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優しさってなんだろう?

人の文章を読んでいて「優しさ」
を受け取ることがある。
勝手に優しさを感じているわけだけど
書いている人自体を「優しい人」と
認識してしまうこともある。
実際には、
その人に優しさがあふれているかと言われると
そうでもなかったりするのだけれど
その人が書く文章の中に
小さなかけらを見つけて
言葉に酔って「優しい人認定」してしまう。


人はどんなところに「優しさ」を感じるのだろう?


たぶん…優しいと感じるときって
自分が欲しかった言葉や
埋めてもらいたい気持ちが埋まったときに
そんなふうに感じているのだろう。
勝手に甘やかされた気分になって
満足している状態なのかもしれない。


人から「怒らなそう」とか
「優しそう」とか言われることがある。
でも、こういう時に言われる「優しさ」って
本当の「優しさ」ではないと思ってる。

相手と適度な距離があるからこそ優しくできる。
スムーズに物事を進めるためには、それが便利だったりする。

しかし、相手のことを思えば思うほど
優しさをふりまいたりなどできないものだ。
反対に、むやみやたらと手を貸さないし
一歩引いて遠巻きに見守っていたりする。
それは視覚的には冷たいが、本質的には「優しさ」だったりする。


自分自身あったかい雰囲気の中にいるのが心地いい。
ニコニコしていたり、穏やかな人といると自分も癒される。
だから、わたしもぽわ〜んとした雰囲気を出すように努めている。
(努めている?いや、出すようにしなくてもぼーっとしてるからそうなってるのかもしれないのだけれど。)
それが「怒らなそう」とか「優しそう」に繋がっているのだろうか。
それとも人に対して関心があまりないから、
その無関心さが「優しそう」になっているのだろうか。


人を見るうえで意識していることが3つある。
ひとつは「目が澄んでいるかどうか」見ること。
もう一つは「人の痛みがわかるかどうか」知ること。

それと、違和感を感じたら距離をとることだ。


書いていて思ったのだけれど、
「人の痛みがわかる」部分が変換されて
それを「優しい」と認識しているのかもしれない。

●「人の痛みがわかる人」は人の痛みを理解できるなんて思っていない。
●「あなたにとっては、とても重要なんだね」と認める強さと目線を持っている。
●基本の考え方が反面教師であり、教訓に変えるのがうまい。
●自分から分かったようなことは言わない。
●ドヤ顔で人生経験を語らない。

「本当に痛みがわかる人」は余計なことは言わない。でも、本気で助けを求めたときには、びっくりするぐらい的を得たことを言ったり、気持ちを汲んでくれたりする。


数年前、友だちが臨月でおなかの子どもを亡くしたとき
友だちの両親はわんわん泣いた。
あまりにも悲しむものだから、友だちは泣くこともできなくて、カウンセラーに助けを求めて、やっと想いを吐き出し、泣くことができたそうだ。
一番悲しいはずの彼女は置いてきぼりだった。
悲しみの中にいるとそれさえも見えないのだろう。
関係が近ければ近いほど感情にのまれやすい。
カウンセラーのような第三者の客観的な意見と支えこそが
そんなときには必要なのかもしれない。

悲しい出来事があると、気持ちは痛いほどわかるのにかける言葉が見つからない。
どんな言葉も薄っぺらく繕った言葉のように感じてしまう。
そんなときは無理に言葉を生み出そうとせずに
相手が発する言葉を聴いて
言葉にならない声を聞いて
ただとなりにいるだけでいいのかもしれない。


今日もあなたに心の安らぎと幸福感が訪れますように♪




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