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アインシュタイン

はじめに

少し前からアインシュタインって面白い人だなぁと気になっている。

しかも妙に親近感のわくあの表情。
それはなぜなのだろうと、不思議に思っていた。

今回、子どもの頃だいすきだったE.T.に彼の要素が入っていたことを知って、とても嬉しい気持ちになった。

E.T.のデザインは、カルロ・ランバルディが行いました。顔は、アメリカの詩人、カール・スタンバーグとアインシュタインをイメージして作られました。キャラクターとしてかわいらしい造形をあえて避け、単体で見るとちょっと気持ちの悪いものでしたが、スピルバーグはこれでいいとスタッフを説得しました。止まっていると気持ちが悪いのですが、動くと実に愛嬌があるという演出はスピルバーグ監督でなければできなかったでしょう。結果、この効果はうまく機能します。映画を見に来た観客だけでなく、出演した子役達もはじめは恐がり、途中からE.T.を友達のように愛していくのでした。


さまざまな要素

博士はアメリカ亡命後もドイツ語訛りがとれず、英語がなかなか上達しなかったそうです。右の舌を出している博士の有名な写真は、大学の講義で英単語のスペルミスを学生に指摘された時に撮影されたものだそうです。博士のお人柄の一端が浮かんできますね。
 もう一つ。博士は研究には熱心でしたが、私生活では面倒くさがりで、洗濯用石鹸で顔を洗い、雑巾で顔を拭き、灰皿に食事を盛りつけるなど常識外れの一面があった。いつも髪の毛はくしゃくしゃで、足の裏からの過度の発汗のために靴下を履くのを極度に嫌われたそうです。
※ このエピソードは弓場隆訳「アインシュタインの言葉」(デスカヴァー・トゥエンティワン刊)を参考にしました。


アインシュタインがチューリヒ工科大学の教授職を解かれてベルンに引っ越したのは、1902年のことだ。彼はここで給料は悪くないが、科学の道とはほど遠い、スイス特許事務所の事務員として働いていた。彼の偉大な研究は、仕事の合間を縫った、余暇に行われていたのである。
「アインシュタインは多くの友達がいたわけではありませんが、この街に安らぎを覚えました。彼が必要としていたのは、意見を交換できる数少ない知り合いだけで、多くの人と知り合うエネルギーがあればそれは研究に使いたいと考えていたようです」とビュルキさんは話す。
前述のグラスホフ・ベルン大学教授も語る。「特許事務所の仕事は、がんじがらめのアカデミックな生活から彼を解き放ち、自分の発想に没頭できる自由を与えました。もし研究室の助手などに雇われていたら、彼は自分の研究ではなく、その研究室の仕事にかなりの時間を割かれてしまったことでしょう」


生涯の業績

静岡県の高校生8人が調べ上げたアインシュタインの生涯と業績の文章が素敵だった。

東大の魅力と実態に迫る 酒井邦嘉
アインシュタイン:天才脳の行方と秘密

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それでも「書く力」は重要だ

アインシュタインの流れから酒井邦嘉先生にも興味をもったので少しだけ調べているとこんな記事を見つけた。
自分たちや子どもたちが陥っていることを知ってびっくりしてしまった。

大学入学共通テストに導入予定だった国語、数学の記述式と英語の民間試験活用の見送りが決まった。それは、「書く力」の低下への危機感に発した高大接続改革そのものの見直しを意味する。そうした動きの中にあって、「それでも書く力の育成は重要だ」と強調するのは、言語と脳のメカニズム研究の第一人者、酒井邦嘉・東京大学教授だ。「人間の能力が危機的状況にある」とも。実際に教鞭をとる立場の発言は、学生のどのような現状を踏まえているのか。

大切なことがつまっていた。

AIに記述式の採点はできない
――記述式導入が見送られた。「人間の採点者では公平性に疑問が残る、AIを導入すればいいのでは」という声も聞かれるが、可能なのだろうか。

酒井 いや、近未来にはAIが採点してくれるかもしれないという幻想、というより妄想を断ち切らないと、議論は始まらない。AIは文字ベースで解析しているだけで、書いた人の思考や意図を汲み取れない。それで採点するなんて言語道断だ。一定のキーワードが入っていれば比較的成績が高い生徒と相関性が高いという程度はわかるから、そこから上位成績者を弾き出すだろう。すると塾では、AIをだますテクニックを教えることになる。文章になっていなくてもいいから、このキーワードを入れれば点数が高くなる、と。

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「ゆとり」評価のツケ
――先ほど、「話す」から「書く」への過程で情報がどんどん削ぎ落とされると話していた。「書く力」が落ちているということは、人と人とのコミュニケーションが難しくなっているということか。

