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エヴァ映画を観たよ(観た人向け

緊急事態宣言が解除される予定だった3月8日月曜日、僕の心はかなり閉ざされていた。

僕は平日仕事、観に行けるのはよくて土日。思えば思うほどエヴァンゲリオンという作品に関するあれこれにセンシティブになっていった…それでも妻も快く時間を作ってくれて土曜日に観に行くことができた。結果色んな意味で僕の心のモヤは消え去り、ある種自分がアニメというコンテンツに心底熱くなり「それ一色」となっていた時代へのアンサーとも取れる卒業証書を受け取ったような。そんな気持ちにさせられたのだった

てな感じで色んな思いもあり僕はこの作品に対してこのように重く向き合ってしまっているのだが、Twitterで病んだ心はTwitterでは晴らせないのでnoteに全て書くことでtweetしなくても良くなりたい。そんな思いを胸に今回はこのシリーズを経ての気持ちや映画そのものの感想を書きたいと思う。

考察はたくさんの方のYouTubeやnote等各所で行われているし、勿論僕もたくさん見ています(エヴァの醍醐味なのでね…)。しかし今回は考察に寄りすぎず、また「庵野監督の自己投影としての観点」も今回は一度横に置いて、あえて見ないものとして、「ここがよかったよね」などを語る場としたいと思っております。

※めっちゃ長いです

■ とりあえず吐き出すエヴァンゲリオンと私

(僕が今作を見るまでの心の動きです。あくまで自分の気持ちの精算で内容に触れていないので、興味のない方は読み飛ばしていただいた方がいいかもです)

僕は昔から「世間で大注目」やクラスで大流行しているものが苦手だった。だからこそロックを聴いたし深夜ラジオにハマっていった。勿論それは危うい精神であり、そんなひねくれ根性があるからこそ逃してきたチャンスや入れなかった輪がたくさんあった。

エヴァンゲリオンという作品は普段アニメやそれに通じる文化を愛好するタイプの人以外も多く夢中にさせてきたコンテンツで、自分もエヴァンゲリオンを好きになった段階ではまだ「非オタ」だった。その後色々あって多種のアニメを愛好していくことにはなったのだが、そんな最中で新劇場版は2作目を迎えていた。感想などを見ているとこの新劇場版 破からエヴァンゲリオンに触れた人が多いみたいだったが、それくらい当時衝撃のクオリティだったし枝はしっかり不明瞭ながらも幹はしっかりとキャッチーで愛せる内容だったからこそたくさんの視聴者に刺さったのが自分にもわかった。

しかし3作目の新劇場版 Qが放映される頃、さらに他のアニメにどっぷりと浸かっていた僕はエヴァンゲリオンというコンテンツに対して少しイップスを感じてしまっていた。
ゲンドウが笑顔で髭を剃るCM、UCCのこれ見よがしな宣伝…わかってはいながら世間のエヴァンゲリオンにかける熱が僕をどんどん冷めさせていった。

お金も時間も少なく貧乏暇なしだった当時の僕に、なんだかエヴァンゲリオンというコンテンツそのものが対岸の火事のように思えて観る気になれなかった。これは完全に冒頭の僕のよくない性分が出てしまった部分だと思う。

その後Qという作品は数年前に正直ひっそりと観た。散々周りの友人からもそろそろ観て語ろうと言われたりもしていた時にも見ずにいたので、今更観ていけしゃあしゃあと語るのも恥ずかしかったし話の状況も当時よくわかっていなかったのもあり「エヴァンゲリオンがどうなろうがそんなに興味ない」くらいに拗らせを出してしまうこととなった。なんなんだろ本当この感じ…

そのさらに数年後、シンエヴァンゲリオンの放映に際し僕の精神は少し変わっていた。結婚し地元に帰り、ハリの無い日々にアニメを語る相手もいなくどんどんオタクから離れていき、相変わらず声の大きい集団を見てイライラしたり盛り上がるグループを見て舌打ちをしたりして暮らしていたのだが…これは回復しているのか?

