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クリミアという土地 (備忘録)

気になってちょっと調べてみたので覚書として。

▪️衛生写真で見るウクライナ情勢

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▪️クリミア半島〜共存と争いの歴史

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風光明媚で温暖な気候に恵まれたクリミアは、ロシア帝国においても、そしてとくにソビエト連邦においては第一級の保養地であり、この地での休暇は庶民の憧れの的であった。ロシア帝国の時代はロシア皇帝のリバディア宮殿をはじめ、貴族や豪商がクリミアの各地に豪華な別荘や宮殿を建設した。また共産党書記長など幹部用の豪華な別荘もつくられた。1991年8月にゴルバチョフ書記長がクリミア・ファロスにある共産党書記長用の別荘で休養中に、保守派のクーデターが起きている。

庶民にとっても多くのサナトリウムやホテルが建てられた。皮肉なことに第二次大戦後、クリミアの軍事的な意味は低下した。バルカンの勢力地図も定まり、ボスポラス海峡はNATOの同盟国トルコによって抑えられ、地中海においてもNATOの優勢は明らかだった。

原子力潜水艦の基地としての北方艦隊やオホーツク海を内海としつつ、アメリカの第7艦隊と対抗する太平洋艦隊と比較して、黒海艦隊は防衛的な意味はあっても戦略的な役割は低くなった。ソビエト海軍の将校の間では、北海艦隊や太平洋艦隊での厳しい勤務で階級を上げて、最後は保養地の黒海艦隊で任務を終え、できればクリミアに別荘を与えられるのが理想のキャリアだとされ、ソビエトの中で黒海艦隊は「年金生活者のための保養地艦隊」ともいわれた。

1954年2月、ソビエト最高幹部会はクリミアをソビエト連邦内のロシアからウクライナへと移管する命令を下した。ソビエト連邦の枠内でクリミアはウクライナ領となったのである。一説にはウクライナ人でもあるソビエト共産党書記長のフルシチョフが、ウクライナとロシアの統合三百周年の贈り物としてウクライナ共産党幹部の歓心を買うためにクリミアをウクライナに与えたともいわれる。

ただクリミアが道路、鉄道、水利などでロシアよりもウクライナに結びついていており、こうした実態としての経済的な結びつきに合わせた決定ともいわれている。いずれにしても、ソビエト連邦の枠内でクリミアはウクライナの一部となっても、ソビエト連邦全体の保養地であり続けたのだ。

しかしソビエト連邦が崩壊して、ロシアとウクライナが自立した独立国となった時、クリミアは初めて、ロシアとウクライナの間の領土問題として意識される


▪️クリミア戦争とトルストイ


『12月のセヴァストーポリ』では、セヴァストーポリに足を踏み入れたトルストイ自身の遠からぬ過去の記憶が「きみ」に移し込まれている。しかし同時に、読者を「きみ」と同じ地点に立たせ、埠頭へ向かい、小舟に乗り込むという一連の動きの中に誘っている。読者の前に、「きみ」の視線を通して対岸の町並みや水平線の上に浮かぶ敵の艦隊が現れ、「きみ」の耳を通して砲撃の音が響いてくる。読者は「きみ」の感覚と心情をいつの間にか自分のものとしている。したがって語り手が、「自分がセヴァストーポリにいると思えば、おそらくきみの心にも勇気や誇りといった感情が湧いてきて、身の内で血の流れが速まるのを抑えられないだろう」と述べる時、読者は自分が祖国への義務を果たしたいという熱い思いでセヴァストーポリにやってきた兵士であるかのような気持ちになってしまうのだ。


1855年に入り、クリミア戦争最前線のセヴァストーポリの攻防は一段と激しさを増した。戦況は次第に英仏連合軍の優勢へと傾いていく。連合軍は鉄道を敷設して兵士や軍需品を輸送し、海に配備された軍艦も個々の兵器も当時の先進技術の成果を使用していた。一方、不十分な軍備に依存するロシア側の劣勢は次第に顕在化し、長引く戦いの中で、将校も下級兵士も士気は目に見えて下がっていった。

最後に発表された、3作中最も長い『8月のセヴァストーポリ』は1855年夏、ロシア軍の劣勢が濃厚になった時期の物語で、セヴァストーポリ陥落とフランス軍勝利の場面で幕を閉じる。ロシアの将校たちは戦闘の合間に相も変わらず賭博に熱中し、下級兵士たちは戦争への不満を隠そうとしなかった。★8

★8:クリミア戦時、ロシア政府は徴兵令に加えて農村で義勇兵を募ることにより、兵力の増強を図った。入隊を申し出た者は戦争終了後かつての領主のもとに戻る取り決めであったにもかかわらず、世間では「兵役に服す代わりに農奴身分を解かれる」という噂が広まり、義勇兵の期待を煽ることになった。


