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いまでは幻の遊具

安全と引き換えに失ったもの

どんどんプラスチック的な遊具に変わっていく。
木製や鉄の遊具が「危険」扱いされたためでもあるだろうし、劣化したためでもあるのだろう。

それらは色鮮やかではあるけれど、「決められたとおりに遊びなさい」と言われているみたいでどうも好きになれない。

工夫して自分たちの特別な遊びになっていくのが楽しいのに、親切にも工夫され完成したものがやってくる。

遊びを通してヒヤッとしたりドキリとしたりすることでたくさんのことを学ぶ。
安全のなかでは学びは少なくつまらない、そんなふうに思ってしまう。

決められたことを崩していくのも面白さだが、色鮮やかなプラスチック的なものは崩し甲斐がないように感じてしまう。

(いや、ただの個人的な好みの問題でもあるのかもしれないが…)

小学生のとき大好きだった遊具。
「大車輪」と呼んでいた。
支柱に片手を添えて全力で回転させて人を飛ばして遊ぶのが流行っていた。
気をつけないと吹っ飛ばされすぎてケガをするため、激しいなかに慎重さも必要な遊びで面白かった。
なによりシンプルだけど多彩な遊び方ができて好きだった。

危ないというだけで絶滅してしまった遊具。
今も存在していたら子どもたちのなかで人気になる気もするけれど、今の子たちは大人の指導に素直すぎて自ら「危なそう」と判断してしまう気もする。

なにこれ、サーカスか?!と爆笑してしまった。
こんなんあったら遊んでるうちに身体の使い方上手になりそう。


身体能力の高さに愕然!

中国雑技団かな?と思うほどの身体能力の高さにびっくりした。
「The 昭和!」の映像はのんびりしていて思わずほっこり。


ガイキュー

ミャンマーの幻の遊具。
遊ぶのに身体能力が必要そうだ。

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現代の遊具以外でどうやって身体性を獲得していくのか?

たまたま今日子どもたちと山登りに行ってきた。
帰ってきて昼寝から目覚めてぼーっとしていたときふと、山は身体の使い方を教えてくれる存在だなと思った。

山はひとことで言えば危ない場所だ。
大人だけでは危険を取り除くことはできない。

そのときの場所や状況で無風で暑かったり、体温を奪うような強い風が吹いたりする。
その度に脱いだり着たり、薄くしたり厚くしたりと考えて調節する。

また、足場の状況もどんどん変わっていく。
水が滲み出たぬかるんだ赤土、湿っていて滑りやすい石や木。
ガレている足元が不安定な場所。
大きな岩ばかりな場所。
鎖がなければ不安になりそうな足場の少ない場所。
風の通り道で風に煽られやすい場所。

大人の声かけだけでは防ぎきれない。
浮いた石の上に足場をとって転んだりする。
地面から少しだけ顔を出している石に足をとられる。
風に煽られてバランスを崩してよろけて倒れる。

子ども自身が転んで痛い目にあったり、ドキッとするような恐い体験をすることで少しずつ学んでいく。

そうしているうちにだんだんとルート取りが上手くなって、困難そうな場所をどうやって行ったらいいか考えて進んでいくようになる。

うまい具合にスイスイっといくと「すごいでしょ!」と言いたげな満足そうな顔をこちらに向けてくる。

登山は犬を連れて登る人も度々見かけるのだけれど、その度に犬の華麗な身捌きに感動してしまう。

トレイルランのトレーニング中の人も実に軽やかだった。

登り始めて30分で「もう頂上だから帰ろ!」と、心臓バクバクいってしんどくなった次男がそんなことをいっていた。
けれど下山のときにはとっと、とっと…と軽快に小走りでおりていってしまって、長男とわたしは汗だくで追いかけたものの最後まで追いつくことができなかった。

身のこなしが軽やかな人は軸がブレないのと、体重を片足に完全にのせるのではなくて、のせきる前に次の動作に入って途切れない動きになっているような気がする。

身体が慣れてくるまで苦しい山登りは、身体のことを身近に感じられる貴重な機会でもあるのかもしれない。

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てんきとくらす

個人的に好きな天気予報サイト。
たとえば北穂高穂岳だとこんなふうにいろいろと知ることができます。

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