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エゴと思考、観察者であること。

遊びなど何かの「体験」を人と共有するのは楽しいと感じる。その瞬間は違いも思想も薄れてただその場を共有することがすべてになる。
「個」が薄れて「今」という瞬間だけになる。

しかし、「会話」というものはむずかしいと感じる。会話は違いがあらわれやすく思想もにじみでやすい。会話には現在と過去と未来が混ざり合う。
会話をしていると自分のエゴも騒ぎだし饒舌になる。

エゴは火のような熱気を含むエネルギーを生み出すが、そのとき直感的な判断は影を潜めてしまうように感じる。

自分の内側が騒がしくなったら、「ふぅ。」と気を抜いて、一息ついて観察してみることが必要なのかもしれない。



世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え

読んでいるなかで目にとまった箇所の連なり。


 歴史をひもといてみると、莫大な喪失、病気、あるいは差し迫った死など、理屈ではとうてい受け入れられない状況に直面しながらも、それを受け入れることによって、あらゆる理解を超越した平和を見つけた人たちを、あまた見ることができます。

P132


 人間関係に静止状態をもたらす、もう一つの方法は、心から、相手に耳を傾けることです。心から相手に耳を傾けるとき、静止の次元が現れ、それが関係の基盤になります。たいていの人は、意識の大半を考えることに費やしています。会話中、相手の話を評価しているか、次に自分が何をいうかを考えているというのが、せいぜいです。ときには、思考に没頭するあまり、完全にうわの空のこともあるでしょう。

 真の聞く行為は聴覚による知覚を超越しています。そのとき、意識は研ぎ澄まされ、言葉がインプットされる場所、「在るスペース」が表出してきます。そこでは、言葉は二次的なものになります。言葉が意義深いこともたしかにあるかもしれませんが、まるで辻褄が合わないこともあるでしょう。話の内容よりもはるかに重要なのは、心から聞くという行為そのもの、そして、そのとき現れる「在る意識」のスペースです。このスペースは観念的な思考による、分断のバリアなしに相手とのコンタクトを可能にする、統一の意識の場です。そこでは、相手はもはや「他人」ではありません。そのスペースでは、あなたと相手は、一つの意識となって溶け合っているのです。

p167


 では、その根本的な「幻想」とはなんでしょうかーーーー? それは、思考と「本当の自分」を同一視してしまうことです。

 スピリチュアルな覚醒とは「思考の夢」から目覚めることです。


 純粋な意識に根ざしていない思考は、利己主義に走り、したがって機能不全になってしまいます。叡智に欠けた近視的な知恵は、極めて危険であり、かつ破壊的でもあります。これこそが、現代社会のほとんどが陥っている状況なのです。科学やテクノロジーといった分野での思考の活用は、それ自体は本質的に善でも悪でもありません。けれども、それが往々にして、純粋な意識に根差していないために、破壊的な結果を生んでしまうのです。

 人類の進化の次なるステップは「思考の超越」です。それが、いま人類にとって急務なのです。ただし、これは決して「もうこれ以上思考すべきではない」という意味ではありません。「思考と完全に一体になってしまうこと」、「思考に支配されること」を止めようと、いっているのです。

(P48)


 親密な人間関係で、度重なる「ドラマ」を経験していませんか?  
同じパターンをくり返していませんか?
あとで考えてみると、取るに足らないような意見の相違が、熾烈な口論や感情的な痛みの引き金になってはいませんか?

 そのような出来事の根底にあるのは、エゴのパターンです。「絶対に自分が正しい」、「もちろん相手が悪いに決まっている」という思い込み。つまりは、思考の見解と一体になっているのです。また、エゴには、物事や人と人と周期的にもめごとの状態にいなければ気がすまないという習性があります。それは、「わたし」と「あなた」の分離の感覚を強めるためであり、その感覚なしには、エゴは生き延びることができないからです。

P167


 心が絶えず求めているのは、思考のための「餌」だけではありません。アイデンティティ、すなわち「わたしは◯◯です」と自己認識するための「餌」も探しているのです。アイデンティティを母として誕生したエゴは、常にアイデンティティを再創造しています。

