導き出すことにあるためやむをえないことであるが、これでは有機体や生命現象を扱う分野との繋がりはあり えないと思われる。
 だが拙モデル構築の思想は様々な分野を総合化することにある。このため、原理的なものの 整合性には注意を払うが、理論化はせず、物質世界の話題は現代物理学の与える解答が情報構造の解明に役立つであろう見通しを述べるにとどめている。そして 拙モデルの意義は、もっと別のところに見出されねばならないと考えている。

 ところで、このモデルはもっと簡単にかつ総括的に言い表わすことができる。それは、全て の時空がプログラムを基にしていることから結論づけられることである。

 絶対的超空間とは無限次元であり、これが記録されているホログラムも無限次元である。す ると対応するコンピューターに無限次元の処理能力を仮定すれば、一台の超・超コンピューターにより全ての階層的時空が生起していると置き替えられる。

 ハードウェア的な機能をソフトウェアであるプログラムの手続きで置換できることは衆知の ことである。つまり、階層的励起はメインジョブからサブジョブ、サブタスクを呼び出し起動するのと要領は同じなのである。この階層が無限であるかそれとも 有限であるのか、それは元より不可知なものからの推測ゆえ分らないが、原理的には何段階でも可能である。先程来のコンピューターを介する異時空の間の相互 作用と観測の連合はプログラム間の情報と制御のやりとりに置きかえられる。

 たとえば、図4・9内記号Cの通信回線は具体的な情報交換があれば、プログラム間連絡が ある時点でおこなわれることになっていたことを示している。また、上位のボックスに対する下位のボックスはメインプログラムとサブプログラムの対応であ る。同様に図4・9全体は現象的(動的)には階層型コンピューターネットワークであるが、潜在的(静的)にはストラクトチャードプログラムを示したものと言える。

 以上のことからモデルの各要素に次のような原理的仮定ができると思われる。

(1)どのような時空においても物質で最速のものは時空に個有の「光」として表出する。

(2)本質的に光子(虚光子)は無限次元である。階層のフィルターを経て次元を落とした結 果としてたとえば我々の世界における電磁波として登場している。

(3)本質的な光子は全系の時間を担うが、この微分として各階層のみかけの光子や時間があ りえている。

(4)m次元ホログラムの記録物は光を偏向していくことによって全てのものを顕わすことが できる。(m=∞)

 一般的にホログラムは参照光の照射方向や 波長を変化することにより、多重記録が可能である。本質的な光の中に波長の意味あいをもつ次元がm個あると考えると、原理的にはこのうちの一つの次元につ いてパルス的に照射される光の波長を一定値ずつ一パルス毎に変化させてやればよい。すると、その次元に関して実行順序がつくられ、見かけの時間が発生する ことになる。

(5)コンピューターは光の波長相当のm次元について任意の次元を(4)の要領で変化させ る仕組みをもっている。

 我々や宇宙意識などは一次元分を操作する にとどまるが、程度の高いものであれば複数の次元を組み合せて操作し、プログラム間を多次元的に飛び回るだろう。このようなものがUFOであったり、高級 霊界人であったりすると思われる。つまり、実行者は階層的に上位であるほど自由度が高く、下位になるほど情報的にフィルターがかけられて次元が固定され自 由度は低くなるのである。

(6)ホログラムに作用するのは、本質的に一台のm次元分を操作可能なコンピューターで事 足りる。現象的な無数の時空とコンピューターはメインジョブから階層的に発せられるサブジョブ、サブタスクである。(図4・10下、図4・11はその性質 を表わしている)

(7)(6)が真理であるなら、現象は本質的に一筆書き的に確定していくものである。そし て、本質的な光のもとでは一時一点観測である。

 そのとき、無数の集合意識や個我意識は一 本の光が相互作用して通過した結果であることになる。それは今目下おこなわれているというよりも既に終った残像という観方ができる。光は無限速であると同 時に、その中に時間経過は無い。ただあるのは光と情報の相互作用結果のみである。その記憶をたどる行為が意識として表出していると考えられる。

