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表現人生の老後(1189字)

私は小林賢太郎氏の描く作品演じた作品そのどれもに魅力を感じている。
そんな中で、語りたいのは彼の表現の”伝記性”だ。
無論、伝記性などという言葉はない。勝手に作った。
要は偉人の伝記のように、一貫した信念と変遷する一人間としての在り方が面白いということ。といってもなお掴みどころのない言い回しになってしまった。

私は、賢太郎さんという存在と出会うまでを書いたnoteに、彼を見る私の視点が「伝記を読んでいるかのよう」と述べた。それは単に彼の人生が未だ50年にして激動的であるという点のみならず、あまりに”主人公”であるが故の表現である。そして、彼の全盛期を過去として眺めざるを得ないことを痛感するが故でもある。

気づけば漫画や演劇、コントにマジックと表現の世界に降り立ち、気づけば唯一無二のコント師になり、気づけば喝采を浴び、気づけば陰謀に巻かれ表舞台を去った人。波乱万丈というやつである。

五輪がひとつの転換点なのであれば、それを超えた彼の描くものが若き頃とまっついではないのは自然なことだと思う。というか変わっていて欲しい。全く同じ方法で、同じ対象に向けて、同じ表現だけを繰り返すのが表現者ではない。己の中の変化を表現に映し出し、その時にしかない方法で届けてほしい。

私はその「小林賢太郎」というひとりの人間が常に移ろい、徒然なるままに表す生き方そのものの虜になっているのである。


『回廊』を見て思ったのは、「表現の老後のようだ」ということ。
もはや社会のどこに属し尽くすという訳でもなく、そこには小林賢太郎が今描きたい光景が広がっていた。その作品を心待ちにしているのはただひたすらに彼が生む何らかの表現に飢えた根強いファンであり、新たな畑に種を植える必要は決してない。彼はそんな自由な壇上に、自由にキャストを並べていた。

私は、ラーメンズというひと組のお笑いコントユニットとして人々を湧かしていた頃の彼には出会えなかった。当時の熱狂には相見える余地をもたなかった。全て、後になって知った。後になって出会った。インターネットという文明の利器に導かれただけの、令和人のひとりともとれる。

だから、当時の彼らしさ、懐かしさを求める人たちのような気持ちとはまた違った目線で見ているのだと思う。私にとって、彼が今生み出すものが彼の表現であり、それは得てして彼の積み重ねてきた人生の道筋のうちの一途であるというかけがえのなさを感じているのである。

笑わせることだけがお笑いではない、ということをこれほどまで体現した表現者は後にも先にもいないと信じている。
今私にできるのは、彼の放つ作品たちをひとつひとつ噛み締め、自分なりに紐解き、心の中の『小林賢太郎』という伝記の1ページを丁寧に書き足してゆくことだけなのである。

今度の上映会で見るであろう彼の笑顔は、決して忘れぬようその伝記の表紙にでもすべきかもしれない。

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