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畢竟 〜とある関係のある言葉〜

繋がりと連なり。



《個人的なメモ》

死ぬという単純で正常な現象を否定しようとさえする。

P236

"夜" なきところに "昼" がないのと同様、 "機能はたらき" なきところに "形態かたち" はありません。
 いかにして両者を組み合わせるのかーーー問題はそこにあります。

P411

生存とは、二つの対照的な現象またはプロセスに依存するものであります。適応的な動きを獲得するのに二重の導きがあるということです。進化はつねにヤヌス神のごとく、両側を同時に見つめるものでなくてはなりません。内側では展開されてくる規則性と生理機構とが守られねばなりませんし、外側では環境の気まぐれな要請に従わなくてはなりません。生に必然するこの内外二つの規制は、実に興味深い対照を示しております。

P406




畢竟ひっきょう

おもしろかった!!!

テトリスをやることで、「ぷよぷよをやる人」と繋がることだ。

これからが楽しみになる言葉も見つかった。

上記のnoteを読んでいてはじめて目にする言葉があった。
妙に気になったので探してみることにした。


「畢竟」は「ひっきょう」と読みます。「ひきょう」と読まないように気を付けましょう。二つの漢字はどちらも音読みで読みます。 「畢(ひつ)」は訓読みでは「おわる、ことごとく」と読み、「竟(きょう)」は音読みで「けい」とも読まれ訓読みでは「おわる、つきる、きわめる」などと読みます。 それぞれの漢字の訓読みを理解すれば「畢竟」の意味も何となく見えてきます。

畢竟と「挙句」の違い

「挙句」は「あげく」と読みます。「揚句」という字を使うこともあります。「挙句」の意味は「いろいろやってみた結果」です。 「畢竟」との決定的な違いは「挙句」の場合必ず「よくない結果」が後に続くことです。「いろいろやったが結局ダメだった」という使い方です。「畢竟」の場合は良い結果も悪い結果も続きます。 「挙句」も長い時間が経過した結果の状態を意識した表現ですが、「迚もかくても」のように副詞的な使い方に限定されてはいません。


畢竟依

親鸞とつながって、なんとも言えない記憶に残る文章に出会った。



天文図館

https://tenmonzukan.com/mind



メイドインアビス



精神と自然

I  イントロダクション 

 われわれは、音楽という例外を除いて、パターンというものを固定して捉えるよう訓練されている。その方がやさしいし楽なことは間違いないが、それでは意味がない。結び合わされるパターンというものを考え始めたときの正しい筋道は、それがまず第一に、、、、、(ということの厳密な意味はさておき)、相互に作用し合う部分の演じる舞踏なのだということ、さまざまな物理的な限界と各生物体が固有に待ち合わせている枷によって固定されるのは二次的なことなのだということである。

P33


  「茎とは葉を生じるもの。」
  「葉とはその生じる角度に芽を吹くもの。」
  「茎とはかつてその位置に芽があったところのもの。」

 これは誰もが知っている(べき)話である。が、次にお話しすることは、耳新しいかもしれない。
 昔流の葉・茎・芽の定義と同様の混乱が、言語教育の現場で起こっていて、しかもこちらの方はいまだに是正されていない。今日の言語学者たちはおそらく正しい考え方をしてはいるのだろうが、学校の子供たちはいまだに "名詞" が "人や場所や物の名前" だとか "動詞" が "動作を示す言葉" だとかいうナンセンスを教えられている。まだ頭の柔らかい時期に、定義するとはあるものをほかのものとの関係において見ることではなく、物がそれ自体で何であるかを言うことだという誤った考えを植えつけられているのである。
 みなさんも学校で、名詞とは "人や場所や物の名前" であると教えられた経験がおありであろう。文の構造を分析していく退屈極まりない授業を覚えておられるだろう。あんな教え方を続けないでもいいではないか。名詞とは述語とある関係を持つ言葉、動詞とはその主語である名詞と関係を持つ言葉、という知識を今日の子供たちに与えられないことはあるまい。定義の基盤に関係を据えればよい、そうすればどんな生徒だって、「"行く"  は動詞である」という文がどこかおかしいことに気づくはずだ。
 文の構造分析の退屈さ、そして後にケンブリッジでやらされた比較解剖学の退屈さを、私は忘れていない。実態から遊離した授業につき合わされるのは苦痛でさえあった。結び合わさるパターンについて、教えられなかったものだろうか。すべて情報伝達にはコンテクストが必要だということ、コンテクストのないところに意味はないということ、コンテクストが分類されるからこそコンテクストから意味が付与されてくるのだということを教えられなかったものだろうか。成長も分化も必ずコミュニケーションによって制御されること、動植物の形態はメッセージが一つの形をとったものにほかならないこと、言語もそれ自体コミュニケーションの一形態であること、インプットの構造は何らかの形でアウトプットの構造に反映されるということ、生物体の構造はすべてメッセージをつくっていた物質的材料が変換された姿にほかならず、そこで起こっている形づけがコンテクストに依存するのだとすれば、生物体構造の中にも文法に相当するものが必ずあるはずだということ、そしてコンテクストによる形づけ、、、、、、、、、、、、とは文法の別称にほかならないということーーーこういったことを教える授業が不可能だというはずはないではないか。
 というわけで議論は、つながりのパターンと、その背後にあるもっと抽象的で一般的な(そして最もくうなる)命題ーーーつながりのパターンをつなげるパターンがあるーーーに戻る。