(8)実行と観測は相補し合う。ホログラムには記録と再生の二過程がある。
今まで前者には全く触れていなかった。こ れは次のように考えられる。

 現象の運行は既成のホログラムの再生であ り、その結果として一本の軌跡が確定されるところに記録がある。または、n次元情報を再生して(n-1)次元で記録がある。(上位意識のかかえる情報を下 位のものが部分的に受持つ)

 次に確定された結果を近似的に観測し、認 識するところに仮想的な再生プロセスがあり、その結果から意識作用によってプログラムの傾向を変えたり、プログラムを置き替えたりするところに記録があ る。

(だがこれもプログラムを新作するというの ではない。なぜなら、次元的なブレークダウンを既にしているからである。では一体誰が始めて根元的な情報を創ったのか。それはもはや唯一者「神」であると しか言いようがない。この深奥については、古代哲学が明快な解答を与えてくれる。六節でそれをみていくことにする)

このように無限から有限なものへ具体化と、波動的な状態から粒子的なものへの変換が連綿となされているものと考えられるが、このようなところに現象運行の目的のようなものが見出せるようである。

6.心霊学に関するアプローチ

四・(九)節から得られる結論として、消化すべき全宇宙のプログラムに随伴して実行者のぼう大な体系を形成するプログラムがこの内に包含されているのであると言えるだろう。
ここには非常に重要な問題が存在している。 一つは心霊学でいう霊魂、そしていま一つはカルマとは何であるかについてである。
心霊学に言う人間の果たすべき神に接近する行為である霊の進化という過程の存在を中核にして、新参霊、分霊、精霊、低級霊、高級霊、などの階程に関係した顕われ方、形体がどのような原理に基づくものなのかを考えてみるときに、四・(十五)節で示した図4 ・11を改めた図4 ・12の考え方でアプローチできるのではないかと考えられる。

(一)霊魂と宇宙的役割の関係

前提的に通常言われる霊界よりも、もう少し上位階層の霊界を考える。ここには祖神がおられることとしよう。そこでは畏れ多いが、祖霊が身自らを偏極して分霊し、多くの子霊を創り、下位霊界に投入している。(このことは霊界通信の語るところである)この分霊は祖霊の霊域(D)において発生するのではなく、Dを根拠にしてCで生じるのである。だが、Cにおいても無から突然生じるというのではなく(勿論例外も有りうるが)、各階層における情報量保存則を満たすために、その構成元素をその階層界から取り入れなければならない。

このため、自然界の動きを担う精霊体などからそれを譲り受けたり、略奪してこれをおこなうのである。

つまり、自然(霊)系への人為(霊)系の移入である。この点については、古代思想が直接アカシャを観てきたものであるらしいことから、それが参考にできる。古事記で言えば、国つ神の領域に天つ神の役割が移殖されることとなっている。ギリシャ神話も然りである。旧約聖書も極めて簡単に「神は土から人間を創り、それに息を吹き入れた」とある。よって、霊自体も動物的組因を多く残すと言える。

また、もとより宇宙的役割の消化のために霊が調達されたものならばその目的に適った形に霊自体アレンジされていなくてはならない。つまり、始めから、特別な偏極が内在した意識体として下位に投影されるのだ。新参なら、まだ本来の目的とすべき機能は発揮し得ず、加えて動物的因子や制御の困難さによる余計な因子(カルマ)により試行錯誤が多く、それに相応したプログラム(地球的次元のような)が分担されねばならない。

やがて壮年期になり、その霊の独自性が発揮され、歴史上(広義の)に確かなる足跡を残せるようになる。さらに晩年期には、独自性の角が取れ、滅し尽くした平衡の状に達し、かくて祖霊の許に帰つてゆくことになる。そこには霊(体)のレベルにおける生成衰滅の定型パターンに乗った成りゆきが在るだけであろう。それを我々の世界では多くが知り得ず霊魂の進化と呼んでいるのだろう。もっとも、祖霊に帰れば終りなのではなく、より上層の神、究極的一神が無限の彼方にあるなら、そこに向けて無限の階程を登りつめる行為を総称することになるかも知れないが。