なんだかそんな中もう一度Qを観ることにした。意外と精神状態は落ち着いていた。なんとなく再度見ると話も冷静に理解し、考察も意欲的にたくさん観た。この頃にはシン・エヴァンゲリオンを観るのを楽しみにしていたし、続報などにも割と過敏に反応するようになっていた。

■ とりあえず吐き出すシン・エヴァ公開までの私

(この章も僕の内面的な精算なので興味なければ飛ばして下さい。気持ちのいい内容ではないです。)

しかし拗らせはたぶん一生治らないと気づいたのは公開直前のこと…最終作となるシン・エヴァンゲリオンはこれまでと違い大規模なプロモーションをとらず、メディア上では控えめだった。おかげで僕は拗らせをそこまで発生させずに粛々と公開を待つことができた、しかし今回公開日が平日の月曜日となったことで状況が変わった。

平日に観ることができる人とそうでない人とで「ネタバレ」に関する論争が起こっていた。

ここで僕の精神は一気にダウナーになった。

既に観た人たちへの羨ましさがまずあった。羨ましいし、恥ずかしくて羨ましいとも言えないことで気分が下がった。またたくさんの人が「ネタバレ」に過剰に配慮しながらコメントする様も羨ましさに拍車をかけ、それがネタバレだろうがそうでなかろうがこれ以上情報を得たくなくなっていった。

僕はそこそこ元々ネタバレに寛容だ。ネタバレされたくない時はそれなりの対応をするタイプなのでネタバレに過剰反応する人たちも愚かに映った。今回僕の気持ちがダウンしたのはネタバレではなく観た人たちのスッキリした雰囲気にやられてしまったからであったからだ。

つまり僕は観た人たちを羨み、ネタバレする人、ネタバレを過剰に恐れる人、それを取り上げるメディア、ネタバレを過剰に恐れる人を嘲笑する人、別にエヴァ観なくてもええしの謎マウントスタンスの人…全てに嫌気がさしていた。

普段アニメも見ないような会社のおっさんの「エヴァ観るの?鬼滅より面白い??」みたいなダル絡みもあり、お前なんかとエヴァの話するもんかと思いたくなるような問いかけを受けたりしてどんどんinにinに入っていく。

完全にCode:ゲンドウ状態(こういう寒い言い回しも嫌いなんだけど…つい言ってしまう)…とにかくまたエヴァンゲリオンを見ずに閉じこもろうかと思っていた。

「土曜日の午前中に観てきたら?」

妻から後押しをもらった。僕は勝手に一人で映画を観に行くことを申し訳ないことのように思ってしまっていたので、妻から言ってもらえなかったら多分観に行かずにいまだに心の中でうだうだ言っていたと思う。本当に感謝しかない。

僕はなるべく外界との雰囲気を遮断しながら1週間を過ごした。当日は周りにどんな奴が並んでいるかもなるべく気に留めないように努力しながら映画館へ向かい、剥き出しのガラス玉のような心で、身なりだけはとびきりオシャレして映画館へ向かったのだった。

エヴァンゲリオンは意外にも自分にとってバロメーターのような作品で、これだけ自分をセンシティブにしてしまう作品だということが今回よくわかりました。

以上、スッキリしたので本編について書きます

♦︎ 映画本編全体について好きだったところ

まずシン・エヴァンゲリオン劇場版全体を通して僕としては最高だったと思います。話の魅せ方、キャラクターの描き方、わかりやすくするところとエヴァらしく考察を要する部分、音楽の使い方…全てにおいて作り込まれていて小ネタも満載。まさかエヴァンゲリオンがこんなに明確に答えを示してくれるとは…そんな驚きとメッセージになんとも清々しい気持ちにさせてくれるラストでした。

エヴァンゲリオンには人類補完計画や説明不足な描写などの設計理解と考察をメインとして楽しむ層と、よくわからんところはとりあえず置いておいてキャラクターの末路と心情の動きを奇抜な映像表現と共に楽しむことをメインにしている層とがいて、圧倒的に後者の方が多いと思います。

人類補完計画がどのように進むか?よりもキャラクターたちがどのような結末を迎え、シンジがどのように締め括るかが重要 

だからこそQは多くの批判を浴び、旧劇もまたモヤモヤさせられるものになっていたと思います。

知恵の実と生命の実による使徒との戦いの上で前作まではリツコさんの言う「コンティニュー」の選択肢があるようには思えなかったし、あれはあれで人類にとって幸せだったのか…?と思うこともできたように思うのですが、それでもしっかり今作でそこを希望ある形でコミックスとも繋がる部分のある終わり方となったことは感動でしかありません。

そしてエヴァンゲリオンの魅力の一つ
「風呂は生命の洗濯」
「奇跡は起こしてこそ初めて価値が出るもの」
など旧作でも多くの名言を残したのがエヴァンゲリオンですが、

強いものが発した単一で意味を持つ名セリフではなく、今作は全体的に後に回収される粋な言い回しも多かったのが印象的でした。マヤさんの「これだから若い男は…」これはもう粋でしかないし、マリの「胸の大きいいい女」回収形の名言だった。

