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13歳からの世界征服 (読書記録)

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第4章 夢が持てません〈世界征服のススメ〉

将来の不安を解消するのに1番いいのは「絶対に実現しない夢」を持つことです。不安なのは、夢や希望が実現するかどうかわからないからです。実現しないとわかっていれば、不安の持ちようがありません。

著者のオススメは「世界征服」だそう。
世界征服とは、理想の世界を作ること。

自分だったらどんな世界にしたいだろう。
「現実的かどうか」を捨ててしまえば血が沸き立つような感覚が味わえるかもしれない。

♦︎すべてを世界征服と結びつける 

たとえば、あなたがいじめられているとしたら、そのいじめているやつらを何とかするのが世界征服へのステップになります。そいつらは「世界征服」という我が目標の前に立ちはだかる障害なのだ、と考えるのです。

この世界征服を自分の夢とする考え方は、イジメ以外にもどんな人にでも応用できて生きやすくなる方法だと感じた。

 進学や就職も、世界征服を視野に入れて考える。どの大学へ行くか、どんなアルバイトをするか、あるいは働かないで生活保護を受け取るかも、世界征服を軸に考える。受験に落ちてしまったら「陰謀があった」と言って騒げばいい。事実かどうかはどうでもいい。大事なことは、自分の人生を物語にしてしまうことです。それも「お金持ちになる」とか「いい会社に入る」とか、そういうつまらない物語ではなくて「世界征服」という壮大な物語の中に位置づけるんです。視野を大きく持てば、小さな悩みはどうでもよくなります。


♦︎すべては世界征服のためのツール

 また、世界征服という目標を持つと、身の回りのものの活用方法を考えるようになります。世の中にあるものは、すべて世界征服のためのツールです。親も、友だちも、学校も、交番も、刑務所も、図書館も、世界征服のためのアイテムです。

 そうやって、現実の世界を世界征服というゲームの舞台と見なして、自分はその中の一キャラクターとして生きる。そして仲間を作る。

染みついてしまった感覚から起こる制限を解除して、すべては使用可能なアイテムとして考え直してみる。
そうすることで凝り固まった考えを壊すことができるかもしれない。


♦︎「世界征服は主体的なもの」

世界平和は誰かがやるもの、世界征服は自分がやるもの。

 もちろん世界征服を目指せばすべての問題が解決するわけではありません。「問題は解決しない。解決しようとするとたいていうまくいかなくかる」という話をしましたが、そもそも問題という枠組みは自分で作っているわけです。ですから、何かを問題視している自分をそのままにして、解決しようとすること自体が矛盾しています。でも、問題を解決はできなくても、粉砕はできます。世界征服を目指すと、それまで問題だと思っていたものが問題ではなくなる。問題が粉砕されるのです。

世界征服の前にまず逃げる。世界征服を目指せば、問題が粉砕されて生きやすくなる。

自分が無理だと思うことは、本当に無理なのか。
人から見れば無理だと感じないかもしれない。
無理だと思うとき、戸惑いや恐れが隠れていたりする。
何かを失う気がするからかもしれない。
それが世界征服をするという目標があることで、違った視点で見れるようになる。
恐れが恐れでなくなる。



♦︎国連の言う「世界平和」は国民国家システムを温存したまま、世界の特権階級の既得権益を守ることでしかない。

そもそも国連が考えている世界平和というのは、現存する領域国民国家体制を維持し、それぞれの国の支配者たちの既得権益を守るのが目的で、それを「平和」という美名で粉飾しているだけですから。国連というのは、そういう既得権益の支配者たちが互いの既得権を侵さないことで合意したカルテル(独占目的で作られた企業同士の協定)です。互いの縄張りを侵さないためのヤクザ同士の手打ちなんです。

小学校では「みんな仲良く」「人にやさしく」と教えられるけれど、それは誰にとってだろう?と疑問がわく。
主語が変われば見える世界はガラリと変わるし、大人になって隠したり偽り方がうまくなるだけで、争いやいざこざはなくならない。

子どもたちには「争いやいざこざや暴力はなくならない」という前提で、そのうえでどうするのかみんなで考えていくことの方が、「仲良くすること」や「やさしくすること」よりも大切な気がした。

中世ヨーロッパの映画を観ていると、すぐに裏切りが起こるし、すぐに殺されるし死体が晒されたりする。
子どもたちには素直さを求めてしまうけれど、死が身近な環境で生きていくにはずる賢さも必要なのだろう。
正しさや正義も環境や立場で変わるのだ。

 先進国の人たちにとっては、今の国家システムに守られている方が得ですから、それはそれでかまいません。国境の外で多くの人が飢え死にしたり、内戦で殺されていたりしても自分たちが無事ならかまわないのです。

読んでいて耳が痛かった。
そのとおりなんだと思う。
同じ境遇にならなければわからないと思っているし、実際に目の前のことでなければ手を差し伸べることもしないのかも。
悲惨なニュースを見て胸を痛めるのは、自己保身でもあるのかもしれない。

おわりに

 イスラームには、キリスト教や仏教と違ってイエスや釈迦、そしてその代理を務める祭司や僧が人を導き救うという発想がない。導きも救いもただ神からしかやってこない。
 迷いも悩みも苦しみも悲しみも私だけのもの。
 誰にも手渡さない。
 ただ神にだけ祈り、祈り続ける。
 信じて待ち続ける者だけに、答えは与えられるべきときに相応しい形で与えられる。
 そう信じる。 


縁あってここまで本書を読み進めてくれた人たちに、神の導きがあらんことを。

("おわりに"から一部抜粋)

中田考さんの"おわりに"に書かれていたこの部分が自分にとっては希望の言葉のように感じた。

いま12歳の息子に渡すには刺激的すぎて、まだ渡せそうにはないけれど、働くことや生きることに疑問を覚えて前に進めなくなりそうなときが訪れたらそっと渡したいと思う本だった。


どんな世界征服を企もうか。
どんな野望を抱こうか。

叶わないことを知ったうえで実現のためにどんな行動をとっていくのか。
すべては自分の行動と神の導きしだいなのだろう。


(いいとこどりをして、自分にあう形に変えて楽しんでいけたら最高だよね♪)


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