新参霊はとにかく非常に高次的な偏極を受けいるため、これを塗り漬し、本来の自由度を回復するまでには非常に時間がかかるというわけでぁる。逆に言えば我々は基より、祖霊の偏極された極性の一方であり、祖霊にももう一方の陰性的な極性が残っているのだとすれば、無限の一者にとって、欠けがえのない一部であることになる。

これは古代哲学や霊界通信が何度も説いてきたことを新しい観点から述べ直したものである。

(二)本源的カルマとその消去の仕組み

神でない我々の霊は、 一種の平衡状態からの逸脱であり、多くの空孔を含むディラックの海のようなものだろう。この空孔を埋めようとして正衡を目指して動く過程が、実行者の登場、すなわち分霊という理念になっていると考えられる。神の領域における一個の空孔の波紋が、無限の階程を伝わって来るうちに無限個の擾乱として我々の宇宙に反映しているのかも知れない。

その一個の空孔こそ、もとは無限次元の一条の光が射す行為と対応がとれるものと思われる。それは既に普遍するものを平衡を求めて移ろう反動で照見していく過程なのであろう。この空孔(純粋な)こそ、第一義のカルマと言うべきものである。そして動物的因子など不合理部分のもたらすものを第二義のカルマとすべきであろう。

次にカルマについて図4 ・10(c)を基にして説明しよう。霊の抱える空孔は常に充足されることを前提としている。だがそれは自然界のどこかに隠されていて、自らの中で経験していくことによってそれを発見するのである。

霊はちょうど陽電子のホールと考えればよい。そこには充たされるべき負のエネルギーレベルの電子は幾等でもあるが、本来の電子が出てこないと充足し消滅することはない。よって、周囲に電磁場を波及させ、電子を引き寄せようとたえず努力している。霊も、同様であり、電磁場に相当する演算子を空孔の質に応じてデーターバンクから上位階層の霊を通じて供給されている。

これがいわゆる、処理プログラムであり、その存在によって、最も必要な時空(経験)へとたえずセッティングされるよう、はからわれていると言える。既に四・(七)節で述べたように、これは実行順序に変化介入するための精神作用の奥底に導入されている。

それは霊がさらに下位時空の現象界(我々の世界)に、かてを求めねばならない時に接続しなくてはならない幽体に対しても同じことが言える。幽体はさらに低次元のホールを抱えている。

なぜなら霊よりもはるかに動物的な因子、排他性を根拠とした闘争、それによる悲惨さ、そして生産に直結した本能体系、さらに物質界特有の鈍重な反応体系にややもするとホールの増長を招きかねないからである。それはコントロールする霊にとっても大変なことである。なぜなら、ホールの多い霊ほど当面する現象は錯綜しまごまごするうちに幽体はどんどんホールを増すだろうからである。そして現界と幽界を切離すとき、霊にとっては幸せなときとなる。

しかし、この時、増加したホールの幽体切離しの際、記憶を吸収する反動で新たなホールが霊に形成されることも多いのであるらしい。

幽体のもつホールこそ、第二義的カルマであることに注意したい。ぞしてこれは霊に致命的な欠患を指摘するもののみ幽体の切離しのときに霊にホールとして復刻される。(これ以外は幽界留まりである。このため、幽体が幽界の土壌に復帰する毎に汚染を残し、次の構成元素利用者に迷惑を及ぼすのである。このために定期的に幽界は浄化されなくてはならず、地球史に関しては過去に何回もこの手続きがとられたことが古伝承には語られている。)

