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今日の山田君 〜思うこと〜 57

死へのそれぞれの反応

我が家では令和元年5月1日から、つまり令和が始まった日からジャンガリアンハムスターを2匹飼い始めた。
とくにその日を狙って飼ったわけではなく、子どもとゴールデンウィーク中に飼うと約束していただけの話で、都合がよかったのがその日だっただけなのだけれど…たまたま時代の節目の日に飼うことになった。

2匹は兄弟で生後2ヶ月ごろまでは、同じゲージのなかでぴったりくっついていることが多かった。
1匹はのんびりで食いしん坊、もう1匹は機敏で過敏だった。
生後3ヶ月目に入るころから、夜になるとケンカする日がでてきた。
どうやらエサを食べるときにバッティングしてしまうとケンカになるようだった。
それでも昼間は相変わらずぴったりくっついていて、夜の争いは嘘のように感じた。

でもある夜激しいケンカが起きて、そのもの音にあわてて駆けつけると、あちこちに血がついていた。
その瞬間から2匹を別々に飼うことにした。
飼育本で生後2ヶ月をすぎると群れで飼うのは難しいとは書かれていた(単独で生きる生き物のため)。

そんな彼らののんびりで食いしん坊の子が亡くなった。
"子"といってももうおじいちゃんになっていたので、足元にふらつきも出てきていたし、食欲もぐんと落ちて寝ている時間が長くなり、音を立てても気づかなくなっていた。
それでも、キャベツだけは前のめりで食べていたし、一昨日は軽快に車輪のなかを走っていたので、少し若返ったようにさえ見えたのだけれど、どうやら眠ったまま亡くなったようだった。

死を知ったときの子どもたちの反応に違いがあった。
長男はショックを受けていて、悲しさがこみあげてきたようで目が赤くなり涙がうかんでいた。
次男は悲しいねといいながらもいつも通りニコニコしていた。
亡骸を触って、亡くなったということは実感として得ているようだった。

一般的には長男のような反応を示す場合が多いのかもしれない。悲しみがわいてそれがしばらく尾を引く。
次男とわたしは死に対する感覚が似ているように思う。
死は悲しみではなく事実。それは起きたこと。
ただ悲しんでいる人を見て悲しみがわく。

反応の仕方の違いだと思うのだが、悲しみの渦中にいる人から見たら、すぐにニコニコ普段と変わらずに過ごすわたしたちみたいなタイプに違和感を感じるだろうなとは思う。

逆にわたしが違和感を感じるのは、亡くなったものたちに対する「かわいそうだ」という言葉。
生きている人が亡くなったものたちに悲観的な意味づけしてしまうことに違和感がある。
そういう意味ではわたしは楽観的な意味づけをしたくなってしまうので同じなのかもしれない。
悲しみは個々人の感想として、故人に対しては明るい部分(話)を拾いたいと思ってしまう。

「かわいそう」という言葉に違和感を持つのは、その場に引き留める前に進まない言葉だからなのだが、それは自分が留まるのが好きではない性質でもあるだろうし、わたし自身にかけている呪い(強い思い込み)のようなものでもあるのだろう。



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