 本書は、われわれがみな、生きている世界の一部をなすという考えの上に築かれている。本章の冒頭のエピグラフとして私は、聖アウグスティヌスの認識論エピステモロジーを明快に示す一節を掲げておいた。今日それはノスタルジーを喚起するばかりだ。生物世界と人間世界との統一感、世界をあまねく満たす美に包まれみんな結ばれ合っているのだという安らかな感情を、ほとんどの人間は失ってしまっている。
 われわれはキリスト教の核を失ってしまった。ヒンドゥー教の舞踏神シヴァを、些細なレベルでは創造であり破壊であっても、その全体はただ美でしかない、あの舞踏を失ってしまった。アブラクサスを、あのグノスティシズムの美しくも恐ろしい、昼と夜の神を失ってしまった。トーテミズムーーー人間の組織と動植物の組織との間にパラレルな関係を見るあの感覚ーーーを失ってしまった。死に瀕した神さえ失ってしまった。

P40

II  誰もが学校で習うこと 

●その11ーーー生物界に単調な価値は存在しない

 単調な価値monotone Valueとは、上昇または下降を続ける値をいう。その曲線にらこぶがない、つまり上昇から下降へ、下降から上昇へと転じることがない。有機体が欲求する物質、物体、パターン、あるいは何らかの意味で、"いい" と感じる経験ーーー食物、生活条件、温度、楽しみ、セックス等ーーーに関しては、多ければ多いだけいいというようなことはけっしてあり得ない。つまり物質や経験の最も好ましい量というものが存在する。その量を超えてしまうと毒性が生じ、その量から落ち込むと欠乏が生じる。
 この物質的価値の持つ特性は金銭には当てはまらない。金銭の価値はつねに単調な関数をなす。多ければ多いほどよいとされている。1001ドルの方が1000ドルよりつねに好まれる。生物にとっての価値はこのようなものではない。カルシウムの量が多ければ多いほどいいということはなく、各生物にとって摂取すべきカルシウムの最適量というものが存在し、その量を超えると、カルシウムも毒性を持つようになる。同様に、われわれが呼吸する酸素の量も、食物および成分の量も、そしておそらく関係をつくるいかなる要素についても、過ぎたるは "十分" に及ばない。精神療法を施し過ぎることすらある。戦いのない関係は生気がなく、戦いの多すぎる関係は害になる。望ましいのは、戦闘性が最適値にある関係だ。金銭も、それ自体ではなく、それが所有に及ぼす作用を考えるときは、やはりある限度を超えると毒性を持つといえよう。いずれにせよ、金銭哲学ーーー金は多ければ多いほどよいという答えをはじき出すような前提の集合ーーーは完全に反生物学的である。それでもこの哲学を習得する生物がいるのだ。