幽体の処理プログラムは霊からやってくる。霊にホールが多いと処理プログラムにも抜けが多い。ところが実行すべき時空プログラムの方は霊、幽の資質と目的をキーにして索かれて導入されてくるのだから、もともと処理の困難な勝手を知らないプログラムが選抜して与えられているようなものである。だがその中に間違いなくホールを埋める因子が入っていることも言える。そしてそれと合致したなら、問題は解けるようにもなっていて、 一つのホールは特別な目を持たなくても消去されたと分かるようになっていると思われる。これが我々が地上の経験を通して得なければならない霊的進歩というものの原理ではあるまいか。

7. 古代思想との整合

 もとより、古代科学観は超自然現象を含む汎ゆる自然界の仕組みに解答を与えるものであった。
 紀元前四千年の昔から四大文明に始まると考えられている古代国家は高度な数字、天文学を 持ち、それに併う高度な宇宙観があった。それは発達を遂げ様々な現在の底辺をなす宗教の教儀に採り入れられている。今最も盛んなのは、現代人のストレスと そこから起る万病の予防のための瞑想学であろう。このため古伝を基磯に様々な応用が試みられている。また、理論の方は、人々に倫理観念をもたせ、生きる上 での精神的な虚無から救うものをもっている。もちろんこれは個別における最低限の効果であり、この真価が発揮されれば全体的な精神文明と物質文明の協調的 発展の理想時代も夢ではないだろう。

 しかし、未だに多くの点が謎に埋もれたままであり、その良さを疑問視するむきがあるのは 残念なことである。

 その最たる原因は古代智に対する先入観である。進化論の考え方からすれば、古代人の方が より思想的に優れていたと考えるのは矛盾したことではあろう。だがここで反論するとすれば、進化論は巨視的な流れを語っているのであり、矛盾を起さないだ けの期間内にあってはゆらぎがあっても構わないということを無視してはいないかということだ。進化は試行のうちに創られ、それをもたらす突然変異は細胞レ ベルの非常に微小な範囲の試行錯誤のくり返しの中のケースの中で起きているのである。生物学的歴史は数億年あるのに、わずか数千年の間に原始人から文明人 となり得て、いま正に生態系すべてを全滅させる可能性を近未来に抱えていること自体、進化論を論ずる向きには奇妙なことに映らないのであろうか。

 一説に紀元前四千年を遡る昔(歴史学で認められていないので「超古代」という)に現代に 匹適するほどの高文明が存在し、各民族が伝承するような「大異変」によって壊滅し、火事場から焼け出されるようにして、精神的、思想的なものだけが持ち越 されたとする考え方がある。また一説に、古代人はシヤーマンの側面を持っていたため、慣習的にアカシックレコード(根元的理念)を読む機会に恵まれてお り、多くの本質的概念を現象の機微に及ばぬまでも入手していたのであろうとする考え方もある。この考え方は拙論で説明できるばかりでなく、現在でも多くの 霊能者や予言者、瞑想家の問では定理とされていることでもある。それらを非科学的という名の下に一笑に伏して良いものだろうか。

 筆者の研究では、古事記の神話は、一方では、現象上にスケールを異として発生する定型パ ターンを示す言理念を語るものであり、また一方では過去現在に生じた(生じるであろう)最低二回の時代の興亡を言い表わしていると解釈できている。旧約聖 書はどちらかというと、理念の参照を物語る。だが古代インドの叙事詩などは過去にあった驚異的な出来事を物語っていたりする。前者からはキリスト教、ユダ ヤ教、イスラム教が生まれ、もとあった思想のうち奥儀的なものはカバラ派やグノーシス派などに受け継がれた。後者の奥儀的なものからは、ヒンヅー教、仏教 が生まれ、生命の真髄を語り今でも多くの人の思想的基盤となっている。

 では、古代の哲学、宗教思想が、いかに以上のモデル概念にぴったりと適合するか、申し上 げよう。

 古代ヘルメス哲学では次のように言う。
「神は全ての存在を内にはらみ、全ての世界 を包み込んでいる。中心がいたるところにあって、周辺がどこにも無い円である」と。これは次のようにして言い表わせるだろう。

