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七十二歳の卒業制作 〜学ぶこと、書くこと、生きること〜 (読書記録)
はじめに
中学校さえも家庭の事情で通えない時代。
本の中に出てくる君子は作者自身のことで、この本は君子の物語でもあり田村せい子さんの人生史でもあります。
一年しか通えなかった中学校を卒業したのは、それから五十年以上たった、平成十九年のことだそうです。
このときもうすぐ六十五歳になろうとするところでした。
田村せい子さんが自分だったとしたら…
そんな決断をすることはできただろうか?
七十二歳の卒業制作
学ぶこと、書くこと、生きること
たったひと月しか通えなかった中学校、家計を支える働き手のひとりとして、さまざまな職を転々とした日々。
学ぶ喜びを奪われた主人公・君子の姿には、作者の少女時代が色濃く映りこんでいます。
そして、半世紀が過ぎ、きりっとした目の"遅れてきた少女"に、失われた時間を取りもどすチャンスがやってきました!
作者あとがきー「私は、気がすんだのです」より
大学生活も一年、二年は苦難の連続でした。必修の体育で腰痛になり、持病の肝臓病では毎週点滴を打たねばなりません。パソコンの授業についていくのに四苦八苦し、英語は東京に嫁いだ娘が産休、育休でいるのを幸い、毎週の課題をFAXで教えてもらいました。
私は何をしているのだろう?何のために、こんなに大変な苦労をして勉強を続けているのだろう?この年齢で、この先就職するわけでもないのに大金をはたき、家族に不自由をかけ、若いクラスメートの足を引っぱり、周囲にさまざまな迷惑をかけてまでーと、よく思ったものです。
その答えが、三年・四年のゼミの文章を書く経験を積み、その総仕上げとして卒業制作をまとめているうちに、ようやく見つかったような気がしました。ーそうだ、私はこの「君子・その時代」を書くためにここまで来たのだ。私は大変な回り道の末、今、七十一歳で卒業制作を書いている。
そうだったのか、という深い納得が訪れました。私は気がすんだのです。
私にはまだ書けないことがあります。それは思い出したくない時期のことなので、しかたがありません。大学を卒業することができた今、中学校に行けなかった時期のことは、ようやく私の中でおさまりどころを見つけました。それでよいのだと思います。
私は夜間中学校から大学まで、八年間という学びの時間を持つことができました。思いっきり、十分に勉強しました。大変な幸運です。この幸運のためにその前の五十年があったのだとしたらー幼い頃の貧乏も、長時間労働で痛めた膝も、思い出したくない思い出も、さらに父の痛かったゲンコツも、この幸運にあずかるためのものだっとしたらー、今はもう感謝しかありません。
大学の教員で「児童文学作品制作」という授業を受け持っていた富安先生は、2011年4月に生徒の田村せい子さんと教室で出会った。
解説ーせい子さん奮闘記 富安陽子
わずかひと月足らずしか中学校へ通えず、高校にも行けず、それからずっと何十年もかかえてきた不満が、やっと心から消えたのだそうです。自分の半生を文章にしてみたとき、田村さんはようやく〈私の人生は、これでよかったんだ〉と思えたと言います。
その言葉を聞いた時私は〈それが、書くということの、ひとつの意味なのかー〉と、気づかされました。苦しいことや、つらいことや、納得のいかないことを文章にするとき、人間は自分を取り巻く現実を客観視しようとします。このときやっと人は、自分の過去や、そして自分自身と向き合えるのだなと思いました。
長い間文章を書く仕事をしていながら、私はずっと、そんなことを意識していませんでした。
文章を書くということは、人が生きるための力になりうるのだということを、田村さんは私に気づかせてくれました。それからもうひとつー。
人間はいくつになってからでも、学ぼうという意志を持っていれば成長できるのだ、ということも教わったのです。
(とみやす ようこ/児童文学作家)
最近このnoteも長くなりがちなので、本の感想は今回省略し、第一部の目次のみ記載しようと思います。
現代では体感できない世界がこの本の中にはあるので、気になった方は読んで味わってみてください。
目次
第一部 君子・その時代ー卒業制作から
防空壕
父帰る
姉ちゃんのないしょの話
妹、あつ子の誕生
雨
赤いハンドバッグ
彼岸花
坂本かの子さん
出会い
おわりに
子どもも家族の一員として、手伝いをしたり働いたりするのが当たり前だった時代。
夫の祖父が子どもだった頃、東京から疎開し開拓民になったそうです。
土地柄か、いまでも「開拓」という言葉をこのあたりでは耳にします。
祖父は四十歳で亡くなってしまったそうですが、その兄弟がお線香をあげに来たときに当時の話を聞くことがありました。
◉野草の見分けることの難しさとそのコツ、そして間違って食べるとどうなるかなど
◉雨が降ると学校に行けないから休みだったこと
◉雨で川が増水して渡れなくなったとき、その近所に住む大人にロープを渡してもらって川を渡ったこと
◉父親がわらじを編んでくれたけど、すぐにボロボロになってしまうから、わらじがダメにならないようにと脱いで歩いたこと
◉学校に行くときには穀物を背負って行き、授業を受けている間に精米してもらって、帰りにまた受け取りに行って背負って帰ったこと
◉東京に炭を売りに行くときに、下にタバコを隠して運んだこと
(東京は食べ物がなくて大変そうだったと言っていた)
話してくれた義祖父の兄弟は、いつも明るく元気です。暗くなりそうな話も思い出話として笑い話として話します。グチも不満も聞いたことがないし、困りごとが起きたときも、明るく助けを求めます。
その在り方に強さを感じるとともに、思うようにならない出来事が起こったときの乗り越えかたをそこに見た気がしました。
おばちゃんはなんでも笑い飛ばしてしまうのですが、それってなかなかできることではないように思います。
また、お線香をあげに来るときには母屋とは別にわたしたちにも手土産を渡しに来てくれます。
食パンと昔ながらのまあるい缶に入ったクッキーの詰め合わせ。
今は茶の間でゆっくりお茶をすすりながら話を聞く機会も減ってしまったけれど、またおばちゃんが来たらもう少し詳しく話を聞いてみたいな…そんなふうに思っています。
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