そしてもう一つはそっくり綾波の人格形成から生まれた名言たち。より無垢なものから発され、結果碇シンジが成長し咀嚼した後それを応用するところ。こんなクサくて王道な手法で作るところに、この4作目の温度というか人間らしさを強く感じました。

ここからはポイントに応じて思ったことを書いていきます。

♦︎ 今はまだ人生を語らず~第3村

第3村での人格再形成と成長の話。今作の最重要タームで特に好きな話だった。

Qを見た時点でシンジ達がL結界の荒野を進んだ先に何があるのか正直全然見えず、until you come to meで描かれていた汚染されていない街並みは「並行世界の第3新東京市」や「もう一周した後の世界」などと考察されていることも多かった。まさかトウジやケンスケが中心となって解放区を築いているとはこの時夢にも思わなかった…
なぜならQのシーンでシンジにトウジの名前が入ったシャツが与えられるというものがあり、それはまさに今このネルフにトウジが存在しないことが示されており、=死だと誰もが思っていたからだ。妹の強い怒りもあってその見解は真実味を増した。

大人になったトウジが目の前に現れただけでブワッと涙が溢れてしまった…
「お前、生きていたのか…」と。

Qでは「セカイ系の末路」と「本来描かれざるその後のセカイ」としてセカイよりもキミを選んだシンジはたくさん非難を浴びる。(それを行っていなければもっと被害が大きかったとしても)そんな若干過剰な描かれ方をしていたのに対し、第3村の人々は軍部から降りてきたと思われるシンジ達を責めることはしなかった。勿論トウジも責めることもせず優しく接する。

その姿に14年の月日の重みや未だ心身共に14歳のままのシンジと大人になったクラスメイトとの強い対比と、今までエヴァで描かれることがなかった「生命のエネルギー」を感じることとなる。この描かれ方がとにかく良くて、エヴァを見てこんな顔になることあるんだな…と心を絆されていく。

そっくり綾波が人格を形成していく流れと、シンジが落ち込みながらもそっくり綾波や村のみんなからの後押しを感じつつ自分と向き合い、「シンジそのもの」で「ゲンドウとの関わりの象徴」たるS-DATとも再び向き合うまでの情景が素晴らしく、同時にここで小出しにされていくアスカの心情と使徒を取り込んだエヴァパイロットの呪縛の重さと苦悩がまた後半に生きていて素晴らしい。(ケンスケを心配させないために眠るふりを続けるアスカの脚、尻も素晴らしい…)

とてつもない情報量で息をつく間もないのに、なぜか心穏やかにそれを見つめながらシンジが業を終えるのを一緒に待っているような。そんな感覚だった。

シンジに自分を投影し、いつからか少し大人になった自分はシンジを蔑んで見るようになり、さらに時が経って色々経験した自分がなんだかシンジを許し愛おしくなるような、そんな村の人たちに近い気持ちにさせられた。

委員長が子供に授乳するシーンの後ろでトウジが吉田拓郎の「人生を語らず」を歌っているシーンが好きだった

単純に僕は親子二代で吉田拓郎ファンなので嬉しかったのですが…今作には日本語の歌でメッセージを仄めかすという個人的に泥臭く思う演出があって、またこの選曲でシンジがこの先成し遂げていくラストを示しているというのが粋でとても好きな演出でした。本当にトウジが歌っていたくらいのしゃがれ声で打ちつけるように歌う吉田拓郎が印象的な曲です。

♦︎ バトルシーンと設定

バトルも全体的に技術とダイナミズムの塊のような気持ちよさがあり最高でした。まず冒頭10分の8号機β臨時戦闘形態も絶妙な不自由のある戦闘がかっこいいかっこいい…ネルフが量産した無機質なエヴァシリーズをなぎ倒す気持ちよさ。

エッフェル塔をブッ刺して殲滅するシーンなんてロマンそのもの…本当ワクワクした。

そしてユーロネルフで得たパーツで改良された8号機γ、2号機αもめちゃくちゃかっこよかったです。

またQの考察でナディアにおけるノーチラス号と同義とされるヴンダーが方舟としてどのような役割を持つかも期待されていましたが、やはりヴンダーは加持さんが人類補完計画後に備えて生命の種を運ぶまさに方舟だということがわかったり、さらに「なんかロンギヌスの槍っぽいな・・・」と思っていたら、まさかのカシウスの槍と共にアディショナルインパクトを止め、ネオンジェネシスへとつなげるガイウスの槍そのものになるという展開は痺れましたね…現場では情報量と尿意で処理落ちしそうでしたが…