このように、トルストイは大変巧妙な語り手であった。セヴァストーポリ3作の場合も同様である。『5月のセヴァストーポリ』の幕引きに掲げられた「万人が善き人で、万人が悪しき人である」という記述もそのひとつで、「幸福な家庭はみな互いによく似ているが……」という言い回し同様、作家の価値観を決定づけるものというよりは、戦争という主題をめぐって周到に企まれた作家の演出であった。このように、われわれは『セヴァストーポリ』において、若くして戦争に「生と死」を学び、また戦争を通して「表現者」になっていく、ひとりの作家の誕生のドラマに立ち会うことになるのである。


▪️"破壊者"フローレンスの動機


▪️語られないロシアの歴史とアメリカとの深い関係

ロシアを変えたモンゴル帝国による征服

 ウラジーミル聖公の死後、親族間の争いで公国は弱体化し、これに十字軍遠征とそれに伴う地中海貿易の活発化によるドニエプル川経由交易の衰退が追い打ちをかけ、キエフは衰退し、人々はノブゴロドやモスクワに移住していきました。そして1240年にモンゴル軍が南ルーシを制圧し、キエフ大公国は滅亡しました。

 モンゴルによるロシア支配の期間は2世紀半に及び、「タタールのくびき」と呼ばれてロシア人は悪いイメージをもっています。しかしながら、征服後のモンゴルは人口も少なかったことからルーシの諸侯を使った間接統治を行い、納税と軍役さえ行えば、政治的忠誠と軍事的方向を条件として「本領安堵」をしました。そして東西交易はモンゴルという大帝国の出現により栄え、その恩恵はルーシの地にも及びました。またモンゴル人は宗教にも極めて寛容でした。後のロマノフ王朝はモンゴルの庇護下でルーシの最高の地位とされたウラジーミル大公の地位を独占してゆき、最終的にはモスクワ大公と呼ばれるようになります。1326年には全ルーシ最高の聖職者であるキエフ府主教をモスクワに迎え、精神的にもキエフに代わってルーシの中心になって行った。彼らが次第に勢力を拡大していく一つの遠因がモンゴルのハーンに収める税金の納入を引き受けたからであり、一説によれば実はこの時代がロシアの歴史上もっとも税負担が低い時代だったと言われています。


米国独立を助けたロシア

 エカテリーナ女帝はヴォルテールの啓蒙主義を信奉しており、この観点から米国の独立戦争(1775年~1783年)の際に武装中立同盟を提唱し、英国を国際的に孤立させることで米国の独立を支援しました。欧州の覇権の関係や啓蒙主義の関係からアメリカを援助したのはラファイエット将軍に代表されるフランスと、エカテリーナ女帝でした。フランスはこの支援のため財政が破綻し、折悪しく浅間山やアイスランドの火山の噴火による冷害による飢饉と相まって、フランス革命が発生することになりました。一方、アメリカを失った英国は1770年のクックによるオーストラリア領有宣言に続きオーストラリアに眼を向け、1788年に囚人によるオーストラリア入植を開始しました。


南北戦争でリンカーンを助けたロシア

 19世紀に入り、ロシアはジョージアを支配下に収め、またペルシャに勝って、アゼルバイジャン北部を併合した後、1828年にはアルメニアを支配下に置きました。北カフカスではダゲスタンやチェチェンなどの山岳諸民族がロシアに対し抵抗していましたが、1861年にはカフカス全土が平定されました。中央アジアにおいても19世紀半ばにはカザフスタンがロシアに併合されましたが、ロシア人の入植に反対して40年にも及ぶ反乱がおこりました。

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アメリカの南北戦争の際、英国が独立以降の経緯や奴隷貿易の関係から南部を支援したのに対し、アレクサンドル2世のロシアは艦隊を米国沿岸に派遣して英国の介入を阻止しました。なお、この時、リンカーンを尊敬していたタイ王国のラーマ4世は北軍を助けるために、タイ王国が誇る象軍団の派遣を申し出ています。

 南北戦争の直前にはロシアはオスマン帝国と同盟した英仏によってクリミアで敗戦し、屈辱的な条約を結ばざるを得なくなりました。敗戦に伴う莫大な戦費の支払いを目にして、ロシアは維持費のかかりすぎるアラスカを1867年に友好国であるアメリカに売却しました。売却価格は当時のお金で720万USドル、現在の価値では1億2千300万USドルです。ロシアはこの見返りに機械化に適した米国産の綿花を中央アジアに移植することに成功し、ロシアの繊維工業が発展していきました。


▪️ウクライナ問題:スターリンのつけを払わされるプーチン


▪️「脱炭素政策」とウクライナ


▪️ジャーナリストから見た世界

嘘が嫌いなジャーナリスト篠崎定一郎さんのお話にいろいろと考えさせられました。


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