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宗教とAI

はじめに

宗教は性や色欲にも強く影響を与えていて、人の判断基準、価値基準までつくりあげてしまう。
まるでなにかの魔術みたい。

江戸時代の日本は性におおらかだったそう。
また、生活をしていくとケガレていくという話を聞いて、どういうことだろう?と気になった。

ケガレに興味が出てきたので、もう少し調べてみることにした。

死は生から連続していくものなのか?
断絶されるものなのか?

余談ですが、イザナギが置いた石は、いわば結界の証です。
イザナギの場合は、そこよりこちら側は現世だから入ってくるな、という意味ですが、神社などでは神域(清浄域)を指します。
神社では注連縄(しめなわ)が結界の意味になりますし、地方へ行くと道端に道祖神と刻まれた石をしばしば見かけます。道祖神は村のはずれに置かれましたが、これは村に外部からケガレが侵入してくることを防ぐ意味があるのです。
さてこの神話で私が注目するのは、妻に会いたいというイザナギの願いが叶うというところです。死んだイザナミは黄泉国に隔離されますが、黄泉比良坂を登ってそこに行きさえすれば、会えることに変わりはありません。

これは何を意味するのでしょう?
結論からいって、死は生の延長線上にある。生と死は連続性を持つということではないでしょうか?
私達は、死は生が断絶したものと捉えています。
もう二度と会えないから家族や親しい人の死を悲しむのです。しかし神話の時代には生と死は断絶ではなく、住む世界が違うだけで、連続したものと考えられていたのではないでしょうか?

死が、いつから生の断絶と考えられるようになったのかといえば、それは稲作文化と共に大陸から伝わったのではないでしょうか。
そして仏教の輪廻転生の理論によれば、人は死ねば別のものに生まれ変わるので、その意味では生まれ変わる核(阿頼耶識)になるものには連続性があるかもしれませんが、体は朽ち果てるので死は連続ではなく断絶になる、と考えられるようになったのではないでしょうか?

死が生の延長線上にあるなら、神話時代の人にとって死は恐怖ではなく、ましてケガレでもなんでもなかったのではないでしょうか。
イザナギは大岩を結界として坂本に置くことで、イザナミが追って来られないようにしました。この岩がなければ、彼女は黄泉国(死の国)から葦原中津国(現世)に戻ることができたのです。かつて日本人にとっては生と死の境界線は不明瞭だった、というほかありません。

日本の良さはあいまいさ。
そのあいまいさが許容することにつながっていて、それがつまり豊かさでもあったのかもしれない。


宗教的な要素

個人的なはなし。
もともとわたしはひとつに染まり続けるのが苦手なので、素敵だなと思うものを少しずつもらって自分の要素にしたいと考えている。

自分のなかの宗教的な要素はなんだろう?

ということで、好きな言葉からの振り返えり。

ただ普遍なる精神に目覚めよ
そして、すべてを受け入れよ
すべてを見よ
すべては空っぽ
受け入れよ
真実を

高校生の頃から好きなこの言葉はとあるブログに書かれていたもの。

幼児の祈り

私の頭も 私の足も 神様の姿です
私は心にも両手にも 神様の働きを感じます
私が口を開いて話すとき 私は神様の意思に従います

どんなものの中にも お母様やお父様や
すべての愛する人の中にも
動物や草花や 木や石の中にも 神様の姿が見えます

だから こわいものは 何もありません
私のまわりには 愛だけがあるのです

通っていた幼稚園のお祈りの言葉。
この幼稚園のおかげで無条件に愛されるということを体感的に知ることができた。

ルドルフ・シュタイナーの人間観と宗教性

「私がいる」という思い込み

 紙さまが「あれ」と言ったら在り、「あるな」と言ったら消えてしまう私たちの存在は、はかないものです。私たちは神さまが望んだから生まれ、神さまの助けに支えられて生きています。ひとりで生きている人はだれもいません。

 私たちは息をすったりはいたりしていますが、それはじぶんでやっていることではありません。心臓はドキンドキン動いていますが、それもじぶんで動かしているのではありません。みな神さまがしていることです。そして、神さまが、やーめた、と思えば、心臓は動くのをやめ、息は止まってしまうのです。(以下省略)

「やさしい神さまのお話」より

以前イスラムに魅了されてnoteに書いたりしていた。



時代にあわせて仏教も変容を、仏教を社会に実装するとは?

《個人的なメモ》

納得できないと苦しみになる
→メタ認知すると状況は変わらないのに楽になる
古い経典にででくるお釈迦さまの表現
「おまえ自身がすでにおまえのものでないのに、どうして他者を自分の思い通りにしようとするのか」


▪️諸行無常
▪️万物の恒常性

「僕が気に入っている」など人間はあらゆるものに執着するが、それに永遠はない。
「私が世界であって、世界が私である」

私のハピネスは世界のハピネス
世界のハピネスは私のハピネス

自分と世界は同一である

実験寺院 寳幢寺

ものすごく行きたい場所。



僧侶は旅をする

昔の偉いお坊さん達は、旅をしていた。中国の偉いお坊さんである玄奘(げんじょう)さんも、真言宗の開祖の空海さんも、歴史に残る偉いお坊さん達は皆旅をしていた。「旅をする僧侶の原点」というべき方のお釈迦様は、自分の家や寺というものを持たない自由かつ、無所得な方であり、40年間旅を続けてこられた「旅の達人」である。

とあるYouTubeチャンネルで昔は医者も旅をしていて、旅先で治療したりしていたと言っていた。

根を下ろすことが当たり前のなのだと思っていたけれど、移動し形を変えていくことは不自然なことではないのだと思えた。

土着する、固定するということは、そこに権利が生まれるということ。
するとそこから執着が生まれる。
欲が膨れあがりカオナシになってしまう。
カオナシになりたくなければ、欲を捨てよということか。

土着せずに流浪する民。

神とロボット

これを見てなんとも言葉にしがたい違和感を感じた。

私自身はムスリムではないが、ムスリム用のアプリをスマホに入れている。
身近にもムスリムがいて思うのだが、このアプリはサポートする役割にはなっているが、それ以上でもそれ以下でもない気がしている。

それぞれの宗教にとっての核の部分をAIに置き換えてしまうことについては危機感をおぼえてしまう。
それは「伝承や継承していくための力(効力)」が弱まってしまいそうに感じるからだ。

人がつむぐ物語には神秘性がある。
AIによって神秘性は失われ、さらなる宗教離れにつながらないのだろうか。

インスタントに答えを得ていくということは、個々の考える力を手放していくということ。

満足のために答えを得るのか、自分の答えを見つけるための参考にするのかでは、それは全く別のものになる。

自分もやりがちで不安に思うのは、自分の体験ではないのに、自分の経験のように扱ってしまうこと。

これからの時代は「それは本当に自分の考えなの?」と自分に問いかけることが必要かもしれないなと思った。

失敗が許容されにくい環境だと「まずはやってみよう」と思えなくなる。

少年野球を観ていると、強いチームはピッチャーがきつい場面で他の子が声かけをしている。

「打たれてもいいよ!俺がとるから!」

挑戦している者にとってこれほど心強い言葉はないだろうなと思った。

わたしたち大人に必要なのはこの心持ちであるのと同時に、この心持ちができたら世界が別の風景に見えてくるのではないだろうか。


そもそも「宗教」とは何か?
中国の宗教史から考える


おわりに

人間の力ではコントロールできないのだと気づくことが幸福なんだろうなとなんだか急に納得できてしまった。




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