またゴルゴダ・オブジェクトではマイナス宇宙という空間を活かして特撮の舞台装置をぶっ壊すように戦闘していくある種滑稽にも映る演出がエヴァンゲリオンらしくて最高でした。

こんなこと言いながら僕はこれ以上はよくわかっておらず、自分で考察するほど学もないので、人の考察を見て今後も「ほほ~」となっていきたいと思います。まだまだ見切れておらず自分自身も把握していない点は多いのですが、それが無くてもなんとなくわかるように作られていたことが凄いと思います。

Qが終わった時点で「破のポカ波はまだ初号機にきっといる!きっと最後は巡り合って2人で幸せになるんだ!」そういった声をしばしば目にしました。

レイはしっかり初号機の中で待っており、シンジがもうエヴァに乗らなくていいようにと、無垢なままそこにおりました。アスカが作中で「食欲も睡眠欲も無いのに髪だけは伸びる」と言っていたようにそのレイもまた髪が伸びており、エヴァの呪縛を受けた人間らしさを持った個であることが伝わります。

そっくり綾波がシンジに想いを伝え、S-DATを返して消え去るシーンでプラグスーツが白く変わりましたが、その時点でそっくり綾波はこのポカ波と同じ存在と一瞬なり、これもまたシンジが「越えていく」ターニングポイントとして描かれています。

結果レイはシンジのパートナーとしての末路ではありませんでしたが、観ている側がむしろそうさせてあげたくなるくらいに愛おしく、シンジの隣ではなく自由なレイとして救済したことに感動しかありません。

♦︎ 世界は2人のために

作品の冒頭でマリが昭和歌謡を口ずさむのはQでもあった演出でしたが、今作は最初の戦闘中に佐良直美の「世界は二人のために」を歌います。

本当にこの楽曲そのものがこの作品のテーマになっているように感じて、そこにも痺れました。今回の作品は「シンジが大人になり落とし前をつけること」がメインの話筋だと思いますが、この「2人の世界」という要素がそこに強く絡んでいるように思います。それくらいメインキャラクターたちはペアで登場するシーンが多いです。第3村でも子孫を残すという生命の表現が多様されており、シンジやレイは生命の循環と生きることとそれによって生じるコミュニケーションのチュートリアルをそこで果たします。孤独だったチルドレン達それぞれにもパートナーが存在してそれが物語の最終的な着地点になっていきます。

シンジがマリの手を引いて新世界へと飛び出してくエンド、僕はとても好きなんですよね

カヲルやマリは新劇場版でもここまで物語を進める舞台装置的な側面が強くて、カヲルなんて人気はあるけどそういった意味ではどこに愛着を持てばいいのかわからなかったのですが、ユイをモチーフにリリスの魂が宿されたレイやアダムの魂が宿された(今作だとそこが曖昧ではありますが)カヲルのような何かをモチーフに作られた存在にすら「未来」を与えたラストはとにかく感慨深くて、そのどのパターンにもそのキャラクターの拠り所となる他者が用意されていたことも個人的に筋が通ってとても感動しました。

またミサトさんの14年間にあった心情やバックグラウンドがしっかり説明されたのもよかったですね。加持さんが行ったことやその意志を継いだことや息子を捨てゲンドウとなり、Qでもゲンドウと同じ接し方でシンジに向き合う。しかし最後しっかりと思いを伝え、シンジはしっかり成長した姿を言葉ではなく形で見せ、最期には髪をほどいてシンジの仮の親だったミサトさんに戻り希望の槍となる。その姿でQでは映らなかったその責務の清算で、涙無しには観られないまさにヤマトなシーンでした。

ちなみに元々アスカ好きの僕ですが、ケンスケに関してもかなり肯定的です
その辺の気持ちは次項に書きます。

♦︎ 大人になった人、加持になった人

今回第3村で再会するのはトウジや委員長だけでなくケンスケもおりました。ケンスケはニアサー後壊滅的な中得意のサバイバルのスキルで行き場を失った村人たちを救った英雄のような立ち位置で、ヴィレとの仲介役までこなしておりました。

廃駅をリメイクして作ったなんとも男心をくすぐる家に住んでおり、そこには任務期間外はアスカが身をひそめるための居場所となっていました。
これがめちゃくちゃかっこいいんですよ…あのケンスケが。
ヴィレとの間を取り持ち、村人からの信頼も厚くそれでいてミステリアスに自分の気持ちは胸の奥に閉じ込めた感じ…加持ですよこれは