 実行者は神の光の通路である。その実行者はいたるところに観られ、その顕わす範囲は他と 不可分に透け込んでいる。理念は神から供給され、実行結果とその観測結果は神の本源へとフィードバックされる。供給と反映の中に、神と自然と人間が一体と なった巨大なサイクルがある。と。

 また次のように言う。
「世界の全存在、森羅万象は神の一部で、世 界の歴史は神の歴史でもある」と。

 また言う。
「唯一の存在者は限りなく多彩な形をとって 我々の前に現われる。汎ゆる被造物は、この唯一のものから出ている。ただ特性によって分化しているだけである」と。

 時間の流れ、あるいは大宇宙の歴史の流れは、唯一者の創りおき賜うた「大目的」をあらわ していく過程である。この大目的の中には善も悪も智も無知も剛も柔も汎ゆる要素が波動的にミッスクされている。それをあらわすために照見の光が投入され、 あたかも毛糸の玉をほどく如く索引系(時間軸)を設定して多くの分光により、分担精査されてゆくのである。

 さらに、ヘルメス哲学では次のように言う。
「三つの世界がある。原型的世界、大宇宙、小宇宙。神、自然、人間。魂、精神、肉体。人間は大宇宙の反映であり、同じ法則に 基づいて作られている」と。

 原型的世界とは理念(プログラム)界、また魂、精神はそれぞれ霊、幽に対応するだろう。 ここには互いに重畳しながら、階層的、独立的であってなおも三位一体である関係について述べられているようだ。まず理念があって、それが大宇宙、小宇宙へ と階層的にブレークダウンされ、それが各階層の実行者によって具体化される。そして万物何によらず、魂、精神、肉体の関係にあることを述べ、それらの構造 が相似型に成り立っていることを述べているようだ。既にみてきたように神(巨大情報網)-実行者(コンピューターの積分)-人間の脳神経系-コンピュー ターの相似はこのことを証明している。

この概念は非常に起源が古いためか仏教(密教)にも表象として用いられているようである。
写真5の「金剛界蔓茶羅」は図4 ・13のように絵解きできる ようだ。

 また究極的唯一者の本性について、プロティノスは次のように言う。
「叡知以前のものである。叡知は存在者のう ちの何かであるのに一者は何かではなく、むしろ全ての個々のもの以前であり存在者ではない。一者は存在者を含む叡知以下の系列のいづれでもない」と。

 すなわち一者は、叡知を投げかけ自然を創り出す存在者のらち外にある、元の元たる創り主 というわけであるが、奇しくも先述した五節の(8)項の解答が与えられていることになる。
ちなみにプロティノスの言ほかにみられる概念の根本を語る重要な言葉と拙モデル用語を対応づけると下表のようになる。まとめの意味で参考に願いたい。

 グノーシス派の宇宙像では創造以前の原初から存在する世界に神と原型的世界があり、神が 原型世界に投射することによって天上界、宇宙、エーテル、太陽系、地上界などの創造された世界が登場するとしている。また、古代インド哲学では「ブラフマン」は変化して生じた一切の事物の原因であり、ブラフマンは自己の力で自己を開展したの であると説いている。また、シナの哲学でいう「太極」は世界万物の生ずる根元であり宇宙の本体であると されている。

 筆者の研究では、古事記にも超空間の実在が語られている。また神話はもとより、神道哲学 的に言えば自然現象の荒御魂(すなわち現象以前の原型的理念)をあらわしたものだとされている。

 さらに言えば、原型的理念は実現象として生起するまでには二段階以上の中間段階を経るこ とすら語られている。そして、我々は末端に位置づけられ、最も適切な名詞「ひと」で呼ばれた。これは「日戸」すなわち「理念(知恵)を世に出す門戸の役割 を担う者」の意である。

 このような古代思想は一体何を言おうとしているのか、それは十分考えてみるに値するだろ う。ここでは幾つかの根元的概念をとりあげ、拙モデルがそれによって支持されていることを述べた。

