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儀礼って何だろう? つづき  ~儀礼を終えて~

10年ぶりに開催された「仲間内のバーベキュー」という儀礼が終わった。
それは6時間にもおよぶ「わたしたち」という絆を確認し深める会であった。

前回の話はこちら↓

今日の感想を一言で表すとするならば、
それは間違いなく「楽しかった」だと言えるだろう。

大人たちは昔の話をして大笑いし、
日常の話をしたり
子どもたちと戯れて遊んだりした。
年を重ねたことで頭をよぎるようになった
ケガのリスクに少々おびえながら。

「子どもたちは水を得た魚のように遊びに夢中になった」
と言いたいところだが
実際は手持ちのゲームに夢中になり
よく見るいつもの姿だった。
ある程度ゲームをすると次第に活発に外遊びをし始めた。
バトミントンやスケボー、シャボン玉に鬼ごっこ、
自転車を乗りまわしたり、トランプしたり、
高いところからジャンプしたり。

汗がぽたぽたと雫のように落ちる。
あれをしよう!これをしよう!
それぞれが思いのままに楽しむ。
はしゃいだり、転んだり、揉めたり
常にわちゃわちゃしている。

大人たちもどこかにこやかで、
子どもたちも生き生きした顔をしている。

わたしに何か特別なことが起きたわけではない。
だが、そんな場面に出会えること自体が
わたしの幸せでもあるのだと思う。

ただ一つ残念なことは
親というのは子どもを「だし」に笑いを取ろうとすることだ。
親をやっているとよくそういう場面に遭遇する。
わたしもしてしまっていたことがあるのだが
そのときの子どもの顔を今でも覚えている。
それはどこか不満げで、
怒りと悲しみの入り混じったような表情だった。
そうやって親は知らないうちに
少しづつ子どもの信頼を失ってしまうのだろう。


今回の6時間にわたる
「仲間内のバーベキューという儀礼」
を通して気づいたことは、
「楽しむため」や「よりよくするため」の儀礼は
むしろ好きであるということだ。

ではなぜ、わたしは「儀礼」というものに
嫌悪感をいだくのだろうか?
「あそび」や「余白」があることを好むわたしは
「変化することを許さない儀礼」に対して
嫌悪感をいだくのかもしれない。
そうだとするならば、
「儀礼」そのものが嫌なわけではなく
むしろ、「ワクワクできる儀礼」は
好奇心をくすぐる好意的なものなのだ。

だがそれも、「儀式化」された時点で
色鮮やかな好奇心も
とたんに色褪せてしまう。

なぜなら、儀式化されることで
一定の型ができてしまうからだ。
そこにあるのは「変化」ではなく「一定」という
安心で安定的でははあるのだが
炭酸の抜けたジュースのように
わたしにとっては
どこか物足りなく
味気のないものなのだ。

わたしは自分の体験からでしか物事を学べない。
好奇心を前にしては人の忠告も耳に入らない。
それは、失敗からも学べると
どこか信じているところがあり
その体験を通して自分がどう変わるのかが
最大の関心事であり
結果はたいして重要ではないからだ。


バーベキューを終え家に帰り
ソファーに寝転ぶと
急に眠くなってしまった。
すると次男が自分のブランケットを
わたしにやさしくかけてくれた。
次男の中にある母性にふれながら
わたしの意識は
だんだんと遠くなっていった。



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