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絵本 江戸のたび (読書記録)

妖怪小僧とめぐる江戸のまちから伊勢神宮までの長いたび。

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▪️原宿の富士

江戸時代の東海道「原」という宿場。
馬や駕籠もあったが高いため、庶民は富士山を眺めながら自分の足で歩いた。
旅人が行き交う東海道には宿場が53もあった。
江戸の人たちは伊勢神宮をお参りする「お伊勢参り」がいちばんの楽しみだった。

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▪️江戸のまち

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まちの人たちがどんな暮らしをしていたのか、目を凝らして細かく見ていくと小さな発見があっておもしろい♪

▪️朝の日本橋

東海道の出発点。
日本橋は徳川家康さんが江戸に幕府を開いたときにかけられた。
たびに行く人は朝日が顔を出すころから出かけた。

▪️高輪の別れ

江戸時代のはじめごろには、東海道から江戸に敵が入るのを防ぐための大木戸があったそう。
その石垣が残っている。
むかしのたびは、無事に帰ってこられるかわからないほど大変だった。
だから、海に近い料理茶屋で酒をくみかわし、おいしい魚でも食べて別れをおしんだのだろう。

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▪️品川宿

東海道の宿場でいちばん大きかった。
今はすっかり埋め立てられてしまったが、江戸時代には真ん前が海だった。
宿から馬が見えて大人気だったそう。
海では潮干狩りであさりをとったり、後ろには御殿山という花見の名所でもある丘もあった。

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▪️箱根の関所

品川から東海道をずっと進み小田原の先の山を登ると大きな関所があり、それが箱根の関所。
お役人さんに関所手形や通行手形やさを見せて許可をもらわないと通れなかった。
とくに女の人はとても厳しく調べられたそう。
芦ノ湖のむこうには富士山が顔を出している。

▪️薩摩峠と駿河湾

東海道16番目の宿場、由比のすぐ近く。
江戸時代のはじめまでは海岸近くの危険な道しかなかったが、山を切り開いて道をつくり、それが薩摩峠と呼ばれた。

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▪️大井川の渡し

箱根の関所も大変だが、大井川をわたるのも難しい。大きな川なのに橋がないため、人足(じんそく)さんに運んでもらう必要があった。
お金をはらい、手を引いてもらったり、肩車してもらったり、神輿のような台に乗ったり。
大水のときには水が減るまで、宿場で何日も待たないといけなかった。

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▪️赤坂の宿場

東海道36番目の宿場。
あたりが暗くなってくると道では「うちにおとまりなさいまし」と呼びこむ女中さんでいっぱいだ。
なかには袖をつかんで強引に引っぱりこもうとしている女中さんも。
旅人ははだしに草鞋ばきだから、まずは足をたらいで洗ってもらう。
それからお風呂に入って待ちに待った晩ごはん!

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▪️岡崎の大名行列

東海道でいちばん大きな矢作橋のむこうにお城が。
徳川家康さんが生まれたところで、戦国時代ここから江戸の地にうつった。

▪️桑名の渡し

宮宿から桑名宿の間は川が多くて歩いてたびするのが難しいため船で伊勢湾をわたった。
船でも何時間もかかる。
桑名では名物の焼きはまぐりが大人気で、伊勢神宮への入り口をしめす鳥居も立っている。


▪️宇治橋と参道

江戸を出発してから2週間、やっとお伊勢さんに到着。
橋の下では銭を網で受けている。
お参りする前に五十鈴川(いすずがわ)の水でお清めしている人も。

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東海道絵地図

江戸から伊勢神宮までの距離は約500キロメートル。
休む日を入れないで、1日35キロメートル歩いたとしても、2週間くらいかかった。
現代の乗り物だと、自転車で約4日、車で約8時間、電車で約5時間の道のり。
そんな乗り物はなかったから、江戸時代の人は歩くのが当然と思っていて、あまり苦痛は感じていなかったのだろう。

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●解説江戸のまち

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・貸本屋
お得意をまわる本屋。江戸では本はおもに借りて読んでいた。片手に本を以て目印とした。

・屑入れ
集めて埋め立てなどに使う。生ごみは基本肥料になる。

・猪牙舟(ちょきぶね)
猪の牙のように先がとがっていたのでこうよばれた。船足が速く、裕福な江戸庶民のタクシーとして使われた。

・八里半
焼きいもを表す看板文字。栗(九里)よりちょっと味が落ちると謙遜した洒落から、八里半とした。

・付け木売り
杉や檜などをうすくけずった板の先端に硫黄を塗り、火をほかのものにうつすための用具(付け木)を売る人。軽い商品なので年配者の営みだった。使うときは細くさいて火をつけた。

・十九文見世
19文均一で小物を売った、江戸の100円ショップ。ほかに三十八文見世もあった。(1文は約25円)


●まめちしき

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・茶碗直し
壊れた瀬戸物を預かり、ガラスの粉などで接着して修繕する職人。街道で壊れ物を集めて歩いた。一時期、瀬戸物屋がつぶれるほど大繁盛した。

・抜け参り
江戸時代は子どもだけでたびをする習慣があり、お金などの施しを受けられるように柄杓を持ってたびをしていた。

明治時代に1里が約4メートルと規定されるまでは、山坂の多い道では1里の距離を短く、平坦な道では長くするなど場所によって1里の距離はさまざまだったそうだ。
目に見えるかたちでは正確ではなかったしても、身体感覚に沿った距離で表示されていることで、たびには良い効果があったのではないだろうか。
読んでいて正しさが正義とは限らないなと思った。

●たびの装束

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⑧竹水筒
⑩小田原提灯

 小さくたためる携帯用の提灯。
⑫煙草入れ
⑭矢立

 携帯用筆記具。
⑮道中差
 竹光(竹でできた刀)などの場合が多く、中にお金などをかくしたりもした。
⑯手拭い

③は手を日焼けなどから保護するもので、「手甲」と言うそうだ。
現代でも特に女性が同じようなことをしている。

ほかにも、携帯枕や火打ち道具、荷物を包む風呂敷、薬などを持ってたびに出たそうだ。
雨が降ったときの合羽も必需品で、ほこりよけとして着物の上から浴衣をはおったりもした。

江戸時代と現代では暮らしぶりも常識とされていることも全く違うけれど、その中でも似ている部分があったり、その時代ならではの工夫がみられるところがおもしろかった。

大人が楽しめる絵本だといえるかもしれない。



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