P106


●その12ーーー小さいこともいいことだ

 成長の限界から来るこのような問題を回避(解決?)するために、多くの植物は、個体の寿命を季節のめぐりや生殖のサイクルに合わせて限定している。毎年新しい世代でスタートするという方法をとっているのが一年草である。俗に百年草と呼ばれるユカ蘭は何十年も生きるが、鮭と同様、生殖。行うと同時に死んでいく。最頭部に現れる花が細かく分枝する点を除けば、ユッカには枝はない。その分枝した花がすなわち、ユッカの茎の先端なのだ。そこで生殖が行われれば、ユッカは死ぬ。その死はユッカの生の規範に従ったものである。
 高等な動物では、成長がコントロールされている。ある一定の大きさ、年齢、段階に達すると、それっきり成長をやめる(体内組織からの化学物質等がメッセージになって成長にストップをかける)。細胞は制御の下で、成長と分裂をやめる。メッセージの発信または受信に障害が起こり、この制御が効かなくなった結果が癌である。こうしたメッセージはどこに生じ、何が引き金となって発信され、いかなる化学的(と思われる)コードの中に込められているのか。哺乳動物の体が、外側から見てほぼ完全な左右対称をなしているのは、いかなる制御の働きによるのか。成長を制御することメッセージのシステムについて、われわれの知識は驚くほど貧弱である。互いに連動して動いているにちがいないシステム全体が、ほとんど研究されぬままになっている。

 P114

●その15ーーー言語は通常、相互反応の片側だけを強調する

 言語は、主語と述語というその構造シンタクスによって、 "もの" がある "属性" を "持っている" のだと言い張ってしまう。より厳密な考えに沿うなら、 "もの" がその内的な諸関係、およびほかの "もの" や語り手との関係の中でのふるまいから産み出され、ほかの "もの" と区別して見られ、"実在" させられるのだという点が見落とされることはあるまい。
 プラローマ的、もの的世界において "もの" がいかなるものであるかはさておき、コミュニケーションと意味の世界に、 "もの" はその名前と性質の属性(すなわち内的、外的な関係や相互反応の報告)によってしか参加することを許されない。この普遍的事実を明確に把握しておくことが必要である。

P120


●その16ーーー"安定している"という語は、われわれが記述しているものの部分を記述している

 一口に安定といっても、その背後で働いているメカニズムはさまざまである。最も単純なレベルでの安定は、物理的な硬度や粘性といったものに帰すことができる。これらの性質は、その安定した物体とほかの物体とがインパクトの授受という関係で結ばれるときのありようを記述するものである。より複雑なレベルに目を向けると、生命、、と呼ばれる相互連動プロセスの総体が働いて、変動状態、、、、が保たれ、それが体温、血液循環、血糖量、そして生命自体をも含む、いくつかの必要な定量値を安定的に保つメカニズムに出会う。
 サーカスの綱渡りは、バランスの崩れをつねに是正し続けることによって安定を保っている。
 これらの複雑な例から窺い知れることは、生物や自己修正回路について安定を語るときは、安定をつくっている本体が示している手本に従う、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、必要があるということだ。サーカスの綱渡りの場合、重要なのは "バランス" であるし、哺乳動物の体にとっては、例えば "体温" が重要である。これらの重要な定量値が刻々どのように変化しているかという情報は、体内の情報伝達網を通して報告されている。その手本に倣うというのは、われわれとしてもつねに "安定" を何らかの記述命題が真であり続けている状態、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、として見ていくということだ。「軽業師は網の上にいる」という命題は、(強過ぎない)風の衝撃を受けても、網の揺れという衝撃を受けても、真であり続ける。この "安定" は軽業師の姿勢とバランス・ボールの位置についての記述が絶えまなく変化している結果なのである。
 ということは、生命体について "安定" を語るときには、つねに何らかの記述命題照らし合わせ、そこで使われる "安定" という語がどの階型に属するのか明確にしておく必要があるということである。いかなる、、、、記述命題も、その主語、述語、コンテクストは論理階型のあるレベルに振り分けられる。これについては後に、特に第IV章で見ていくことにする。