8.おわりに

 最後に現代における最大の謎UFO現象に目を転じてみよう。それは既に忘れ去られようとしてい る古代的思考がいかに未来において重要であるかを如実に示してくれる。地球外知性の警鐘というべきではないだろうか。
 UFOが我々に教えてくれる新しい現象とそれから得られるアドバイスには次のようなもの があると思われる。

1. UFOのふるまいは五次元宇宙の存在を暗示していること。
2. UFOのふるまいは観測的現象が映像的であることを暗示していること。
3. UFOはそのジグザグ連動の中に量子のマクロ化現象であることを暗示していること。

 1については、既に冒頭で述べた。現行物理学では解明不可能な問題である。

 2については筆者の経験も一枚かんでいる。あるUFO問題研究グループと共にUFO観測 をおこなった時のことである。筆者の目撃したのは夜間四時間はどのうちに十数回であったが、その半数位のときに強い「見えそうだ」という確信のわき上がり と共に夜空の一瞬の「ぶれ」に似た稲光りが肉眼で微妙に検知できた。その直後光体が視界を横切るのである。これは後のテレビ番組でE・メイヤーのUFO録 画取りをコマ分解したところ、円盤の出現と消滅の各々3/50秒前にコマ全体が光っていることを述べたが、関係がないとは思えない。電磁的なバーストが観 測者を覆うようにして空間全体に起っているらしいのだ。

 筆者の眼には弱い稲光りと写ったが、すぐ直後にどこかに出現していて、ややおいて視界に 飛ぴ込んできたと考えられる。UFO観測者にとって夜空は映画のスクリーンのようなものだ。夜空ばかりでなく、筆者の居る空間すらそれに含まれていて、立 体的な一つのコマがある瞬間別のものに置き替っていて、その後矛盾なく進行しているという感じなのである。

 関連して、超能力者のPK時にはちょうど周辺空間の電磁場の乱れが観測器で検知されてい る。また、同じくマシユー・マニングのPK時にはしばしば周辺空間の歪曲すら目撃されているという。これらのことは、いづれも類似した現象であることを物 語ると共に、時空それ自体が映像的であることを証していると思われる。

 3の意味はUFOが意識部分と、三次元物体の間を遷移する存在であることを示している。 それは稼動状態において一種の「場」としてふるまうということである。よって、ジグザグ運動あるいは光紐運動は自由電子のとりうる飛跡に類似のものとなる と考えられる。このことは我々に「物理法則は適当な処理を施せば変更することが可能」であることを示している。その方法はUFOが身を以て示しているとい うわけである。

 UFO現象に関して言えば、以上の三点が満足される理論が今後の物理学に登場しなくては ならないことを暗示しているのである。

4については、現代が終末論ささやかれる時代だから、コンタクティーが歴史的に重要な部分を担うという意味にとってもらって良い。しかし、ここではより広範囲な、はるか昔から現在、そして今後久遠の未来に至るまで、人が生まれた以上は、神の歴史に対して果たすべき役割があることを示しており、誰もがそれによって贖われるだろうということを言いたいのである。それは何も役割を意識したしなかったの意ではなく、ただ神の歴史を担うことそのものが役割なのではないか。ある者は戦争を起こした重本人、またある者は生まれる前に死んでいたかも知れない。

このような場合でも、大目的のために為しているに変わりはないはずだ。
人々は果たした役割について比較級的なこだわりをもつことから、異物的なカルマが発生していると考えられる。それを取り払えば、少なくとも正常なカルマの作用に基づく、次の役割が付与され、順調ななりゆきが約束されることであろう。人が自らの原罪意識を克服するには、神ヘの奉仕のためという大義名分を以て宇宙の大目的のため、あるいは役割に基づく行動を知らず知らずのうちにおこなっていたという深い認識を過去にしてきた行為に対してとることが必要ではないだろうか。古代の宗教思想は、いづれも神を前提にし神に奉仕するという認識に立つべきことを語っている。