 わたしたちが自分について考えるとき、また語るとき、それはたいてい「本当の自分」ではく、「個我」である「わたし」に関することです。これは「好き嫌い」、「恐れや願望」のある「わたし」であり、決して満足することのない「わたし」です。この「わたし」は過去によって条件づけられた、心がこしらえたもので、未来に満たされるために、四六時中なにかを求めているのです。

 この「わたし」を、あなたを通り過ぎてゆく、一過性の形態とみなすことができますか?海に描かれる波のパターンのように。

 では、この「わたし」を「観察している」のはいったい誰でしょう?あなたの身体的、心理的な一過性の形態を意識しているのは、いったい誰でしょう?それが、ーーー「本当の自分」ーーーです。これが、より深淵しんえんな部分にある「わたし」であり、過去にも未来にも束縛されていない「わたし」なのです。

「本当のわたし」と「エゴのわたし」(P57)


 エゴというものはみな、多かれ少なかれ、わたしたちが呼ぶところの「被害者意識」という要素を含んでいるものです。なかには、「わたしは被害者」の自己イメージが強烈なあまり、それがエゴの中心核となっている人もいます。そのような
人たちの自己観の根幹部分は、恨みや苦悩によって形成されているのです。

 たとえあなたに、不満をいだくに足る「正当な」理由があったとしても、自分でアイデンティティをこしらえたことに変わりはなく、それはいわば、自分の観念という牢獄に閉じこめるのと一緒です。自分がどんな結果をもたらしているか、より正確にいうなら、
自分の思考が自分にどんな結果をもたらしているか、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
を観察してみてください。「犠牲者話」に対してもっている執着心と、その思い出に浸らずにはいられない、その思い出を語らずにはいられない、脅迫的な傾向に気づいてください。自分の心の状態を「観察する人」になってください。とりたて何も「する」必要はありません。「気づく」だけで十分です。気づきによって、変容と自由がやって来るのですから。

(P64)


 これまで経験してきた苦しみがあったからこそ、あなたに、人間としての奥行きができたのであり、それがなかったら、謙虚さも憐れみも持ちえなかったでしょう。そもそも、こうして本書を読むことすらなかったでしょう。苦しみはエゴの殻を打ち砕きます。その後に、苦しみが役目を終えるときがやってきます。「わたしには、もう苦しみなんて必要ない」。そう気づくまでは、苦しみは必要なのです。

P23

 不幸は、思考がでっち上げる「わたし」と「わたしの物語」、観念的なアイデンティティを必要としています。不幸はまた、過去と未来という時間をも必要としています。不幸から時間をとり除くと、あとには何が残るのでしょう? この瞬間の「そうであるもの」だけが残ります。

 ときとして、「重苦しさ」「動揺」「緊張」「怒り」、あるいは、「嘔吐を催すような感覚」に襲われることがあるかもしれません。けれども、どんな形で表れたにしろ、それは、断じて不幸ではありません。個人的な問題でもありません。人間の感じる痛みに、なんら個人的な要素はないのです。それは、身体のどこかに感じる強烈なプレッシャーか、強烈なエネルギーに過ぎません。その部分に意識を向けてください。そうすれば、感覚が思考に変化して「不幸なわたし」のスイッチをオンにすることもありません。

 ためしに自分の感覚を、ただありのままに放っておいてみてください。そして、どんな変化が起こるのか、観察してみましょう。




子育てをしてきて何度も目にした場面がある。

兄弟喧嘩が始まると、そのどちらかが、そのどちらもが「自分は悪くない。相手が悪い」と主張すること。

親が何かに集中していると「自分を見て!」とアピールしてくること。
それは最初はストレートなメッセージとして。
それでも響かなければ、親が喜ぶ行為をとおして、もしくは親が困る行為を使って伝えてくる。

ぼーっとしているときにふと、エゴは子どもと同じなのではないだろうか?と思った。

そうだとするならば、思考が何か注目を集めようとしてきたら、自分の内側にあるエゴが大きな声で叫び出したら、「そうなのね」と話を聞いてあげたらいいのかもしれない。
そして、「ちゃんとあなたを見ているよ」と態度で示してあげたらいいのかもしれない。

きっとエゴは悪いものでも敵でもないんだろうな。

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