人は加持になれるんだ

ケンスケは気落ちして何もできなくなったシンジにあえて何もせず話す機会には「ニアサーで救われた人も少なからずいる」そう伝えます。おそらくケンスケはニアサー後の混乱を乗り越えたおかげで新しい自分になり、束の間とはいえ理想の立場を得て加持となった。あえてL結界密度の濃い高台に暮らし、アスカに干渉しすぎずにちょうどいい距離感で接している。新劇場版では14歳時のアスカが加持さんに恋をするシーンはありません。

14年の間アスカがシンジへの想いや怒り、苦しみを旧劇のように最悪な形へと進めずに済んだのはケンスケという存在があったからなのだろうなと

そうして大人になったアスカであれば加持を選ぶだろうなと。つい納得してしまいます。単純に「アスカをケンスケが寝取りやがった!」とは思えないんですよね。あの2人の雰囲気を見ているとそう思ってしまいます。本当にミサトさんと加持さんを思い出すというか…トウジやケンスケが14年前ニアサーの引き金となり、14歳のままズタボロで現れたシンジを許したように。本当そんな気持ちです。

とはいえそれは結果論で、アスカのシンジへの気持ちはある一点まではまだあったように僕は思います。これはあくまで経験則で私感なのですが…

Qからシンの中盤までのアスカのシンジへのセリフはヒステリックな元カノのそれと同義

と思ったからです。個人的にはアスカは心の拠り所を求めていて、14年の間隣にはケンスケがいた。ケンスケは恩人でしかも加持化しているので拠り所としてはそこにあるのですが、シンジが現れまたあの頃の気持ちを思い出してぶつけまくるわけですね…
そして極め付けは「何で怒ったかわかる?

なぜ怒ったかの質問。これは全男性が古傷をえぐられる質問です。答えは全員同じ「知ってたら怒らせてない」なのですが勿論言えません。

さて色々思い出して辛くなってまいりました…

しかしシンジはS-DATを受け取り、そっくり綾波の死を乗り越え、土の匂いに生命を感じ、急激に成長します。それからというものアスカならの憎まれ口に取り合うこともしなくなります。言い訳もなくただただ頷き飲み込んでいきます。

僕はこの時点でシンジのアスカへの気持ちは精算されたのだと思いました。シンジはこの後アスカの「何で怒ったかわかる?」の質問に、用意していたかのようにベストアンサーを答えます。

これまでたくさんの男性が女性からされて古傷を作ってきた問答に、いとも簡単に答える。それはつまりシンジがアスカとの関係の一線を退き、心の全てを精算したからこそすごいスピードで青年期をスキップし大人になっていくのです。

なので僕は「アスカがシンジを振ってケンスケとくっついた」というよりは、「シンジがアスカから卒業し道を作った」と考えます。

ガキに必要なのは母親よ
という言葉をアスカは言いますが、そこから紐付けしていくと

ガキに必要なのは母親
青年に必要なのは恋人
大人に必要なのはパートナー

だと思います。
自分を守り、許し肯定する相手であったレイ、互いの想いや考えをぶつけ合うがむしゃらな恋人だったアスカ、そして互いに引き合うパートナーとしてのマリが終着点であることに私感ながらなんとも勝手に納得してしまいますね。

♦︎ 気持ち悪い

これは発見の話で、悪口ではないのですが
映画を見た後に友人とすぐ飲みに行く機会がありまして、その友人とこの映画について少し話をしたんですよ。色々と感想を言い合っていく中で彼の口から「俺はアスカが好きだったから、ケンスケを選んだのがショックだった。そこだけいまだに納得がいかない」と言っていた。

マジで悪口ではないのですが、その時に旧劇の最後のアスカのセリフがそのまま脳裏に浮かんだんですよ。それが自分として衝撃だった。その友達自体が気持ち悪いというのもあるのかもしれませんがそれは置いて置いて…本当それぞれの想いがあって作品と向き合っているとは思うので全然間違いだとは思わないんですが・・・

自分の過去を受け入れ、憎まれ口も受け止めた上で呪縛から解き放たれたアスカにしっかりとそれを伝え、まさに落とし前をつけたシンジに対してまだそこに固執していた友人が「セカイよりユイだけを求めたゲンドウ」のように映ってしまった。それは友人本人にもしっかり伝えていて、「つまりお前はシンジのように大人にはなれなかったと。ゲンドウのように執着してしまったと。そういうことだな?」「そうだ。俺は大人になれなかった」そう言っていた。

