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失ったものとの向き合い方

はじめに

自分のなかで当たり前だったものが急速に失われていっていると気づいたら、わたしはどうするのだろう。

動揺するだろうか。
どうにかして元の状態に戻そうとするのだろうか。

虚無におちいるのだろうか。
怒りがわくのだろうか。

さいごには諦めることができるだろうか。
そんな執着を手放すことができるだろうか。

サウンド・オブ・メタル 聞こえるということ

めいのえんぴつさんのnoteを読んでいると、観たくてたまらない気持ちになった。
けれど映画館で観ることは叶わないため、アマプラで観ることにした。


そのまま元の世界に留まるのか。
別の世界に行くのか。
ただ受け入れていくのか。


見終わったあとにこの下に添付した動画を見てみたのだが、聴力を失うとはどういうものなのか、どのように感じるものなのかが少しだけ身近に感じられた気がした。
見過ごせなかったポイントなど、自分とは別の視点で見ていて感慨深いかった。


キューブラー・ロス 5段階モデル

第1段階:否認と孤立(denial & isolation)
第2段階:怒り(anger)
第3段階:取り引き(bargaining)
第4段階:抑うつ(depression)
第5段階:受容(acceptance)


 届いたばかりの本。

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18.きみ自身のドラマ

自分はいつでも主人公

 ときに、観客の立場に身をうつすのは、よいことだ。みじめな気持ちになったときなど、気が晴れることもある。みじめな自分をいおとしんで、自分で自分に涙するのも、またいい。そうした涙が、次の幕へきみをみちびくこともある。

 なにかにムキになっているとき、その自分を眺める観客の目を持つのも、おもしろい。少し喜劇的だななどと、自分を眺めながら進むのも、悪くない。
 とくに、イヤなことのあるときは、自分をドラマのなかで眺めるのは、救いになる。イヤなことでも、眺めるぶんには、それを楽しむことすらできる。

 ときには、自分に向けての役者として、演技をしちゃったりしてもよい。楽しいのも、くやしいのも、演技にしてしまえば、笑うのだって泣くのだって、あまり遠慮がいらない。観客としての自分を楽しますため、ときに道化てみるのもよい。人生をプレイする精神は、とてもよいものだ。

 でも、これがきみだけのドラマであるからには、役者であれ観客であれ、途中でなげるわけにはいかない。いつでもきみのドラマにたいして誠実であるよりない。人間といういきものは、どんなときでも、自分にたいしてだけは、誠実であるべきだ。


人間という、おもしろい生きもの

 ただし、このドラマは、自分ひとりで演じられるものではない。さまざまの人間たちの間でしか、ドラマは成立しない。
 ここで、人間というものが、さまざまの顔を持ち、さまざまの心を持つことが、ドラマにふくらみを持たす。もしも、人間がみな、同じ顔を持ち、同じ心を持っていたなら、世の中はひどくつまらないだろう。
 人間はみな、顔がひとりひとり違うように、心もひとりひとり違う。だれも、きみと同じ心を持たない。他人が、自分と違う意見を持つのは当然のことだ。そこが、おもしろいところだ。

 もちろん、人間であるということで、共通なところはある。それは、表面的な意見の一致などではなく、心の底に、なんというか、人間のさびしさとでもいったものを、共有していることだ。そうした、人間の心の底で、交感しあうこと、それは人間の世界のやさしさとでも言おうか、ぼくはそれが、とても大事だと思う。自分自身の次ぐらいに、大事だと思っている。
 イヤな人間、と感ずるやつはある。しかし、よく考えてみると、そのイヤミなところが愛嬌であったりして、どうもぼくは、人間を憎むのが、うまくできない。もちろん、ときには「憎しみ」めいた感情を持つぐらいのことはあるが、それだって、ぼくのドラマになくてはならぬ、この登場人物が好きになってしまう。

 だれでも、人間であることで好きになってしまうなんて、たぶんぼくは、オメデタイ人間であるに違いないのだが、そうしたオメデタサを一種の道化として演じてしまう程度に、芝居ッ気を持ちながら、ぼく自身のドラマを演ずることにしているので、このオメデタサを世間を渡る支障になるほどのことがない。

 もちろん、ぼくのようにオメデタイ人間ばかりではなく、それがまた、世の中のおもしろいところだが、それでもやっぱり、彼らもみんな、本当は人間を好きなのだと、信ずることにしている。このことに関しては、ぼくは徹頭徹尾、楽天的である。

 楽天的といっても、人間すべて善人だ、などと考えているわけではない。それどころか、善人なんていない、ぐらいに思う。人間すべて半分は善人で半分は悪人、せれがさまざまに現れているのが、おもしろい。

 こんな、おもしろい人間たちを、好きにならぬ手はない。人類愛などというより、まず、この人間のおもしろさを、楽しんじゃうほうがさきだと、ぼくは思う。


おわりに

おもしろいもので、一見つながりのなさそうなことからつながりが見つかったりする。
そのときの自分に必要なことや言葉が目に飛び込んできたりする。
ときには「ここに何か隠れているかも」と子どものような気持ちで見つけようとしてみるのもおもしろいのかもしれない。

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……

16.ことばへの思い

フィーリングで読書

本の著者が言おうとしていることを、しっかり汲みとらないと、著者にたいして失礼にあたる、といった考えの人もいるらしいが、ぼくはそんなことは考えない。本なんてのは、自分がおいしいように食べればよいので、自分の歯に合わないところはよけて、うまいところを頭に入れれば、それが頭の栄養になるものだと思う。

 それでぼくは、「つきあい読み」の流儀である。喫茶店でコーヒーなど飲みながら、著者とつきあう気分で本を読む。ちょっと会ったぐらいで、著者のすべてがわかるはずもないのだが、じかにつきあっているのだから、なにほどかの気分が伝わって、著者とのいっときを楽しむことができる。マルクスさんとだって、サルトルさんとだって、そうやってぼくはつきあってきた。本のコーヒーのつきあいのことだから、ずいぶん相手を誤解したかもしれないが、ぼくなりに彼らの素顔を感じたし、ぼく自身がそのコーヒータイムを楽しむことができた。
18.きみ自身のドラマ

答えのない問題

 中学生とは、いったい何であるのか、それはこの本の主題のようなものだが、それもまた、こうした、答えのない問題の一種である。現に中学生であるきみたちが、それに「答え」がきまっているようにだけは、思わないでほしい。そして、将来きみたちが、おとなになったときも、中学生とはこんなものだなどと、きめつけないでほしい。

 ぼくにしても、中学生とはこの程度ものさなどとは、とても考えることができなかったので、ただの人間として、きみたちに、いろいろなことを語ってきた。こんな考えは中学生には早い、などとは考えなかった。

 だから、ぼくときみたちとで、意見がくい違って、当然である。でも、人間はさまざまで、意見はくい違うものだから、これもまた、人間と人間との関わり合いとも言える。きみと違った意見の持ち主として、ぼくをきみのドラマに加えてくれるだけでよい。
 ともかく、ぼくの本は、これで終わる。きみたちは、この本を読んだ。これから、きみたち自身について、なにを考えていくかは、きみたちの問題である。

 それには、答えはないだろう。でも、それが、とても大事な問題なんだ。

この作品は1981年に中学生に向けて刊行されたようだ。
その年に生まれたわたしが、中学生ということばを「大人」と置き換えていま読んでいる。

これがわたしの森毅さんとつきあい読み。
そしてこれがわたしの楽しみのひとつに。

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