地球人は宇宙のリズムから外れた異端児なのではなく、大目的の一部である「無知迷盲」を演ずべき時にあるのであり、それを克服していくことに一つの試練があると考えられるのである。

それはトップダウン的に下された理念の一部であり、それを演ずるに適わしい資質の者がこうして地球上に集まったとすべきだろう。

宇宙の知性はその最も手っ取り早い原罪克服法のあることを特にコンタクティーや目撃者や関心のある者を通して語りかけているのではあるまいか。是非とも我々はこの暗黙の啓蒙に醒めた目を向け心を傾けねばならないと思うのである。

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注 釈

*1 絶対的超空間 現象 を成立させる基がプログラムであるとした場合、その全プログラムを優劣なく同格に扱うことのできる、観念的な空間。いわゆるデーターバンクである。

*2 超空間 *1のプロ グラムの実行の進程でコンピューターが介在して起こす仮想的空間は、理論的に無限数個可能である。この中の一つが我々の現象空間(実験室空間)であり、それを除くものを超空間という。

*3 虚光子 超空間上の 光子。コンピューターが現象の励起のために供給する基エネルギーである。虚光子と情報との相互作用で量子化現象が生じ、その特定の場合が実験室空間における光子となる。

*5 情報素量 情報単位 を構成する要素の機能単位。命令語でいえばオペランドの個々の要素。(ビットではない)

*4 情報単位 コン ピューターが実行すべき情報処理単位、すなわち命令語である。この場合、多次元情報構造をしている。

*6、*7 量子数的量 子、量子的量子 一電子の電荷は量子化されてeの値をとり、決して0.9eといった半端な存在は許されない。また電子が磁気をもつ理由となっているスピンも半整数、整数の値しか取り得ないようになっている。このように性質がとびとびの値をもって出てくることを量子化されていると言い、特にこの場合を量子数的量子化という。これに対し、エネルギーや場の大きさのようにそれ自体連続を許すが、粒子としての性質を併せもつものを量子的量子という。基底にディジタル情報とメカニズムがある限り、仕方のない出来事であるといえよう。

*8 マッチトフィルター  参照光に特定のパターン情報を付けてホログラム側の同じパターンの情報と照合させることによリホログラム上の参照アドレスを見出したり、あるいは近傍の情報を連想的に索こうとするものである。そのときの参照光に記録されたパターンを照会用フィルターと呼んでいる。

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あ と が き

私はこの書をちょうど古事記がそうであったように、私自身のとりとめのない空想に満ちた半生に終止符を打つ墓誌と考えて出した。といっても決して自殺志願のような物騒なものではなく、役割の返上と共に新たな実直な役割に基づく半生のスタートという意味を込めているわけで、私にとっての新嘗の儀式であると考えてもらえたら良い。

だが、本当にこれで終らせて良かったかというと、どうもそのような気がしない。蛇の道は蛇ということもあるし、この方向の役割は無価値に見えてその実重要なものであることが否めないからである。

現代は知識情報が豊富であり、それに併って価値感も多様化している。そしてどれが本当だということも言えない、選択と意思決定の困難な時代となっている。だが、一つだけ確かであることは、全ての人が現代という世界を演ずる役割を個々に背負っていることだろう。多くの人はマイホーム主義のうちに幸せな家庭を築くことが特権であろうし、またいくつかの人々は企業経営し、社会的役割に寄与すると共に利益追求にいそしむことを役割とするむきもあろう。それらは全て無くてはならないことである。

しかし、その役割も千差万別である。どこかが、平和で豊かな高文明を満喫している間に飢餓や戦争で苦しむという役割下にある人も居る。そうしたとき、少しでも多くを考える暇に恵まれている者がより良い未来の役割を導くことのために力を注いでいくべきことは確かであろう。

具体的にどうすれば良いか、はよく分らないが、これからは単独で事を進めるのではなく、大域的な総合的な動きの中で行動していくことが必要となってくるだろう。そのようなとき、私も不肖不随ながら参加協力を願い出ようと思う。その時が来るまで、また来ることを期待して、一つの役割の仮終止符を打たせていただくことにする。

