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ゆらぎのなかで

昔そうだったからといって…

昔から妹とは気が合わない。
考え方が真逆すぎてすり合わせすらできないと思っていた。
ただお祭り的な何かがあるときは一緒に楽しめることもあった。

あるとき、ふとした思いつきで妹との相性をみてみた。
その占いでは、似ている要素があって理解しあえる関係だと書かれていた。
そのときはそれを1ミリも信じることができなかった。


先月ふたりで食事をしてゆっくり話す機会があった。
その前から自分のなかに揺らぎ始めているものはあったのだけれど、妹との時間が苦痛ではなくてむしろリラックスできた。
どうやら妹もいい息抜きになったもよう。

改めて考えてみると、これまで妹の話を色眼鏡をかけて聞いていたように思う。
そもそも聞こうという気持ちで聞いてなかったのかもしれない。
聞くのではなく聞き流していて、言葉を受け取る気持ちも薄かったのだと思う。

今回わかったのはすべて理解はできないけれど、協力しあえる部分はあるし、共有できることもあるということ。

人は鏡。
相手は自分を映した姿。

これまで会っているときも過去の妹を重ねて見ていた。
今その瞬間の妹を見ようとしてこなかったなと、ちょっと反省したできごとだった。


戦後七十年、ナチスの<ガス室>が実在したことを証明する法医学的鑑識は未だに提示されていない・・・

《情報を受け取るときの自分の心得》(備忘録)
・自分をかんたんに納得させてしまわないこと
・違和感を感じたらその感覚は大切にすること
・別の見方でも見てみること

情報は正しさを証明するものではない。
何事にも違う見方がいくつもあるのだと頭の片隅に置きながら目を通したい。
1978年から1979年になってようやく、ナチスのガス室が技術的に存在し得なかったことを証明する私の二本の記事が、フランスの『ル・モンド』紙に取り上げられた。すると、1979年2月21日同紙は今度、その記事に対して三十四名の歴史家の署名する『声明』を掲載したのだ。この歴史家たちは私に対して次のような反論を行なった:「これほどまでの犯罪がどのように技術的に遂行されたのかを追及するべきではないのだ。この犯罪は実際に起こったのだから技術的に可能だったはずである。」
  この見事な学術的妄言を逃げ口上に、署名者たちは本質的に物理的、化学的、建築学的であるばかりでなく、資料に裏づけされた歴史学的な私の議論に対して、いかなる解答を提示することも拒みながら、逃げたのである。
  この時以来数知れない歴史家やジャーナリストなどが、ガス室実在論とその機能の擁護を試みてきたが、誰一人、私が何百回と繰り返す

「ナチスのガス室を見せてくれ、あるいは図に書いてくれ!」

という要求に応えられずにいる。
毒ガス処刑を実施する上で難しいのは、自分自身が中毒死せずに他者を殺すことだけでない。処刑が済んだ後、自らの命を危険にさらさずに、高濃度シアン汚染をした死体を処刑椅子まで引き取りに行き、ガス室から搬出することでもあるのだ。上記の本を記した歴史家たちによれば、ドイツ人と「特殊部隊」の人員たちは、この困難を毎日何千回となく克服していたことになる。
  もう一度繰り返そう。大勢の人間を一室に集めてシアン化水素酸で殺戮することは、危険を伴うが、不可能なことではない。だがその後で、その部屋に入って高濃度汚染した死体の山をより分け、運び出し、ふたたび同じ規模の処刑を数時間のうちに実施することは、たとえガスマスクを装着していたとしても不可能だ。つまり次の結論以外はありえないのだ