P121

IV 精神過程を見分ける基準

●基準6ーーー変換プロセスの記述と分類は、その現象に内在する論理階型のヒエラルキーをあらわす

 今述べていることはなにも、動物実験や調教に限られない。論理階型にまつわる思考の混乱は、人間の世界でもごくふつうに起こることを、次の諸例でご確認いただきたい。素人の間でも専門家の間でも、数々の概念が誤った論理階型に押し込められたまま大手を振って歩き回っているのである。例えば  "探究" という概念。電気ショック装置のついた箱を多数用意してネズミの前に並べても、ネズミの探究心を殺口ことは決してできない。この事実に心理学者たちは頭を抱えているようだ。いくら罰しても、ネズミの学ぶことは、一度電気ショック受けた箱の中は突っつくまいということだけで、箱というものの中を突っつくべきではない、ということは一向に学習しないのでたる。ここで個別的なものについての学習と一般的なものについての学習とが、きれいな対比をしている。
 箱というものの中は探るべきではないと学んでしまうことが、ネズミにとっていかに好ましくないか、少しばかり感情移入をしてネズミの視点からものを見れば分かるだろう。箱に鼻を突っこんでショックを受けた経験の意味するところは、その箱の中を探ってみたことでそこにはショックが待っているという情報を得ることができた、という肯定的なものにほかならない。探究の "目的" は探究自体の是非を知ることではない。探究の対象に関する情報を得ることである。探究自体を扱うケースと個々の具体的なケースとでは性質がまったく異なるのである。

P231

 人間が大昔から因果の堂々巡りとあれほどまでに戯れてきたのはなぜだろうか。私はそこに論理を階層化するロジカル・タイピングという問題を前にしたときの人間の好奇心と恐怖が見て取れるように思う。第II章(その13)で述べたように、論理には因果関係を捉えることはできない。そのような貧弱なモデルによって、あらゆることを処していこうとする人間の企て、またそうする他はないという論理への強制が、単線的な論理が崩れてしまいそうな状況を垣間みただけで恐怖するという人間の性癖をつくり出しているのではないだろうか。

P234

 われわれ人間は自分たちの論理が絶対であることを望むようだ。論理の絶対性を前提として行動し、それがどんなに絶対的なものでないらしいことが、わずかでも示唆されると、パニックに陥るようだ。
 脳髄が紡ぎ出す直線的な論理の一貫性に対する盲目的崇拝。それが常日頃、いい加減な思考をらっている人間たちの頭から紡ぎ出されたものであっても、なおこよなく神聖だとでも言うのだろうか。直線的な論理が、思うほど完全ではないと気づくと、人々は、あるいは文化全体が、ガダラ人の豚さながらに超自然主義の錯綜へと突進していく。自然界に幾百万もの因果のループがあることを認めない人間たちは、その円環に死の比喩を読みとり、それを逃れようと直線的論理にしがみついて死後の世界を空想し、さらには生まれ変わりなる観念を持ち出して、死ぬという単純で正常な現象を否定しようとさえする。
 実際、精神過程の論理的一貫性(とおぼしきもの)が崩れ落ちた後の世界は、本当に死を思わせる。統合失調症患者たちを前に、私はこの深い思いに何度となく襲われた。そしてこの思いが、今から二十年ほど前にパロ・アルト病院の同僚たちと提唱したダブルバインド理論の根底にあるといってよい。生命を支える回路の一つ一つが、破綻と死の影を覗かせているーーーこの考えを私はここに提示したいと思う。

