まつと命婦

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「橋の上の岩男」#7

「まことに、ござりまするか?」 思いもよらなかった若殿の言葉に、男は瞠目する。 「ああ。出入りの商家で奉公人を幾人か増やす話があっての。立ち居振る舞いや仕事に慣れるまでは難儀するであろうが、主人は篤実で信頼の置ける男だ。お主の方から子らに伝えてみてはくれぬか?」 「それは願ってもないことにござりまするが。されど何故……?」 男の疑問は尤もである。領主の屋敷に出入りする程の商家であれば、下働きであっても身元の確かな農家の子弟を雇い入れるものだ。食い扶持に溢れる次男三男や

    • 「橋の上の岩男」#6

      釣瓶落としの秋の陽が、辺りを紅く染め上げる。橋に座る男の顔も、真っ向から照りつける西日に赫赫と照らされている。軽く目を伏せ、背筋を正したいつもの姿勢。お天道様が山の端に隠れるまでそうしているのが、彼の日課であった。 「夕焼けの中で見るとお主、ますますおっかない顔をしておるのう。閻魔様と見紛うたわ」 けらけらと笑う声の主は、南條の若殿である。初めて言葉を交わした日から幾日過ぎたか。若殿はあれから連日、暇を見つけては屋敷を抜け出し橋を訪れてきた。 「今日はまた、遅うに来られ

      • 「橋の上の岩男」#5

        「見た通りの乞食、か。俺には並の乞食には見えぬ」 「お武家様にも、某が物の怪に見えまするか」 男の口振りは心持ち愉しげである。「物の怪岩男」という渾名を、本人は存外気にいっているのかもしれない。 「昨日はそうも見えたがの」 若殿がぼそりと口にすると、男はぱっと眉を開いた。 「昨日の!あの時のお武家様でしたか!雨の中、随分のんびりと馬を歩ませておいでだったので不思議に思うていたのです。何故あのようにごゆるりと?」 「不思議に思うたのはこちらの方じゃ!人も通わぬ雨の中

        • 「橋の上の岩男」#4

          噂に違わず男は、昨日見たのと同じ場所に、同じように背筋を伸ばして座っていた。 若殿は川沿いの柳の根方に腰掛け、その様子をつぶさに観察することにした。 往来の人々にとっては男がそこにいるのはもはや当たり前の光景のようで、その正体を訝しむ者はいても、存在自体に驚く者はほとんど見られなかった。 時折、男に声をかける者があり、二言、三言、言葉を交わす。相手が大人であろうが子供であろうが、また自分に対して好意的であろうがそうでなかろうが、男は表情や口振りを変えることなく応じているよう

        「橋の上の岩男」#7

          「橋の上の岩男」#3

          老臣の口から発せられた言葉に、若殿は驚いた。人の上に立つ者が怪異や神秘を語ってはならぬ、と己に教えたのは、紛れもなくこの翁である。 「物の怪とな。お主、俺をからかっておるのか」 「滅相もござりませぬ」 わざと語気に棘を含ませる若殿に、老臣は飄々と応じる。 「町民たちの間でそのように呼び習わされている男がおりますれば、若様がご覧になったというのはその者でありましょう」 「物の怪と呼ばれる男、か」 「左様に。物の怪岩男と呼ばれ、随分と噂になっているようで」 岩男、と

          「橋の上の岩男」#3

          「橋の上の岩男」#2

          「お手元がお留守にございますぞ」 老臣の声に、若殿ははっと我に返った。真新しい料紙に、筆先からぽたぽたと垂れた墨がまだらに黒い染みを作っている。 「新しいものをご用意致しましょうか?」 「いや、良い。今日はもう仕舞いにする」 前日、橋の上で奇妙な男を見掛けて以来、若殿は何をするにも気もそぞろであった。 あやつは何者なのか。何ゆえ、雨に晒されてあのような場所に座っていたのか。あのようにぴたりと背筋を伸ばして少しも動かずにいることが、果たして常人にできようか。忍と言うに

          「橋の上の岩男」#2

          「橋の上の岩男」#1

          南條の若殿がその男を知ったのは、父の名代として大叔父にあたる老爺の屋敷を訪うた帰路のことだ。その日は朝から生臭い風が吹き、今しも降り出しそうな空模様も相俟って気の進まぬ訪問であった。 元より、格式ばったことは苦手な若殿である。形ばかりの時候の挨拶で茶を濁そうという心算は脆くも崩れ、年寄りのくだくだしい噂話やら童に説くような論語の講釈やらに付き合わされて、ほとほとうんざりしながら屋敷を辞した。 馬に揺られて二町ばかりも行かぬうちに、ぽつりぽつりと雨の粒が落ちてきた。と見るや、

          「橋の上の岩男」#1

          「泡沫のすゑつ方」#8

          翌朝、戸を叩く音で目を覚ます。開けてみれば女中が風呂敷を抱えて立っていた。 「若様からに御座りまする」 と、それを差し出す。礼を言って部屋に戻り、早速開ける。 濃紺の直垂と草履、侍烏帽子。 侍烏帽子か。またこれを冠る日が来ようとは。感慨深げに手にとり、そっと輪郭をなぞる。 ついていってみようと思った。あの足が歩む方へ。 真っ新な直垂に袖を通す。袴の帯を締めて、最後に侍烏帽子の紐を結う。帯の隙間には麻馬殿から頂戴した紅の腰刀。濃紺の上下に紅がよく映える。早速若殿の寝室の前に行き