彼らははじめ信じた。やがて彼らは信じたいと思うようになった。そしてついにはそれを信じさせることに固執し、とうとう法的に信じることを強制するようになったのだ。このプロセスは、ちょうどある政府が平和主義的な国民を戦争に駆り立てようとする時と同じように進展していった。このような政府には陰謀も策略も必要ない。人々の善意の心をおだてあげ、「言論が自由」なはずの報道機関の助けを借りて、人権、正義、そして美徳の名に呼びかけさえすればいいのだ。そうやって政府が臆面もなく破壊しようとしているのは、まさに人権、正義そして美徳だからである。国民はたちまち信じ、立ち上がり、やがて走り出すだろう。一年また一年と経つうちに、いつのまにか頭のてっぺんから爪先まで武装して、戦場の真ん中に立っていることになる。そして心の底から善意に満ちて、「絶対に許してはならない悪」の征伐に専念するのだ。この敵に対してはあらゆる手段を使うことが許される。その最初のものが嘘である。それから憎しみ、略奪、強姦、絞首刑。最後には最高の報償として、新たに作られた秩序を守るために自分たちの視点から歴史を書く権利が与えられる。善良な国民は憎み、嘘をつき、皆と足並みを揃えて歩く習慣を本能的に身に付けるようになる。彼らを正気に戻らせようと試みる者は、彼らの目には「嘘の権化」「歴史の冒涜者」、とどのつまりは悪魔的な「ナチ」の仲間にしか映らなくなる。教えは見事に習得されたのである。
  しかし今、この教えを捨て、検証し、修正しなければいけない時が訪れている。2015年を迎えようとしている今、ナチスの魔法のガス室という歴史的大嘘に死亡診断書を突きつけようではないか。歴史という分野では、なによりも正確さを重んじなければいけないという初心に返り、この空前の詐欺が「今度こそ正真正銘最後のもの」になることを約束しよう。次に待ち構えている詐欺はもちろん避けられないだろうが…。
  [フランスの作家] ルイ=フェルディナン・セリーヌは、1950年に早くも「魔法のガス室」の嘘を見抜いていたことを忘れてはならない。そして彼は「ガス室、それはすべてだった。つまりすべてを可能にするものだった!」と説明しながらなおも、「だがそろそろ別の手を見つけないとな。ああ、きっと大丈夫さ」とつけ足していた。そのセリーヌは、1932年の著書『夜の果てへの旅』のなかですでに我々に警告を発していたのだ:「嘘と盲信という熱狂は、疥癬のように感染する。」
  人間とはもろいものだ。いったいこれほどまでに悪魔的な兵器が実在したなど、実物を見せられもせずにどうしてこうやすやすと熱狂的に信じたのだろう。確実に的を射るためには、なるべくレベルを落とすのが良いと言う。だから大衆心理や精神分析学、社会学やその他の科学を持ち出す代わりに、簡単なレベルで答えを探してみよう。これほどまでのデマにこうもやすやすと人々が喰らいついた理由は、簡単な表現の問題によって説明できるのではないかと私は思うのだ。フランス語のchambre à gaz という奇妙な表現、英語では gas chamber、ドイツ語の Gaskammer、そしてその他の言語もまだあるが、ガス室という表現は、「寝室 (chambre à coucher)」をもじったものだ。死を司る装置を指す言葉として、無意識のうちに安らぎや眠気を喚起させる言葉の組み合わせが選ばれたわけだ。名前を聞いたとたんに、その装置がどんな形をしていて、どのように機能していたのかなどと無理に頭を悩ませる必要などなくなる。単純な頭の持ち主にとってはガス室とは単純なものだ。寝室の一種のようなものに違いない。ただし中にはガスが充満している。その中に人間を入れる。しばらくするとその人間は死ぬから死体を取り出しさえすれば良い。ガスはといえば、霧散してしまっているのだろう。科学的な調査など行なう必要はまったくない。ガス室の証拠は法医学鑑定に求めるべきものではない。なぜなら証言が十分にあるからだ。そもそも第一次世界大戦中すでにドイツ人は毒ガス兵器を使用したことで悪名高かったではないか。
  ナチスのガス室という歴史上比類ない真っ赤な嘘のひとつを生み出したのは、憎しみや日常的となった嘘をつく習慣であることは確かだが、何よりもそれを繁栄させたのは、人々の純真さである。善良な人々がまったくの善意からこの「ナチスの残虐さ」に憤ったのだ。そのことによって彼らは、とてつもない中傷行為、世界規模の犯罪的嘘に手を貸したわけだ。


上の二枚の写真は、同じガスを使って大量の人間を処刑するためのガス室と言われる施設、つまりアウシュヴィッツ強制収容所Ⅰ(収容所本部)の<ガス室>の扉であり、数百万の観光客が目にするものである。扉は内側に開くようにできているのは愚の骨頂だ。室内には死体の山が横たわるので、開閉が妨害されたはずである。この扉を閉じた状態で調べると、さらに馬鹿げた事実が二点見つかる。錠前の穴と簡単に破れたはずのガラス窓である。ここから間違いなくガスは漏洩し、すぐ近くに設置されていたSS用医務室に到達したはずだ。1995年正統派の歴史家エリック・コナンは、私が1975年から76年にかけてこの収容所で発見した見事なまがい物の山を自らの目で確認し、まがい物と認めた。その他多くの歴史家がその後、これらがまがい物であることを指摘しているというのに、何故今日にいたるまでこれがまがい物であることが沈黙されているのか?
  上の三枚の写真によって、本物の死刑用ガス室(バルチモア刑務所のもの)の扉と、処刑用ガス室と言われるアウシュヴィッツ収容所Ⅰの施設の扉(開かれた状態と閉じた状態)を比べることができるわけだ。
  本物のガス室の扉は、設備の他のすべての部分と同様、鋼鉄製で、窓にはハーキュライトガラスが用いられている。シアン化水素酸によって扉の接合部が時間の経過とともに腐食し、ガスが漏洩することを防ぐために、設備内は真空状態にしなければならない。だが真空状態は設備全体の崩壊を招きかねないため、設備は極度に強度に建設されなければらない。残酷な銃殺、絞首刑、あるいは電気椅子をよりもガスを用いた死刑方法を擁護したのはアメリカ国内の人道主義者達なのだが、彼等はこれほど簡単な手法はないだろうと勘違いしていたのだ。だが大間違いだった。最初の死刑用ガス室を完成させるためにアメリカの技師達は七年の歳月を要した(1917年から1924年)。その上1924年ネバダ州のカーソンシティーで執行された最初の死刑は、危うく大惨事に発展しかねなかったくらいの量の毒ガスが、死刑囚の死後、刑務所の廊下から検出されたのだ。

