今日の山田くん 〜思うこと〜 73
ドクダミパワーと虫の生命力
春から夏にかけては生命力が眩しい季節でもある。
弱っている木のまわりにドクダミが異常繁殖してしまっているので、刈り取ることにした。
ドクダミチンキを作ったりしていたおかげか、独特すぎて苦手だった匂いもたいして気にならなくなってきた。
鼻は順応性が高いというか、麻痺しておバカになりやすいというか、まあ、おもしろい器官である。
ひたすらドクダミを刈っていると、他の土の部分との違いがわかってきた。
ドクダミが群生している場所は土がやたらふかふかしているのだ。
長靴が数センチ沈みこんでしまうほど。
どうやら張り巡らされた地下茎が土を耕していたようだ。
刈り取り途中にはこんな虫を見つけた。
正直、とても驚いてしまった。
なぜなら、身体の中身が洞窟のようになっていたから。
これが死んでいる虫だったり、瀕死の虫だったら疑問にも思わないのだけれど、この虫はずっと動き回っていて元気すぎるほどだった。
改めて自分の知っていることなんてほんとわずかなことだけだと思い知らされる。
想像のできないことやわからないことばかり。
至るところに意味不明なことが溢れていておもしろいなと思う。
甲冑と武具
とある場所で甲冑や刀が展示してあった。
刀職人の技も知らなければ、もちろん目利きもできないためどんなものがすごいとされているのかがよくわからなかった。
けれど、紐のかけ方や結び方が美しく感じてつい見入ってしまった。
こんなところにも六角形が使われていて、見つけた瞬間うれしくなってしまった。
それにしてもいろんなアイディアが散りばめられていて見ていて飽きない。
子どもの頃は甲冑というと怖いイメージだったのだが、今では不思議と魅力的に見える。
細々としたパーツ自体がかわいい。
見ていると「これはなぜだろう?」「あれはそうなのかな?」疑問がたくさん浮かんできた。
機会があったら、そのとき浮かんだ疑問を昇華したいと思う。
忘れてそうだけど笑
それが極端であると、どうやって知るのか?
40代にもなると「極端を避けた方がいい」ということがやっと実感できるようになってきたけれど、それはこれまでさんざん極端なことをやってきて体感的に知ったことでもある。
20代前後のときには、アドレナリンが出まくりで楽しすぎて自分しか見えなくなっている感覚も、世界のすべてが敵に思えてやはり自分しか見えなくなってしまう感覚も、そのどちらも体験としては必要だったように思う。
振り切れてみないと限界である端がわからない。
両端が分からなければ自分がどの位置にいるのかもわからない。
だからといって凪の状態も感情がまったく動かなくなってしんどいから、さざなみの中にまたに予想外の波がくるくらいが前に進む活力になっていいのかもしれない。
トンボのお手
コンクリートの上に綺麗な色のトンボがいて、死んじゃったのかな?と思い、確かめるために人差し指を近づけてみた。
するとトンボは生きていて、1本の足を私の指の腹の上にのせてきた。
それはまるでタイミングもぴったりでまるでお手のようだった。
なぜか可愛く感じてそれを何度か繰り返していると、3度ほどお手をして4度目のお手の前に元気に空に飛んでいった。
民俗芸能
奥三河の深い山里で
約700年間守り続けた村人たちの絆・・・
花祭
鬼は神の化身として畏敬されている・・・
子供が舞い伴鬼が舞う・・・
人が舞い鬼が舞う・・・
山鬼が山を割り
人々を浄土へ導く
榊鬼は大地を足で踏みつけ
精霊を呼び起こす・・・
「おつるひゃら」は
幸福を振りまく祝福の神
「湯ばやし」で湯を浴びれば無病息災
奥三河の夜に
村人たちの笑い声が
いつまでも響き渡る・・・
能楽師のワキ方である安田登さんの本を読み始めてから、能に興味が出てきた。
呪術としての「ふり」
向井先生の書かれる「生成」とは、まさに『古事記』の神々の誕生、「成る」です。振動、リズム、響鳴である「ふり=身ぶり」によって「成る」のです、神々ですら自然に「成る(生成する)」、それを自然に受け入れるのは、古来、日本人が「ふり」に呪術的な意味合いを感じていたからです。
『万葉集』で袖や布を「ふる」のは再び会うための呪術ですし、神社で行われる「魂振り」は魂を活性化させて再生させる呪術です。
「まねる」という意味の「ふり」も、やはり呪術です。相手の「身ぶり」に自分の「身ぶり」を合わせ、その人が自分のなかに入ってくる。そういう他者を自分の中に招く呪術が「ふり」をするということです。
(P207)
「かんがえる」は環境と「交わる」呪術的行為
違う色の砂を平らな容器に分けて入れて、静かに「ふる」=振動させると、その環境はあいまいになっていきます。 違う色の砂を平らな容器に分けて入れて、静かに「ふる」=振動させると、その環境はあいまいになっていきます。「ふる」という行為は、環境をあいまいにし、「あわい」を生み出すための行為でもあります。
そして、じつは、「かんがえる」という日本語も、このあいまいな境界「あわい」を生み出す行為であり、呪術的な意味合いもある言葉なのです。
「かんがえる」の語源は「か身交ふ」です。「か」は接頭辞ですから、この言葉のもともとの意味は「身」が「交ふ」、つまり身体が「交わる」状態を指します。
身体が「交わる」ときに、すなわち思考が生まれる。そう古代の日本人は考えて「か身交ふ(考ふ)」という言葉をつくったのでしょう。
東京のような都会の街並みを歩いていると、視点も思考も「外」に向いていることに気づきます。クルマがびゅんびゅん走っていたり、大勢の人とすれ違ったり、そこら中にお店やら看板やらがあったり・・・「外」に引きずられてじっくりものを考えることができません。
ならばと、自宅の写経部屋にこもってじっと座ってものを考える。ところが今度は、思考が「内」に入りすぎてしまって、袋小路に入るというか、広がりが生まれてきません。
「かんがえる」のにいちばん適しているのは、自然のなかを歩くことです。
鳥のさえずりや葉のそよぎ、川のせせらぎの音を聞きながら歩いていると、いつしか「外」の自然と「内」の自己が「交わ」って、自分が普段思いつかないようなことが引き出されてきます。
(P209)
能と鬼のブームが自分のなかに起こっているので、来月は能を初体験してこようかと考えています。
能舞台は異世界と繋がる場所のようなので、楽しみです。
今日の日月神示
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