遊びなど何かの「体験」を人と共有するのは楽しいと感じる。その瞬間は違いも思想も薄れてただその場を共有することがすべてになる。
「個」が薄れて「今」という瞬間だけになる。
しかし、「会話」というものはむずかしいと感じる。会話は違いがあらわれやすく思想もにじみでやすい。会話には現在と過去と未来が混ざり合う。
会話をしていると自分のエゴも騒ぎだし饒舌になる。
エゴは火のような熱気を含むエネルギーを生み出すが、そのとき直感的な判断は影を潜めてしまうように感じる。
自分の内側が騒がしくなったら、「ふぅ。」と気を抜いて、一息ついて観察してみることが必要なのかもしれない。
世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え
読んでいるなかで目にとまった箇所の連なり。
子育てをしてきて何度も目にした場面がある。
兄弟喧嘩が始まると、そのどちらかが、そのどちらもが「自分は悪くない。相手が悪い」と主張すること。
親が何かに集中していると「自分を見て!」とアピールしてくること。
それは最初はストレートなメッセージとして。
それでも響かなければ、親が喜ぶ行為をとおして、もしくは親が困る行為を使って伝えてくる。
ぼーっとしているときにふと、エゴは子どもと同じなのではないだろうか?と思った。
そうだとするならば、思考が何か注目を集めようとしてきたら、自分の内側にあるエゴが大きな声で叫び出したら、「そうなのね」と話を聞いてあげたらいいのかもしれない。
そして、「ちゃんとあなたを見ているよ」と態度で示してあげたらいいのかもしれない。
きっとエゴは悪いものでも敵でもないんだろうな。