最後に、本書の前稿である散逸的かつ未熟な記事を逐一採り上げて下さった日本サイ科学会の関英男先生、実藤遠先生に心から感謝申し上げるしだいである。また、本書の製作にあたってとりとめのない拙稿のまとめから文量の多い校正に渡り快よく応じて下さった交友印刷備の飛田二三哉氏。寺西誠氏に心からお礼申し上げるしだいである。

昭和58年3月20 日
奥 野   環

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参考文献

(1)ペルシャ文化渡来考 伊藤義教 岩波書店
(2)古代の日本とイラン 井本英一 学生社
(3)古代史上の天皇と氏族 肥後和男 弘文堂
(4)古事記偽書説の周辺 大和岩雄 名著出版
(5)世界の宗教と経典 綾部恒雄、他 自由国民社
(6)矢われた文明 A ・ゴルボフスキー 講談社
(7)ムー文明の発堀 トニー・アール 大陸書房
(8)失われた大陸 E ・B ・アンドレーエヴァ  岩波新書
(9)古事記 武田裕吉訳註 角川文庫
(10)神代文字 佐治芳彦 歴史読本臨時増刊 '81-12
(11)シュメール 金子史朗 歴史読本臨時増刊 '81-12
( 12)真説・古事記 山田久延日子 徳間書店
(13)神話の創造性 久米 博 現代思想 '80-11
( 14)神体山 景山春樹 学生社
( 15)マヤ神話 ― ‐チラム・バラムの予言― ― ル・クレジヲ 新潮社
( 16)ギリシャ神話 呉 茂一 新潮社
( 17)気象衛星ひまわり写真 神戸新聞 '81-12-14 夕刊
( 18)まんだら(金剛界) 学研「ムー」1月号特別付録ポスター
(19)ョガ真義 M ・ドーリル博士 霞ケ関書房
( 20)魔法入門 W ・E ・バトラー 角川文庫
( 21)「出雲八重垣」の謎の究明 拙著 日本サイ科学会 サイVol.2
(22)古事記の謎解き 拙著'79-9
(23)謎のビラミッドパワー ビル・シュール他 勁文社
( 24)転生の秘密 ジナ・サーミナラ たま出版
( 25)オカルト秘法 浅野八郎 講談社
( 26)法華経と宇宙物理学 志田行賢
(27)超能力者ユリ・ゲラー アンドリャ・H ・プハーリツク
(28)精神/頭脳/物質モデル トーマス・ベアデン ユニバース出版 UFOと宇宙 Vol.30,32,65,74
(29)17世紀までの科学観はサイ科学的であった 実藤 遠 日本サイ科学会 サイ Vol.2
( 30)素粒子と加速器 ロベール・ギラン 平凡社
( 31)古典場から量子場への道 高橋 康 講談社サイエンティフィク
( 32)高エネルギー物理学 武田暁、他 海洋出版 号外フィジクス
(33)物性物理学の世界 伊達宗行 講談社ブルーバックス
( 34)素粒子論の世界 片山泰久 講談社ブルーバッスク
(35)相対性理論の考え方 J ・L ・シンジ 講談社ブルーバックス
( 36)素粒子を光で見る 本間二郎 講談社ブルーバックス
( 37)生命の物理学 今堀和友 講談社ブルーバックス
(38)五次元の世界 K ・A ・ブランスタイン 講談社ブルーバックス
( 39)ホログラフィーの実験と基礎 平井紀光 芝立出版
( 40)メカ二カル宇宙論 拙著 日本PS学 会 サイ情報 Vol.1 No.5

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一九八三年七月五日印刷
一九八三年七月十日発行
古事記と超古代史 (C)
著者 奥野  環
神戸市長田区・・・・・・・・・・・・
TEL (〇七八)・・・・・・・・・・・・・
印刷 交友印刷株式会社
TEL (〇七八)・・・・・・・・・・・・・

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