P235

♦︎ガダラ人の豚


V 重なりとしての関係性

●2ーーートーテミズム

 多くの民族は、自分たちの社会を考えるさい、自分たち人間だけで構成しているシステムと、動物も植物も人間もすべて包み込むより大きい生態学的・生物学的なシステムとをつき合わせて得られた情報に頼る。つまり社会についての彼らの思考は、二つのシステムの重なりの中で形成、、、、(文字通りインフォーム、、、、、、されるわけだ。この類似アナロジーには、実際に似ている部分もあれば、幻想によるこじつけの部分も、また幻想が社会成員にとらせる行動によって、現実に二つのシステムが似てくるという部分もある。社会の形を決定する一要因であるという意味で、これは形態発生的モーフォジェネティックな幻想と言ってよいだろう。
 社会システムと自然界とのこのようなアナロジーで捉えること、これが文化人類学でトーテミズム、、、、、、と呼んでいる宗教にほかならない。われわれにもっと身近な、人間と社会とを19世紀風の機会になぞられるアナロジーよりは、的確で健全なものである。
 わらわれ西洋文化の人間もトーテミズムと疎遠ではない。楯に紋章を描くというのは、大分世俗化した末期的な姿ではあるが、やはりトーテミズムである。トーテム・ポールであろうと西洋人の楯であろうと、そこに動物の姿を描くことで一家の、父方の家系の、神代からの威厳が主張される。いくつもの動物を組み入れた図が、そのまま系図となる。神話のヒエラルキーを借りて、家柄が誇示されるわけである。ただこの方法は、自分との持つこの自己誇示性がひだいしていくにつれて、自然界との結びつきという本来の雄大な世界観は失われ、つまらぬ語呂合わせの栄える事態となる。実は我が家も、18世紀に与えられた家紋を持っているが、何とこれがコウモリの翼である。また父方の祖母の実家であるスコットランド低地のエイキン家でも、ナイフやフォークに樫の木の模様を入れていた。当地訛りではドングリacornのことをエイキンと言う。「小さなエイキンから大きな樫の木」という諺に掛けたわけだ。
 トーテミズムの伝統がこのように世俗化していく背景には、われわれの眼が関係を捉えることをやめ、その一端、、だけに、今や孤立しているとしか見えない物や人だけに注がれていくという変化がある。こうなってくると、もはや自然と一族とについてのそれぞれの見解を並置させて得られる啓示も洞察も失われていくだろう。殺伐としたエピステモロジーへの、ありふれた筋道である。

P264

付記ーーー時の関節が外れている

 進化の進行過程プロセスは二つの要素から構成されており、その二重構造を精神のプロセスも共有していると思われます。そこで思考、教育、文化の進化といった問題を論じる前に、一つの寓話ないしはパラダイムとして、生物の進化について見ていこうと思います。 
 生存とは、二つの対照的な現象またはプロセスに依存するものであります。適応的な動きを獲得するのに二重の導きがあるということです。進化はつねにヤヌス神のごとく、両側を同時に見つめるものでなくてはなりません。内側では展開されてくる規則性と生理機構とが守られねばなりませんし、外側では環境の気まぐれな要請に従わなくてはなりません。生に必然するこの内外二つの規制は、実に興味深い対照を示しております。内側での展開ーーーつまり発生(エピジェネシス)でありますがーーーこれは保守反動的であり、新しく現れるものが直前の状態に(つまり積み重ねの土台をなす様々な規則性に)順応する、それと両立することを要求します。新しい形態や機能が自然選択を受けるとすねばならないことは明らかでしょう。これは必要最低限の保守主義であります。
 これとは対照的に、外の世界は永遠に変転しながら、変化を遂げた生物の出現を待ち構えている。これは実質的に、変化の強要であります。動物であれ植物であれ、 "レディーメイド" の生物などというものはおりません。内的なレシピに従って同じものを作り続けるだけでは、有機体の展開の継続、そのいのちは守れません。生まれ出た生物自体が自力で変化を達成していくのでなければならない、つまり用・不用によって、習慣と試練と養育によって、新しい体細胞的特徴
獲得していくのでなければなりません。しかしこれらのいわゆる "獲得形質" は、決して子孫に遺伝してはなりません。直接DNAに組み込まれてしまってはならないのであります。「立派な炭鉱夫になれる強靭な肩をした赤児をつくれ」というような指令は、間接的な経路を通す他はない。この場合そのチャンネル役をはたすのが、外的な自然選択なのであります。つまり、「炭鉱での労働というストレス下で強靭な肩を発達させやすい傾向」を偶然に(当然変異や遺伝子の配列変化シャフリングがランダムに起こるお陰で)備えて生まれてきた子孫が選択されていくという形で、この指令が伝わるのであります。
 外圧によって適応変化を遂げるのは個体であるけれども、自然選択はあくまでも個体群、、、の遺伝子プールに対して働く。このしくみはご理解いただけたかと思いますが、ここで忘れてはならない点が一つあります。生物学ではよく見落とされているのですが、 "強靭な肩が発育しやすくなる、、、、、、、、" ような遺伝的変化が選び抜かれる、その状況をつくるものは何かといえば、それはやはり、炭鉱での労働、、、、、、という "獲得された特性" なのです。つまりDNAの運搬継承を受けないからといって、個体が一生のうちで、 "獲得する" ものに意味がないわけではない。生物が日々繰り返す生のありようが、自然選択として選び抜かれてくるものの条件を決めているわけです。
 逆に言えば、獲得された悪癖は、社会的レベルで、ついには命取りになるような遺伝的悪傾向が選り抜かれるような状況を設定してしまう、ということでもあります。
 精神的・文化的な進展過程に生じる時代遅れの問題を検討するための下地が、これで整いました。
 精神プロセスを理解したければ生物の進化を見るといいし、生物の進化を理解したければ精神プロセスを見るといいのです。
 ここまでのポイントの一つは、生物の世界では内的な選択作用が、つねに旧状との一貫性を守り通しているということ、そしてその働きが進化に必要な長期的にわたって貫徹された結果が、ひところの生物学者を夢中にした "相同" という形で現れている、ということであります。言い換えますに、内的選択の保守性が発生の手順と抽象的な形態との保守に、最も強く発揮されるということであります。