酒井 そうだ。話す力を圧縮したのが、書く力だ。「書く力」が身につけば「話す力」が育つ。逆に「書く力」を身につけるには、「話す力」を身につけなければならない。読み手を想定する想像力が必要だからだ。話すときには、瞬時に処理しなければいけない。言葉で表現するには、「書く力」が意味を持つ。それはじっくり時間をかけて推敲することで育つ。だが、その「書く力」が惨憺たる状態だ。時間があっても「書く力」を身につけられない学生や院生が多い。「これは意味不明だから、推敲してきて」と言っても、「スイコウって何ですか」と返してくるぐらいだ。そのぐらいひどい。
――東大生でもそうか。

酒井 そうだ。何を推敲したらいいのかわからない。「この部分の話が飛び過ぎている」などと具体的に指摘し、相手に伝わるように直すのが推敲なのだと噛んで含めるように言っても、改善しない。「どうして、みんなわからないのですか」と返してくる。
――他人がわからないことを理解できないわけか。自分はわかっているから。

酒井 そう、SNSなどで自分の文章を垂れ流しの状態にし、自分が書けばみんなわかると勘違いしているから。「いいね!」の弊害は大きい。書くことがいかに難しいことなのかを味わっていない。
剽窃もその延長上で起きている。自分で書くことの難しさを知っていれば、相手の著作に対しても敬意を払える。賢い子どもほど、うまくやればばれないと実感しているのかもしれない。ある時、なかなかいいこと書いてあるリポートだな、と感心しながら読んでいた。あれ、どこかで見たことがあると思ってよくよく見たら、僕が昔書いた文章だった。引用ではなく、地の文で書かれていた。他人のリポートを見て、そのまま書き写した学生もいる。それはカンニングと同じなんだと厳しく伝えたが。


「書く力」≠「打つ力」
――自分の手で書く力と、打つ力は同じか。文字で誰かに伝えるという最終形は同じだが。

酒井 全く違う。記者が会見中にパソコンを打ってメモをするようになったら、質問をしなくなったと聞いている。受け身になっているからだ。ノートにキーワードを抜き出してメモをすることで、考えている。そこが大事だ。内容が染み込んでいるから。自分のメモを後で見返せば、自分の言葉で再構成できる。
タイピングは、素早く打てる分、全部写そうとしてしまう。すでに米国の研究グループが指摘している。タイピングさせた人と手書きの人では学習成果に差が出る、と。ファクトに関する知識は変わらないが、理解度は手書きの方が上だった。書くときにキーワードを抜きとって自分でまとめる過程で考えているから、抜き打ちでテストをしても咀嚼できていることがわかった。だが、タイピングではスルーしているだけだから、何度通しても身にならない。聞いてすぐしゃべるというシャドーイングという方法があるが、入力から出力に向けて抜けているだけ。タイピングはそれに近い。自分のペースで咀嚼しながらタイピングするのなら別だが。通り抜けるだけで考えないから、質問も出ない。
――手で書く機会が減ったからだろうか。薄くて小さくて乱暴な文字が目につく。

酒井 人に読ませよう、伝えようと思っていないのだろう。こんなもんでいいやで書いているから、答案なんてひどいものだ。それでも僕はリポートを手書きにさせている。自分の字はこんなので伝わるのだろうかと時間をかけて思う。コピペをするにしても時間がかかるから、その間、良心の呵責に耐えられるのかい、と言っている。
タイプライターができた時点で、書く力が衰えた。丁寧に字を書いて人に伝えるという力を失った。文明の力によって人間がバカになった典型例だ。


人生観

わたしはアインシュタインの一般的に知られていることのなかのほんの一部しか知らない。
そして、命に懸賞金がかけられる恐怖も、自分が発見したものが望まない方向へと利用されることへの苦悩もわからない。

けれどチャップリンがアインシュタインに発した言葉を知って、たぶんそうなのだと思った。

「わたしは分かりやすいから愛される。
あなたは分からないから愛される。」


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おわりに

子どもが小さかった頃、仮面ライダーウィザードを一緒によくみていた。
仮面ライダーなのに魔法使いという設定がわたしには衝撃的だった。

ときどき仮面ライダーウィザードを思い出す。
主人公のはるとが絶望しかけている人に向かって「絶望するな!!」と叫ぶ。
しかし、絶望しかけている人にその声は届かない。
そして絶望した人は「ファントム」という怪物になってしまう。

完全に絶望した人はそれまでの自分を失って、別のものになってしまう。
だから絶望しないですむように備えておくことと、絶望しかけていたら気づけるように自分自身にも注意を向けておくことは大切なことのように思ってる。

自分にといかける。
「絶望しかけていないか。」
「今の自分は希望を持てている?」

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