下の十二枚の写真はアメリカにある本物の死刑用ガス室とその扉のものである。その後にアウシュヴィッツ収容所の偽のガス室の扉の写真を四枚掲載した。

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ある種の呪術

ある種の呪術になってるんですよね、選挙というイベントが。
誰に投票するかはどうでもいいんですよ。
とにかく、「あなたたちが選んだんですよ!」っていう既成事実と想念としてのエネルギー収集ができればそれでいい。

スピリチュアルな話は苦手意識があるのだけれど、表現がとてもおもしろかった。

「ワクチン打つべき!」という人も「打ってはいけない!」という人も囚われのなかにいるという意味では同じということみたい。

そういう意味ではわたしたちは勝手に自分自身で檻をつくって自分を閉じ込めてしまっているのかもしれない。
それでいて、苦しい苦しいと言っている。
その檻は本当に存在しているのだろうか。



ノートリアス・B.I.G -伝えたいこと-

終始揺らぎ続けていて、一瞬ですべてが壊れてしまいそうな危うさがあって見ていて苦しかった。
仲間は導いてくれる存在でもあり、仲間は彼自身でもあるように感じた。
理想や想い、そして現実、繰り返しやってくる不安と葛藤。


行き止まりの世界に生まれて

キアーの瞳から言葉以上のものが伝わってきて、胸がしめつけられる思いがした。

少年期から青年期にかけての12年間が描かれる本作に「監督にとって子どもから大人になることは?」という最初の質問。監督は「いつ大人になるのかは自分自身で決めることなのかなと思います。スケートボーディングについてこんな素晴らしい言葉があります。年をとったからスケートボードをやめるんじゃなくて、スケートボードをやめたから年を取るんだ、と僕自身は思っています」と回答。
続く質問でアメリカ社会に求めるものについて聞かれると「二極化を乗り越えられる方法です。今アメリカは、数十年に渡ってカルチャーが非常に二極化していると思うんです。カルチャー戦争みたいなものが起きていて、左か右か、赤か青か、というような状態が続いています。まるでゲームをしているみたいに、最終目的が勝利することのみになってしまっているように思います。その中で価値観やモラルといったものが置き去りにされてしまっている。社会の中で、どんな価値観を私たちは大事にしなければならないのか、そしてその価値観が、半数の人々ではなく全ての人にとって意味のあるものかを、改めて考えなければいけない」と意見を述べた。
劇中で描かれる暴力性、そこから抜け出し前に進むための希望はあるか?「僕たちはみな、誰もが人を傷つける能力を持っていることを認識すべきだと思うのです。自分がどうありたいかを毎日選ぶことができるのも自分自身のはず。それが僕にとってこの映画が持つ最も大きなテーマであり、どうしたら家庭の中でお互いに対しての暴力がない社会に向けて進んでいけるかの対話をもたらすことができるものだと考えています」と熱弁。
出来上がった映画をキアーとザックに初めて見せた時、2人がどう反応するかとても緊張した、と語った監督。「キアーはセラピーだと言っていました」と教えてくれた。そして、ザックは涙を流していたそう。監督曰く「ザックにとっては人生で初めて自分自身をしっかり"見てもらえた"と感じたんだとと思います。少なくとも、僕が彼から両親について聞いてきたことなど考えると、彼は今まで、自分のスケートボードにしても自分のアートにしても、ちゃんと自分が受け入れられたと感じられたことがなかった。なので、彼にとってもセラピーであり、また受け入れられたと思える経験になったのかなと思います」。監督自身にとっても幼少期や思春期、複雑で理解できなかったことについて理解できる機会になったという。

「自分を見ていてくれる存在がいる」
そのことに気づくことで、その存在がひとりでは向き合えない怖さにも目を背けずに見る勇気をくれるのかもしれない。

親に対する怒りは悲しみの裏返し。
親への怒りは変えられない現実に対しての心の叫びでもあったように思う。

自分が親になってみると、逆に親への理解がすすんだ。
違う目線で見られるようになった。

誰かに対して怒っているとき自分は正義で相手は罰するべき存在。
外に目を向けることで情けない自分を直視しなくてすむ。

でもだんだんとわかってくる。
相手を変えることはできない。

けれどこのままではいけないと。
自分の何かを変える必要があると。

相手が変わらなくても自分が変わることで関係性が変わっていくのがおもしろいなと思う。


自分はどんなフックに弱いのか?



ロバートを愛し続けた少年の話

真っ直ぐな思いにまわりも巻き込まれていく。
ワンピースのルフィみたいだなと思った。


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