P406

 人はこの対立項のうちどちらか一方を選り好み、それによって、 "保守的" とか "急進的" とか "リベラル" とかいう呼ばれ方をするようですが、このことの背後には一つの認識論的真理が働いていると申せましょう。人間を振り分けるこの対極性が、実は生ある世界を成り立たせる弁証法的な二者なのだということ、この点を忘れてはならないと思います。“夜" なきところに "昼" がないのと同様、 "機能はたらき" なきところに "形態かたち" はありません。
 いかにして両者を組み合わせるのかーーー問題はそこにあります。両極間の弁証法的関係を認識した上で、ではどのようにして生の歩みを続けていくのか。一方の極に身を置いて敵対ゲームを演じることは簡単でありますが、政治、、を行うものは、それ以上のこと、それ以上に難しいことが要求されるはずです。

P411

 生物進化における規則は単純明快であります。個体が直接こうむる体機能的変化がそのまま個体の遺伝子コードを左右することが禁じられる一方で、環境に適応する能力の差が、自然選択の眼にとまり、適応的変化をする能力のより低いものが淘汰され、結果的に個体群全体として変化していく。ここでは、気まぐれな環境の圧力にすぐに応じて、遺伝子システムが早まった変化をしてしまわぬよう、一つの壁が立ちはだかり、ラマルクの唱えたような遺伝をくい止めているのであります。
 ところが人間の文化と社会のシステムにおいてはーーー偉大なるユニヴァーシティにも非可逆的に組み入れてしまうことも起これば、頑冥な保守主義の盲目な抵抗によって、真に必要とされる変革が阻止されてしまうことも起こるのです。
 社会、、的変化の選択に、安心とか不快とかの個人、、的な規準しかなく、新たな事態による新たな不快が(不可避的に)生じるまでは、類と個という論理レベルを分けることすら忘れられている。死の恐怖と深い悲しみが伝染病の撲滅を是として以来百年の予防医学の結果として、われわれはすでに個体群が膨れずきた現実を目撃しております。

P412

 構造の変化を促進するだけでも、機能の変化を抑制するだけでも、時代遅れは避けられません。全体的な進歩の側に立っても、全面保守の側に立っても、時代の関節はつながりません。一つの片寄った精神が支配するよりは、二つの片寄った精神が抗争する方がましだとは言えましょうが、抗争システムからは妥当な決定は期待できません。
論自体の持つ力ではなく、 "抗争力" の強弱によって決着がつくという性悪な特徴が、抗争システムにはつきものだからであります。
 "権力パワーは腐敗する" と申しますが、実際に腐敗するのは "パワー" の神話です。はじめにも申し上げた通り、"パワー"  "エネルギー"  "テンション" という擬似物質的なメタファーは要注意の代物で、中でもこの "パワー" の神話の危険性は、いくら強調してもしすぎることはありません。神話的抽象物を欲するものは、飽くところを知らない。教師として、われわれはこの神話にくみすることはぜひ避けなければならないと思います。
 抗争中の者が、勝ち負けを超えて遥か彼方を見通すことは困難でありましょう。チェスのゲームでも、勝ちを急ぐあまり奇手や邪道に走るというのは人の心の常です。盤上でつねに最上の打ち手を求めていくのはたいへんなことですが、棋士たるもの、つねに先の先を、より大きな全体図を見据えていかねばなりません。

P413


あらら本店 太宰治『斜陽』



狩猟採集で生きる人々から学ぶ、自然と人間が祈りと贈与で循環する世界観


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