          「泡沫のすゑつ方」#8

          「泡沫のすゑつ方」#7

          決まって見る夢がある。月が消えかけると見る夢だ。 己の中に、虎がいる。 見えはしないが、たしかに虎だということは分かる。 時々、考える。 この虎こそ己の本性なのではないか。 ヒトの皮を被った虎。 己のヒトの部分こそが紛い物ではないのか、と。 家中で評判のよもぎ酒を飲ませろ、と若様に声をかけられたのはちょうど仕事終わりの夕刻過ぎだった。急いで身なりを整え、一等出来の良い酒を手に参上する。 着流しに1枚だけ上着を羽織り、片膝を立てて居間の東側に位置する縁で柱にもたれかかってい

          「泡沫のすゑつ方」#7

          「泡沫のすゑつ方」#6

          「これは干して酒に入れると旨いので御座る!完成した暁には七之助殿にもぜひに!あぁ、あとは傷薬としても使えるので御座る!」 にこにこと無邪気に笑いながら返す三島に、 「なるほど!それでは己もお手伝い致しまする」 と、楽しげに七之助が乗る。 「己もよもぎを見つけしかばとっておきまするぞ」 小五も乗り気になる。 三人は仕事場を変えながら、夕刻まで草をむしり、よもぎを摘み続けた。仕事が終わるや否や、七之助の案内で台所に向かう。飯時にはまだ早く、下女に釜を借り、さっそく摘み取った葉を茹

          「泡沫のすゑつ方」#6

          「泡沫のすゑつ方」#5

          「さて、あとは庭番の者たちに紹介致しましょう」 言って立ち上がり、屋敷の東側へと向かう。 そこで草むしりをしていた二人の男へと紹介される。 「小五、七之介、こちへ参れ。今日から其方らの手伝いと相成った三島殿じゃ。」 「三島達矢にござりまする。」 名乗り、ほのぼのと笑う。二人は興味津々で麻馬に尋ねる。 「麻馬様、この方が若様が拾うたという方ですかい?」 武家の者でもあるような、そうでもないような微妙な出立に二人はどう扱えばよいか戸惑っているようである。それを汲み取った麻馬は 「

          「泡沫のすゑつ方」#5

          「泡沫のすゑつ方」#4

          上座の間を後にして、麻馬はまず湯殿へと歩めを勧めた。 「まずは身なりを整えて頂きとうござりますれば、湯を沸かします故、身体を清めてくださいませ。」 承った、と返事をすれば、待機していた侍女に服を脱がされ、風呂場へと連行される。あれよあれよと言う間に身体を拭かれ、新品の衣に着替えさせらる。芥子色(からしいろ)の水干である。肌触りが滑らかで質の良さが窺い知れる。 次に、長屋のある棟へと向かう。がらがらと音を立てて引き戸を引くと、部屋には誰もいない。六畳ほどの部屋だ。ちょうど空室の

          「泡沫のすゑつ方」#4

          「泡沫のすゑつ方」#3

          次の日。昼過ぎ。 普段よりはしっかりと濃鼠の衣を纏い、網代笠を被る。いつもは懐に隠していた腰刀も久方ぶりに腰に差す。僧のような、武士のような、なんともちぐはぐな格好であることは自覚している。けれどいくら断ろうとしても、あの青年には惹かれるものがあった。南條北家の秀才。この地を治める南條家の分家のひとつ。代々この家の者は専ら戦術に長け、あの青年も齢十六にしてその頭角を表しつつあるという。その肩書を抜きにしても、己の中のなにかが「往け」といって聞かない。見えないなにかに突き動かさ

          「泡沫のすゑつ方」#3

          「泡沫のすゑつ方」#2

          ふと、後頭部に鈍い痛みが走った。イテっと声を発すると、一拍置いて河原にからからと音を立てて転がる礫が目に映る。  背後の草むらから人の気配を感じ、首をひねる。闇夜ではっきりとはわからなかったが、どこかで見た気配だ。 「お主、気づいておったのじゃろ。」  ふと、投げかけられた声を聞いて思い出した。橋上で物乞いをしていた時に声をかけてきた、武家の青年だった。 「さて、何事にござりましょう。」 男は眼をぱちくりとさせている。 「とぼけるな!俺が近づくのを知っておりながら、わざと打た

          「泡沫のすゑつ方」#2

          「泡沫のすゑつ方」#1

          ーーーちゃぷ、と微かな水音がした。  手応えがあった瞬間、握った竿の先をぐっと上げる。当たった、と感じるや否や糸が切れないように引く。黒い水面を割って獲物が上がってきた。小鮒だ。これでようやく飯にありつくことができる。秋の夜長とはいったものの、月の影が見えない夜は深く、闇は濃い。ひゅっと風が吹いた。男は一人、月草色の直垂をかき合わせる。長年着古してきたのであろう、土埃で汚れ、すっかり草臥れた様子である。齢の頃は二十過ぎか。風貌こそみすぼらしいが、折々に気品漂う立ち居振る舞い

          「泡沫のすゑつ方」#1