だってもうシンジは僕たち悩める陰キャの投影ではなくなったんだよ

今のシンジがやっぱりアスカに固執するようには思えなかった。
成長したシンジが固執しているのを想像したら、より気持ち悪くも思えて…
なぜかその時初めてあの時のアスカのセリフの意味がわかったような気がした。めちゃくちゃ失礼で申し訳ないんだけど、そう思ってしまった。あくまで僕はアスカが心を休められる居場所が見つかってよかったと。心から思っています。

ま、ほらさ恋愛関係とは限らないし…ね

♦︎ 全てのゲンドウ達へ〜マリちゃん好き好きちゅっちゅ〜

この作品を見て特に印象的だったのは、これまで一切わかりやすく語ろうとしてこなかった人類補完計画の説明と、ゲンドウがなぜこうなったのかの心情描写だった。ゲンドウは成長したシンジに、まさかのしっかり自分のこれまでを語ってくれた。

社会を疎ましく思い、なんだか疎外感を感じ、知識だけを拠り所に武装してまた社会に触れて心を閉ざし…本当にこのエヴァンゲリオンに向き合おうとする冒頭の自分そのものだと思ったし、世界を壊すあれだけのことをしているゲンドウ自身がまさに僕たちと同じ陰キャだった。

かつてシンジに感情移入していた僕は大人になり、いつしかウジウジするシンジを同じ同性として蔑んで見るようになり、最終的にリアリティで立ち直り成長したシンジに追い越され

気づいたらゲンドウになっている

ゲンドウの人間らしさは庵野さんの写見だけでなく、エヴァにとらわれたオタク達そのものだったとより強く思えた。

と思うこととなった。
周りと違う自分になりたいと知識を蓄え、しかし自分のちっぽけさに絶望し、アニメをたくさん見た結果気づいたら分かち合う相手もおらず、気づけば周りに舌打ちばかりしている何もないおじさんになっていた。
そんな僕も優しすぎる周囲や、自分のしてきたことの反省をしていけばシンジのように落とし前がつけられるのでは…?

もう一度言う
女性に「なんで怒ったかわかる?」
と聞かれてベストアンサーを叩き出せるか?


とっくにシンジには追い付けないんだよ。
けどなんだか今回の映画でとてもスッキリしたんですよ。本当に
きっとこの作品は全てのゲンドウ系視聴者の卒業式でもあったのかもしれない。

マリが何を目的としていたのかはまだ考察の余地があるかもしれませんし、それが恋愛なのかどうかは定かではないのですが、存在定義としてシンジと結ばれるべきではないのは明白な綾波レイ、旧劇14歳のシンジ的ファムファタルであったアスカをここで選ぶのはどうしても違うと思えて、もしかして出会いの屋上でシンジのS-DATを次のトラックへ進めた時点からこれは決まっていたのかもしれないし、マリが劇中でワンコではなくシンジと呼んだ時それはもう始まっていたのかもしれないけれど、僕の考えとしてはマリはユイが果たせなかったことをしたかったのではないか?と思っている。それは親でも恋人でもないパートナーとしての愛のカタチなのかもしれないが、ちょっとそれ以上はわかりませんが。

ビジュアル的にも好きではありましたが、破の段階でのマリは色んな意味でチューニング期という印象があり、Q〜今作で完全に僕はマリを好きになってしまいました。それくらいのパワーがあったと思います。もっと掘り下げたり結びつける方法はあったと思いますが、これでも充分すぎるくらいでした。あとお尻がすごく良い。

そして現代に生まれ変わったマリに「君こそかわいいよ」と言えること。これはまさに「それを越えていった」様だと思います。

■ 最期に

長々とありがとうございます。人によっては気分を害したかもしれません。本当にすみません。どうしてもエヴァンゲリオンに対して思っていることをすべてここに書きたかったんです。本望です。

見終わってこれまで鬱屈とエヴァと周囲に邪気を振りまいていたことも含めて色んなものが落ちて、本当に自分の小ささを再びかみしめました。これからも何が変わるわけもなく小さい器で生きていきますが、確実にシンジに劣等感を感じながら生きていくことになるでしょう。

どうしても機会をうかがいながら小出しにツイートなどをする気になれなかったので、ここにすべてぶち込みました。それぞれ思い方があると思うので、本当あくまで僕の気持ちですが本当にありがとうございました。

直接語り合える方がいらっしゃったら是非、お願いします。

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