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「表現を仕事にするということ」を読んで(1693字)

小林賢太郎新刊、「表現を仕事にするということ」。何度も読み返した。
厚みのある装丁を味わいつつ、その言葉を噛みしめた。

賢太郎さんという人は、割とグサッとくることを言う。何というか、冷たさとは違う、反論の余地のない透き通った言葉で刺してくる。読みながら私はまあまあ食らった。自分の中の言いようのなかったモヤモヤや憤りが露呈するような心地がした。もはや自己啓発本。”表現すること”について、特に印象深い話について記録を残したい。


古くならない作品のために

作られてから10年、20年と経っている作品にこれほど共感し没入できるのには、それ相応の作り手の企みがあると知った。
どれだけ流行や世相が移り変わっても、変わらない共通認識や歴史、言葉、形。自然と楽しくなるリズムや色。小林賢太郎作品は常にそういうものの組み合わせで出来上がっている。
私は、「未来人を笑わせたい」と綴られたのをずっと心の支えにしている。ラーメンズには、小林作品には、いつ出会ったっていい。きっと出会うのがさらに10年遅かったとしても、同じように面白いと思うだろう。賢太郎さんのイメージする未来人というのは数百年数千年先の誰かなのかもしれないけれど、一応過去の作品から見たら私も未来人である。だからこそ、心から笑えることがこの出会いへの誇りなのである。

泣き寝入りの美学

「泣き寝入りの美学」については、私のことのようで、私にはできないことだと思った。
私も多くの場合で泣き寝入りするし、無理に歯向かったりはしない。とりあえず一旦飲み込んで目を逸らして、趣味に没頭したりして忘れようとする。しかし、それでも納得できないことが度々あるのだ。

私がどうしても腹立たしく思うときは、とにかく合理的で非の打ちどころのない理論を模索する。最善策を導き出して、相手に突きつけてやろうと企む。しかし、それも大概考えているうちに崩壊してくる。何に対して腹を立てているのか、私程度に何が言えるのか、何も分からなくなり、面倒くさくなり、ストレスに溺れる。そして結局、泣き寝入りする。
毎回こんな流れになるくせに、私は泣き寝入りなんてしたくないと思っている。できることなら、言い負かしてやりたいと思っている。そこが、賢太郎さんとは違う。

諦めは負けでも悪でもない。自分の立場やプライドを守るより、ストレスが世界から減るのを望む。私からすれば、その結論はとてつもなく合理的。ごにょごにょ言い訳をしたり泣き言を垂れるよりずっと潔い。
でもきっと、いや確かに、賢太郎さんは苦しんできたのだろうと感じた。たくさんのことを抱えてきたのだろう。

表現欲

賢太郎さんの語る表現欲という概念が、私にとってはドンピシャ。金銭欲でも性欲でも承認欲でもなく、表現をしている自分が好き。というか表現しないでは生きられない。自己肯定。私にとっての表現はそういうものだし、そういうものであり続けてほしい。

私はほとんど不特定多数に発信しないまま表現を続けていて、特段優れていると評価されたこともないからこそ、目的は承認や金銭でなくなった。
それこそ、昔ハマっていた界隈では、目立つファンは認知されるからとお金を積んだりファンアートを描いたりする人が沢山いた。私も負けじと発信しようとしてみたけれど、次第に何を目的としているのか分からなくなった。
他に絵が上手い子はいくらでもいるし、他に歌が上手い子はいくらでもいる。比べたくもなくなった。数字で考えるのをやめた。

賢太郎さんは、学生時代や初期の頃から能力を評価されていながら、純粋な表現欲の感覚を持ち続けていることが凄いのだ。そこで承認欲や地位名声に溺れないのが凄いのだ。

と言いつつ、割と出たがり。そこがいい。

「僕は僕が観たいものをつくる」

最後にそう語ってくれて、一ファンとしてはこの上なく嬉しい。それでいい、いやそれがいいんです。

世の中の不条理とか、表現を妨げるもの・こと・ひとに振り回された賢太郎さんだからこそ、回帰する先は「自分の観たいもの」であるべきなのだ。

どうか新作公演の制作が楽しいものでありますように。
ついでに、チケットがご用意されますように。

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